運慶の罠

文字数 5,617文字

 ――お前の母ちゃん男と逃げたのか。

「だって、俺の母ちゃんが言ってたもん」
 噂は、級友の口から私の耳にも届く。
 ――やめてよ。母さんはそんなことしないよ。
 ――じゃあ、うちの母ちゃんが嘘つきだってのか。

 現に、母はいなくなっていた。
 父は何も言わなかった。

 母と逃げたという男は、校区の外れにある神社の神主だった。その(やしろ)は、消えた(あるじ)の代わりに穢れを押し付けられたか、たちまちのうちに寂れ果てた。
 ご神木は大きな桜だった。神主が去ったばかりの頃は青々と葉を茂らせていたのが、すぐに立ち枯れてしまった。
 まるで、罰を引き受けたかのようだと囁かれた。
 翌年の春、その枯れ木が倒れた。
 その後、父も私を置いて姿を消した。
 私は父方の祖父母を通して、遠縁に当たる子供のできない夫婦の養子となった。隣県の住人となり名字も変わり、様々なショックが重なったせいか、それまでのことは記憶から薄れていった。
 しかし、私は〈夢〉を見るようになった。
 繰り返し繰り返し見る〈夢〉。

 夜。

 朽ちた、簡素な社殿。
 崩れた壁の隙間から漏れる、揺れる明かり。
 正座した男の後ろ姿。衣服越しにも見て取れるほど、痩せた腕を振り上げては、降ろす。
 連れて動く肩甲骨。
 銀に閃く反射。
 搾り出すような長い吐息。
 ゴゾリと、長く大きく異様なもの転がった。
 木だ。木の幹がふたつに割れたのだ。
 枯れて――枯れた木の間から、何かが生まれでた。
「もう逃げられないね」
 囁き、割れた木の間に頭を沈めていく。
 私の喉がヒッと鳴った。
 男の頭が跳ね上がり、こちらを向く。
 私はその顔を知っていた。
 見る前から、きっと。
 明かりに背を向け、走った。
 おい、と呼ばれたが振り返らずに走った。

 私は、何度となく見るその夢に囚われていた。中年の域に差し掛かってもなお、いや、ますます酷くなっている。
 囚われ、急き立てられ――あの割れた木の間から出てきたものが何なのか、確かめなければならない。
 〈夢〉だ。
 〈夢〉の話だ。
 それでも……私はあれが何なのか知っているはずで、だから確かめるというよりは思い出すという方が、きっと正しいのだという、自分でもよく判らない焦燥感に追われていた。
 あの社殿が何処なのかは判っている。
 母と逃げた神主がいたという、あそこだ。
 しかし、あの場所はとうに更地になり、今では大型スーパーの駐車場になっている。
 三十年近くが過ぎているのだ。
 それでも何かないかと、この辺りの地方紙を取り寄せたりしていた。
〈桜の木で神像を――今秋個展を開く連慶(れんけい)さん〉
 小さな見出しのその記事には、モノクロだが写真もあった。荒い画像だったが、乱れ髪の女性を形創っているということは分かった。
 私の〈夢〉の記憶が疼いた。
 記事の末尾にあったギャラリーに問い合わせ、連慶という彫刻師に連絡を付けることができた。
  
 
 個展を待たず、半ば押しかけるようにして連慶を訪ねた。
 電話でのやり取りで、彼がかなりの酒飲みであることを察した。手土産はいい日本酒を奮発した。口が軽くなることを期待する、下心もあった。
 しかし、肝心の〈問いたいこと〉が何なのかは、言葉にすることができないままだ。
「新聞で作品を拝見して、至極(しごく)感銘を受けまして」
 電話でも告げた通りのことを、繰り返すしかなかった。これでは、ただの作品のファンだ。そうではない、ということを私自身は知ってはいるのだが、どうすれば伝えることができるのか――。
 連慶はしきりに瞼を擦りながら、最初恐縮したようにしていたが、酒が入るにつれ、態度や口調がぞんざいになっていった。 
 木で出来てんだ、その人形は――個展の準備の話をしていたはずが、いきなり連慶は話題を変えた。
生人形(いきにんぎょう)って知ってるか」
 知っている。
 幕末から明治にかけて大いに流行った、木製の等身大の人形のことだ。生地に胡粉(ごふん)を塗り重ねて作られた肌は、まるで生身の人間のようだったという。
 今では芸術品扱いだが、元々は見世物興行に使われていたものだ。
 これがなかなか――とんでもない代物で。どう見ても人形になど見えない精巧な作りのものが、極当たり前にあった。
 マネキン人形にその技術は継承された(のち)、哀しいかな、徐々に稚拙(ちせつ)なものとなり衰退してしまう。
「有名所だと松本喜三郎や安本亀八なんだが、まぁ、そこまではいかなくても相当に腕のいい人形師が作ったものが、見世もんにごろごろしてた時代だったんだ」
 連慶は残っていた酒を一気に(あお)ると湯飲みの底に目を遣った。空いた方の手で瞼を擦る。
 ここで口を挟むか、それとも様子をみるか。逡巡(しゅんじゅん)していると、連慶は緩慢(かんまん)な動きで顎を上げた。
 激しく擦られた両の瞼は弛みきり、まともに開いてはいない。
 よれた肉の隙間から、溶けた蝋のような白目と僅かばかりの黒目が覗いて――私を睨む。
 連慶の、酒に濡れた唇が動いた。
運慶(うんけい)って知ってるか」
 どろりと腐りとろけた声が言う。
「日本一の、ど偉い天才の……なんだ、彫刻家だか」
「正確には仏師ですね」
つい、嫌味な言い方をしてしまった。
「ああ、そうそう。その運慶が言うには、仏像ってのは木を彫って形造るんじゃなくて、(あらかじ)め木の中に埋まっているものを彫り出すだけで」
 滔々(とうとう)と語りだしたのは、漱石の小説ではないか。
「それは小説の話です」
 呆れた。
「小説家の書いた作り事ですよ」
「運慶を知ってるんだろ」
「あなたが言っている運慶とは違います」
「どう違うんだぁ」
 連慶の声音は、更にどろりと溶ける。
 ああ、しまった。
「運慶は運慶だろうが。お前、職人なめんじゃねぇぞ」
 怒らせてしまったか。
 連慶は、まだ未練たらしく握っていた茶碗を、土間に叩きつける。使い込まれ古びていたそれは、乾いた音をたてて割れた。
 ヘタを打った。
 どうすればこの場が収まるか、考える。とりあえず謝る、か。いっそ怯えてみせるか。それとも――。
「運慶なんだよ。あのでかいスーパー。そこの駐車場ができる前は神社だったのさ。そこの御神木はでかい桜の木だった。それで神さんを彫り出したのはヤツだ」
「な、」 
 私は絶句する。
 何だ、何だこれは。私はまだ何も、肝心なことは話していないのだ。前情報など何もないはずなのだ。
 連慶の言い出したことは、突然すぎるし合致しすぎる。どろりとした声音と〈夢〉の光景が重なった。
「俺がまだ小さかった頃、潰れちまったんだ、あの神社は。そこのご神木をぶった切って、女神さまの像を創って(まつ)ろうって男がいたんだ。そいつは運慶を名乗っていた。そんなことができるのは運慶しかいねぇだろ」
 呑まれる。
「運慶はご神木の中の神様をそのまま彫り出すことができるんだ――俺はそう聞いた。小説なんかじゃねぇ。ちゃんと本人から聞いたんだ」
 連慶は口元を手の甲で(ぬぐ)い、舐めた。
「その運慶が、ご神木から彫り出したってェ神さんが、お前の聞きたい話だろ。違うか」
 違うかって――違わない! 
 しかし、しかし!
「い、いや、運慶は現代の仏師ではないんです。ああ、もしかして、運慶を名乗る他の」
「違う。あれは本物の運慶だ。お前が何を言おうと、本物なんだ。よし、」
「教えてやる」
 連慶は次の間の(ふすま)を開けて、私に入るように促す。
「こんな話があった」
 後ろ手で、連慶は襖を閉めた。

 夜。

 朽ちた、簡素な社殿。
 崩れた壁の隙間から漏れる、揺れる明かり。
 正座した男の後ろ姿。衣服越しにも見て取れるほど、痩せた腕を振り上げては、降ろす。
 連れて動く肩甲骨。
 銀に閃く反射。
 搾り出すような長い吐息。
 ゴゾリと、長く大きく異様なもの転がった。
 木だ。木の幹がふたつに割れたのだ。
 枯れて――枯れた木の間から、何かが生まれでた――。
「もう逃げられないね」
 囁き、割れた木の間に頭を沈めていく。
 隣りにいる友達の喉がヒッと鳴った。
 男の頭が跳ね上がり、こちらを向く。
 俺はその顔を知っていた。
 見る前から、きっと。
 友達が明かりに背を向け、走りだした。
 おい、と呼んだが振り返らずに走っていった。


 私は面食らう。
 何を言っているんだ。
 それは、私の〈夢〉じゃないか。 
 しかし、視点が違う? 
 ――友達?
 胸の奥に痛痒(つうよう)
 通された部屋には彫刻刀が散乱し、あちこちに丸太が転がっている。どれもおそらく、桜だ。特有の匂いがこもっている。
「ひとり残された俺は座りションベンみてぇな恰好(かっこう)でさ。みっともねぇザマの俺に、ヤツは言ったよ。坊やは何を見たのかな、ってな」
 連慶は言葉を切り、私を誘うように見る。
 解っていながら、まんまと、乗ってしまう。
「何を……見たのですか」
「そうそう。その声さ。ははは、おんなじだ」
 予定調和の笑い。
気色(きしょく)悪ぃな。おんなじだよ。お前、あのときのヤツと同じくれェの歳だもんな。血ってやつァ怖いね。ビビっちまった俺は嘘をついたよ。何も見てませんってな」

 ――あの神社、夜中に明かりが点いてんだって。母ちゃんが隣のおばちゃんと話してたんだ。な、お化けかな。
 ――まさか。お化けなんかいないよ。
 ――母ちゃんが嘘つきだってのか。
 ――だって、お化けのわけないよ。
 ――じゃあ、確かめようぜ。そんでお化けだったら……お前、一人で逃げんなよ。
 ――そんなことしない。逃げるなら一緒だよ。

「見てませんとか言いながら、俺はヤツじゃなくて、ヤツが彫り出したアレから目が離せなかった」
 相槌さえ打てなかった。
「蝋燭の火で、ぬめっと光ってたアレ。少し崩れてきてたけど女の形をしていた……ああ、そうだ。顔がおまえに似てた。なぁ、顔は母ちゃんで声は父ちゃんか。お前、うまいこと半分づつもらったもんだな。……それより」
 連慶の弛んだ瞼が、ギュッと引き上がる。
「よくも一人で逃げやがったな」
 膝に激しい痛みが走ると同時に、私は床に倒れた。連慶に蹴られたのだ。
「最初は〈お前〉だって判らなかった。電話んときも名前が違ったしな。何十年振りだ?」
「ぐっ」
 運慶の下りではっきり分かったぜ――連慶は私の腹を踏みつけてくる。

 ――本当だって。すげぇそっくりに運慶が彫ったんだって、ありゃお前の、
 ――違うよ。それって課題図書で読んだ話じゃないか。あれは小説だよ。本当じゃない。もう僕の家の話はしないでくれよ!
 記憶が蘇る。

 ――お前の母ちゃんは男と逃げた。

 これを聞いたのは、そう、
 ――やめてよ。母さんはそんなことしないよ。
 ――じゃあ、俺の母ちゃんが嘘つきだってのか。
 そうだ、あの噂を広げたのは……あの噂がきっかけで、神社の怪談話も手伝って……私を踏みつけているこいつが。
 酒のせいだろう、青黒く浮腫んだ顔と焼けた声。目の形が分からないほど弛みきった瞼にボロボロの歯。同世代とさえ思わなかった。
 まして、あの――あいつだったなんて、それこそ夢にも。
 名前だって、連慶としか。
「奴は言った。僕はね、運慶なんだよ。ここの神主さんに頼まれて、ご神木からご神体を掘り出したんだ。ご覧、美しい女神さまだよ、ってな。子供捨てて逃げた女が、なァにが〈女神さま〉なもんか。だけど……()に受けちまったんだ。そんだけ凄ぇ代物だったんだ、アレは」
 真に受けなかったら、生きて帰れなかっただろうしなぁ――言いながら、連慶は私の腹を躙る。
「俺が見たのは〈女神さま〉だけだ。神主の野郎のことは、知らねぇ。少なくとも俺は見てねぇ」
 ついに連慶は私の腹に腰を下ろし、額をぐっと押さえつける。
「よくも逃げてくれたよなぁ。俺、お前を信じてたんだぜ?」
連慶の体重が腹にかかる。
 吐きそうだ。
「だけどまぁ、感謝してるさ。あのとき見たもんは、この目に焼き付いて離れやしねぇ。生き人形レベルなら俺にも何とか創れる。だが、アレは、あんなもんじゃねぇ。あんなもんじゃねぇんだ」
 連慶は語る。
〈夢〉の話だ。それは私の――何故それを知っている。
「俺は運慶を夢見て精進してきたつもりなんだが、どうしても追いつけねぇ。名前で分かるだろ? あやかりたくて、でも(おこ)がましいからな、運慶のカンムリを取って連慶って名乗った」
 有りがちか――と私に覆いかぶさるようにして、連慶は頬を歪める。
「だけどな、どんな木でも駄目なんだ。悔しいが、腕が足りなきゃ材料を良くしねぇとな。だから、ちっとばかしズルをしようと思っててねぇ」
 額にあった連慶の手が角度を変え、目の上全部を覆ってきた。
「でもなぁ、誰をってなると、簡単にはやれねぇや。悶々としてたんだが、お前が現れて助かったよ。お前になら遠慮はいらねぇもんな」
「……痛い、は、な、してくれ」
 腹に連慶の膝がめり込んでくる。
「お前の中の神さんは、俺が大事に祀ってやるよ。あのときの〈女神さま〉は、手に入れることが出来なかったからな。ははは、さっきのあれは嘘だ。見せるもんはねぇよ。まだ、な」
 お前は裏切りもんだけど、これでお互い様だよなぁ――私の鼻先に、冷たく尖ったものがあてがわれた。
「最ッ高の材料が手に入ったぜ」
 これで個展に間に合うな――もうとろけてはいないその声は、〈夢〉ではなかった。



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