方言と歴史

文字数 2,033文字

 今から40年以上前、学生時代の夏の日、私は蔵王に向かった。
 北関東のある駅のホームで仲間と一緒に待っていると、東京から東北に向かう列車が入ってきた。これから蔵王の山中で文芸部の夏の合宿を行うことになっていた。
 私たちはやがて、蔵王の山の中腹にある宿舎に着いた。
 ロープウエーに乗り、ニッコウキスゲなどの花々を眼下に眺めた。
 宿舎の近くを歩いている時に、地元の人らしい数人の中年女性と出会った。どこから来たのか、などと聞かれて、立ち話をした。
 ところが、地元の言葉が聞きとれなくて、聞き返すことが多かった。蔵王の訛りは、東京言葉とかなり違う。
 女性たちは、意味もなく笑いながら、あいさつして去っていった。

 当時、東京言葉の中で生活していた私は、強い訛りのある言葉を聞いて驚いた。
 東北地方の方言について聞いていたところでは、津軽弁は、東京人が聞きとるためには通訳を必要とするらしかった。外国語を理解するのに、通訳が必要なのは分かるが、日本人同士の会話で言葉の仲介者など必要なのか? 私はそう思ったものだった。
 私の実感では、蔵王言葉は、理解するのに通訳は要らなくても、少なくとも聴き取るまでの時間はかかりそうだ。
 蔵王言葉を聞いて最初に感じたのは、そのしゃべりの速さだった。
 これも聞くところでは、冬の東北では、人々は寒さから身を守るため、口を開けている時間をできるだけ短くしてきた。その結果、東北言葉は早口になり、耳慣れない者たちにとっては、聞き取りにくい言葉になった。

 私の住む北関東にも、方言、言い換えるとお国言葉はある。
 その点では、東京言葉や標準語に対する劣等感を覚える。東京に住み始めたときは、方言を使うことで恥ずかしさを感じた。東京言葉を覚えるのに、ある程度の時間がかかった。しかし、東京でも、郊外に出ると方言があることを、後で知った。
 今では、地域の文化財産として、方言は残していきたい気持ちも持っている。

 方言には、学問上も、日常生活上も、歴とした存在価値がある。学生時代に、国語学を少し学んだ。
 それによると、数千年の日本人の歴史の中で、人々は、各地で自給自足的な小社会を営んできた。小社会で使われた言語はそれぞれが多様に変化して、方言が発達した。

 奈良時代は、文献によると、平城京の人々は、東国の言葉を方言として見ていた。
 平安時代は、方言に関する文献は少ない。
 鎌倉時代以降は、中央語の京言葉と地方語の方言が、相互に影響を受けた。
 江戸時代は、幕府の開設で、日本語の中心が京都から江戸に移った。一方、幕藩体制が、国民の大多数の農民を土地に固定したため、方言を発達させた。

 安土桃山時代には、徳川家康が三河から関東の地に移った。江戸の町づくりが始まり、江戸言葉が生まれた。
 ある識者によると、江戸言葉は、関東方言と三河方言、関西方言などが融合して出来上がっている。その頃、国内には、江戸言葉、上方言葉など全国に通用する共通語と、方言が存在していた。

 明治維新で、江戸言葉は東京言葉になり、国民共通語として標準語になっていく。明治末には、標準語が推奨され、方言撲滅運動が起こる。
 ところが、昭和に入って関東大震災が起こる。東京の下町は焼け野原となる。人々は郊外に引っ越して、都心には戻らなかった。
 都民のほとんどは、震災以前の住民から、他府県から移住してきた者とその子孫に取って代わられた。江戸時代以来東京に住み続けていた、生粋の東京人はいなくなった。東京は地方人の集まりになった。人口地図は塗り替えられた。
 その後の東京は明治維新の時と同様、新たな人口増加を見た。震災は、市街地の復興、近代化を引き起こした。

 太平洋戦争が始まると、軍部が指導する大陸進出によって現地での日本語教育が盛んになった。国内では、標準語を普及させ、国語を統一しようという動きが見られた。
 しかし、地方の方言は生き続ける。
 生まれて初めて覚える言葉は、すべて方言と呼ぶことが出来る。人は成長すると、社会に適合するため共通語を身につける。
 方言が生来の言葉とすれば、標準語は人工的な言葉になる。もとは、標準語は東京の中流階級の使う言葉とされていた。ところが、震災でその人々はいなくなった。
 昭和に入ってラジオ放送が始まった。しかし、その話し言葉は、標準語とはほど遠かった。
今では、標準語は生きている東京言葉とは違っている。東京言葉は、地方出身者の共通語になった。

 こうして見ると、江戸の町づくりとともに始まった江戸言葉は、元々、蔵王で聞かれる東北言葉と同じように、方言のひとつだった。
 もし仮に、家康がその本拠地を関東でなく東北に移していたら、その後の歴史はどうなっていたか? 東北の中心都市が首都になる。東北言葉が標準語になる。
 その場合、江戸言葉は、訛りの強い方言のひとつになっていたかもしれない。私は、その江戸言葉を聴き取りにくい言葉と感じて驚いていたかもしれない。
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