第2話 トクダの最大のリスクは、私が社長であり続けることだ
文字数 1,356文字
第1部 オートモービル業界の盟主沈む
トクダ自動車第11代社長、徳田清久が突然、社長を辞任した。
「トクダの最大のリスクは、私が社長であり続けることだ」
引き際もさすがは世界に名を馳せたトクダ創業家。世界中の誰もがそう思った。
創業家・・・
清久の曾祖父、徳田右京が勃興した徳田家には右京が残した偉大なる家訓がある。
『業を為し報国に身を尽くさむ』
宗主となった者はこの家訓をトクダイズムとして、在任中、社会が求める新しい事業を興すことに努めた。
徳田はそうやって右京が興した祖業の自転車から始まりオートバイ、ガソリン車、ハイブリッド車と時代の流れを敏感に汲み取って世界一のオートモービルカンパニーに成長した。
しかし、清久が社長に就く前、トクダ自動車は創業以来最大の危機を迎えていた。リーマンショックで売り上げが低迷、赤字が重なり大きな深傷を負っていた。
その起死回生をトクダは創業家に託した。危機からの脱出は創業家にしかできないと思われたからだ。
白羽の矢が創業者の曾孫、徳田清久に立った。清久はトクダ全社員の期待を背負って、トクダ自動車第11代社長に就任した。
清久は聖域なき構造改革に着手した。すべての改革に、自らが先頭に立って歩を押し進めた。
結果、彼は見事トクダ自動車を復活させた。
が、その清久も劇的に変わるイノベーションに対応していく自信を失い、トップの座を譲ることを決めた。
その相手とは、
「あとを宝田君に任せたい」
自分と同じく大のクルマ好き、カーレーサーでもある宝田洋司。
宝田は技術屋からの叩き上げで、トクダの高級ブランド車レオンの世界販売に成功した実績を持つ。
退任時、清久は全社員に向けこうも語った。
「トクダはフルモデルチェンジしなければならない。いつまでも油臭いクルマ屋ではダメだ」と。
そんな清久の意思を受け継いだ宝田はEVを始めとする新しいクルマ造りにチャレンジしていった。
トクダが新社長の元、また次のオートモービル業界を牽引していくかに見えた。
しかし、宝田の経営戦略はあるところから頓挫した。確かにEVの量産化には生産設備で勝るトクダが一役を担っていた。
だが、トクダはEVに限らず淘汰されゆくガソリン車やハイブリッド車にも生産ラインを残し、それを全方位戦略と呼び捨て切れていなかったのだ。
その隙に、それまでクルマとは無縁だった異業種企業が次々と参入してきた。
なかでもかつてはトクダのコピーと揶揄されていた中国の西安汽車(シーアンキシャ)がEVに特化したビジネスモデルを確立し本家トクダを凌駕し始めた。
新興組はEVに絞った専業集団だった。この時すでにクルマ業界はEV時代に突入していたのである。
品質に聡いカスタマーたちは性能でトクダを上回る新興組のEVにどんどんと乗り換えていった。
モーターの仕組みにおいてもトクダは新興組の後塵を拝した。新興組がレアアースを使わない新技術を確立したのに対し、トクダは従前と変わらずレアアースに依存していた。
トクダは高級ブランド車レオンをEVに特化し対抗するも、EV戦国時代を勝ち抜いてきた中国の西安汽車とアメリカの新興企業トランスセンドのEVに技術面でもコスト面でも及ばず、かつてのオートモービル業界の盟主が沈もうとしていた。
トクダ自動車第11代社長、徳田清久が突然、社長を辞任した。
「トクダの最大のリスクは、私が社長であり続けることだ」
引き際もさすがは世界に名を馳せたトクダ創業家。世界中の誰もがそう思った。
創業家・・・
清久の曾祖父、徳田右京が勃興した徳田家には右京が残した偉大なる家訓がある。
『業を為し報国に身を尽くさむ』
宗主となった者はこの家訓をトクダイズムとして、在任中、社会が求める新しい事業を興すことに努めた。
徳田はそうやって右京が興した祖業の自転車から始まりオートバイ、ガソリン車、ハイブリッド車と時代の流れを敏感に汲み取って世界一のオートモービルカンパニーに成長した。
しかし、清久が社長に就く前、トクダ自動車は創業以来最大の危機を迎えていた。リーマンショックで売り上げが低迷、赤字が重なり大きな深傷を負っていた。
その起死回生をトクダは創業家に託した。危機からの脱出は創業家にしかできないと思われたからだ。
白羽の矢が創業者の曾孫、徳田清久に立った。清久はトクダ全社員の期待を背負って、トクダ自動車第11代社長に就任した。
清久は聖域なき構造改革に着手した。すべての改革に、自らが先頭に立って歩を押し進めた。
結果、彼は見事トクダ自動車を復活させた。
が、その清久も劇的に変わるイノベーションに対応していく自信を失い、トップの座を譲ることを決めた。
その相手とは、
「あとを宝田君に任せたい」
自分と同じく大のクルマ好き、カーレーサーでもある宝田洋司。
宝田は技術屋からの叩き上げで、トクダの高級ブランド車レオンの世界販売に成功した実績を持つ。
退任時、清久は全社員に向けこうも語った。
「トクダはフルモデルチェンジしなければならない。いつまでも油臭いクルマ屋ではダメだ」と。
そんな清久の意思を受け継いだ宝田はEVを始めとする新しいクルマ造りにチャレンジしていった。
トクダが新社長の元、また次のオートモービル業界を牽引していくかに見えた。
しかし、宝田の経営戦略はあるところから頓挫した。確かにEVの量産化には生産設備で勝るトクダが一役を担っていた。
だが、トクダはEVに限らず淘汰されゆくガソリン車やハイブリッド車にも生産ラインを残し、それを全方位戦略と呼び捨て切れていなかったのだ。
その隙に、それまでクルマとは無縁だった異業種企業が次々と参入してきた。
なかでもかつてはトクダのコピーと揶揄されていた中国の西安汽車(シーアンキシャ)がEVに特化したビジネスモデルを確立し本家トクダを凌駕し始めた。
新興組はEVに絞った専業集団だった。この時すでにクルマ業界はEV時代に突入していたのである。
品質に聡いカスタマーたちは性能でトクダを上回る新興組のEVにどんどんと乗り換えていった。
モーターの仕組みにおいてもトクダは新興組の後塵を拝した。新興組がレアアースを使わない新技術を確立したのに対し、トクダは従前と変わらずレアアースに依存していた。
トクダは高級ブランド車レオンをEVに特化し対抗するも、EV戦国時代を勝ち抜いてきた中国の西安汽車とアメリカの新興企業トランスセンドのEVに技術面でもコスト面でも及ばず、かつてのオートモービル業界の盟主が沈もうとしていた。