第1話

文字数 977文字

 環る湖
 永見エルマ

 私の体は沈んでゆく。ここは湖で、時刻は夕暮れ時。私の体は静かに、緩やかに、しかし確かに、底を目指している。
 この時間は私に残された猶予なのだ。
 湖は人里離れた山を少し歩いたところに位置し、私自身、ここがどこなのかを知らない。今の私にとっては、そんなことはどうでも良いのだった。
 沈む体は真っ青に澄んだ水中を垂直に落ちてゆく。夕暮れの光が水中を透過して、とても綺麗だった。
 青天井。
 私が最初に思い浮かんだのはそれだった。普通は空を大きな天井と見立てて青天井というけれど、この水面だって立派な天井だ。最も空ほど自由で開放的ではないが、これはこれで悪くない。
 つまらないことばかりが、頭の中を巡っては水へと染み出していった。残された猶予を惜しみなく使う。
 この湖には名前があるのだろうか。私がここを訪れたのはあらかじめ決めていたわけではない。ふらりと立ち寄り、ふらりとここに決めたのだ。そんな場所が人に見つけられるとしたら、それは偶然だろう。この場所は意図しても、あるいは意図しなくても、来ることが難しいような場所だろう。とすれば、名前もないことが予想される。
 ならば、私が名づけよう。うむ、では不死の湖と書いて「しなずの湖」。そう名付けよう。
 私はふふふと笑った。口から溢れた泡ぶくも綺麗だった。
 私は。私は何をしていたのだろう。この人生でいったい何を残したのだろう。貴方を遺してゆくというのに。
 私は。私には、何も無かった。全て透明だった。何もかもが透明で、ただ何かから逃げたかっただけなのかもしれない。もう私にはわからなくなってしまった。
 それでも、一つだけ確かなものがある。それは、貴方への気持ちだった。透明な私が唯一私でいられる方法が貴方だった。
 これからどうするのがいいのだろう。どうしたいのだろう。
 私は。私は貴方に会いたい。貴方にもう一度、会いたい。
 湖の底が見えてきた。
 そういえば、湖には睡蓮が浮いていたな。貴方は必死に自然の良さを説いてくれたけど、最後の最後までその良さが私にはわからなかった。今度は、わかってあげられるのかな。店先の花だとか、街中の大きな大木の気持ちもわかってあげられるのかな。

 体がようやく湖の底に着いた。底の泥はぬかるんでいて、とても柔らかかった。
 私は泥の床に就いて、ゆっくりと目を閉じた。
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