第1話

文字数 3,502文字

 両手の上の、すすけた色の円盤に、濁った血液のような錆が浮いている。
 薄い円。彼はその平らな面の上に細い息を吹きかけた。微量の砂埃が飛んだ。
 鳥のさえずり、獣の唸り声、流れる水の音。すべて失われたもの。もう二度と取り戻せないもの。劫火に焼かれたコロニーの残骸が目に浮かぶ。彼は慌てて記憶を閉じ込めようと、息子の姿を岩肌の隙間に探した。
 息子はただそこに座っている。岩場の壁の前でうなだれる肩のかたちが、消滅した星に残してきた妻の面影そのままで、さらに彼の胸は締め付けられた。
「眠るのなら、Vの中に入りなさい。凍ってしまうよ」
 言うと息子は顔をあげ、うなずいた。どうしたのだろう、いつもより素直だ。ここでは「ねない、もう少し外にいる。石を集めてるのに、研究に使うのに」と言ってごねてごねて聞きやしないのが普通なのだが。
「具合でも悪いのか」
 近づいた父親を制するがごとく息子は「Vに戻るよ」と立ち上がった。
「どうした? なんだかおかしいよ」
「おかしいのは父さんだ」
 息子の反論に、彼は怪訝な表情で首を傾けた。細めた目と目をつなぐみたいに、彼の眉間の皺が深くなった。
「どこがおかしいんだ?」
「今日一日、まるで覚えていなかった」
「なにを?」
 息子の遠慮のない溜息が岩肌にこぼれた。ずいぶん気温が下がっているのだろう、白い蒸気が一瞬浮かび、消えた。息子は利き腕を伸ばしVの扉を開けようとしたが、そのまま動きを止めた。
「父さんは忘れちゃったの? ぼくたちはもうずいぶん長くここにいるからね。惑星でもなく、コロニーでもなく、教室もなくて甘いお菓子も何にもない、この岩ばかりの破砕した断面に、もうずっとずっと、寄生するみたいにさ」
 父親である彼は、そういえば息子のために菓子を用意することも、部屋を飾り付けすることも、していないのを思い出した。
「そうだったか」
 咳払いした彼は、少しおどけてみせながら告げた。
「ハッピーバースデイ、それから…」
 無表情のまま息子は「寒っ」と吐き捨て、続けて「早くVの中に入んないと、父さんこそ冷凍化しちゃうよ。そうなってもぼく知らないからね!」と言い放った。
 頭に手をやり、円盤を大事に抱え直した彼も息子の後を追い、タラップに足をかけ、急ぎVに入り込み扉を閉めた。この時期外気は徹底的に冷え込む。恒星の輝きがあの悪魔の星に隠れてしまうと、この小さな瓦礫の岩はたちまち何の温度も生まなくなる。輝きが足りないと、生き物は生身で過ごしてはいられない。
 もうずっと、Vの中で暮らす時間の方が長くなっている。悪魔の星が彼らの星の軌道をかすめたあの日、彼と息子はたまたま世界初の建築物であるコロニー見物に出かけていた。身重の妻を無重力にさらすのはよくないと思っての配慮のつもりだったが、コロニーの窓から自分の星が砕かれるのを目にし、妻とは二度と会えなくなるなどど、想像もしなかった自分を呪ったものだ。
 星が消えたばかりか、熱線に焼けたコロニーの被害も目を覆わんばかりだった。それでも、生き残りは相当数いたのだ。あの悪魔の星は、砕け散ることもなく輝く神の星に溶けることもなく、いびつな形のままそこに静止した。自転はしているが随分と緩やかだ。しかし、自分たちがそこに住めるかというと、そうではないということは、多くの生き残りがチャレンジして失敗したことで、逆に証明してしまった。
「かゆい」
 息子の言葉で正気に戻った彼は、テーブルに円盤を置くと、いつものようにVに貯蔵されてあった粘液を自らの細い指先に垂らし、息子の肌を傷つけぬよう、ゆっくり塗り付けた。
 昔からアレルギーがひどかった息子だったが、おそらくすべて彼の遺伝だろう。だがあの日からは二人ともはっきりと体質が変わり、宇宙線のもとで素肌をさらせるようになった。それでも元の体の名残なのか、外にばかりいるとこうしてかゆみがおきる。Vの粘液がアレルギーにもこのかゆみにも効くと分かったのは、彼自身が自死しようとして失敗したことからだ。
 かゆみが収まった息子は、目の前で小さく寝息をたてている。今日は息子もずいぶん熱心に働いていた。だから疲れたのだろう。
 錆色の円盤がテーブルの上で小刻みに揺れはじめた。
 この時間から、星の破片でできた瓦礫の小さな安息地は、悪魔の星の影響でことさらに揺れる。引力に引っ張られているのかもしれない。息子も気づいていて口にしないだけだ。だんだんと悪魔の星が大きく見えてきているのは、恐怖の記憶のせいだけではない、と。
 問いかけてくる。
 円盤が、そこにあった鳥のさえずりが、獣の唸り声が、よみがえってまた彼に問いかけてくる。
-このままでいいのか?-
 Vのタンクに貯蔵されていた塗り薬、これはおそらくこのVを動かす燃料に違いない。
 みな宇宙線にさらされ血を吐き力尽きていく中で、彼と彼の息子を指して「化け物」と称した。変形してゆく肌、顔、身体。だが体調はどこも何ともない。やがて食事をとらなくてもよくなったのはいつごろだろう。もう覚えてもいないくらい昔のことだ。星と母を失った息子は何度も自死を試みたが、そのたび必ず失敗した。それだけは宇宙線に対する特異体質だったアレルギーの遺伝に感謝した。
 息子と自分の気分転換にと、彼は息子に学問を教えた。
 その中で息子はその才能を開花させ、かつて建設中のコロニーに宇宙からの漂流物として流れ着き、研究対象として置かれていたこのVに収められていたゴールデン・レコードを半分ほど解析した父とともに、Vを調べにかかった。
 つい数日前に息子が解読した暗号文を読む。まあ、その興奮もあって、すっかり誕生日のことを忘れてしまっていたのだが。この文章は何度読み返しても、とても、彼の心に響いていた。
 <…は、いつの日にか、現在直面している課題を解消し、銀河文明…、期待します。この…われわれの希望、われわれの決意、われわれの友好が、広大…、宇宙…、示されています>
 多くの音が収められていた。調べた内容はすべてデータ化してあるが、この〝ゴールデン・レコード”そのものにも、なにか意味があるはずなのだ。たしかに、この円盤に錆がうく前は、輝く神の星と同じ金色をしていた。
 希望、友好、決意、そんなものはとうになくしたものだったはずだ。それを、息子が取り戻した。
 息子の寝顔に、彼は問いかける。
「…どうする?」
 眠ったまま答えない。自転を24時間で行い、370日近くで輝く星を公転するその星は、まるで自分たちの暮らしたあの星そっくりじゃないか。文化があり、季節があり、音があり、鳥がさえずり、獣が唸る星。希望があり、友好があり、決意がある星。
 ぼんやりと妻の顔が浮かんだ。テーブルの円盤、ゴールデン・レコードがかすかに揺れる。
 おもむろに彼は息子の肩をつかんで揺り起こした。
「おい、まて、寝るな、起きなさい」
 びっくりした顔で息子は目を開いていた。彼は息子の肩をつかんでいた力を緩めて、言った。
「まだ、話さなきゃいけないことがある」
「…?」
 息子は驚いた顔のまま、彼を見上げた。彼は「それから」と言いかけて、改めて言い直した。
「ハッピーバースデイ、それから、ハッピーニューイヤー」
 息子の視線が壁に向いた。
「…まだ1月1日なの?」
 問いかけてきた息子の目線の先にある掛け時計はまだ1月1日の23時49分。
「間に合った。さあ、行こう」
 彼の言葉にきょとんとした息子が、ふいに小さくあくびをした。年ごとに皮膚が変質するせいで、顎近くまで口が開くが、その口元は妻そっくりだと彼は微笑んだ。
「行こう、地球という星だ。何年、何十年かかるかしれないが、そこには希望があるんだ」
「今決めたの?」
 息子の問いに「ああ」と彼はうなずいた。
「父さんは、のんびり屋さんだもんね」
 喉を鳴らして笑いをこらえる息子は、勢いよく起き上がった。
「決めたんなら、いいこと教えてあげる。今日調べていて発見したんだ、このVの名前」
「解読できたのか⁉」
 彼は息子にせがむように「なに? なんだ?」と続けた。
「Voyager-旅人っていう意味だよ。それから、あけましておめでとう、パパ」
 数十年、いや、もっと昔に聞いた言葉だった。コロニーの言葉ではない言葉。思いもよらぬ涙が固い皮膚の頬を伝った。
 息子が笑っている。
 彼は彼の母国語で答えた。
「あけましておめでとう。それに、誕生日おめでとう」







 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み