第1話

文字数 2,366文字


ピピっと音を聞いた気がしてパチリと目を覚ました。
起き上がると、柔らかい日差しが窓から差し込んでいた。
ベッドランプの横に置いてある体温計に目が止まる。きっと夫君が用意したのだろうとわかった。熱をはかると6度2分と出た。平熱。
パジャマのまま寝室からダイニングにまろびこむと、テーブルの上のラップのかかった朝ご飯の横に紙切れが置いてある。
『ひまりちゃんを幼稚園に連れていきます
帰りはスーパーモロヱによるので
いるものがあったらラインください ナオヤ』
というメッセージと最後に小さい●があってよく見ると絵文字が潰れたものだった。
自然と頬が緩む。と同時に夫君が出ていくまで寝こけていた自分に驚きもする。
これから挽回しないと、と気を取り直して、まず着替える。
動きやすい薄いグレーのスウェットの腕をたくしあげると、まず洗濯から始める。
次にゴミ出し。外に出たついでに郵便受けの中を確認する。ピザのチラシ。新聞のサンプル。
どこどこの国の戦争、外交問題、女性議員の議席、性的マイノリティの権利、甲子園、投資、健康促進本……一面にたくさんの文字が映っては右から左へと流れていく。発行者もきっとそんなことはわかっているけれど、いくつかは脳の片隅に居座る。それもわかっているから繰り返す。

ポストの横のゴミ箱にいらないチラシを入れると、階段を使って部屋の階まで戻ると、早速掃除を始めた。少しずつでも綺麗にしないとあっという間にホコリが溜まってしまう。大したものだと思う。チリも積もれば山となるとは言い得て妙だ。

テレビをつけると、遠い国で行われている戦争を熱心にコメンテーターが語っている。結婚式を上げる現地の人のリポート。ズキリと頭が痛む。ああ、今日は気圧が低い。

『久しぶりに会うよね。覚えてる?』
今よりも若い頃の夫のことをふと思い出した。ある同窓会でのことだった。もちろん、君のこと好きだったから、覚えてるよ。その時は言わなかったけれど。
『綺麗になったね。留学してたんだっけ?俺も、駐在してたんだ。アジアだけど。よければ話さない?』
彼ははにかみながら言った。いいよ。それが本当に話したいことじゃなくたって、いいよ。

その時、電話がかかってきて私は我に帰った。

「もしもし」
『あ、起きてた。ごめん、もしかして起こしちゃったかなと思ったけど』
「あはは、流石にまだ寝てたらやばいよ。それより朝はごめん」
『いいよいいよ、今日低気圧だし、昨日の夜からもしかしたらって思ってたんだ。それより、なんか買ってくるものある?』
「ううん、今日はちょっと買い物にいくから大丈夫。あ、でもできたらヤマダヤの焦がしプリンあったら欲しいな」
『オッケーオッケー。ここらじゃモロヱにしか置いてないもんね』

夫君はそう言って、それから娘の朝の様子を教えてくれて、最後は昼休みの時間が終わって通話を切った。ふう、と私は息を吐き出して、キッチンの椅子からだらんと脱力してみる。
かなり恵まれている。ママ友と言っていいかわからないけれど、そういう人たちの中にはピリピリしている人もいる。夫君みたいに緩くて優しい人ばかりじゃない。

4歳になる娘は幼稚園でもうまくやっている。最初は駄々を捏ねていたが今では自主的に幼稚園にいきたがるようになった。
ミュートをしたままのテレビ。悲劇的なテロップが流れる。頭の中にざわりと景色が蘇る。戦場の景色だ。土埃の舞う中、私は壊れたタンクの後ろに潜んでいた。ここから横断して建物の影に隠れなければならなかった。射撃の切れる一瞬の隙間を縫う。3、2……。

「さーて、今日の商品は!」

突然の声にビクッとする。ブチっと同時に電源が切れる。肘でリモコンを押してテレビのミュートが切れたようだった。電源が切れたのも自分のせいだ。
急いで確認して、壊れていないことにほっとする。

頭をふりふり、席を立って冷蔵庫の中身を確認する。きゅうり、トマト。サラダ菜、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、牛乳、卵……。自分の部屋の机の上のパソコンを開く。献立サイトを開いて保存していた「作りたいものリスト」を見る。
ホームに戻ると、大から小まで、メディアの見てほしい情報が氾濫している。男がかつて私に言った。『時勢を読め。金の流れを追え。全てのことに理由がある。誰が利権を手にしているかその根源を追え』
私は頭をもたげた蛇の視線を遮断するようにパソコンを閉じる。やめたやめた。私はもう戻らない。これ以上私にできることはない。

「カレー」

そうやって宣言してから、私はキッチンへと立った。目の前の事を、小さくやっている時が一番幸せ。それ以上はないんだって。

『カレー』
そういった彼に私は明らかにがっかりした顔をした。まだ若い夫は焦ったように補足する。
『いや、もちろんほかのすごく凝った料理も全部好きだよ。ミシュランみたいな料理作るよね。全部完璧で……その中でカレーってのが、なんか一番親しみあって、あたたかくって好きだなって。味も完璧だけど』
私はそういう事なら、と納得した。
『でもあんな料理どうやって習ったの?』
彼は訊ねた。
『オフィスで働いてたんだよね?』
レストランじゃなくて、と茶化していう言葉に私はふふ、と笑って返した。秘密。

手元で細切れにした野菜を炒める。牛肉の剥き出しの赤黒い肉にいつかの光景を思い出す。
『伏せて!』
声をかき消した爆発。正義の名の下に戦うのは誰だって同じだった。
私の戦場はあの時終わったんだって。
今は情報に流されて、頭を縦に横に振っていればいい。自分と大切な人の幸せを一番に考えて目の前のことに集中すればいい。いずれ破滅する時が来るって言ったって、そんなの時間の問題なんだって。諦めたって。

火を消した鍋にカレールーを沈める。あの頃の汚泥の記憶がまとわりつくみたいに、スパイスの破片がゆっくりと溶けていく。
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