浴衣に足跡付けたく候

文字数 1,933文字

明治幾数年頃か記憶に無いが、()れは当時まだ鋭敏たる知覚の者が多からず、故に小生の非凡たる作を理解する者など未だ無く、小生が()の目を見ぬ間に、己を捨て迎衆し大衆文学に走った、文壇に先立つ友の宅に居候していた頃の話になる。

常日頃、家に居れば友の嫁に嫌味の一つも言われることがあつて、鬱々たる気持ちになり易く、優秀たる作も書きようが無い為、小生は良く不貞腐れた顔で街を練り歩いた。特に、二階建ての長屋が並ぶ大通りを往く事が多く、その中でも団子屋に通うことが良く在った。

此の団子屋というのは、不細工な老夫婦が営んでおったのだが、(とんび)が鷹を生むとは正しく此の事と言わんばかりの美人の娘が接客を務めていた。世の中の凡愚どもは、其の娘を目当てにやつて来ていたが、小生は勿論団子の味に惹かれてやつて来ていて、奴等の事を愚かと疎ましく思い居た。

()の娘は人当たりが良く、誰にでも好かれたが、中でも小生の話は他の者より面白いらしく、熱心に聞くふうがあって、小生もつい興が乗って話し込むことが在った。

()る日、偶々団子が喰ひたくなりて、そこに迎へば、二階の窓から衣桁(いこう)に掛かりし特別な浴衣が見ゆる。白を基調とした若き娘の着るような色味であるから、まさか彼の不細工な婆婆(ばばあ)が着るわけあるまいと思ひ、夏祭りも近い日頃で在るから、彼の看板娘が夏祭りに着るつもりなのだろうと推察す。

団子屋の軒先の長椅子に座り、いつも通り団子を頼む時に、小生は彼の看板娘に、浴衣が見えたが予定があるのかと尋ねた。彼の娘は答へて、夏祭りに或る御仁と行くと語る。小生は、此の女はあれだけ小生に気を寄せるふうであったのに、どこぞの馬とも知らぬ男とゆくのかとどこか面白くなく思ひ、尻の軽い女めと心中にて(そし)りながら、団子を貪り喰ひたるとき、或る閃きが舞い降りた。

()の浴衣に足跡をつけたひ。

さう思つてからは、何とも仕様がなく、()れは夏の雲の様に徐々に肥え太りゆけば、留め置く事も叶わず。

否、良くない行いぞと自制を促すも、其れを己がまた否定する。誰れにも気付かれなければ、其れは小生の行いとはならじ、なれば良くない行為をした小生も存在し得ず。正しく天意に衝き動かされし小生は、意を決する様な事も無く、無心に近き有様にて、その心中は悟りを得た坊主に近き物となり。

小生は、路地の人影が見えなくなった折を見て、長椅子に登り、軒に手を掛け、屋根伝いに部屋に至る。その所業は、我ながら本物の泥棒の様な早業で、部屋に入った後に窓から其れを見たる人が居ないか路地を視察する様は、正しく其の道を極めし者に思ゆ。然るに、万事巧く行きて、思わず顎を撫でて自賛の笑みを浮かべる程なり。

()て、浴衣を前にすれば、其の浴衣は路地で見た時よりも美しく在った。白を基調に藍や紫の朝顔が咲いて居り、其の朝顔の柄は非凡の者が描いたと解る様にあつた。なればこそ、足跡は良く似合うであろうと小生の脳裡に過りたれば、ふと神の意を得たり。

彼の娘、数多の男を(たぶら)かす悪女なりて、此れは其れを戒める天誅なり。


小生は、草履を脱ぎて、手に持ちたり。


其れから数日、彼の娘は店先には現れなかった。如何(どう)したものだろうか、馬の骨と喧嘩でもしたるかと気に留め置きながらも、憮然と団子を喰ひて帰る日が続いた。

そして、或る日ぶらぶらとした帰り、家に着くと、玄関に友の嫁が姿勢を正して迎え居り、小生が如何いたしたと問へば、鬼の面して此方を睨みけり。そして、鬼は言ふ。団子屋からツケの支払いと共に、浴衣の弁償代を請求されたが、身に覚え有るかと。小生、あれは神の意思ぞと思ひ、知らぬ存ぜぬと答えたるが、鬼はあれやこれやと訳の分からぬ事を叫びたり。

問答続きて、遂に友も帰れば、事情を聞きし友より放逐を言い渡される。釈然とせず、理由を聞きし小生に友は、其れは人に在らざる行い、言語道断だ、と告げ、一方的に絶縁される。小生は弁を立てたが、臍を曲げた友は愚かにも聞く耳持たず、戸を閉めた。まだ言ふことあると、小生再び戸を開けたれば、また押し出され、遂に鍵を下ろされる。

小生、放浪の身となりて、数日の間、雨露を凌げぬ露天にて辛酸舐めたる日を過ごす。

今に思えばそれも小生の著作の基礎(べえす)となる一つ良き経験かなと思えど、小生に起こりし、彼の旧友への腑に落ちぬ怒りは消えず、度々文壇にて(なじ)る事も有り。彼の旧友は、其れを受けて何も言わぬから、徐々に文壇での権威も落ち、小生は内心ざまあみろと笑ひたる。

して、(くだん)の団子屋も、誰れが流したか娘の黒い噂にいつしか人も寄り付かず、ひっそりと店を仕舞いたる。


久方振りに旧知の大通りを歩きて、此の出来事を思ひ出したり。小生の創作の基礎となる懐かしき日々よ、と郷愁に駆られて、今此れを書きたる由にて。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み