第1話
文字数 2,717文字
【夏空】
ユタカが死んだ。
亡くなったと聞かされたのはつい数分前。
携帯の着信画面には、ここ数年思い浮かべることすらなかった珍しい旧友の名前が表示され、特に考えるでもなく受話ボタンを押すと、告げられたのは同級生の訃報だったわけだ。
簡単な挨拶のあと
「なぁ、『ユタカ』って…覚えてる?」
記憶の引き出しから探し出すのに、軽く十秒は要したと思う。
もしかしてアイツか?と検索結果を挙げる俺に、「そうそう!よく覚えてたなぁ」と応えた奴は、きっと俺以上の時間を要したんじゃないかと推察する。
ユタカは、同じクラスで4年間を過ごした。
しかしそれは小1からのことで、二十歳をゆうに越えてしまった今となっては太古昔といってもいい記憶に類する。
旧友といっても、単に同じクラスで、30人程度のクラスでたまに係わり合いがあった程度だ。
悪ガキの部類に入るユタカは比較的目立っていて、逆に当時は大人しく過ごすことを日々の目的にしていた嫌なガキそのものの俺は、関わりようが少なかったのも仕方ないといえよう。
思い出といっても、ユタカとはほとんどない。
それなら、さっき電話してきた奴のほうがどんだけ多いか。奴とは中学・高校とずっと同じだったんだから。
俺がユタカのことを覚えていたのは、ひとつだけ。強く印象に残った記憶があったからだ。
それはやはり小学校のことで、たしか3年生くらいだったか。
学校給食で出されたデザートのプリンを、じゃんけんでユタカと取り合いをしたっていう、ただそれだけのものだった。
たまたま風邪かなんかで病欠したクラスメートがいて、そいつの分のデザートが余った。
あとは、お約束の展開だ。
誰か欲しい人はいないか。希望者が多い場合は公平に決めよう。
笑顔を貼り付けた(俺は嫌いだった)男性教師が教室内に呼びかけをする。
我先にと手を挙げるガキども。
普段、目立つのも面倒ごとも遠慮してた俺は、当然そんな醜い争いごとには関わらないようにしていたのだが、その日は違った。
今でも思う。ほんの気まぐれでしかなかったんだと。
とくに強く欲しいとも思わなかったし、自分のプリンはちゃんとある。
ならばあとは五月蝿くなる教室にイライラしながら給食を続けるだけであったはずなのに、俺ははいはいと何度もバカみたいに声を上げるクラスメートに習い、右手を挙げて立候補をかけたんだ。
順調に勝ち進んでいき、いよいよ決勝戦。
俺とユタカの一騎打ちだった。
傍観者と敗者連中は、ここまでくると面白がって勝敗の行方を応援しはじめる。
ガキ大将のユタカは、舎弟も多かったから男連中の多くが声をかける。
対して俺は、奴とは違って大人しく、やる気満々のユタカとは違ってただ手を音頭に従ってゆるゆると差し出すだけ。けど女どもやアンチユタカ派の声はかかってたような気もする。まぁいい。
すごくギラついた顔を、だけど言いようのない『プリンが自分のものにならないはずがない』と確信めいた笑みを浮かべるユタカの顔が、今でも鮮明に覚えている。
ああ、なんでコイツはこんなくだらない事で一生懸命になれるんだろう。
そう思いながらも、一挙手一投足に全力を込めるように力強くじゃんけんを出すユタカの姿が面白くて、いつしか五月蝿いだけだった外野の声すら場を盛り上げる最適のBGMになっていて、俺自身わけもなく「楽しい」と感じるようになっていた。
数度にわたる相子。
周囲から上がる統率のとれた合いの手。
なかなかつかなかった決勝戦も、同じ手が二桁に達する頃、やっと勝敗が決した。
勝負は、俺の勝利。
ユタカの悶絶して叫び反り返る姿と、おーという戦いを湛えるような周囲の声が教室内に広がった。
教師から商品のプリンが手渡される。別に欲しくはなかった。
席に戻るとき、復活したユタカが「くっそぉ!次は負けねぇからな!!」と、ものすごい笑顔で俺に行って、自分の席に帰っていった。その時に、ああコイツは楽しかったんだなって、言葉にはなってないのに相手の感情がこっちに伝わってきたのを覚えている。
ただ、それだけ。
「そっか」
休憩がてらにビルの非常口から出た俺は、そのまま非常階段の手すりに寄りかかって空を見上げた。
一面の青い空に、綿を広げたような雲が少しだけ広がっている。
持っていた缶コーヒーのプルタブをカシュッと開けて、グイッと一口口に含んだ。
味はしない。
確かあの時も、笑顔のユタカに向けて、そんななんでもない一言で返した気がする。覚えてはいなかった。
ユタカが死んだ死因も聞かされてはおらず、共に過ごした記憶もそんな些細なイベントただ一つしかない。
この空の下にユタカはもういない。
そんなことだけが見上げる脳裏に浮かんでいた。
シャツのネクタイを少し緩める。少しの休憩、今くらいはいいだろう。
俺はもう一口缶コーヒーに口をつけた。
その缶に、俺の前歯が当たって痛みが走った。
ガチンと異物がぶつかった衝撃に顔をしかめたその後は、何もなかった。
缶の中身が飛び出すのも、それが顔を汚してくのも、別になんともなかった。
ただ、少し鼻の穴に入りそうだったのには少し焦る。
空が足元にあった。
宙に舞う靴。
自分のつま先が見える。
俺がついさっきまで立ってた場所に、Yシャツ姿の男の姿があった。
両手で手すりにしがみつき、もの凄い表情でこちらを見ている。
アイツは確か、さっき俺が書類のミスを指摘して、叱った奴だったか。名前は覚えていない。
重力を首の後ろに感じながら、どうせなら綺麗なものが見たくなって空に目を戻した。
再び俺に、衝撃が襲う。
珈琲の茶色に混じって、生暖かいものが地面に流れて混じっていくのが見えた。
それもすぐに灰色一色に変わる。
そういえば、俺はユタカの苗字も覚えていなかったことを思い出した。
ぐしゃり、と落ちたプリンのようにやわらかい音とバキリ、という得も言われぬ何かが砕けてゆく不和音が鳴るのを身体全体で感じ、そうして俺の世界には暑さも鬱陶しさも何もなくなった。
なあ、ユタカ。
お前は俺のこと、覚えているか?
俺が最後に記憶したのは青い空と、
興奮気味に笑顔で手すりの向こうから見下ろしてくる誰かと
やっぱり苗字は思い出せないやっていう、自分への、ガッカリ感。
誰かに覚えていて欲しかったのかな。
「…へっ…」
俺は最後の最後まで、自分勝手だった。
<完結>
ユタカが死んだ。
亡くなったと聞かされたのはつい数分前。
携帯の着信画面には、ここ数年思い浮かべることすらなかった珍しい旧友の名前が表示され、特に考えるでもなく受話ボタンを押すと、告げられたのは同級生の訃報だったわけだ。
簡単な挨拶のあと
「なぁ、『ユタカ』って…覚えてる?」
記憶の引き出しから探し出すのに、軽く十秒は要したと思う。
もしかしてアイツか?と検索結果を挙げる俺に、「そうそう!よく覚えてたなぁ」と応えた奴は、きっと俺以上の時間を要したんじゃないかと推察する。
ユタカは、同じクラスで4年間を過ごした。
しかしそれは小1からのことで、二十歳をゆうに越えてしまった今となっては太古昔といってもいい記憶に類する。
旧友といっても、単に同じクラスで、30人程度のクラスでたまに係わり合いがあった程度だ。
悪ガキの部類に入るユタカは比較的目立っていて、逆に当時は大人しく過ごすことを日々の目的にしていた嫌なガキそのものの俺は、関わりようが少なかったのも仕方ないといえよう。
思い出といっても、ユタカとはほとんどない。
それなら、さっき電話してきた奴のほうがどんだけ多いか。奴とは中学・高校とずっと同じだったんだから。
俺がユタカのことを覚えていたのは、ひとつだけ。強く印象に残った記憶があったからだ。
それはやはり小学校のことで、たしか3年生くらいだったか。
学校給食で出されたデザートのプリンを、じゃんけんでユタカと取り合いをしたっていう、ただそれだけのものだった。
たまたま風邪かなんかで病欠したクラスメートがいて、そいつの分のデザートが余った。
あとは、お約束の展開だ。
誰か欲しい人はいないか。希望者が多い場合は公平に決めよう。
笑顔を貼り付けた(俺は嫌いだった)男性教師が教室内に呼びかけをする。
我先にと手を挙げるガキども。
普段、目立つのも面倒ごとも遠慮してた俺は、当然そんな醜い争いごとには関わらないようにしていたのだが、その日は違った。
今でも思う。ほんの気まぐれでしかなかったんだと。
とくに強く欲しいとも思わなかったし、自分のプリンはちゃんとある。
ならばあとは五月蝿くなる教室にイライラしながら給食を続けるだけであったはずなのに、俺ははいはいと何度もバカみたいに声を上げるクラスメートに習い、右手を挙げて立候補をかけたんだ。
順調に勝ち進んでいき、いよいよ決勝戦。
俺とユタカの一騎打ちだった。
傍観者と敗者連中は、ここまでくると面白がって勝敗の行方を応援しはじめる。
ガキ大将のユタカは、舎弟も多かったから男連中の多くが声をかける。
対して俺は、奴とは違って大人しく、やる気満々のユタカとは違ってただ手を音頭に従ってゆるゆると差し出すだけ。けど女どもやアンチユタカ派の声はかかってたような気もする。まぁいい。
すごくギラついた顔を、だけど言いようのない『プリンが自分のものにならないはずがない』と確信めいた笑みを浮かべるユタカの顔が、今でも鮮明に覚えている。
ああ、なんでコイツはこんなくだらない事で一生懸命になれるんだろう。
そう思いながらも、一挙手一投足に全力を込めるように力強くじゃんけんを出すユタカの姿が面白くて、いつしか五月蝿いだけだった外野の声すら場を盛り上げる最適のBGMになっていて、俺自身わけもなく「楽しい」と感じるようになっていた。
数度にわたる相子。
周囲から上がる統率のとれた合いの手。
なかなかつかなかった決勝戦も、同じ手が二桁に達する頃、やっと勝敗が決した。
勝負は、俺の勝利。
ユタカの悶絶して叫び反り返る姿と、おーという戦いを湛えるような周囲の声が教室内に広がった。
教師から商品のプリンが手渡される。別に欲しくはなかった。
席に戻るとき、復活したユタカが「くっそぉ!次は負けねぇからな!!」と、ものすごい笑顔で俺に行って、自分の席に帰っていった。その時に、ああコイツは楽しかったんだなって、言葉にはなってないのに相手の感情がこっちに伝わってきたのを覚えている。
ただ、それだけ。
「そっか」
休憩がてらにビルの非常口から出た俺は、そのまま非常階段の手すりに寄りかかって空を見上げた。
一面の青い空に、綿を広げたような雲が少しだけ広がっている。
持っていた缶コーヒーのプルタブをカシュッと開けて、グイッと一口口に含んだ。
味はしない。
確かあの時も、笑顔のユタカに向けて、そんななんでもない一言で返した気がする。覚えてはいなかった。
ユタカが死んだ死因も聞かされてはおらず、共に過ごした記憶もそんな些細なイベントただ一つしかない。
この空の下にユタカはもういない。
そんなことだけが見上げる脳裏に浮かんでいた。
シャツのネクタイを少し緩める。少しの休憩、今くらいはいいだろう。
俺はもう一口缶コーヒーに口をつけた。
その缶に、俺の前歯が当たって痛みが走った。
ガチンと異物がぶつかった衝撃に顔をしかめたその後は、何もなかった。
缶の中身が飛び出すのも、それが顔を汚してくのも、別になんともなかった。
ただ、少し鼻の穴に入りそうだったのには少し焦る。
空が足元にあった。
宙に舞う靴。
自分のつま先が見える。
俺がついさっきまで立ってた場所に、Yシャツ姿の男の姿があった。
両手で手すりにしがみつき、もの凄い表情でこちらを見ている。
アイツは確か、さっき俺が書類のミスを指摘して、叱った奴だったか。名前は覚えていない。
重力を首の後ろに感じながら、どうせなら綺麗なものが見たくなって空に目を戻した。
再び俺に、衝撃が襲う。
珈琲の茶色に混じって、生暖かいものが地面に流れて混じっていくのが見えた。
それもすぐに灰色一色に変わる。
そういえば、俺はユタカの苗字も覚えていなかったことを思い出した。
ぐしゃり、と落ちたプリンのようにやわらかい音とバキリ、という得も言われぬ何かが砕けてゆく不和音が鳴るのを身体全体で感じ、そうして俺の世界には暑さも鬱陶しさも何もなくなった。
なあ、ユタカ。
お前は俺のこと、覚えているか?
俺が最後に記憶したのは青い空と、
興奮気味に笑顔で手すりの向こうから見下ろしてくる誰かと
やっぱり苗字は思い出せないやっていう、自分への、ガッカリ感。
誰かに覚えていて欲しかったのかな。
「…へっ…」
俺は最後の最後まで、自分勝手だった。
<完結>