希望に向けて

文字数 1,392文字

 ーポロン、ピロンー

 誰もいない音楽室で、かすかなピアノの音色が響いた。こいつに触れるだけでも俺は、不本意にも情けなく涙を垂らしてしまった。少なくとも、この楽器を人生の永遠のパートナーだと語れる日は、もう戻ってこないんだ。たとえ、俺がどれだけせがんでも。
 ピアノの上には、俺がよく練習に使った楽譜が横たわっている。ベートーベン、ショパン、バッハ、チェルニー・・・
 
 どれもそれぞれの作曲家の思いが詰まったいい作品だ。

 「いい?月光を弾くときは、月が沈んで、夜明けが来るシーンを想像するの」

 こんな会話を、部活のメンバーとたくさんした。みゆきの思い付きでできた楽器演奏部。ガチではない、普通に音楽を楽しみたい人を寄せ集めてできた部活。学校の中でも把握している人は数少ないし、ほぼ非公式みたいなもの。
 それでもとても楽しかったし、みんな仲良くなれた。

 けど、部活は部活。プロの音楽集団でもなければ、別に音大を目指すようなこともしていたわけではない。ピアノが弾けてちやほやされるのも、誰かを笑顔にできるのもおしまいだ。

 動画配信という手も考えたけど、そこまで技量ないし。仮に今から本格的に習って、人気が出る可能性ができたとしても、もうそれはよかった。

 俺はただ、この学校の人たちに聞かせていたかった。ずっと大切な仲間の下で、弾いていたかった。ただそれだけ。

 俺はしばしば、今までの思い出にふけっていた。

 いつの間にか日も落ちていて、帰らなければいけない時間になっていた。俺はカバンを手に持って、離れたくないようにピアノを眺めていた。
 そうしていると突然、ドアがノックされた音が聞こえた。というかドアは既に開いていて、そこにはみゆきがぽつんと立っている。彼女は人生最後の制服姿のままで、なぜかこの時間帯まで学校に残っていたようだ。あれだけ早く帰ると言っていたのに。

 「たくや。何してるの?」
 
 「別に、なんでもねえよ」

 「うそだー。だって涙出てるよ?」

 「えっっ!」

 俺は慌てて拭いた

 「部活のことを思い出して、感傷に浸ってたとか?」

 みゆきが笑いながら言った。

 彼女は俺の近くまで来て、その辺の椅子にそっと腰かけた。その表情は安らかで、妙にすがすがしい感じがする。卒業式の時、恥ずかしいくらい泣いてたのがウソのようだ。
 
「たくやはさ、どうするの、これから」

「・・・推薦で決まった大学に入って、それから就職」

「そうじゃないよ。ピアノ続けるのかっていう意味!」

「・・・わからない。なんであんなにピアノが好きだったのかも」

はっきりしない俺を見て、一瞬彼女は何か言おうとしたみたいだが、やめたみたいだ。それからみゆきはにこりと笑って、こう言ってきた。

「あの曲聞かせてよ。たくやが作ったやつ」

「え、わかった」

そう言って、俺は彼女の言うとおりにピアノに向かい、音色を奏でた。その間、みゆきはこんなことを言っていた。

「私ね、いつかお母さんになって子供ができたら、ピアノを教えてあげたいの」

「そして、音楽が楽しいって思ってもらいたい。たしかに、もうたくさんの人に聞いてもらえる機会は減るかもだけど、別にいいの」

「私は、本当に大切な人に自分の音を聞いてほしいだけだから・・・だから、また集まろう?今度、みんなで。そこで、たくやの音も聞きたい!」

 俺は静かにうなずくように、涙を流しながらピアノを弾き続けた。
 

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