夏の終わりの夜の夢

文字数 3,286文字

「夏が終わる日の夜は、外に出てはいけないよ。」
 それが夏帆のおばあちゃんの口ぐせだった。

 夏帆は毎年、お盆から夏休みが終わる日までをおばあちゃんの家で過ごしている。おばあちゃんの家は、夏帆が住んでいる町とはさほど遠くないのに、景色が全然違う田舎にあった。
 田舎の空は山々に切り取られてせまく、だけど吸い込まれるように青くて、高かった。
 コンクリートの道路からちょっとわき道にそれると湿った土の道が現れ、その先の山に入るとむせかえるような緑の匂いとじいじいうるさい虫の声がする。
 深呼吸しながらその声を聞くと、夏帆は、今年もおばあちゃんちに来たんだなあ、と思うのだった。

 おばあちゃんはこの山に囲まれた家に一人で住んでいた。おじいちゃんは夏帆が生まれるよりも前に亡くなったので、一人暮らしに年季が入っている。
 夏帆のお母さんは毎年ここに来るたびに、おばあちゃんに町で一緒に暮らそうと誘うのだが、おばあちゃんがうなずいた事は一度たりともなかった。
「わたしゃ、この家に骨を埋めるって決めたんだ。あんたもこの家の女なら、こっちに住んだらどうだい。」
 きっぱりとしたおばあちゃんの言葉に夏帆はいつも嬉しくなる。おばあちゃんがいるから、夏帆はこの家に来る事ができるのだ。


 今年も夏休みの終わりが近づくと、おばあちゃんは何度も念を押すように、毎年の口ぐせを言い出した。
「夏が終わる日の夜は、外に出てはいけないよ。」
 夏帆が、どうして、と尋ねると、おばあちゃんは目を細める。
「どうしてお盆が夏にあると思う? 怪談話が夏に風物詩なのも、ゾッと寒気がするからだけじゃないよ。夏って季節はあの世に近づく時期なんだ。」
 おばあちゃんはいつもそこで声を低くする。

「あの世とこの世の境があいまいな最後の夜、化け物たちがこぞってあの世に帰る。そんな時、家の外にいたら、化け物の行列に巻き込まれてあの世に行ってしまうんだよ。」

 そして夏帆の目をじっと見つめるのだ。まるで、お前はあの世に行きたいか、と尋ねるように。
 夏帆はいつもぶるり、と首を振って、絶対に夜に外へ出ないと思うのだった。


 いよいよ訪れた夏休みの終わりの夜、夏帆は布団の上で寝がえりを繰り返していた。夕方に雨が降ったせいか、いつも以上に蒸し暑い。
 明日の朝早くにお父さんが町から迎えに来る。早く眠らなきゃ。
 でも眠ろう眠ろうとするほど目がさえてくる。汗でベトベトのTシャツが肌に張り付いて息が苦しい。隣の布団のお母さんは蒸し暑さなど気にせずに眠りこんでいる。
 夏帆はもう一度寝がえりを打ってから、我慢しきれずに起きあがった。水を飲んだら眠れるかもしれない。
 お母さんを起こさないようにそっとふすまを開けて、台所を目指す。足音を立てないように居間のたたみの上に滑るように進んだ。
 しんとした暗い台所は怖かったが、窓の外から月明かりがさしこんでいるおかげで真っ暗ではなかった。
 ゆのみに水を入れて一気に飲み干す。身体の熱がすう、と冷めていく気がした。

 その時、一瞬だけ台所が真っ暗になった。まるで誰かが窓の外を通って、月明かりをさえぎったかのように。
 夏帆は自分の全身に鳥肌が立つのが分かった。
「あの世とこの世の境があいまいな最後の夜、化け物たちがこぞってあの世に帰る。」
 おばあちゃんの声が頭の中で響いた。本当に、化け物たちが、窓の外にいるのだろうか。

 夏帆が動けずに震えていると、居間のふすまが、すっ、と開いた。夏帆は息を飲んだ。
 ふすまのむこうから出てきたのは綺麗な白い菊模様の浴衣を着た若い女性だった。その人は台所ではなく、玄関の方へ足音を立てずに歩いて行った。
 夏帆は鳥肌も震えも忘れて、吸い寄せられるように若い女性を追いかけた。カラカラカラ、と玄関の引き戸が開く音がする。外に出たのだ。夏帆の頭の中でまたおばあちゃんの声が響く。「夏が終わる日の夜は、外に出てはいけないよ。」
 おばあちゃんの言葉と女性を追いかけたい誘惑が夏帆の頭でぐるぐる回る。夏帆は深呼吸をひとつして、引き戸に手を伸ばした。


 外は真夜中だと言うのに驚くほど明るかった。あちこちで橙色の狐火が浮かんでいる。夏祭りのちょうちんのようだ、と夏帆は思った。
 夏帆はサンダルをひっかけて、女性を探した。さらり、と生ぬるい風が頬をなでていく。
 夏帆の胸にふしぎな確信が満ちた。あの女性は山にいるはずだ。
 コンクリートが土に変わって少し歩いて、山に入る。夜の山に入るのは初めてだが、ふわふわと飛びまわる狐火が夏帆の足元を照らしてくれた。
 虫の声が聞こえない。そのかわり山道の先の方からにぎやかな笛の音が響いてくる。それを聴いているうちに腹の底がむずむずしてきて、夏帆は音の方へ歩き出した。

「お待ち!」

 鋭い声がして、夏帆はハッと振りかえった。追いかけていたはずの女性が夏帆の後ろに立っている。その傍らには優しげな笑顔を浮かべた若い男の人がいた。
「それ以上進んだら戻れなくなるよ。」
 女性の凛とした声に夏帆はただただ立ちすくんだ。おばあちゃんの言葉が頭をよぎる。冷や水を浴びたように夏帆は自分がしでかした事に気付いた。
「あ、あたし……。」
 がちがちと歯が鳴る。震えがおさまらない夏帆の肩を、男性が優しくさすった。平べったくて、あたたかな手だった。
「大丈夫。家に送ろう。」
 低い、柔らかな声。
 男性は女性に目くばせをして、夏帆の手を握った。もう片方の手を、女性が握った。


 家の前にたどり着くと、玄関の前でおばあちゃんが腕を組んで立っていた。丸い目玉がじろり、と夏帆をにらみつける。
「あれほど言ったのに、外に出たんだね」
 夏帆は思わず、男性の後ろに隠れた。男性はあっはっは、と笑うと、夏帆の頭をぽんぽん、と優しく叩いた。
「この家の子だからしょうがないよ。」
 男性の言葉に、おばあちゃんはふう、と息をついた。
「しょうがないねえ。」
 男性に背を押され、夏帆はおそるおそるおばあちゃんに近づいた。
 おばあちゃんは夏帆の手を取ると、二人にむかって、腰が痛くなるんじゃないかと思うくらい深くおじぎをした。つられて、夏帆もおじぎをした。

 顔を上げた時には、二人の姿も狐火も、笛の音もなくなっていた。

「やれやれ。やっと山にお登りなさったね。」
 おばあちゃんは夏帆の手を握ったまま玄関の引き戸を開けた。夏帆はたった数分離れていただけなのに、家のにおいが懐かしく感じた。
「ねえ、おばあちゃん。あの人たちは誰なの?」
 夏帆が小声で聞くと、おばあちゃんは靴を脱ぎながら答えた。
「あの女性はね、この家を代々守ってきた女たちの残り香みたいなものさ。
 魂はお盆に帰るけど、家に染みついた女たちの人生のカケラは、ああやって集まって夏の終わりにあの世へ行くんだ。
 ……あの女性は美しかっただろう?」
 夏帆はこくん、とうなずいた。
「それはこの家の女たちが美しく生きた証なんだよ。わたしゃね、この家で死んで、あの女性の一部になりたいんだ。」
 おばあちゃんに死んでほしくはないけれど、夏帆にはその気持ちが分かる気がした。
 あれほどあの女性の後を追いかけたくなったのも、夏帆がこの家の血を引いていて、あの女性の一部になりたいという想いがあったからかもしれない。
「それじゃあ、あの男の人はこの家の男の残り香?」
「ああ、そうだよ。」
「かっこよかったね。」
 夏帆がそう言うと、おばあちゃんは、当然だ、と言わんばかりにうなずいた。
「わたしの旦那のカケラも混じってるんだから、かっこいいに決まってるだろ。」
 にんまりと笑ったおばあちゃんは、さっさと眠りな、と言い残して、自分の寝室へ戻って行った。

 夏帆も、出て行った時と同じようにそっとふすまを開けて、お母さんが寝ている部屋に滑りこんだ。出かけている間に布団がすっかり冷えている。これなら暑さに悩まされる事もなさそうだ。
 枕に頭をあずけて、目を閉じると、山の方からひゃらり、と笛の音が聞こえた気がした。
 ああ、夏が終わる。夏帆はそう思いながら、夏の最後の夜の眠りにすべり落ちていった。

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