虫たち

文字数 1,108文字

飛行機は巨大な捕食者だ
空から見た海はどんよりと暗く
地球から漏れ出した膿のように見える
しかし同じ目線に立ってみると
それはひび割れた虫たちの背中だった

思い出とは蒸発した海のことかもしれない
夜は光の届かない深海か
俺は悪夢を見ないように
電照菊のライトが真夜中も眩しい
戦後の宿舎に入寮した

沖縄は一年中夏だと思っていたが
強風のせいか体感温度は案外低く
風に運ばれてくる潮風に紛れて
俺は毎晩悪夢にうなされた
菊の揺れる音が不快だった

特に目的はなかった
ただどこかに行きたかった
何者かになりたかった
働くことの道徳に生活が追いつかず
遠くに行くための強風をひたすら待っていた

菊の葉は冷たかった
どうしてここに辿り着いたのかは分からない
光に集まる虫のように俺も眩しいものに憧れがあったのかもしれない
一泊980円のゲストハウスに貼られていたポスター
確かにここは光の終着点だ

鋏を持って
同じような姿勢で
ただひたすら同じような菊を切っていく
チョキンチョキンと切っていく
その度に俺の寿命が削られていく

その音を聞きながら珍しく考え事をした
いったい誰がこの菊を求めているのだろうか
誰がこの菊をこんな俺が収穫していると思うだろうか
菊はいったいなにを考えているのだろう
手の中に緑の匂いが染みついてきた

限界だった
腰も 寮生活も
どこに行っても俺は俺だった
生乾きの洗濯物の匂いが鼻をかすめた日曜日
俺は買い物に行ってくるとだけ言いそのまま寮を後にした

なんとなく海が見たくなって
風に逆らって歩き続けた
生まれ持った貧乏が悪いのか
学歴の低さが原因なのか
低賃金の社会が悪いのか

俺の頭が悪いのが悪いのか
悪いと思う考えが悪いのか
夕暮れだった
一匹の黒猫がいた
海が音を立てて揺れていた

他にはなにもなかった
俺は久しぶりに煙草を吸った
潮風が自身の影を薄く引っ張っていくように
追憶の虐待が煙の中に浮かび上がっていく
生きていくという誰にでもできそうなことがなぜ俺はこんなにも苦手なのか

あふれる涙の原因を海のせいにするほど俺は狂ってなどいないつもりだったのに
ふと子供の頃に飼っていたカブトムシを思い出した
まだ両親の仲が良かった頃の
貴重な思い出の中に俺は没頭する
一枚の写真が浮かび上がってくる

夕暮れの鮮烈な光がより鮮明に色彩を反射した
逃げ出してきた電照菊の灯りが目の前をちらついた
このままじゃいけない 俺は変わらないといけない
道に迷ったとかなんとか言って帰ろうか
なにが正しい生き方なのかは正直分からないけど

暗くなったら俺はまた帰れなくなる気がする
それでも夕日が沈むまでここにいようと思ったのは
電照菊の光が煌々と灯っているからだろうか
帰りは追い風だと嬉しいのだが
遠くの空に虫のような飛行機が飛んでいった
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