第1話

文字数 4,592文字

 四月下旬、もうすぐゴールデンウイークだ。家に引き籠もっているのが日常だし、ゴールデンウイークは楽しみでもない。窓の外を眺めると、雨がしとしと降っている、梅雨のようで鬱陶しい。思い切って窓を開けてみようか。しかし勇気が出なくて、途中でやめた。この部屋で修行僧のように内省している。
 自宅に引き籠もり、どれくらいになるだろう。籠城しているみたいだ。自分の部屋にはテレビもあるし、パソコンもタブレットもあるから、暇を潰すための娯楽に事欠かない。文明の利器があるから寂しくない。
 乾パンなどの保存食もスポーツドリンクもストックはある。たまに外出して、ドラッグストアで買い込んである。自室に閉じ籠もり、自堕落な生活になった。トイレに駆け込まず、用を足すことも珍しくない。携帯トイレの用意もしてあるので万全だ。念のため尿瓶も用意しているが、使用していない。大規模な地震で被災しても、しばらくしのぐことができるだろう。テントも設営している。ベッドはかさ張るから嫌いで、寝袋で眠っている。
 風呂に入るのも面倒なので、タオルで体を拭くだけで済ませ、ドライシャンプーで済ませることもある。特に冬は寒いから風呂に入るのが面倒になる。
 私はうだつが上がらない大学生だった。キャンパスライフに失望していた。働きたくなかったから、偏差値で大学を選び、受験して進学しただけだ。まだモラトリアムだが、就職活動のことを考えると、気が重い。
 入学式にはスーツを着て出席したが、感慨を抱くこともなかった。人と関わりたくなかったので、友達も恋人もできなかった。サークル活動もしておらず、憂鬱だった。大学に入学したものの、次第に通う気もなくなり、家に引き籠もっていった。社会から隔絶しており、疎外感があるが、むしろ心地よかった。
 我が家は四人家族だ。家族の絆はあるのだろうか。父は大手の建設会社に勤めている。平日は帰宅が遅いし、休日はゴルフに出かけている。典型的な仕事人間だ。父とは顔を合わすこともない。
 母は近所のスーパーマーケットで働き始めたので、昼間には家には誰もいない。パートで働くのも、人間関係が大変みたいだ。妹は高校生で、来年受験を控えている。顔はまあまあかわいいが、勉強はできない。果たして希望の大学に合格できるのだろうか。
 高校時代にいじめに遭ってから、人を信用しなくなった。もともと内向的だし、人間関係を築くのが苦手だった。いじめの精神的外傷で、対人恐怖症の症状が悪化し、日常生活に支障を来すようになった。
 買い物に行き、レジで精算するとき、手が震えるし、顔も強張るので困る。知っている人よりも、知らない人のほうが気が楽だ。しかし繁華街は人でごったがえしており、なるべく行きたくない。満員電車も閉塞感を抱くので苦手だ。
 精神的に参っていたのだろう。もしかしたらうつ病だったのかもしれない。やはり精神科に行くべきなのか。精神科を受診すると、向精神薬が処方されるのだろう。向精神薬はイメージが悪い。やはり服薬するのに抵抗がある。
 しかし自宅で暮らし、社会から隔絶されると不安になり、抗不安薬が欲しくなった。やむを得ずメンタルクリニックに通うことにした。メンタルクリニックは駅前にある。
 早速受診すると、怖いところではなく、拍子抜けした。精神科医から予想通り睡眠薬と抗不安薬を処方された。主治医の指示通り服薬している。
 しかし精神科医から処方された抗不安薬を服薬しても、気休めにしかならない。症状は変わりない。しょせんビジネスだ。精神科医は金儲けにしか興味がなく、信用できない。
 私の主治医は女医だった。四十代の彫りの深い美人だった。ロングヘアーが印象に残っている。女性の精神科医は珍しくないのだろう。女性の精神科医なら優しいのかもしれない、と内心期待していた。しかし予想に反して性格が悪く、すぐに嫌いになった。女性の精神科医はきついのだろうか。
 高校時代はいじめられていて、ひどい目に遭った。昼休みに売店にパンを買いに行かされたりするパシリは日常茶飯事だった。靴やかばんを隠されたり、机に落書きされたり、嫌でたまらなかった。
 生きているのが嫌になり、辛くなってしまい、ビルの屋上から飛び降りようか、と悩んでいた。結局実行しなかったが、今生きているのは、運だけのような気がする。
 受験勉強に励み、大学に入学しても、キャンパスライフは面白くなく、希死念慮があった。この世から消えたい、という気持ちが込み上げてきた。インターネットにある自殺サイトを閲覧するのが日課になった。
 練炭自殺を企て、一酸化炭素中毒を起こして自殺しよう、と計画していた。しかし首吊り自殺のほうが確実だろうと考え、自殺を決行しようとしたが、勇気が湧かなかった。
 自殺の方法を調べてみようと考え、図書館に通い詰めた。主に法医学のテキストを読んでいた。まさかレファレンスサービスに相談するわけにもいかない。
 もうすぐ五月だが、気候も暖かく、一番過ごしやすい時期だ。エアコンを効かすこともできるし、空調設備が整っている。ラジオ体操を始める、ウォーキングをするなど、運動しないと足腰が衰えてしまう。
 今日は午前六時に起きて、散歩に出かけた。気分を変えることができた。桜は散ってしまったが、ツツジの花が満開になっている。対人恐怖症だから、人に会いたくない。なるべく人のいない時間帯に外出する必要がある。
 ベッドから起きて、リビングルームを訪れると、ケージに入っているマロンが、こちらを見詰めている。赤い目が怪しく光る。リンゴが欲しいのだろうか。マロンは食パンが好きだが、人間が食べるものは、ウサギの健康のためにはあげないほうがいい。
 ケージの扉を開け、と「マロン!」と名前を呼ぶと、こちらに向かってぴょんぴょん跳び跳ねてくる。ウサギは世界一かわいい生き物だ。頭を撫でてもらえる、もしくはリンゴがもらえると、勘違いしているのだろう。マロンはかわいいからつい甘やかしてしまう。
 時折、マロンが頭を押し付けてくることもある。スキンシップを求めているのだろう。一匹だけだと仲間もいないし、かわいそうだ。マロンは私と似ているのかもしれない。ウサギが人間に慣れるのは、いいことなのだろうか。しかし愛玩動物だからしかたがない。野生のウサギは幸せなのだろうか。
 マロンはキャベツ、トマト、リンゴなどの野菜や果物が好きだ。しかしニンジンは好きではない。マロンは愛らしいことこの上ないが、親馬鹿なのだろう。ウサギはキュートな魅力があるが、案外独立独歩だ。ツンデレだし、孤独にも強い。たまにはマロンを抱き締めて、一緒に寝ている。
 私がウサギをペットとして飼おうと思ったわけではない。妹がペットショップで買ってきたのだ。受験のストレスを解消するためらしい。妹は高校三年生だった。
 近所にあるショッピングモールにあるペットショップで購入した。ウサギの値段は五千円だった。命に値段がつくのも奇妙な気がする。五千円でも大切な命だが、綺麗事だろうか。ミニウサギの価値はそんなものだろうか。もちろんネザーランドドワーフラビットなどは、値段が高い。値段はウサギの種類にもよる。
 こうした経緯があり、マロンを育てることになった。ケージや給水器、ラビットフードを購入し、名前はマロンと名付けた。なぜ「マロン」、つまり「栗」にしたのだろうか。あまりよく覚えていない。
 子ウサギは縫いぐるみみたいだ。大学二回生だったが、キャンパスに足を運ばなくなった。大学はサボっても、試験を受けると単位は取ることができるから気が楽だ。自室に引き籠もっていたが、運動不足に陥った。
 しかし時折大学に通い、辛気くさい講義に出席していた。経済学部だったが、そもそも経済学に関心を持ったこともない。ゴールデンウイーク直前ということもあり、人影がまばらだった。海外に遊びに行っている人もいるのだろう。
 帰りに公立図書館に立ち寄り、ウサギの飼い方に関する本を借りた。生き物を飼うのに正しい知識は必要だ。飼い主だから責任もある。帰宅すると本のページを繰り、読み始めた。「哲学Ⅰ」の講義よりも勉強に取り組むことができた。
 ペットショップに縁がなかったが、ペットフードを買ってくるのが日課になった。値段がついた商品として、ショーケースの中にいる子犬や子猫を眺めるのは複雑な心境だ。ホームセンターで安く購入するようになった。マロンは安価なラビットフードは好きではない。贅沢者だ。
 もしマロンが病気になったら、動物病院に行く必要がある。これも飼い主の責任だ。幸い近所に動物病院はあるが、ウサギは診てくれるのだろうか。ウサギはペット保険に加入できるのだろうか。
 飼ってみると、ウサギはチャーミングだけでなく、人間にはあまり懐かないミステリアスな生き物だった。表情も変わらないので、何を考えているのかよく分からない。
 自宅で引き籠もっている間、マロンの世話を焼いていたが、充実した気分だった。このままずっとマロンと遊んでいたかった。ペットを飼うと癒やされるし、精神的に安定していた。マロンは雄なのか雌なのか分からないが、恋人のようだった。ウサギは世界で一番かわいい。
 ウサギを飼う前には、ハムスターやミドリガメを飼っていたことがある。マロンと遊んでいると、時が経つのも忘れてしまうし、やはり癒やされる。
 マロンはこちらを見詰めている。目をぱちくりしている。赤い目が澄んでいる。マロンの様子を観察していると飽きないが、なぜか無性に苛立ってしまうこともある。
 人間を信用しているマロンに、苛立ちを覚えた。ウサギを飼い馴らしてしまい、これでよかったのだろうか、と後悔した。人間に飼い馴らされている動物は不愉快だ。愛情のある飼い主だって、世話をしなくなることもある。ペットにしてみれば不条理な話だ。マロンに話しかけた。
「お前は自分のことを理解しているのか? 人間に懐いてんじゃねえよ。むかつくんだよ。お前を見ているといらいらするんだよ!」
 人間に甘えるマロンを見て、自分を見ているような感覚を覚え、不快だった。金属バットかゴルフバットで撲殺しようか。マロンは飼い主とはいえ、抱っこされるのは嫌いだった。無理やり抱っこすると、無茶苦茶に暴れてしまう。マロンはこれからの自分の運命を甘んじて受けているのだろう。おとなしくさせるのも面倒臭い。本能的に予知したのかもしれない。強引に五十リットルのリュックサックにマロンを入れ、詰め込んだ。
 マロンを入れたリュックサックを背負い、マンションのエレベーターに乗り込んだ。迷わず最上階のボタンを押す。エレベーターは最上階に到着し、エレベーターを降りた。辺りには誰もいない。
 ビルの屋上は開放感が広がっており、気持ちがいい。リュックサックを地面に下ろした。暴れるマロンをかばんから取り出した。マロンを抱え、鉄柵のそばに近づいた。下を見下ろすと恐怖を感じた。
 次の瞬間、ためらいなく無造作に空中にマロンを放り投げた。マロンは地面に叩きつけられて死んだはずだ。私は動物愛護法違反になり、警察に逮捕されるのだろうか。せっかく人間から解放してあげたのに、なぜ捕まるのだろう。まだ手のひらにマロンの感触が残っている。(了)
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