第1話

文字数 1,994文字

 金曜、終業時刻。
 肆矢朋史(よつや ともふみ)は上機嫌だった。繁忙期でなく、週明けに期日を迎えるような業務も今はない。彼はこの後に自分を待つ毎週末の「行事」が楽しみでならなかった。確実に行事に参加する。そのために肆矢は、周到に月曜から業務を調整していた。
「なんか顔が明るいな。暇なら奢るから、飲みに行かないか」
 直上の上長たる課長補佐が、デスクの向こうから問いかける。普段から課長補佐とは飲みに行くし、昼食も煙草休憩も一緒する肆矢だが、この場ではすまなさそうに眉根を寄せた。
「すみません、先約があります」
「あ、そう? じゃあ仕方ないわな」
 会話のあと定刻となり、肆矢は「お先に失礼します」と笑顔でフロアを出て行った。
「最近浮いた噂聞いてないけど、春なのかな」
「違うみたいよ」
 課長補佐の独り言に、帰宅間際の社内事情通総務社員(五十代・男性)が、訳知り顔で応えた。

 足取り軽く、肆矢は社屋を出た。白い息が虚空に溶ける。一瞬寒そうにしてから、力強く歩を踏み出した。
 彼は最寄り駅にある大きめのスーパーに寄った。総菜コーナーで好みのつまみを見繕う。ビールも六缶パックで一つと、浅漬けや乾物も買い漁る。しかし物量は大人しいもので、やや理性が感じられた。
 買い物を済ませると、彼は周囲に花でも浮いているのかと思わせる様子で、家路を急いだ。重量感のあるエコバッグを片手に、もう片方にはスマートフォンを持ち、しきりに画面を確認する。画面を更新して何度も見ているのはSNSで、見るたびに待ちきれないといった顔で、彼はコートのポケットにスマートフォンをしまった。
 地下鉄に揺られること三十分。自宅近くの駅で降り、改札を大股に横切る。すでに日は沈み、街灯と駅前のにぎやかさが休日前の開放感を感じさせる。しかし肆矢は酔客も居酒屋の暖簾も目に入らない様子で、家へ向かう。
 単身者用のマンション自室の鍵を開けた彼は、着替えるのももどかしく、PCディスプレイの電源を入れた。パソコンの起動を横目に食事の支度を整え、そこそこ高級なデスクチェアに腰を落ち着け、動画配信サイトのURLにアクセスした。
 ディスプレイ下部の時刻を確認する。余裕で五分前だ。画面から流れてくる音楽は「彼女」が知人に作曲を依頼したオリジナルBGMだ。しばらくすると音楽が途切れ、もう酔っていると思しき女性の声と、オレンジ色の髪色をした2Ðモーションで動くアニメキャラクターが画面に表示された。
『こーんばんわ!』
 女性絵は満面の笑顔で、画面の向こうから視聴者に挨拶した。
 「彼女」こそ、肆矢の推し。街野灯里(まちの あかり)だった。

 同棲までしていた女性が己の友人と浮気していたなど世間ではよくある話なのかもしれない。
 肆矢はもともと自炊が得意で、彼女にも友人にもよく食事をふるまっていたし、彼自身食事をするのが好きだった。しかし彼女と別れてから、食事を作るのも食べるのも億劫になった。動画配信サイトで時間を潰しながら一日が過ぎるのを布団の中で待つ。そんな生活がしばし続いた。
 動画の広告が流れ、次の動画が再生された。ただそれだけのことだった。
『……は~、いい彼氏だったよ、マジで。ありがとね、ほんと。わたしが、わたしが不甲斐なくて、ごめぇん……』
 というすすり泣きが、突然画面から飛び出してきた。
 肆矢はゆっくりと起き上がり、画面を見た。どこかのVチューバーの生配信に繋がったらしい。画面内のコメントの流れは遅かったが「飲み過ぎんなよ」「その辺にしとけって」といった、配信者を心配するものが多かった。どうやら飲んだくれているらしい。
『でもご飯おいしいし、お酒もおいしい! そろそろおせんべい開けるよ!』
 バリっと袋パッケージを開ける音がして、パリパリと菓子を食べている様子が、ディスプレイの中に映し出される。
 本当に不思議なことに、肆矢の胃はその時初めて、空腹を自覚して鳴いた。ふと買い置きの栄養補助食品があったはずだと思い出して、彼は四本パックのエネルギーバーを完食した。
 その日は久しぶりに、驚くほどよく眠れたと記憶している。

 あれから五年。街野灯里は今日も配信を続けている。「彼女」がいつまで画面の向こうにいてくれるのかはわからない。でもきっと必ずいつかは、いなくなる。しかしそういうものである。家族も友人も自分自身も、等しくそうであるように。
 だからこそ、と肆矢は思う。コミュニケーションするでもなく、同じ食卓について食事するでもない。同じ時間に食事をとって、「彼女」の話を聞く。その空間にあることが、思うより喜ばしいことであるような気がして、肆矢は今日も配信を見ている。
 少なくともあの時自分は、この人の飲んだくれ配信に少し助けてもらった。そのお礼を毎週、少額の投げ銭で表すことにしている。
【いただきまーす】
『お、投げ銭ありがと~! いただきまーす! 今日はね、チゲ鍋!』
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