「それ」

文字数 1,983文字

 いつの頃から彼の部屋には、よくわからない正体不明の生き物(たぶん)が棲みついている。

 冷え込んだ冬の夜のことだ。古い木造アパートの一室、コタツを背負うカタツムリのような体勢で腹這いになり、暖をとりつつ読書にいそしむ彼の部屋のドアがコンコンとノックされた。

 入り口には、全身が黒色の人物らしきものがぼわん、というかんじで立っていた。黒づくめの全身タイツ姿とか、黒色人種であるとかではない。かろうじて人のかたちを保ってはいるが、兎にも角にも深い闇のように黒々とした質感のある影、といったあんばいだ。
当然顔と思われる部分も含めてだから、どんな表情をしているのかは皆目わからない。何とはなしに部屋の中に入りたがっているようすであった。

 はて、これは幽霊か妖怪のたぐいだろうか?首をひねってみたものの、攻撃性はまるで感じられず、彼はあっさりとその者の侵入を許した。好戦的でなければとりあえずOKなのだ。
 何事もあまり頓着することのない彼の性格上、それ以上の深い追及はなされず、その晩以来「それ」との同居が無関心さでもって受諾された。

 とは言え。
 「それ」は予想外にもマメな働き振りを見せた。散らかし放題だった彼の部屋をてきぱきと片付け、溜まっていた汚れ物の山を洗濯機に放りこみ、水まわりのシンクをピカピカに磨きあげた。アイロン掛けされパリッと糊の効いたワイシャツで会社に通勤するようになった彼を、だれかいいひとでもできたのだろう、と皆が噂した。灯りのついた部屋に帰れば、毎晩のようにあたたかい湯気のたつ食事が彼を待ち受け、干されてフカフカになった布団にこもったお日さまの匂いを胸いっぱいに嗅ぎながら眠りにつく、そんな快さを彼ははじめて知った。

 日中はおろか、夜闇にまぎれて外出することもなく「それ」は日がな部屋にこもっているようであった。星の見える晩にはなぜかもの哀しさを肩のあたりに漂わせつつ、ベランダに出て夜空を仰ぐこともあったが、向かいの家の犬に吠えたてられて早々に引っ込むのが常だった。

 とにかくインターネット三昧といっても過言ではなく、手当たり次第に情報を集めたり、家計簿ソフトに入力したりする程度には使いこなしていた。殊に料理や人体に関するページは興味深いらしく、レシピに載っている食材を手に入れるため彼に画像を示したり、通販で正露丸やオロナイン軟膏を注文してみたり、アダルト系のサイトを大量に巡回したのがばれて怒られたりしていた。

 そんな「それ」と食卓ごしに向かい合い、そのブラックホールのような闇の中に食べ物が次々と吸い込まれるのをながめつつ、正体・性別不明だけれどこいつの、と彼は思う。
本質は勤勉ではあるがひきこもりがちな専業主婦というところだな、と。

 ある晩、帰宅した彼は「それ」がパソコンのまえで食い入るようにかたまっているのを発見した。覗きこむと、リボン、捲き毛のエクステンション、フリル満載のブラウスにパニエ(ってなんだ?)を仕込んだスカートなぞという珍妙かつ妖しげな衣料品が並ぶ画像に著しく魅了されているらしい。無表情なビスク・ドール然としたモデルがそれらに身を包みポーズをとっている。ヴィヴィアン・ウェストウッド、エミリー・テンプル・キュート、ヴィクトリアン・メイデン、この聞き慣れぬ仰々しい単語がロリータ・ファッションとやらを扱う店の名を意味するものだということが彼にもなんとなくはのみこめた。

 ひどく熱心な「それ」の姿を見ているうち、彼には唐突にその服を買って与えたいという衝動が湧き上がってきた。なぜか「それ」とロリータ服という奇妙な取り合わせが、何かの示唆であるような気がしたのだ。結構な値段の付いたそのデコラティヴな服一式を、適当なサイズにて注文してやる。

 黒レースがこれでもかというほどついた葉牡丹のお化けのようなフリルドレスが届くと、「それ」は小躍りして喜んだ。早速着てみせるのだが――当然とはいえ、本人の深く愛するものがまったく、これっぽっちも、ほんのひとっかけらも似合わない、というのは残酷な喜劇ではないだろうか。鏡に映った事実を認識するや否や、急激に消沈するさまがわかった。だしぬけにドレスを脱ぎ捨てようと「それ」は激しくもがいた。

 似合わない。こんなにきれいで素敵で、着たいものが、自分には醜悪なほど似合わない。

 おそらく悲憤に歪んでいるであろう「それ」の顔の暗黒に向かって彼は言った。

 似合わなくたっていいじゃないか。その服が好きなんだろ? それでOKだ。胸を張って外に出ろ。誰がおまえの黒さを指さして笑おうが、目をむいて驚こうが大丈夫、だってそれはおまえの――
 彼は確信をもって言った。
 
 おまえの「戦闘服」なんだから。

 彼の言葉は届くのか?
 「それ」はその場で凍りつき、下を向き、そして泣いた。いやたぶん、泣いた。





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