第3話

文字数 1,743文字

 それから数日後の金曜日。今週の勤めを終えた俺は電車の乗換駅で途中下車し、繁華街にある高級居酒屋に立ち寄った。店内は同じく会社帰りのサラリーマンのグループやらカップルやらで賑わっているが、それなりに値段の張る酒と食事を提供しているからだろう、大衆居酒屋のような騒がしさと違った程よいざわめきだ。
 名物の鰹のたたきを力強いボディの日本酒でいただくと、美味が全身を駆け抜けて一週間の疲れを追い払ってくれる気がした。
 さて、この辺で他の料理や酒も味わうか。俺はおちょこを呷りながら隣の席にちらりと目をやった。
 品のよい若い男女が一組、向かい合って座っていた。そこへ店員が「お待たせしました!」と元気よく料理を運んできた。これまた名物の鯨のたたきだ。どちらにしようか散々迷った挙句、今日は鰹にしたのだが、鰹とは違った色合いの赤身を見ていると、やはり鯨も食べたくなってきた。
 よし、これにしよう。俺は彼女が鯨のたたきを一切れ口に運ぶところを盗み見ると、目を瞑ってその様子を思い起こした。脳裏で鯨肉が再び彼女の口へ入っていくとともに、俺の舌を濃厚な旨味が覆った。
 これは酒が進む。酒を口にしながら隣を見ると、
「美味しいね」
 彼氏が彼女に向かって微笑みかけていたが、すまない。彼女の鯨はもう風味をいただいた後だ。文字通り〝味気なく〟なっている。

 この具合だと舌触りも程よくて最高だろうな。実際に食べたわけではないから分からないという、この能力の何ともいえない制約だが、まあ、タダで風味を楽しんでいるのだから贅沢は言うまい。全部盗らずに食感くらいは残しておいてやるのが一流のやり方だ、たぶん。
隣のカップルはというと、何ともいえない彼女の表情に、彼氏は不安を露わにしていた。二人の間に置かれたグラスの酒はあまり減っておらず、気まずい空気の中に取り残されてしまっている。
 ちょうど手元の日本酒がなくなったから、別の酒も飲みたくなってきた。飲まないならついでに風味を頂いておこう。さっき店員が注いでいるところを見たが、瓶のラベルからして上物のようだった。
 今度は彼女の手元のグラスに意識を集中した。脳裏に清水のごとく透き通った液体が浮かび上がるとともに、口の中で芳醇な香りが立ち昇った。
 ああ、本当に素晴らしい能力だ。こうやって日本中、いや、いつか世界中の美酒美食を味わい尽くしてやりたい。酔いも回ってきた、そのときだった。
「大丈夫?具合悪い?」
 うつむく彼女の顔を覗き込みながら、彼氏が訊ねた。大丈夫、料理の味がしなかっただけだから。彼女の代わりに心の中で答えてみると、当の彼女は「ごめんね」と頭を下げた。

 彼氏くん、彼女に気を遣わせているぞ。まあ俺のせいなのだが、と思いつつ、もう一度鯨肉の風味を楽しんでいると、
「実は昨日からちょっと風邪気味なんだ。そのせいか味がちょっとわかりづらいかも」
と彼女は弁解した。
 俺はぱっと目を開けた。つまり、風味を盗まなくても彼女は料理も酒も楽しめなかったということか。そのまま二人の会話に耳を傾け続けた。
「気がつかなくてごめん……俺、自分のことしか見えてなかった」
「私こそせっかくの食事なのに、ごめんね。そんなにひどい風邪じゃないから、全然味わえないわけじゃないよ」
「謝らなくていいよ。それより今日はもう出ようか?早く帰った方がいいんじゃない?」
「ううん。先々週は予定が合わなくて会えなかったから、今日はもっと一緒にいたい。あ、でも風邪移しちゃうかも……」
「そんなの平気だよ。俺も、一緒にいたい」
「嬉しい。じゃあ、改めて……」
「乾杯」という息の合った掛け声に合わせて二人が同時に差し出したグラスがぶつかり、小気味よい音を奏でた。

 この気持ちは何だろう。
 彼女から盗んだはずの鯨肉の味わいが虚しく感じられた。二人から目を逸らすように店内を見まわすと、客たちが料理を囲んで思い思いに歓談していた。
 なるほど、店内を満たしているのは料理の良い匂いや酒の香りだけではない。風味を盗む能力でも味わえないものが食事にはあるということを、俺は久しぶりに思い出した。
 今度、同じ係のあの子を誘ってみよう。こんな俺では断られるかもしれないが……。そんなことを思いながら、俺は店を後にした。
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登場人物紹介

主人公(「俺」)

同じ係のあの子

同期

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