序章 尾上奏多(一)

文字数 4,988文字

 幼馴染みの千聖(ちさと)は私の全てだった。一緒に大きくなって、一緒のご飯を食べて、一緒の体験をして16歳になって。これからも一緒が続くって、私はぼんやりと思っていて。
奏多(かなた)、私ね。彼氏が出来たんだ」
 私たちの秘密基地である、上弦塚(じょうげんづか)のプレハブ小屋の中で顔を赤らめる千聖。
 一緒が続くって、思い込んでいたからなのかな、全然気が付かなかったんだ。目の前にずっといた千聖が、女の子の顔になっていたこと。私からは随分遠い所に立っていたこと。
 千聖と結婚するって、そんな馬鹿げたことを、本気で夢見ていた。私たちは、女の子同士なのに。千聖は私のことなんて、ちっとも見ちゃいないのに。
「そう、それでね、相手は柔道部の兼田君って言うんだけど……」
 千聖の声が遠くで聞こえる。私はちょっとずつ混乱した頭の軌道修正を試みてみるんだけど、中々うまくいかない。それでも身体っていうものは随分賢く出来ていて、口では適当な相槌をうっていることがわかった。
「奏多にも言おう言おうって、ずっと思ってたんだけどさ。中々付き合いが長いと勇気が出なくてさ」
「ううん、ちゃんと話してくれて嬉しいよ。千聖、おめでと」
 ようやく自分の意思で絞り出した声は震えていて、我ながら情けないなって思う。春だし、花粉症のせいってことにしておこう。

 ごめんね千聖。
 こんな時間早く終わってしまえばいいのに、なんて思ってしまった。
 それは4月のこと。

*****

 女の子は恋より友情を大事にするなんて、嘘だ。千聖は彼氏が出来たことをカミングアウトした途端付き合いが悪くなった。そして先日のカミングアウトが、「これからそういうことになるからよろしく」という意味だったことも同時に知ることになった。
 思えば普段千聖と行動を共にしている同級生は近頃の昼休みは千聖抜きで食事をとっていたな、と思い出した。クラスが違う私は通学する時だけ一緒だから、気付かなかったんだ。
 彼氏が出来たことを知ったのは私よりあの子たちの方が先だったんだ。少しもやっとする。そりゃ、そうだよね。同じクラスの子の方が一緒にいる時間長いし、知る機会多いもんね。自分を納得させる。
 千聖のいない登下校は、灰色の時間だった。
 ただただイヤホンで音楽を聴きながら畦道を歩いて、時々猫じゃらしなんかを摘んでみるけど、一緒に馬鹿なことを言いながら遊んでくれる千聖がいないことを思い出しては、摘んだそれをポロリと道に落として。もう、帰ってからギターを弾くことしか楽しみが無かった。まぁ、それがあるだけでも私は恵まれていたのかも知れないね。
 暇な通学路も、千聖とクラスの離れた頃味わった暇な休み時間みたいに、その内慣れるかな。慣れるのも中々寂しいけれど、私はいかんせん他の友人の作り方がよくわからないし、それを作る意味も特に見出せない状態だった。千聖以外の同年代に対する興味が全くと言っていいほど無かった。


 上弦塚というのは、私と千聖の生まれ育った集落の伝承ある塚で、村を飢饉から救うために井戸に身を投げた仏様を祀っている祠があるところだ。そしてそこには大きな大きな一本杉が生えていて、脇には工事の人が置き去りにして何年にもなるプレハブ小屋がある。一本杉を目標にして行くと簡単に辿り着けるけれど、田園のど真ん中にあるから基本車に乗って行動する集落の人はあまり近寄らないところで、秘密基地にもってこいのスポットだったりする。
 プレハブ小屋の鍵が壊れていることに気付いたのは小学生の頃。それから私と千聖の秘密基地ということにして、足繁く訪れたものだった。だが中学生になってからというものの徐々に足が遠のき、今ではお互い周りの大人のようにここに寄り付くことは無くなっていた。
 その上弦塚へ5月の連休の時に、千聖のカミングアウトぶりに立ち寄ってみたが、ホコリが凄かったから、道路側に一つだけある窓を全開にして、最初から置きっぱなしの朽ちかけの箒で適当に掃いた。そして乱雑に置かれたパイプ椅子に座って、レースカーテンのみを閉めて一息つく。
 二人で千聖の家からくすねて持ち込んだランタンを見ながら考える。千聖は今頃、兼田君って人と一緒なのかな。少し心が陰る感じがした。結局連休はそれ以外は家に籠って、ギターの弾いてみた動画を一本だけ動画サイトに上げて終わった。

 連休を終えて学校が始まる日、私が朝食を黙々ととっていると、お母さんが何気なく声をかけてきた。
「奏多、最近何か変わったことあった?」
「ん? 別に」
「なんか元気無いしさ、半分魂抜けてる感じ」
 千聖に彼氏ができたのは結構プライべートな話題だから、言わない方がいいんだろうな。
「だーいじょぶだって。ほら、今日も力こぶがすごい」
「そう? ならいいけど。あらぷにぷに」
 お母さんは私が作って見せた力こぶを揉みながらそんなことを言った。「失礼な」と私が言うと、お母さんはゲラゲラ笑っていた。あんまり親に心配かけないように私もしっかりしなきゃな。

*****

 そのまま気がついたら夏になって、私は独りぼっちのまま夏休みを迎えようとしていた。今年の夏休みは暇そうだな。窓の外を見ながら一人目を細める。一人で夏フェスでも行ってみようか。高校生一人でも入れるのかな、ああいう催しって。
 そんな終業式の前日、昼休みに廊下で、千聖が珍しく声を掛けてきた。
「奏多ぁ、あのプレハブ小屋、最近行ってる?」
「え」
 二重の意味で驚いて、私は素っ頓狂な反応をしてしまった。千聖声をかけてきたことと、プレハブ小屋の話が出たことと。
「ゴールデンウィークに行ったけど、それから行ってない」
 何の気もないフリをしながらそう答えると、千聖は気が済んだのか「そっか、ありがと」と言い残して友達の元に戻っていった。なんだったんだろう。
 そして久しぶりに千聖と話して思ったのは、千聖ってあんなに綺麗だったっけということだった。どこか艶っぽくなったというか、なんとなく会うたび見るたび垢抜けてきている気がする。そして、千聖のリップでつるんと光る唇を思い出してしまったり。
 ああ、千聖は可愛いな。
 あんな可愛くて女の子らしくてしっかりものの千聖が、知らない男性の恋人だなんて、考えたくなかった。私や友達のいないところでは二人は何をしているんだろう。何を話しているんだろう。恋人って、何をするものなんだろう。
 ああ、千聖のつるんと光る唇を思い出してしまう。あの唇も、もう兼田という男子のものになってしまっているんだろうか。妙に身体がぞわぞわする。想像するのは……流石にまずいよね。
 気を取り直して午後の今学期最後の授業を受けてみるけれど、千聖のプレハブ小屋の話となんだかぞわぞわする気持ちとで、あまり集中はできなかった。
 それにしても、幼馴染ってこんなに簡単に関係が薄くなっちゃうんだな。ずっと一緒って、中学の頃まではお互い言い合っていたのに。気が付いたら千聖は私の元を離れて行ってしまった。胸がチクリと痛む。
 せめて。せめて私は千聖に何かあったときに千聖を守れるくらいの甲斐性が欲しい。それはお金でも、賢さでも、強さでも、なんでもいい、千聖の力になれたら。あぁ、それはこれから彼氏の兼田君がする役目なのかな。じゃあ女友達って、一体全体何のために存在していればいいんだろう。私にはわからなかった。
 帰宅し、貰った夏休みの宿題の一覧も確認せずに鞄を投げ捨て、ギターを弾き始める。今耳コピで練習しているのは最近出たラウドロックバンドの新譜。ラウドロックっていうのはロックの中で分岐している音楽ジャンルのひとつで、メタルやハードコアの系譜を汲んでいる重いサウンドのロックを言うことが多い。ウケがいいのは圧倒的にオルタナやエモコアの系統の動画だけど、私はそういうウケのいい動画も上げつつ、たまにジャンル人気を度外視してラウドに手を出して弾いてみた動画を上げている。
 動画を上げて、私の弾くギターが少しでも多くの人に届けばいいな、と思う。ゆくゆくはギタリストになりたいし、私にはそれ以外ない気もする。
 自分からギターを取ったら何も残らない事なんて、わかっている。
 一心不乱にギターを弾く。この時間だけは、千聖のことも、学校のことも、全部手放すことが出来る気がした。本当に、ギターを弾いていてよかった。
 お母さんが作ってくれた夕食を食べて、宿題のこととかの小言を受けつつ聞き流し。
 部屋に戻るとスマホに着信が入った。誰だろう、珍しいな。
 着信相手は千聖の家のお母さんだった。
「奏多ちゃん久しぶり~、元気?」
「あ、うん。久しぶり、聖子さん」
 千聖の母、有森聖子さんは幼馴染のお母さんならではの距離感があって、妙に近く色々話せる人で、しっかり者の千聖と対照的で結構ぽわんとした雰囲気の人。だから千聖がしっかりしたのかも知れない、というのはよく思ったことだった。その聖子さんから着信。内容は一つしかない。
「ねねね、奏多ちゃん夏休みでしょ? 週1回とか2回でもいいからぁ、うちのお店手伝えないかな?」
 予想通りの話題に「あー」と思わず間延びした声が出た。聖子さんと旦那さん、つまり千聖の両親はこの地域唯一のコンビニを経営している夫婦なのだ。私はそこに、1年生の時に千聖にごり押しされた結果幽霊アルバイトとして在籍することになって、事あるごとにちょこちょこヘルプでお店に出ているのだ。
 まぁ、特に夏休みの予定は無いけど…どうしようかな。2年の夏だし、そろそろ進路に向けてお金を貯めたい気持ちはあるけれど、接客自体が全然好きじゃないんだよね、私。むしろ人を怒らせてばかりなので合わないんだと思う。
 なので、他でバイトを探した方がいいような気はしていた。工場とか、品出しだけとか、人と関わらなくていいような仕事。「すみません、他をあたってください」私がそう言うと、聖子さんは大層本当に残念そうに「そっかぁ、残念」と言い、続けた。
「今年はなんっか千聖が付き合い悪くてさぁ。ま、大方彼氏でもできたんだろうけど~。今日もどこ遊びに行ってるのか、まだ帰って来ないしさぁ」
 それを聞いて、私は一瞬今日の千聖の声かけを思い出した。そして、聖子さんとの電話をキリのいいところで終わらせると、「コンビニに行く」と親に嘘をつき、自転車に乗って上弦塚を目指した。
 緩やかな坂を登って、息を切らせながら自転車を漕ぐ。昼休みに聞いてきたことって、「プレハブ小屋、最近行ってる?」ってどういう意味なの? 千聖、貴女は何をしようとしているの? 私は胸の底で徐々に嫌な予感がもわもわと立ち込めてきているのを感じていた。何故、こんな嫌な予感がするんだろう。なのに、なんでペダルを漕ぐ足が止められないんだろう。怖い、でも確かめなきゃ。私達の間で何が起こっているのか、私が確かめなきゃ。
 謎の使命感に駆り立てられてプレハブ小屋に着くと、自転車を小屋の後ろに静かに停め、恐る恐るドアに近付いていった。ランタンの灯りが小さく漏れている。その時、ドアに面した窓と遮光カーテンの隙間から、裸の千聖と、知らない男子が見えた。私は声も出せぬままその光景に釘付けになった。
 裸の千聖と、知らない男子。
 そのワードが一瞬頭の中で躍るように反芻される。
 何が。
 何が起こっているの?
 千聖?
 しばらくその光景を見ていた。
 うっすら漏れてくる、子猫のように鳴く千聖の声を聞いていた。
 やがて、これは見ちゃいけない光景だと、ゆっくりと察した私は音を立てないように自転車の方に向かった。そして、プレハブ小屋の後ろに回ると、なんとなくどんな顔をして帰っていいかわからなくなって、壁に背中を預けしばらく考えた。考えている間も、背中越しに千聖の猫のような声は聞こえてきた。それを聞いていると、私はどこか昼のようなぞわぞわする感覚と共に妙な顔の火照りを感じ、その気持ちの処理がわからず混乱した。
 でも、身体はわかっていた。ようだった。
 千聖の裸が瞼の裏で揺れて、千聖の声が後頭部に響いて。気が付いたら、頭がとろけていきそうな感覚に身をゆだね始めていて。私は初めて自分が女だったということを知った。
 その波が過ぎ去ると、果てしない虚しさが広がっていた。
 ああ。
 千聖は。
 私の好きな千聖は。

 もういない。
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