第1話

文字数 4,383文字

 皆さんはスーパーの精肉コーナーにある「ラード」というものをご存じだろうか。
 ラード。牛脂ともいう。読んで字のごとく、牛の脂だ。
 主に、焼き肉をするときに植物油の代わりに用いられる。植物油よりも風味がよくコクもあるため、焼き肉以外の肉料理でも重宝される。
 一般的に流通しているものは一辺が二センチくらいの正方形で、チョコのように個包装がなされている。たいていは肉とセットであれば無料で入手できる。
 では、このラードがどうやって作られているのか、皆さんはご存じだろうか。

 むらっ気が多い私は、様々な職業をかじっては飽きかじっては飽き、とにかく未経験で面白そうな業種ばかりを選んで転職しまくっていた。
 LANケーブルに刻印する仕事に飽きてきた私は、いつものように求人雑誌で面白そうな仕事を探した。
 そこで見つけたのが「ラード作り」だった。
 電話で面接予約をし、ボロい自転車で記載された地図の場所に向かうと、ごく普通の住宅街に入った。
 こんなところに加工場なんてあるのだろうか、と首をかしげつつ、地図が指し示すまま住宅街の中を進むと、小さなプレハブの建物が見えてきた。よく工事現場の片隅に設置されている、二階建てのアレだ。
 その建物は工事現場の事務所と違い、二階部分に窓がなかった。
 看板には手書きで「アルファ加工センター」と記されていた。
 どうやら、ここが目的地の加工場で間違いないようだ。

 チャイムを鳴らすと、私の半分くらいしかなさそうな小柄でしわしわの老人が、チワワのように小刻みに震えながら出迎えてくれた。
 案内されるまま中に入ると、老人に促され、私は灰色の事務椅子に座った。
 履歴書を眺める老人の表情が読めない。なにしろしわしわなのだから。
 無駄に職歴が多く期間も短いものばかりなので、まあダメだったらそれでいいかと開き直ってはいるが、それでも気にならないと言えば嘘になる。
 老人はふんふんとうなづくと、履歴書をたたんで封筒に入れ、事務机の引き出しにしまった。個人情報の扱いめっちゃ雑! と思ったが口にはしなかった。
「明日からお願いできるかな?」
「あ、はい、大丈夫です」
 実にあっさりと、採用が決まった。

 翌日、センターで私を待っていたのは、巨大なラードの塊だった。
 豚一匹分くらいはあるラードが、バカでかいまな板の上に、ドン! と乗っていた。
 真っ白い塊の傍らには、日本刀のような包丁があった。
「こういう感じで」
 老人は自分の身の丈はある包丁を軽く持ち上げると、塊の上に降ろした。スッ、と、何の抵抗も見せることなく刃が塊に食い込み、まな板まで達した。
「等分に切っていって、手頃な大きさになったら賽の目に切りそろえて。切りそろえたラードはこのバケツに入れて、そこの冷蔵庫へ」
「あ、はい」
 老人はうむとうなづくと、加工室を出て行った。
「さて」
 私は気合いを入れると、包丁を手にした。ずしりと重く、危うく取り落としそうになる。気を取り直して腰を落とし、両手でしっかりと持つ。これでは完全に日本刀だ。
 こんな代物を、あの老人は片手で軽々と振るっていたのか。
 包丁を構え、両断された塊に向き直る。
 ゆっくりと包丁を持ち上げ、切っ先を塊の上にあてがい、引きながら降ろす。
 刃先は塊に食い込み、切り進んでいく。
 ところが徐々に重くなり、途中で止まってしまった。
 慎重に包丁を引き抜くと脂まみれだった。相手は脂の塊なのだから、当然と言えば当然である。
 大量の脂は切れ味を悪くする。戦国時代、刀は使い捨て同然の扱いだったと歴史小説で読んだことがある。討った相手の刀を奪うこともあったらしい。
 しかし今、私がこうしているのはれっきとした平成の世であり、日本刀のようではあっても、手にしている包丁は長く使われることを前提として作られた物だ。
 現に、センター長の老人はこの包丁を使い、あっさりと脂塊を両断していた。
 老人と私の違い、それは単純に技術の差だ。
 幸い、加工室には流しと給湯器がある。お湯で包丁の脂を落とせば切れ味は戻る。
 こうして、私と脂塊との戦いは始まった。

 器用貧乏を自称する私にとって、脂塊を切りラードを作るコツを習得することは、それほど難しいことではなかった。
 真っ白に見える塊でも、普通の牛肉と同様に、繊維の流れというものがある。その流れに沿って包丁を差し込み、包丁自身の重さを利用してやれば、スムーズに刃が通っていく。
 手頃なサイズまで切ってしまえば、あとは楽だ。
 履歴書に貼る証明写真を、定規なしで枠線ぴったりに切り抜くことが出来る私にとって、美しい正方形にラードを切りそろえることは、造作もないことだった。
 昼休みのベルが鳴ったときには、もう巨大な脂塊はすべて小さなラードへと姿を変えていた。
 公園で鳩を牽制しながらの昼食を終え、加工室に戻った私を待ち構えていたのは、さらに大きな脂塊だった。さしずめ、仔牛一等分くらいといったところか。
 腕を見込まれたと取るべきか、それとも、センター長の挑戦と取るべきか。
 どちらにしても、私の闘志は脂塊を溶かすほどの勢いでメラメラと燃え上がっていた。

 ラードを作り続けて三日が経過していた。
 脂塊はバッファローくらいの大きさになっていたが、慣れてしまえばどうということはない。時折混ざる臓物には面食らうが、それもちょっとした刺激になる。
 しかし、慣れれば慣れるほど、疑問が浮かび上がってくる。
 まず、この作業を人力で行う意味だ。
 今はどんな料理でも機械で作ることが出来る。その方が衛生的であり効率もいい。なにより人件費がかからない。ましてたかが脂塊を切りそろえるだけの仕事だ。非効率にもほどがある。
 次に脂塊の大きさだ。人間の平均的な体脂肪率が二十パーセント、豚が十五パーセント、牛は二十五パーセントらしい。
 しかし、脂塊は牛の二十五パーセント分どころか、牛の体積を優に超えている。
 それ以上の大きさとなると、海洋に住む哺乳類くらいしかいない。
 イルカや鯨の体脂肪率は四十パーセント程度だという。サイズ的にも鯨のものだという可能性が高いが、鯨の脂がここまで安定供給できるものだろうか。そもそも鯨の脂を牛脂として売るのは、法律的にまずいのではないだろうか。
 それに、脂塊の出所がよくわからない。加工室に入るとすでに、まな板の上に鎮座ましましているのだ。私が運搬を手伝ったこともなければ、運搬されるところを見たこともない。
 午前中に切りそろえたラードも、午後には冷蔵庫の中からバケツごと消えている。個包装はどこか別のところで行っているのかもしれないが、やはり搬出されるところを見たことがない。
 さらに気になるのはこのセンターの作りだ。
 センターは二階建てで、一階は事務所兼応接室と加工室で、それぞれ八畳くらいはある。しかし、二階についてはさっぱりわからない。
 入ったことがないどころか、どこから入れるのかがわからないのだ。
 なにしろ階段も梯子もない。外観を確認してもそれらしいものがない。おまけに窓もない。これで廃墟ならちょっとしたオカルト物件だ。
 ここは現役の施設で、近隣の住民たちからも特に怪しまれることなく溶け込んでいる。それにはセンター長の老人の人柄も一役買っているようだ。昼食を買いに出ると、いろんな人から声をかけられるのだが、決まって老人の体調をいたわる言葉を送られる。
 地域に愛される老人。その存在もまた謎だ。
 センターには私と老人のふたりしかいない。普通、食品加工場はパートのおばちゃんが何人か入り、作業ラインを形成しているものだが、そういう人を雇った痕跡が見当たらない。
 それに、私が脂塊と格闘している間、老人がどうしているのかもわからない。
 私がトイレ休憩のために加工室を出ても、事務所には老人の姿がない。しかし昼食から戻ってくると、ずっとそこにいたかのように、老人が事務椅子に座っている。
 もしかして脂塊を運搬しているのは、この小さな老人なのだろうか。
 初日に大包丁を軽々と扱ったのを目の当たりにしていると、巨大な脂塊を担ぐ姿も違和感なく想像できてしまう。もうこの老人ひとりでいいんじゃないかな、といったところだ。
 いや、冗談抜きに、老人ひとりでこのセンターを回せるのではないだろうか。
 ますます、求人を出した理由がわからない。
 それらの謎に、私の好奇心は強く刺激されていった。

 そして、決行の時が来た。
 午後の作業を早めに終わらせ、私は加工室を出た。
 予想通り、事務所に老人の姿はなかった。
 私は事務机の引き出しに手をかけた。鍵のかかっていない引き出しはあっさりと開いた。面接の日からそのままになっている私の履歴書を見つけて苦笑したが、予想通り、探していたものはそこにあった。
 小型のワイヤレスキーだ。
 どこに受信機があるのかわからないので、とりあえず天井に向けてスライドスイッチを引くと、ゴウンゴウンと鈍い駆動音がして、天井の一部が下がってきた。
 二畳ほどの広さがある昇降機だ。
 確かにこれなら脂塊も運べるだろう。では、運んだ先……二階には何があるのか。
 私は迷うことなく、昇降機に乗った。
 ゆっくりと昇降機が上がっていくが、明かりが付いていないのか、向かう先は真っ暗だった。ガタン、と音を立てて昇降機が止まると、私は暗闇の中にいた。
 とりあえず照明のスイッチを探さなければ。そう思ったとき、不意にあたりが明るくなった。
「来てしまったか」
 目の前に老人の姿があった。相変わらずしわしわの顔からは、表情がうかがい知れない。
「あ、すいません」
 私は間抜け全開の返答をした。言い訳しても仕方がない。
 室内を見回すと、一階の殺風景な事務所とは大違いのハイテク機器がずらりと並んでいる。中にはいくつか見慣れた機器もあった。
「やはり、ここを見ても動じないか」
 老人は愉快そうに笑った。と思う。
「あれが配送センター直通の転送装置だ。これは……いや、説明は不要か」
「どこへ繋がってるかまでは知りませんよ。ただ、転送先にあの脂を持った何かがいることだけはわかります」
「ならば練習はもう必要ないな。最初は慣れた武器を使うといい」
「そう思って、用意はしてあります」
 私が大包丁を見せると、老人はうなづいた。
「ヤツは脂のように、じっとしていてはくれんぞ」
「ええ、わかってます」
 私は老人の後に続き、部屋の中央にある巨大な転送装置の中に入った。
 今度の相手は、LANケーブルの群れよりも歯ごたえがありそうだ。
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