宇治橋姫 うじのはしひめ 第二章

文字数 4,028文字

 次の日、息子と母親が一緒に出てきた。息子はいつもの様に登校する様だったが、母親もこのまま出勤するのかと晴助は疑問に思った。確かにパートの仕事はシフトで時間はまちまちである事は多いが、それにしても気になったのは母親の顔付きだった。息子に笑顔を向けてはいたが、息子と分かれた後、恐れと怒りが混じった強張った顔をしているのを見た晴助は母親の後を追った。母親は職場に向かう道からどんどん外れていき、やがて警察署に入っていった。晴助はまさか目的地が警察とは思いも寄らなかったので驚いたが、思い切って自分も警察署の中に入ってみた。母親は生活安全課の窓口で警官と話しをしていた。表情はやはり強張ったままだ。遺失物係で鍵を無くした、と適当に話をでっちあげて、母親の様子を窺っていたが、何を話しているのかまでは分からなかった。母親は警察を出るとそのまま職場に向かった。

 母親がレジに立つのを確認した後、晴助はスーパーの前にあるベンチに腰を下ろして、考えを整理しようと試みた。

 ——事態が動きつつあるが、俺が得られた物は、とても断片的な情報だけだ。この母親の行動は何を意味するのか?昨日の男と関係あるのか?そもそも生活安全課とは何だ?

 晴助の抱える疑問は増えるばかりだ。しかし生活安全課とは正確にはどんな事件を受け持つ所なのか?晴助はスマホで検索してみた。

 少年犯罪……
 サイバー犯罪……
 風俗営業法……
 ストーカー・DV対策……

 ——ストーカーか……あり得るな。昨日のあの男がもしストーカーなら、辻褄は合う。母親はあの男にしばらく前からつきまとわれていたとして、今日母親が警察に駆け込んだとなると、昨日あの男が何かしたのか?例えば電話を掛けたか、或いはメールを送信したか?そういえば、昨日あの男は親子の部屋の玄関を写真に撮って、どこかに送信している様に感じたが、もしや、あの写真の送信先は母親なのか?それで母親はいよいよ怖くなって警察に駆け込んだか?それか、母親の雰囲気からして警察自体にはちょくちょく相談に行っていたのか?

 ——しかし……これらはあくまで推測に過ぎない。一体あの男はあやかしに憑かれているのか?本当にあの男なのか?俺にとっての確証とはあやかしが憑いているか、憑いていないのか、それだけだ。出来ればあの男に張り付いて尻尾を捕まえたいところだが、あの親子を放っておいて、男を追いかけるのはまずい。もしあの男が見込み違いだったらと考えると、それは危険だ。

 晴助は結局、現状維持しかあるまい、という結論に達した。その日の夜。晴助は注意深くあたりを窺っていたが、特に何も見当たらず、親子もまたいつも通り就寝した様子だった。

 一応スーツの男の様子を見ておこうと思い、その場を離れて五分ほど経ったころだった。急にカシャーン、カシャーンという金属音が辺りにこだました。びっくりした晴助は立ち止まり、音の出所を探して辺りを見回す。しかし、音の出所は六角棒からだった。六角棒の先端に付いた輪っかが上下に動いて、それで音が鳴っているのだった。晴助はしばしそれをぼんやりと眺めていたが、飛び上がって親子のアパートに引き返した。そうだ、あやかしがそこにいるのだ。

 果たしてあのスーツの男がそこにいた。一階からあの親子の部屋、灯の消えた部屋を見上げて微動だにしなかった。晴助は後ろからその姿を凝視した。勿論あやかしの姿を探していたからだった。男がポケットからスマホを取り出した。その時、男の手の平に、いつの間にか別の手の平が重なっていた。やがて、その手の平は男の手の平から離れ、ふらふらと宙を舞い出した。その手の平はどうも女性の手の平の様に見えるが、その動きは宙を縦にぐるぐる回っていた。そしてふと、手の平の動きが止まった時、突然そいつがそこに居た。着物姿の女で、頭に炎が三つ浮かんでいた。顔は上半分が赤く下半分が白で、目がまるで燃えている様に真っ赤に見えた。そいつは、一瞬止まったかと思うと、体の姿勢が奇妙に崩れ、次の瞬間棒切れの様に体が宙をぐるぐる舞って、スーツの男の周りを動き回っていた。そいつの体が宙を回っている時は何も見えなくなった。まるで空中から突然現れ、突然消える、そんな感じだった。晴助はその余りの奇妙な動きに、攻めるタイミングを掴みかねていたが、そいつは急に上方に飛び始め、見る間にアパートの屋根に飛び上がった。そしてそのあやかしは下を見下ろし、視線をぐるりとめぐらせ、ついに晴助を捉え、凝視した。晴助はその無感情な赤い目を見て、ぞっとした。その後そいつはクルクル回りながら、ぐんぐん空に飛び上がり、ついに見えなくなってしまった。呆然とそれを見送った晴助が気付いた時にはスーツの男も消えていた。晴助は慌てて駆け出した。

 晴助は肩で息をしながら、その部屋の前に立った。あの滝本という男の部屋の前だった。息を整えながら、あの男が帰ってきているのか様子を窺う。果たして男は帰ってきていない様だった。

 ——あのあやかしに見られたのはしくじった……

 晴助は自分に悪態をつきながら、この先どうするか考える。やがて晴助はドアノブに手を伸ばし、そのまま掴んでドアノブをねじ切ってしまった。晴助は首を突っ込んで辺りを見回し、そろそろと部屋に入った。

 中は至って普通の家だった。リビングからキッチンの流しに汚れた食器が乱雑に重ねられているのが見える。あの男、家族は居ないのか?しかし、リビングの隅におもちゃが転がっているので、子供が居る可能性は高いと思われた。掃除が行き届いていないのは男やもめの部屋を感じさせるが、ところどころに家族の痕跡も見てとれる。晴助は食卓の上に置かれた酒瓶に敷かれた書類を開いてみた。住民票だ。女性の名と男性の名。姓は滝本、あの男の家族なのか?住所を見て、晴助は驚いて固まってしまう。その住所はあの親子のアパートだった。晴助は踵を返し、親子の元に急いだ。

 ——つまり、離婚話がこじれてあの女性は息子を連れて家を飛び出した、ってところか。妻が家を飛び出してから、男はあのあやかしに憑かれたのか?それともあのあやかしが憑いたから、妻が家を飛び出したのか?どちらにしろ、あの女性の危機感は今なら良く理解出来る。確かにあのあやかしは、あのあやかしの禍々しい赤い目は危険だ。勿論あの女性にはあやかしは見えないだろうが。

 アパートは何も変わらず、親子の部屋も灯が消えたままだった。晴助は部屋の前まで行って確認してみる。中から物音はしない。あいつは、俺に気付いてとりあえず退却はしたが、これで終わりとは行かないだろう。問題はあいつが何時ここに戻ってくるか、だ。晴助はアパートの四方に輪っかを置いて、自分は出来るだけ目立たない様に蹲った。晴助は無論あいつが来るまでここで待つ積もりだった。

 だが夜が明けても、結局あいつは来なかった。晴助は日の光を浴びながら伸びをする。やがて、親子も出掛けるだろう。近くのコンビニで買ってきたコーヒーを飲んでいると、息子が出てきた。いつもと同じ様に、ぶらぶらと登校する。晴助は周囲に気を配りながら後を追った。いつもの集団に合流する少し手前の所まで来た時の事だ。ふと気配を感じた晴助は辺りを見渡した。

 見ると後ろから走ってくる乗用車の屋根に、あのあやかしがしがみついているのが見えた。屋根から手を伸ばして運転手の首を掴んでいるのが見える。俺を狙っているのか?いや、やつの視線の先には息子がいる。このままこの車で子供達の列に突っ込む積もりだ。確かに黒手は怪力だが、所詮生身の腕なので、車を受け止める衝撃には耐えられない。晴助は車に向かって走り出し、子供達から離れたところで、街路灯に手を掛け、一気になぎ倒した。車は大きな音を立てて、街路灯に衝突し、反転して止まった。晴助はすぐ車に駆け寄り、運転手の安否を確認した。気を失っているが、脈はある。あやかしは既に逃げ去っていた。晴助は振り返って子供達を確認した。大きな物音に驚いて、興奮気味に声を立てているが、ひとまず危険は去った様だ。晴助は少し緊張が解けるが、何か違和感が残る。この違和感は何だ?晴助は頭を冷やして、冷静に考えようと試みる。あのあやかしは逃げてばかりだが、一体何が目的なんだ?この散発的な行動もどんな意味がある?いや、待てよ……晴助はふと思い付いて、運転手の顎に手を掛け、上に引き上げる。それは見た事も無い男だった。

 ——これは誰だ?あの男はどこに行った……?

 あの滝本って男は何故ここに居ない?これが違和感の正体か?晴助はじわじわと恐怖を感じ始めていた。急いであの息子の元に駆け寄る。

「お母さんは家に居る?」
「お仕事行くって……」

 晴助はスーパーに向かって駆け出した。スーパーに近づくにつれ、辺りが騒がしくなってきて、その喧騒と抑えられない動悸で晴助は足がもつれ、スーパーの前で転倒してしまう。今、晴助は喧騒と怒号の中心を見た。それは変わり果てたあの母親の姿だった。スーパーの従業員用の出入り口の手前で、彼女は丸太の様に転がっていた。余りにも多量の出血が、あの男の恨みの深さを物語る。彼女の周りを警官が幾人も取り囲み、やがてブルーシートが掛けられた。急にどうしようもない怒りが晴助を捉える。

「ク、クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!!なんで殺した!!」

 晴助は転倒した姿勢から起き上がる事も出来ず、顔を上げる事もなく、叫んだ。

 滝本は警察車両の中で連行を待っていた。顎のあたりに返り血がべっとり付いている。滝本はその血をスーツの袖で拭う、唇の端が怒りか興奮のためかぴくぴくと震えていた。

 晴助は顔を上げ、滝本を探す。警察車両の中の滝本を認めると、がばっと立ち上がって、男を指さし叫んだ。

「なんで殺したんだ――!!」
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