完話

文字数 4,716文字

 叔母さん、行かないで。絶対私が来るの待っていて。電車が来るのをイライラしながら待っている。早く、早く、間に合わなかったら一生悔いが残る。叔母は最後は自分の家で死にたいと言って、病院から帰って来た。家族も本人の希望通り家で看取ることにした。そして、その時が来たようなのだ。従姉妹のめぐみから電話をもらって、急いで家を出た。叔母さんは私にとってとても大事な人。叔母さんが逝っちゃったら、私これからどうしたらいいの?

 中学生の時、特にいじめられていたわけではないが、なぜか仲のいい友人から冷たくされていた時があった。それに悩んでいる時に、私は叔母のところへ遊びに行った。何かあると小さい頃から叔母のところに行く。叔母さんはとっても私に優しくて、私の話を聞いてくれて、私の気持ちを一番に考えてくれるから。「叔母さん、何かねえ、わたし、みんなからシカトされてるような気がするんだ、最近。」「まあ、それは悲しいわね。」涙が目にどんどん溜まってきた。「みんな、私が何か言っても無視するんだよ。」もう涙は目に留まりきれなくなり、頬を伝わって降りてしまい始めた。箱からティッシュを2、3枚取って、叔母は私にくれた。目を拭いて、鼻をかんで、前を見ると叔母は私が座っているテーブルの向こう側に座っていた。「千春ちゃん、千春ちゃんは自分のこと好き?」「えっ?」私は、自分のことを好きだろうかとその時、多分初めて考えた。「私は気が弱いし、美人じゃないし、ちょっと太ってるし、、、好きになんかなれないよ。」また涙が出てきたのを覚えている。「千春ちゃん、神様は千春ちゃんの心の中にいて、いつも千春ちゃんのことを愛しているのよ。千春ちゃんが自分のことを気が弱いと思っても、美人じゃないと思っても、ちょっと太ってると思っても、神様はそんなこと気にせず今の千春ちゃんを愛してくださってるのよ。千春ちゃんは神様が愛してくれるように、自分を愛していればいいのよ。他の人がどう思ったって気にしなくていいのよ。」中学生の子供に友達なんか気にするなというのは無理だと思うのだが、叔母の言葉は温かくて、それを聞きたくて叔母のところに来たのだった。叔母は敬虔なキリスト教信者である。母もカトリックの家に生まれ育っているが、父が信者でないせいか、私は教会へ行ったことがあるものの、信者としては育てられなかった。叔母はいつも私の気持ちを誰よりも汲んでくれるのだが、叔母の言葉がよくわからないことは多々あった。「千春ちゃんのためにロザリオを祈ろうね。10回アヴェマリアを祈るからね。ええと、今日は何曜日だっけ? 月曜日だね。喜びの神秘だ。」叔母はロザリオを持って私のために祈ってくれた。正直言って、意味はわからないし、小さい頃から祈ってくれるけれどピンとこない。しかし、叔母の気持ちはとても伝わってきていたのだと思う。叔母さんが私に祈ってくれる時、とても安堵感を感じられるのだ。

 焦る気持ちがいっぱいで、やっと叔母の家にたどり着いた。玄関のベルを鳴らすとめぐみが出てきた。「お母さん、まだここにいるよ。おばさんも来てるし、教会の人たちが来て、今みんなでロザリオを祈ってるところ。」めぐみのお腹は出てきている。もう少しなのに、叔母は自分の孫の顔を見れないんだ。叔母が寝ている部屋に入ると、叔父さんと母もロザリオを持って、見知らぬ、多分教会の人らしい女性4人がベッドのそばで祈っていた。母もロザリオを持って祈るなんて、意外に感じた。私は祈りを、あんなに祈ってもらっていたのにちっとも知らないので、ただ正座をして座った。意識のない叔母の顔を見ながら座っていた。すると、突然、「待って。私を置いて行かないで。」叔母が目を開けて、かなりはっきりした声でこう言った。その場にいる私たち全員は驚いた。祈りを中断して、皆で叔母の顔を覗いた。確かに目を開けたと思うが、今は目を閉じて、力が抜けたように見える。叔父が叔母の手を持って、自分の頬を叔母の鼻のところに持っていった。その時、外で、多分庭にいるコロが、吠え始めた。私は窓のところへ行って様子を見ると、やはり吠えているのは叔母がとても可愛がっているビーグル犬のコロだった。「コロが空に向かって鳴いてる。」私がそう言うと、ふたりの教会の女性が見に来て、コロが見上げている空を眺めた。「サトシさん、田中先生に電話してくるから」と母が叔父に言っている声を聞いた。叔父とめぐみは鼻を啜っている。空を眺めていた女性のひとりが、「マリア様が川崎さんを迎えに来たのよ、天使を連れて」と言った。「きっとそうだわ。ロザリオをいつも祈っていた川崎さんだもの。」「ロザリオを最後まで祈ろう。」教会の女性4人で最後までロザリオを祈った。

 「山口さん、今夜飲みに行く?」いつも一緒に仕事の後飲みに行く同僚が誘った。もちろん行く。今日は金曜日で、夫は明日釣りに行くとかで準備をしているところだろう。勝手に準備して、勝手にさっさと寝て、勝手に川でもどこへでも行けばいい。同僚と飲んで、帰宅したのは12時近くだった。「まだ起きてんの?」「ちょっと帰りが遅くなっちゃったから、準備も遅くなっちゃってね。」愛想のない返事をしてきた。「お前、酒臭いぞ。」「飲んできたんだもん。」「飲み過ぎじゃないか。来年40だろう。不摂生してると、ツケが出る年代に入るんだぞ。」うるさい。本当にうるさい。頭にきて、これ見よがにしにビールを開けた。夫が呆れたとでも言うような顔をして私を見た。ざまあみろ。何がざまあみろだかわからないが、そんな気持ちがした。「あんたは、川ばかり行ってるね。ひとりで。誰かいるの?」「オレは、ひとりで川に行って、その川にいる魚を釣って、川の一部になりたいんだ。」バカ? 何言ってるんだか。「メディテーションだよ。いいメディテーションになるんだよ。木を見て、川の流れを感じて、じっと魚を待つ。魚は頭がいいからそう簡単に釣れない。勝負だね。普段のわんやわんやしたことは考えず、今釣れるか、今がチャンスか、意識はそこだけに持っていく。」幸せ者だね、あんたは。

 日曜日、夫は泊まりがけでどこかの川へ釣りに行ってしまったので、特に用があったわけではなかったが、叔母が亡くなって日もまだ浅い今、母の顔が見たくなって実家に行った。家に入って、食卓のテーブルの椅子に座ると、テーブルの上にロザリオがあった。「祈ってたの?」「えへへ、まあね。叔母さんが死んで、妹なのに、あの子の方が昔から熱心でね、、、。お母さんも昔は祈っていたし、叔母さんを見習ってまた祈ろうかと思ってね。供養にもなるかなとも感じて。」母は私に紅茶とお菓子を出してくれた。「結婚して何年になるんだっけ?」「11年。」子供はいない。来年私は40歳になる。「めぐみがね、出産後ここに来てもいいかって聞いてきたの。もちろんいいよって言ったよ。おじさんじゃあ、いいかもしれないけれど、母親代わりになるのはお母さんかなって思ってね。」めぐみはもういつ出産してもおかしくないらしい。和室には、かわいいタオルとちょっと古臭い柄の小さな布団があった。「何だか嬉しくて買ってあげちゃった。」照れ臭そうに母が言った。「孫、欲しかった?」と言った途端、昔叔母の前で泣き始めたように、涙が出てきた。「私たち、ダメかも。」「子供は授かりものだから、無理に産まなきゃって思うことないわよ。」「違う。私たちダメかも。」何がどうダメなのか、自分でもわからない。だから説明がつかない。ただダメなのではという気がしてしょうがない。「どんな夫婦も、多分どんな夫婦も、離婚の『り』の字が出る時を経験してると思うわよ。お母さんたちだって、あんな自分勝手なお父さんだもの、離婚してやりたいって思ったことあるわよ。」母は私たちのことを根掘り葉掘り聞かなかった。その代わり、ロザリオを触りながら、こう言った。「ロザリオを祈ってるとね、なんか、無垢な自分に戻れるような気がするんだよね。」無垢な自分って何?

 めぐみは無事男の子を出産した。彼女は病院から退院すると、直接母のところへ行った。私は2、3日置いて、めぐみに会いに行った。赤ちゃんに会いに行ったのかもしれない。「おめでとう。」「ありがとう。叔母さんにはお世話になってるんだ。赤ちゃんのお布団まで買って用意してくれて。」「ダサいでしょ?」「ふふふ、いいんだよ。叔母さんの愛情を感じて嬉しい。ねえ、赤ちゃん見に来たんでしょ。光って名前にしたの。」光くんは母が用意した、私にはちょっとダサく見えるお布団にお行儀よく寝ていた。「抱っこしてあげて」と言って、めぐみは寝ている光くんを抱き上げ、私の腕にそっと乗せた。小さい。でも結構重い。「意外と大きな寝息するんだね。あっ、おなら?」「生きてるね。」生きてる証拠だ。叔母さん、こんなかわいい赤ちゃんが生まれたよ。かわいい。小さくて、無防備で、無垢? 無垢とはこのことかもしれない。私も生まれた時はこんなだったのだろう。無垢な私とは、こういうことかもしれない。

 「赤ちゃんどうだった?」家に帰って夫が聞いてきた。「すごく小さくて、でも抱っこすると意外と重たくて、おならした。」「へえ、生きてるんだものな、おならぐらいするんだろうな、いくら赤ちゃんでも。」かわいかった。赤ちゃんがあんなにかわいいなんて、想像もしなかった。「子供、欲しかった?」今まで聞こうと思いながら、夫に聞くチャンスのなかった質問。「まだチャンスあるんじゃない?」「もう私、来年で40だよ。」「だから、まだチャンスあるんじゃない? 休み取ってハワイでも行こうか? 子作り旅行。」「ええっ!」あまりにも突拍子もないことを言うので、返す言葉がない。「オレは釣りに行き過ぎてるかもしれない。本当にオレにとってはメディテーションなんだけれどね。でも、一緒にハワイへ行こうよ。10周年記念してないし、新婚旅行で行ったハワイへまた行くっていうのいいんじゃない? パワースポット巡りとかさ。」ハワイかあ。行ってもいいかもしれない。少し違う場所で、いい空気を吸うのはいいかもしれない。「水着買っていいよ。オレも買おうかな。イタリアのおっさんみたいな赤いビキニとか。」「やめてよ。」その時、思い出した、新婚旅行中に海岸で見たおかしな夫婦。「ねえ、千春、覚えてる? すごい美人のナイスボディの人がさあ、かっこよく海から上がってきたんだけれど、ビキニのブラの方がなくなっていて、旦那らしいおじさんが、ハニー、ハニー、水着が取れてるよみたいなこと言ってさあ、、、。」それを今さっき思い出したところ。「覚えてるよ。カッコつけて上がってきて、上半身裸なのに気がついて慌てて、無くした水着探し始めて、、、。」ここで、ふたりで思い出し笑いが始まった。「あのおっさんも一緒に水に入って探し始めてさあ、、、。」夫の声が笑いでうわずってきていた。つられて私の顔もくしゃくしゃになり始め、「あの旦那、結構歳いってたよね。奥さんはずっと若かった。きっとお金持ちのおじさんと結婚したんだね。」「でさあ、ハニー、ハニー、って言って、ハハハ、それでさあ、、、。」夫は笑い過ぎて声が出なくなってる。「ハニー、ハニー、ここにあったよって、ハハハ、水着を手に持ってさあ、、、。」「やめて、おかしい、お腹が痛くなるぅ。」「水着をブラブラふってさあ、、、。」もうふたりとも笑い過ぎて話ができなくなっていた。こんなくだらない思い出話で私たちはまだ一緒に笑えるんだ。よかった。
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