第4話

文字数 1,354文字

 そうやって僧と思われる人物の方を熱心にながめていたわたしだが、彼の背後に奇妙な感じで、キラッ、キラッと光が散乱するようなのに気づいた。鏡でも背負っているのだろうか? いや、そんなはずはない。ぼろをまとった、息の臭い、乞食泥棒托鉢僧だ。鏡など持っているはずがない。
 しかし接近してきた人間は、たしかに托鉢僧だった。ただし、いつもの僧ではない。二十歳そこそこの若輩僧であった。そして背後にはどうやら氷、巨大な氷を引いているようだった。おかしな話だ。曇っているとはいえ、夏の初めであり、温暖といえる状況下だ。どうして融けた様子がないのだろう? そしていよいよ目前までくると、それは等身大の馬をかたどった巨大な、目をみはるような見事さの美しい氷だった。そしてやはり融けた様子が露ほどもない。そして更におかしなことには、氷なのに、首を上下に動かしたり脚をぱかぱかして本物の馬同様 並み足で僧のあとを歩いてくるではないか。はーっ、と感嘆と驚嘆のため息をもらしたそのとき、背後が異常に騒がしくなり、鬼の形相の、血に飢えているとしか思われない村人が集団でわたしの背後に走りやってきた。殺される! こんなやつらに恥ずかしくも無意味で無残な殺害をくわえられる、そう思って頭が真っ暗になった。
 しかし仏様に感謝しなければならないだろう、村人たちはわたしになど一切の関心を示さず、鋤や鍬や鎌など物騒な刃物を手に手に僧を取り囲んだ。しかし、彼らも僧の背後の氷にぎょっとしたようである。彼らは一分ばかりも凍りついたのである。馬も今は静止していた。さっきわたしが見たと思ったものは光がつくりなした魔術的幻影であったのであろうか。
 ひとりだけ、意を決して金縛りをふりはらった四十歳ほどの女子(おなご)田喜(たき)が、喘ぎながら叫んだ。
「おめえらなんかに、やるもの、ねえだが!」
 立ち止まっていた僧だが、その叫びに無反応である。無反応の持続が、ざわざわと村人たちを騒がせ、生き返らせた。
 ねえだが! ねえだが! という、全員が口々に叫ぶ怒号が僧にむけられた。「ぶっ殺す」という絶叫も、「栗の保存袋」というもぞもぞした声もまじっていたようである。
 僧はやはり反応をみせなかったが、ここで馬が身動きを示した。村人たちがだまりこみ、一歩、二歩と引き退がる。おぞけをふるったのである。
 馬がしゃべった。
「このクソ坊主は声が出せんし、耳も聞こえんがの」そう透きとおる氷の美しい馬が発言した。
 まやかしだ! 誰かが泣き崩れそうな声で叫んだ。妖術だ! と云うものもいた。馬はそれを聞きとがめて、
「なにが妖術がや。俺のことか?」と凄んだ。
 わたしは江戸でいちど夏に氷を見たことがあったが、ほかの村人には夏の氷は初見である。なにがなにやらわからず怯えていた。わたしは見たことがあったし、夏のものとはいえ氷がしゃべったりしないという至極あたりまえの常識もあった。委細あってこの村に流れ着くまえはひとかどの立場にあったのである。だからなおさら、わたしは不思議の感にたえなかった。
「このクソ坊主はたまたま俺の前を歩いておったがや。クソの哀れな身のうえを案じて俺の同行をゆるしたまでがや。この村に用事があるのは俺のほうだ」声のトーンを暗く落として、氷の馬は宣告した。
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