第1話

文字数 995文字

 「はぁ……またやっちゃった……」
 そう一言呟いて、彼女は僕にもたれかかる。こんな大きなため息も、何度聞いただろう。僕の前に来ると、いつだって彼女はちょっぴり弱音を吐く。
 仕事で失敗した時——
 友達と喧嘩した時——
 彼と別れた時——
 何のことか分からないことも多かったけど、彼女がポツリと呟いた内容は、逃さずキャッチしてきた。黙って、彼女の傍で聞いてきたんだ。僕にはアドバイスは出来ないけれど、耳を傾けることだけは出来るから。
 でも、僕は知っているんだ。彼女が外では、とても頑張り屋の仮面を被っていること。
 誰かと話す彼女は、いつも笑顔の仮面を被っている。電話で話す彼女の声はいつも高くて、「大丈夫」と嘘をつくんだ。そんな彼女を見ると、いつも僕の心はきゅぅっと締め付けられる。仮面の下では泣いていることを、僕は知っているから。頑張り屋の彼女をいつも見てきたから。
 僕に話すみたいに、素直に心の内側を見せればいいのに——
 そう思ったことも、何度もあった。でも、それが出来ないのが彼女なのも、僕は分かっていた。
 誰よりも責任感が強くて、真面目で、一人で頑張ってしまう僕の所有者(もちぬし)――
 だからこそ、僕は彼女を守ってあげたかった。泣いている時は抱きしめて、「頑張ったね」と声をかけてあげたかった。でも、僕には出来ない。僕には彼女を包む腕も、優しい言葉を紡ぐ口もないから。
 だって、僕は人ではないから……
 でも、彼女が唯一弱音を吐ける場所が僕であるなら、僕は喜んでその役目を引き受けるよ。だって僕は彼女のことが大好きだから。いつまでも僕の傍にいて、僕と出かけて欲しいから。
 『大丈夫。君の傍には僕がいるよ』
 決して届くことのないその言葉を心の中で繰り返していると、僕にもたれかかっていた彼女がゆっくりと、身体を起こしていく。その瞳はまだ暗かったけど、それでも、僕の所に来た時よりは元気になっていた。
 「もう考えてもしょうがない。帰ろう」
 そう呟いて、彼女はエンジンをかける。そして、僕が奏でる元気になる音楽を聞きながら、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
 聞き役はここまで。ここからの僕の役目は、彼女を安全に家まで送り届けることだ。僕は黒い四つの足を必死に動かし、車道に出た。ここからは安全第一、集中しないといけない。
 だって僕は、彼女の車なのだから——
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み