第1話

文字数 11,771文字

 朝子は目を覚ました。目を覚ますと、灰色の薄汚れた天井が目に入る。 牢獄みたいだ…。と思う。 でも牢獄ではない。                ここはN精神病院の入院病棟の一室。牢獄よりはマシかもしれないが、朝子はいまだに、自分が精神病院に入院している事に馴染めない。受け入れられないと言ったほうが正しいか。どこか夢のような気がする。 それでも、のろのろと起き出し、パジャマから簡素な部屋着に着替える。そして控えめにドアを開け、食堂に向かう。
 廊下には、食堂に向かう患者達がぽつぽつと歩いている。朝は皆、気だるいのだろう。いつもは奇声をあげて、廊下を走り回っているマサさんや、朝子の姿を見かけると、満面の笑みを浮かべながらやってきつつも、口を開けると、ものすごい形相で、嫁の悪口を途切れる事なく、まくしたてるタエ子さんも、大人しく食堂へと歩いている。
 食堂に入ると、ベーコンを焼く、良い香りがした。食堂は、朝子の入院室と違って、小綺麗な内装だ。最近、改装したらしい。いつも座っている窓際で、美月が、手を振っていた。朝食のプレートが置いてある。
「私も取ってくるね。」
朝子は言った。食堂のおばさんが、
「おはよう!」
と元気な挨拶をしながら、朝食ののったプレートを渡してくれた。
「ありがとうございます。」
言いながら、プレートに目をやる。今日のメニューは、ベーコンエッグ、サラダ、トースト、紅茶。朝子は、こういう普通の朝食を取れる事に、ささやかな喜びを感じていた。ここに来た時は、点滴だったのだ。
「おはよう。」
「おはよう。」
朝子は、美月の前の席に座った。 N精神病院には、色々とプログラムがある。体操や、創作活動等。そこで、自然と仲が縮まる。朝子は一歳年下の、二十五歳の、美月と仲良くなった。単独行動以外の時は、ほとんど、美月と行動している。
 美月は、母子家庭で、会社勤めをしている時に、母が事故に遭い、足を悪くした。その為、仕事と母の世話の両立をしていたが、そのうち、過労で、うつ気味になり、ある日、自宅で首吊り自殺をはかった。幸い、紐が切れて、派手に倒れた音に気付いた母親が、車椅子でかけつけ、美月を思いとどまらせた。そして、自分はヘルパーを雇う事にし、美月をしばらくの間、入院させる事にしたのだ。同じ自殺未遂でも、そこに至るまでの過程が、自分よりも全然立派だ、と、朝子は思う。
「ベーコン美味しいね。」
美月が言う。
「うん。」
「私、朝は、洋食のほうがいいな。昼と夜は和食が多いもん。そればっかりだと飽きちゃう。朝子は?」
「私もどちらかと言えば、洋食がいいかな。」
「そうだよね~!」
美月は最初に会った時は、暗い表情で、一言二言しか話さなかったが、みるみるうちに回復し、よく喋るようになった。そして、色々な人とコミュニケーションを取っているらしく、情報通でもある。誰々が退院した、誰々が暴れて、入院期間が延びた、等、よく知っている。
「そういえばさ、中学生位の男の子が入院してきたんだよ。知ってる?」
「知らない。相変わらずよく知ってるね。」
「結構、カッコイイ顔してたよ。影がある感じだったけど。私があと十歳若かったら恋してたかもな〜♡」
「···。」
喜々として話す美月を見て、朝子は、どこか羨ましいと思うと同時に、自分がそんな気持ちになる事は、もうあり得ないとも思う。
「どうしてここ来たんだろうね?」
「どうしてだろね?でも精神病だって、私は気にしないわ〜。とりあえず、これから目の保養ができるのが嬉しい♡」
「···。」
朝子は、なんとなく居心地の悪さを感じ、話を変えた。
「今日は、このあと何して過ごすの?」
病院は、プログラムのある曜日もあるが、今日は、自由に過ごしていい曜日だった。体育館や運動場、美術室、音楽室、図書室等、患者は自由に使っていい。
「音楽室かな。ピアノ弾きたい。」
「ピアノ、上手だもんね~。また聞かせて。」
「うん♪朝子はどうするの?」
「私は図書室かな。」
「本、読むの好きだもんね~。そういえば、この間、勧めてくれた本、面白かったよ。ちょっと難しかったけど···。またおススメのあったら教えて。」
「うん。」
他愛のない話をしながら、朝子と美月は、朝食を食べ終えた。
「それじゃあ、またあとでね。」
「うん。」
朝子と美月は、食堂前で、別れた。


 朝子が、図書室に行くというのは、嘘だった。 朝子は、病院を出て、そこから少し歩く、高台のほうへ向かって行った。
 N精神病院は、海の近くの山の上にある。少し出て歩くと、日本海の海が眺められる所があるのだ。しかし、そこには高い柵がかけられている。そこから先は足場が悪く、海は目の先で、崖になっている。たまにだが、その高い柵をも越えて行って、自殺をする患者がいる。患者が行方不明になって、後に、近くの海から遺体となって、引き上げられる事があるのだ。
 どうして、こんな場所に精神病院を建てたのだろう、患者を救いたいのか死なせたいのかわからない。と、朝子は思う。そして、朝子も、美月には言っていないが、自殺願望があるのだった。その自殺願望は、ぼんやりとしたものだったが、確実に朝子の中にあって、それがいつも、朝子をそこに連れて行くのだった。
  朝子は柵の前まで来て、そこに座りこんだ。柵は古びていたが、強固なもので、自殺を阻むのに充分な強さを持っているように見える。けれど、先に待つ、荒波は蒼く暗く、こちらも死に誘う強さを持っているように見える。柵より荒波の力に惹かれた者が、死を選ぶのだろう。と、朝子は思う。
  朝子はと言うと、その両方の力に引っ張られつつも、どちらかに傾く事もできず、いつも座りこんでしまうのだった。いつも、来ても座りこむしかできない、中途半端で、情けない自分に、朝子は、涙を流した。
 その時、後ろから物音がした。朝子が驚いて振り向くと、そこには、中学生位の少年が立っていた。朝子は慌てて涙を拭き、無理矢理、笑顔をとりつくって言った。
「こんにちは。」
「···こんにちは。」
少年は、少し迷ったようではあったが、
「隣りいいですか?」
と聞いた。
「どうぞ。」
朝子がそう言うと、その少年は、ぎこちない様子でやってきて、朝子の隣りに座った。綺麗な横顔だった。多分、この子が、美月の言っていた、最近、入ってきた中学生の男の子なのだろう。
「私は、朝子。二十六歳。君は?」
朝子は、自分のほうが年上という事もあり、努めて明るく話しかけた。
「···透。十五歳です。」
「十五歳かぁ、若いねー。」
「···はい。」
「···。」
「···。」
朝子は、そのあとの言葉が続かなくなってしまった。朝子は、元々お喋り好きという訳でもなく、また、得意でもなかった。そして、それは、相手も同じであるらしかった。しばらく気まずい沈黙が流れた。
「どうして、ここにいたんですか?」
急に、透は、朝子に聞いた。 朝子は、ドキリとしたが、
「海を見に来たの。私、昔、海の近くに住んでいたから、なんか懐かしくて。」
嘘だった。朝子は、海のある場所に住んだ事はなかった。
「透君は?」
「僕も海を見に来たんです。」
「そっかぁ···。」
会話が続かない。
「朝子さんは、どうしてN精神病院に来たんですか?」
「──」
この子は、初対面の人に、随分、率直に、聞きづらい事を聞く、と、朝子は思った。明るい理由で、ここに来ている人なんていないのに。
「私は自殺未遂で、ここに来たの。」
「どうして、自殺未遂したんですか?」
「──」
朝子は、観念したという感じで、話し出した。
「私は、二十三歳の時に結婚したの。当時、付き合っていた人との間に子供ができて。相手は、良い人だったわ。同じ会社の七歳上の人だったの。頼り甲斐もあって···。でも、仕事が忙しすぎたの。子供が産まれてからも···。子供は男の子よ。仕事が忙しすぎて、全然、育児を手伝ってくれなくて···。私は、ほとんど睡眠も取れずに、泣きやまない子供の世話をし続ける事に疲れ果ててしまっていた。」
「それで···?」
「その頃、私は、子供にかかりきりで、外に買い出しにも行けなかったから、食品と日用品の宅配を頼んでいた。そして、その宅配をしてくれる人というのが、いつも同じ男の人だった。」
「···。」
「私は、主人が忙しすぎて、話も聞いてくれないものだから、その宅配の男の人に、いつも話を聞いてもらっていたわ。育児の苦しさをね。彼は、その時、十八歳だった。彼も良い人で···。私の愚痴話をいつも聞いてくれた。そして、『僕のところに逃げてこない?』と言ってきたの。重荷になるものは全部、捨てて、僕の所に来ないか、と。君の事が好きだから、って。」
「···。」
「そして、私は、ある日、主人が休日で、昼寝をしている時に、家を出てしまった。子供を置いて···。」
「──!」
しばらく、沈黙が続いた。荒波の音だけが、やけに大きく、二人の耳に、響いていた。
「···朝子さんは、お母さんはいないんですか?普通、育児が大変な時ってお母さんが···」
「私は、一人っ子で、母子家庭に育ったの。そして、その母も、私が二十歳の時に、交通事故で亡くなったわ。」
「···」
「彼は、私が彼の家に行った時、優しく迎え入れてくれた。『よく来たね。待ってたよ。』て。そして、私は、そのまま帰らなかった。そのあと、主人とは離婚したわ。主人は最初は私を説得したの。でも、そのうち、私をなじるようになった。『おまえはどうしようもないヤツだ。おまえみたいな母親を持った、子供が可哀想だ。もう勝手にどこへでも行け。子供は俺のお袋に見てもらう。』て。私にも言い分はあった。でも主人の言う事のほうが正しいと思った。自分は、ひどい母親だとも思った。でも、私はもう戻れなかった。何か糸が切れてしまっていたの。」
「···そのあとは?」
「私は、一時、幸せになった気がした。実際、幸せだった。私は彼の事も好きだったし、彼も私の事を好きだった。でも、その幸せも···長くは続かなかった。一緒に暮らし始めて、二年位経った頃かな。彼は、自分は子供が欲しいけど、子供を捨てたような君とは暮らせない、と言い出したの。」
「──!」
「私は愕然としてしまったわ。彼が、子供が欲しいという事も知らなかった。だったら、なぜ捨てて、自分のところに来いだなんていうの?何もかもが目茶苦茶な気がした。」
朝子は、そこで言葉を区切った。少し喋り疲れた気がした。
 目の前の荒波は激しさを増していた。
 朝子は言葉を続けた。
「私は自分の感情をぶつけたわ。もちろん、それならなぜ自分の所に来いと言ったのかも、問い詰めた。でも、彼からは、歯切れの悪い返事しか返ってこなかった。その時はそこまで考えてなかったとか、気が変わったとか、無責任でいいかげんで、とても納得できないような返事。」
「···それで···」
「彼とも結局、別れたの。私は彼の事を、もう信じられなかったし、信じたいとも思わなかった。そのあと、彼の家を出て、私はまた一人暮らしをして働き出した。最初は、それも上手くいっていたの。私は過去の事を忘れようとした。私は最初から一人だったんだ、と思うようにしようとした。でも···それも上手くいかなかった。ふとした時に、後悔や怒りや悲しみが襲ってきて···。私は、だんだん自分がおかしくなってきてるのを感じた。精神科を受診したら、うつ病だと言われて薬をもらったわ。薬を飲んでたけれど、良くはならなかった。薬はどんどん増えていって。それでも治らなかった。気が狂いそうな状態は、いつも続いてた。」
「···。」
朝子はため息をついた。
「あとは、君の想像通り。私はある時、それに耐えられなくなって、自殺をはかったの。薬を大量に飲みほして、意識を失ったわ。死ねると思ったの。自殺は夜に、はかったし。でも会社への無断欠勤、連絡がつかないという事で、大家さんに連絡がいって、死ぬ前に発見されたの。そして、今、ここにいる。」
「···。」
朝子は、自分で、洗いざらい話したのに、何故か、心を無理矢理こじ開けられたようにも感じて、微かな怒りを感じていた。
「君は?どうしてここに来たの?」
少し語調が強かったかもしれない。
「僕は···。」
透が言うのをためらっているのがわかった。
「何?私が言ったんだから、言ってよ。」
朝子は、少し意地悪く言った。
「僕は、人を殺したんです。」
「──!」
想像を遥かに越える答えだったので、朝子は一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。人を殺した···?
 そして、そのあと、殺人者が隣りにいるという事実に、恐怖が湧き出てきて、カタカタと震えた。
 透は落ち着いていた。
「何も僕は、無差別殺人とか、快楽殺人の類じゃないんです。恨みがあったから殺したんだ。朝子さんの事は、恨んでいないのだから。」
でも···と、朝子は思う。
「僕のところも、母子家庭だったんです。僕には一つ下の妹がいますが。僕の母さんも、去年、交通事故で死にました。僕と妹は安いアパートに引っ越して、僕は、新聞配達のアルバイトを始めました。新聞配達なら、中学生でもできるから。」
透は語り出した。
「朝、配達してから学校に行ってました。仕事は毎日です。でも、生活は厳しくて···。毎日、三食食べれない日はざらにありました。一日、給食だけの日もあった。そして、僕は引っ越してから、新しく通い出した学校で、いじめを受けるようになったんです。僕は小学生の頃から、野球をやっていたので、野球部に入ったんです。いじめた奴は、同じ野球部で、運の悪い事にクラスも一緒だった同級生です。佑馬っていいます。僕は、毎朝、新聞配達をして、学校に行って、部活もやってるもんだから、疲れて授業中は寝てばかりでした。そして、給食はおかわりばかりしてるし、最初は変わった転校生だと思われていたと思います。お金がないから、風呂にも入れないし、洗濯もできない日もあったから、不衛生な日もあったし。最初は皆、少し敬遠していたけど、先生が、皆に事情を説明してくれたらしくて、皆、徐々に近づいてきて、仲も縮まってきました。佑馬とも、仲が良いというほどでもないけど、普通に話したり、冗談も言える仲でした。でも···」
「···何かあったの?」
朝子は、ためらいがちに聞いた。
「野球部のマネージャーで、佳奈って女の子がいました。わりと、可愛い子で、新しく入部してきた僕にも、優しくしてくれました。境遇を知ってからは、お弁当も作ってきてくれたりして。でもそれが、佑馬には気に入らなかったみたいです。佑馬は、佳奈の事が好きだったんです。」
「···。透君は?その佳奈ちゃんの事は、どう思ってたの?」
「可愛いし、優しくしてくれたので···。もし僕が、普通の中学生で、普通の生活をしていたら、好きになっていたかもしれません。でも、僕には、恋愛をする余裕なんてなかった。生活をするので、いっぱいいっぱいだったし。」
「···その事を、佑馬って子は知ってたの?」
「聞かれました。佑馬に一度。『佳奈の事、どう思ってんだ?』て。僕は、今、朝子さんに言った通りの事を言いました。僕は、言ったら、佑馬は、いじめを辞めると思ったんですが、辞めませんでした。普通の中学生だったら、好きになっていたかもしれない、というのが、気に入らなかったのか···。とにかく、いじめは続きました。休み時間とかに、僕が貧乏な事、不衛生な事について、聞こえるように、悪口を言ってくるんです。佑馬は、仲間内では、リーダー格でしたから、佑馬の仲間は、佑馬に同調して、悪口を言うようになりました。そして、僕と仲良くしていたクラスメイトも、佑馬を怖れて、僕と関わるのを避けるようになりました。僕はクラスで、孤立していきました。いじめはやがてエスカレートしていって、僕はある日、部室で、佑馬とその仲間に、野球バットで、腹を思いきり殴られました。」
「!」
「すごく痛くて、僕はうめき声をあげて、その場に崩れ落ちました。そして、かろうじて顔をあげると、佑馬は、そんな僕を見て、ニヤニヤ笑っていました。僕はゾッとしました。そして、力を振り絞って立ち上がり、一目散に、部室から逃げ出しました。追ってはこなかったので、ホッとしました。家に帰ってお腹を見たら、大きなあざになっていて、まだ、ズキズキと痛みました。そして、その時の佑馬の顔を思い出して、またゾッとしました。なんていうか···。人間の顔ではない気がしました。悪魔がそこに宿っているような。このままいじめがエスカレートしたら、殺されてしまうかもしれない···。それ位の危険を、僕は佑馬から感じ、翌日、野球部を退部しました。野球は好きだったので、辞めるのは残念でしたが、あんな暴力を受けてまで、やる事はないし、僕は授業中、疲れて寝てばかりで、勉強がおろそかになっていたので、そっちのほうを頑張ろうと思ったんです。」
「それで、いじめはなくなったの?」
「一旦はなくなりました。それは、そうですよね。もう僕と佳奈の接点はないんだから。···でも、それは、ほんの一時だったんです。」
「···何かあったの?」
「僕が辞めたあと、下校帰りの時に、佳奈が僕を見つけて話しかけてきたんです。なんで辞めたのか、聞いてきました。僕は正直に話しました。佑馬が佳奈を好きな事と、その事で、僕がいじめられていた事。佳奈は、佑馬の事を、許せないと言いました。そして、僕の事を好きだと言うんです。僕は面食らってしまいましたが、嬉しかったです。···でも、僕は佳奈と付き合う事はできませんでした。佳奈の事は良い子だし、可愛いと思ってたけど、元々、恋愛なんてする余裕ないんです。その上、佑馬のいじめが絡んできてて、もうどうにもならないところまで、きていました。そういう事も、正直に言いました。」
「···。それで、佳奈ちゃんは?」
「泣いてました。でも、僕の事情もよくわかってくれて諦めてくれました。僕は、もう自分が佳奈と付き合う事はないのに、気になって、佑馬に告白されたらどうするのか、と聞きました。佑馬の事を好きになる事はない、と言ってました。いじめのような卑怯な事をする人を好きにはならない、と。それに、僕の事を好きな事も言わないと言っていました。それで、また僕がいじめられるのは嫌だから、と。」
「随分、出来た子ね···。」
「本当にそう思います。僕は今でも、僕が普通の中学生で、佳奈と付き合えたら、どんなによかっただろう、と思うんです。でも、現実はそうじゃなかった。僕は、生活に圧迫されてました。更にいじめの問題も抱えていた。」
「さっき、一時、いじめはなくなったと言ってだけど···。」
「はい。一時はなくなりました。」
「どうして···。佳奈ちゃんも、そこまで配慮してくれたのに···。」
「そうなんです。僕は、自分や良い人が、どんなに頑張っても、防げない悪って、あるんだな、と、知りました。佑馬は、僕が退部したあと、好機とみたのか、佳奈に告白したそうです。でもフラれた。もちろん、佳奈は僕の事を出さなかった。あとで聞いたんですが、友達としか見れないとかなんとか···上手く断ったそうです。それで···、そういう理由でフラれるというのは、もう僕とは関係のない事じゃないですか。なのに、またいじめは始まりました。教室での悪口、無視···。退部したのに、部室に連れていかれて、暴力を受けました。ある時、部室で暴力を受けている時、僕は耐えきれなくなって言いました。『噂で聞いた。お前は、佳奈に、友達としか見れないって、フラれたんだろ!?そして佳奈は、僕とも付き合ってない。僕には、何にも関係ないじゃないか!どうして、こんな事、続けるんだ!?』と。そしたら、佑馬は、ニヤニヤ笑いながら言いました。『そうさ、お前には何の関係もないさ。もうな、ただの八つ当たりなんだよ!』と。僕は、ゾッとしました。それで、力を振り絞って部室から逃げ出しました。芯から腐った奴なんだ、と思いました。」
「先生に相談したりは···。」
「担任にしました。でも、取り合ってくれませんでした。中学三年で、受験もあるし、こういった時期に、揉め事を起こしたくない、といった感じでした。僕は、だんだん、学校を休むようになりました。僕や佳奈が頑張っても、やまない、先生は頼れない、すっかり失望してしまったんです。妹はそんな僕を、心配してくれました。妹は一学年下で、真澄って言います。僕と同じ中学に通っていました。そして、そんなに酷い事があるなら、学校なんて行かなくていいんじゃないかと、言ってくれました。僕は中学三年でしたし、高校に行けば、佑馬と会わなくていいのだから、と。確かに、そうかなぁ、と思いました。僕は、昼間働ける定時制高校に行くつもりでした。佑馬は普通科の高校でしたし、中学を卒業したら、まず会う事はありません。僕は何も悪くないのに、僕のほうが、休まなければいけないのは、悔しかったのですが、生活やいじめや失望やらで、神経もすり減ってたので、休む事に決めました。少し回復したら、進路指導の時だけ行って、あとは、卒業まで、やり過ごそうと思いました。逃げるが勝ちだと、思ったんです。僕は、朝は、新聞配達に行って、そのあとは、学校に行かずに、図書館に行って、勉強をしました。そういう生活をしているうちに、少しずつ、僕の心身は回復していきました。もう十二月に入っていました。あと三ヶ月位、やり過ごせば、解放されると思いました。高校生活も楽しみでした。昼間、働いて夜勉強するのは、大変だけど、働き口のない中学生でいるより、全然いいです。働いて、お金を稼いで、今より生活が楽になる事を考えると、嬉しくてしかたなかったです。僕には希望が見えてたんです。でも···、そんな希望は、跡かたもなく、打ち砕かれました。佑馬の底知れない悪意によって···。」
目の前の荒波が一際、強く、崖にぶつかった。透の横顔は、昏く険しくなっていた。
「···。何があったの?」
朝子は、恐る恐る聞いた。
「あれはいつだったんだろう、もう日にちが思い出せないや。でも十二月にしては寒くて、粉雪が舞ってた日でした。真澄の帰りが遅かったんです。僕は心配になって、真澄に電話をかけました。でも、何回かけても出ませんでした。夜、九時を回った頃でしょうか。静かに玄関を開ける音がしました。振り向いて僕はびっくりしました。真澄の顔には感情がありませんでした。顔は青ざめていて、目は虚ろでした。そして制服の一部が破れていました。『どうしたんだ!?』僕は言いました。そして、その時に見たのです。スカートから内もものあたりにかけて、血が流れているのを。僕は全てを理解しました。そして、大声で叫びました。『誰にやられた!』と。真澄は、かすれた声で言いました。『ゆうま···と呼ばれて···いた···。』僕は逆上しました。なんていうか、今まで気付かなかったような抑えていたような怒りが、爆発した感じです。僕は、無意識のうちに、台所にある包丁をつかんで、家を飛び出しました。『お兄ちゃん!待って!』後ろから、真澄が叫ぶ声がしましたが、僕は振り向きもしませんでした。僕は佑馬の家に走って行きました。佑馬の家を僕は知っていました。学校と僕の家の途中位にあって、ちょっとした豪邸だったので、有名でした。僕は、佑馬の家に着くと、ベルを鳴らしまくりました。佑馬は、すぐに、下品な、にやけ顔で出てきました。『おまえな、迷惑だぞ。今日、俺だけしかいないからいいけど、親がいたら、つまみ出されてたぜ。』『真澄になぜ、あんな事をした!真澄は関係ないだろ!』『なぜって···?おまえが学校来なくなって、つまんなくなってな···。だから変わりにおまえの妹を、いじめてやろうと思ってな···。可愛かったぜー···。処女なんだな。必死に、お兄ちゃん!ておまえの名前呼んで、助けを求めてたぜ。おまえ、そんな時に、何やってたの?』僕は逆上しすぎて、頭が真っ白になっていました。『お··まえ··』佑馬のうめくような声で、我に返ると、僕は、佑馬の胸に、包丁を突き立てていました。」
朝子は自分の心臓の音が、聞こえるように感じていた。荒波が崖を打つ音も、耳をつんざくように感じ、頭痛がした。
「僕は、佑馬の心臓から、血が吹き出てくるのを見ました。僕は、その時だけ、妙に冷静で、血って赤というよりは、黒いんだな、なんて思ってました。でも、すぐに、自分がとんでもない事をしてしまった、と思い、次の瞬間には、自分の手首を切っていました。僕は、自分の手首から、血が吹き出るのを見ました。僕の血もやっぱり黒かったです。僕は、佑馬が崩れ落ちる音を聞きました。そして、僕も仰向けに倒れました。僕は、自分の手首から、血がドクドクと流れ落ちる音を聞きながら、空から舞ってくる粉雪を見てました。綺麗でした。なんか、とめどなく綺麗なものが降ってくるんです。それを見ていると、僕は許されている思いがしてきました。そのうち、寒気が襲ってきました。ガタガタガタガタ体が震えるんです。そして、目が霞んできて、粉雪も霞んできました。とても短い許しだった、と僕は思いました。サイレンの音が遠くに鳴っているのが聞こえ、そこで、僕の意識は、途絶えました。」
透はそこで、息を吐き出した。空気が少し緩み、朝子も少し、緊張がほぐれた。でも、それも本当に一瞬で、そのあとの透の言葉で、また空気は一気に、硬く重く暗くなった。
「佑馬は病院で死にました。」
「···。」
「失血死です。」
荒波が一層、高く強く崖にたたきつけられた。亡くなった佑馬という少年の、叫びが聞こえるような気がした。
「僕は···、生き残りました。傷が、死ぬには、ほんの少しだけ浅かったんです。あと二ミリ傷が深かったら、死んでいたと、医者に言われました。」
朝子は、透が、ダボッとした大きめのシャツを着ている事に気付いた。今時のファッションだと思っていたが、手首には大きな傷跡があり、それを隠す為でもあるのだろう。
「それで、ここに来たんです。」
透は朝子の目を見ながら、寂しく微笑した。
「精神鑑定がされ、そのあとは少年院です。」
「···。」
朝子は透の話を、整理してみようと思った。 透は確かに、人を殺した。でも、それは、いわば妹の仇討ちのようなもので、彼は、確かに殺人者かもしれないが、子供を捨ててきた自分よりも、ずっと人間である気がした。それに、妹の真澄が、透から、離れる事はないだろう···。
「妹の真澄さん、会いに来たりするの?」
「···!」
透は、朝子が、殺人の事には触れず、妹が会いに来るか尋ねた事に、少し驚いたようだった。想定していた次の言葉と、ずれていたのかもしれない。少し、考えこんだような顔をしたあと、
「はい、来ます。」
と答えた。
「明日、来てくれるんです。」
「···。会いに来てくれる妹さんがいていいね。私には、誰も、会いに来てくれる人はいない···。」
「···。」
しばらく、沈黙が続いた。荒波が、単調なペースで、崖を打ちつける。やがて、透が口を開いた。
「捨ててきた子供に、会いたいと思う?」
「──!」
この子は随分──···
 朝子の目からは、涙がとめどなく、溢れ出た。絞り出すような声で、朝子は言った。
「すごく勝手だとは思うけど、会いたいと思う。でも、会えない。私が、子供だったら、自分を捨てた母親とは、会いたいとは思わない。絶対に···。」
涙はあとからあとから溢れ出た。 荒波は、まだ単調に崖を打ちつけていた。
  透はしばらく、黙っていたが、やがて口を開いた。
「一万分の一の可能性で、会えるかもしれない···。」
「──!」
そして、しばらく、口をつぐんだあと、また、口を開いた。
「でも、朝子さんはまだいいんだ。人を殺してないから。僕は人を殺してしまった···!僕が普通の人間に戻れる事は、もうないんだ!絶対に···!」
透の目からも、涙が溢れ出ていた。
  普通の人間というのが、朝子には、どういうものなのか、わからなかった。そもそも、普通の人間なんていない気がした。でも、殺人を犯した人間と、そうでない人間には、何か決定的な、違いがある気もした。それでも──··
「一万分の一の可能性で、普通の人間に、戻れるかもしれない。」
朝子は言った。
 透は、嗚咽をあげた。
 眼前には、変わらず、荒波が、無情な音を立てて、崖に打ち寄せる事を、繰り返していた。
  二人は、相手の言ってくれた、一万分の一の可能性等、信じてはいなかった。 
  けれど、二人は、心の傷が、一万分の一、癒されていくのを、感じていた。
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