【2】喧騒の廊下から #4

文字数 5,613文字

「……天城さんは……」

 敬子を見つめる宇智也。
 敬子は、彼の記憶の中の女子によく似ていた。
 そのことを、口に出しかけて、わずかに躊躇う。

「な、何よ」

 敬子の頬に赤みがさす。
 互いの目を見つめ合う二人の時間は、ラ号の苦しそうな声と共に終わりを告げる。
 二人同時に、廊下の奥へと向き直る。

「ラゴウちゃんっ! こっち!」

 敬子は叫びながら、血溜まりの中へ右手をべたりと付ける。
 宇智也は両手を広げ、受け止める構え。
 ラ号はウツボから人の姿へと戻りながら、二人の元へと駆け出した。

 鮫頭のミ号は頭を人へと戻すと、ラ号を追って廊下をまっすぐに走り出す。
 ラ号同様に頭も眉もまつ毛もないミ号もまた、美しい顔立ちをしていた。
 気の強そうな瞳には怒りの色が加わり、彼女の凛々しさをいっそう際立たせる。

「あんた誰よっ!」

 ミ号の怒号と突進とが宇智也達の五メートルほど手前で止まる。
 後退ったミ号は、自分の腹に突き刺さった赤い槍のようなものを抜き、ラ号を抱き止めた宇智也めがけて投げ返そうとしたが、その途端に赤い槍は液体へと戻った。
 敬子が使った『血魔術』、『血の牙』(Bloody Fang)は、血を一時的に硬度の高い牙状の固体へと変化させる呪文。

「引き裂いてやるっ!」

 ミ号は再び頭と、今度は胴体をも鮫へと変える。
 宇智也の腕の中でミ号の方へ振り返ったラ号も再び姿を変えようとする……その変身への意思が、宇智也の中にも流れてきた。
 ラ号の傷から流れ出る血に宇智也は触れていたから……触れている血を媒介し、血の主の思考にアクセスできる宇智也の能力『血の巫女』によって。

 宇智也の視界には巨大な血の渦が見える。
 今まで幾度となく他者の血に触れてその思考を共有してきた宇智也であったが、明確な映像のように思考を受け取ったのはほんの少し前の土生が初めて。
 そして二回目がラ号。
 触れた魚に変身できる、というラ号の想いが伝わってきてようやく、この景色がラ号の心象風景だと宇智也は悟った。

 血の渦にはたくさんの魚が巻き込まれていて、ラ号は血の渦の中へと飛び込み、その中の魚の一つに触れようとする。
 触れられそうでなかなか触れられずに居るラ号の意識に同調していた宇智也は、ふと渦の中心に意識を向け……その瞬間、魂を握りつぶされたかと錯覚するほどの凄まじい衝撃を受けた。

 視界が途切れ、意識が自分の体に戻ってきた宇智也は、自らの全身が震えていることに気付く。
 本能的にそれを理解してはならないと、意識の向こうに切り離したそれが、原初的な恐怖だと思い知った宇智也は、「普通の人は、怪異に遭遇したとき、もっと衝撃を受けるのに」という先程の敬子の言葉を、改めて噛み砕いた。
 ただ宇智也はその渦の中心、恐怖の根源に対峙したとき、自分の前に誰かが立ちはだかっているのを感じた。
 何かに護られている、と……その事がまた、宇智也の心を掻き乱す。

 壁に何かが叩きつけられる音で我に返った宇智也は、自分を護る存在に対する複雑な想いを今は捨て置き、ミ号を見据えた。

 勝負は明らかに劣勢だった。
 ラ号が変身した魚はカジキマグロ。
 しかもラ号はミ号に対してまだ全力を出せずにいた。
 その遅疑逡巡の隙をつかれたラ号は、ミ号の尾の強力な一撃により弾き飛ばされ、また人の姿へと戻る。
 敬子はラ号の牽制の合間にまた十円玉を発射してはいたが、もはや足止めになる気配すらない。
 脚以外は凶悪なホオジロザメの姿のままミ号は、自らを打つコインの数々を物ともせず、一歩ずつ宇智也へと近づいてくる。

「ね、いったん退かない? 今なら……『呪いの血』(Curse Blood)が効いたから」

 相手の身体能力を低下させる『血魔術』を使った敬子は、消耗した声で宇智也に問いかける。
 だが、ミ号の歩みが遅くなったというよりは、追い詰めることを楽しんでいるようにも感じていた宇智也は、逃げられるゆとりがあるとは判断しなかった。

「ラ号を置いていくわけにはいかない」

 満身創痍のラ号は人の姿に戻りながらもまだミ号へ立ち向かおうとしている。

「そりゃわかるけど、あいつに真正面からは」

 敬子が言い終わらぬうちに、スパーク音が響いた。ミ号の鼻先で。
 ミ号の巨体が大きくもんどり打って宇智也たちから離れる。

「お邪魔するぜ」

 声の主は血溜まりをすり足で転ばずに抜け、長い鉄パイプのようなものを構えながらミ号へと接近する。
 ぽっちゃりとした体型には似つかわしくない洗練された動き。

沢渡(さわたり)?」

 宇智也がそれ以上の言葉を発する前に、ミ号はふらつきながら変身の様相を変化させる。
 頭は鮫に、胴体は人型へ……体をいったん鮫へと変身させたからか、水着は千切れ全裸状態だ。

「マジかよ」

 一瞬戸惑った男に向かって飛びかかるミ号であったが、その鮫の鼻先に鉄パイプが鋭く打ち下ろされた。
 直後、電気の弾ける音がしてミ号はよろけ、後退る。

「効くねぇ。水妖には電撃ってゲームの中だけじゃないんだな」

 男は鉄パイプを上段に構え、ミ号が近づく度その鼻先へ素早く打撃を加える。
 ミ号は次第に後退してゆく。

 ミ号がラ号から離れてゆくのを確認した宇智也は、土生の骸から右腕のないスーツの上着を脱がせ、ラ号に駆け寄りその体を覆った。
 そこでようやく気付く。さっきの防火扉の所で人が震えているのを。

「や、やあ。助けにきたよ、渋沢君」

 声まで震えているその男は、育ちの良さげな坊っちゃん顔。
 宇智也はこの男も知っていた。
 濁西堂(だくさいどう)……入学初日、宇智也に声をかけてきた元クラスメイト。

 宇智也が通う私立愛創(あいそう)学園には、普通科と専門科とがある。
 専門科とは、定期的な試験に合格し続ければ、出席日数不問でかつ学外の功績が授業単位として認めてもらえるという特別な科。
 芸能人やスポーツ選手、棋士や伝統芸能職人など職業を持った者が多いその専門科へ、濁西堂と沢渡は共に一学期の終わりに転科していた。

 しかも、助けに来たと言う割には、濁西堂は傍らの区埜保志(くのほし)の肩を借りていた。

「ははは……血が多いのは苦手でね」

 濁西堂はそのままそこへストンとへたりこむ。
 しかし先程まで血の海だった床は、いつの間にか血の範囲がかなり減少しており、彼が血で汚れることはない。

 濁西堂という重りが外れた区埜保志は無言のまま背筋を伸ばし、確かな足取りで沢渡とミ号が交戦する場所へ近づいてゆく。
 その右手にはテーザーガンを構えて。

「沢渡君、戻って」

 区埜保志がそう声をかけると、沢渡は大きく後退する。
 それと大水槽がある側の扉が勢いよく開いたのは同時だった。

「すまねぇ。油断していた」

 沢渡は鉄パイプを中段に構え直す。
 扉の向こうから現れたのはキ号……であると、土生の走馬灯を見た宇智也はすぐに気付く。
 ただし、カツラを被り、服も靴もメガネも着けている。
 端正な顔立ちの文学青年といった外観。
 区埜保志は反射的にテーザーガンを撃つ……が、キ号はそれを扉の影に隠していた左手……にぶら下げていた二つの生首で受け止めた。

 キ号はそのまま二つの生首……網場親子の……を、沢渡と区埜保志の方へ放り投げると、ミ号を抱きかかえて扉の向こうへと消えた。
 ゆったりと動いているようで、あっという間の出来事だった。

 その場に居た誰もが、状況を理解するまでに僅かだが時間を要した。

「う、うわぁぁぁっ!」

 濁西堂が叫び声を上げて身を竦ませる。
 鮫に変化したミ号には敢然と立ち向かっていた沢渡でさえ、喉を抑えて膝をつく。
 宇智也はとっさにラ号を抱き寄せ、その視界を塞ぐ。
 駆けつけてきていた敬子も宇智也の腕につかまり、肩を震わせる。

 少し遅れてもう一人、男の悲鳴が聞こえ、宇智也はそちらも確認する。
 腰を抜かしている濁西堂の背後で、スーツ姿の男もしゃがみ込んでいた。
 整った顔立ちの優男……は慌てて立ち上がり、手で服を軽く払ってから口を開く。

「君らとは初めましてかな。僕は兎月苑(とげつえん)だ。愛創学園は専門科の教師をしている」

「兎月苑先生。逃げられました」

「区埜保志くん、無理に追わなくていい。怪我はないか?」

「回復できるレベルです」

 宇智也は区埜保志をチラ見する。
 他の皆と違い、衝撃を受けている様子はなく、感情の読めないアルカイック・スマイルのまま。

「渋沢くん……だよね? 貴方の予想通りですよ。区埜保志くんもCOSN(コズン)だ」

「コズン?」

 宇智也が聞き返すと、兎月苑は欧米人司会者のように両手を広げて笑顔を浮かべる。

「太古の昔より人類は」

「先生、それは後にしましょう」

 ようやく立ち上がった濁西堂が話を遮った。
 その膝にはまだ震えが残っている。

「すまない。COSNについてはおいおい。でね。実際に人が死んでいるという事実を踏まえて提案がある。僕らは事件が起きるのは望まない。ということで、僕らの仲間にならないか?」

 兎月苑は「どうかな」とでも言いたげに首を軽くかしげる。

「それは……従わなければ殺人犯として突き出す、という脅しですか?」

 宇智也はラ号を抱きしめたまま立ち上がる。
 つられて立ち上がったラ号が土生のジャケットを握りしめていたせいか、彼女を覆うジャケットの裾が上がり、ミニスカートよりも際どくラ号の脚を露出させる。
 敬子は慌ててラ号の前に立つ。

「やだなぁ。うちの学校からそんな怖いことする人、出したくありませんよ」

 兎月苑は笑顔のまま、優しく明るい声で答える。
 宇智也はラ号を自分の背中側に回らせ、敬子の肘もつかみ自分の後ろへと下がらせた。

「この二人はたまたま巻き込まれただけで、この事件とは関係ありません」

「うーん。そういうつもりでもないんだけどなぁ」

 天上を見上げる兎月苑に区埜保志が近づき、何かを耳打ちする。
 その直後、兎月苑はポンと手を打った。

「えぇと、じゃあこうしよう。そこの二人もうちの生徒になってしまえばいい。それで解決じゃないかな? そうそう。さっきの病院だけどね、猪が乱入した時間の監視カメラ映像がなぜか全部消えちゃったそうだよ」

「あの、三人だけで話をさせてもらっていいですか?」

 敬子が話を遮り、兎月苑は肯く。

「じゃあ、あの扉の向こうあたりで」

 宇智也は廊下の突き当りの扉を指す。
 土生の記憶の中では、ラ号達が人型での生活を覚えるために使用していた部屋。
 表通りに面した明るい水色の壁のすぐ裏側になり、窓はない。
 そこにはラ号達の外出用の服も置いてあった。

 区埜保志と沢渡には部屋まで同行してもらい、逃げ出せるような窓も出入り口もないことを確認してもらう。

「そうだ。ちょっと申し訳ないけれど、ここにある服を貸してもらおう」

 宇智也は偶然見つけた風を装いながらタンスを開け、ラ号の服を見繕うよう敬子にお願いする。

「着替え終わったら、呼んでね」

 区埜保志、沢渡と一緒に、宇智也はいったん廊下へと戻った。

「渋沢君、あの子たちを逃がそうとしている?」

「区埜保志さんだって確認したでしょ? 出口なんか」

「なくとも逃げられる場合もあるんじゃない? 渋沢君、わたしが普通の人間じゃないって気付いているでしょ?」

 区埜保志が宇智也に顔を近づける。
 光の宿らない暗い瞳。
 やけに甘い、扇情的な香り。

「私の正体、教えてあげましょうか?」

 扉にかかとをぶつけた宇智也へ、区埜保志は顔を斜めに傾けながら唇を近づけた。





●主な登場人物

渋沢(しぶさわ) 宇智也(うちや)
 臨海学校に向かう途中のバスで事故に遭った高校一年生。
 『土生海洋資源研究所』の中で血溜まりの中に手をつき、傍らに倒れている老人(土生)の走馬灯を見た。

天城(あまぎ) 敬子(けいこ)
 病院のベッドで目覚めた宇智也の手を握っていたハーフっぽい謎の美少女。
 血の臭いをさせて超常的な現象を起こしたり予知もできる『血魔術』を使える。

土生(とき) 保功刀(ほくと)
 小さい頃から人魚に会いたかった海洋学者。
 網場の暴走を止めるため『土生海洋資源研究所』の所長として、ラ号たちを育てたが、ミ号に殺された。

網場(あみば) 典斎(のりなり)
 土生の幼馴染。地元有力者の次男で、医者。
 借金の肩代わりを条件に妻にした女に、夫辺人の子を出産させ、明日架を誕生させた。
 ミ号とキ号に殺された。

網場(あみば) 明日架(あすか)
 網場典斎の戸籍上の娘だが、その父親は実は夫辺人。医者。
 夫辺人の冷凍精子を使用して妊娠し、四十八つ子を産んだ。
 どこかの海神を祀る宗教的な集団へ、生き残りの五つ子を合流させたがっていたが、ミ号とキ号に殺された。

網場(あみば)(ごう)
 網場明日架の四十八つ子の中から生き残った二十二番目の女子。魚の姿はイシダイだが、兄弟の中では唯一、様々な魚に変身できる。
 変身後の魚種はコントロールできていない。土生との外出後、宇智也達と出会った。

網場(あみば)(ごう)
 網場明日架の四十八つ子の中から生き残った三十八番目の男子。魚の姿はロングノーズデンキナマズ。
 感情を表に出さず、道具の仕組みを理解するのが好き。
 自分を成長させた「栄養剤」の原材料が自分の祖父や兄弟だと気づき、反旗を翻した。

網場(あみば)(ごう)
 網場明日架の四十八つ子の中から生き残った四十一番目の女子。魚の姿はホオジロザメ。
 強さへの執着がある。キ号と共に明日架、網場、土生を殺した。
 レ号やフ号を食い、人間は不味いと言い放った。

区埜保志(くのほし)
 宇智也のクラスメイト。臨海学校では同じ班。黒い長髪で日本人形のような女子。
 人間ではなくCOSNという存在。COSNが何者なのかはまだ不明。テーザーガンを装備している。

沢渡(さわたり)
 宇智也の元クラスメイト。一学期の終わりに専門科へ転科。
 ぽっちゃり体型だが剣術に長けている。電気が流れる鉄パイプを武器として使用。

濁西堂(だくさいどう)
 宇智也の元クラスメイト。一学期の終わりに専門科へ転科。
 育ちの良さげな坊っちゃん顔で、入学初日にも宇智也に声をかけてきた。

兎月苑(とげつえん)
 整った顔立ちの優男で愛創学園は専門科の教師。
 宇智也たちに仲間にならないかと語りかけてきた。
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