第3話 出会い
文字数 3,131文字
「残念ながら、分からないな」
翌日の日曜、土汚れを落とした木刀を父親に見せた際の返答がこれだった。
思惑が外れ、視矢は失望の溜息をもらす。
木刀の材質は一般的に使われる赤樫や白樫ではなく、黒檀や枇杷でもない。書物と突き合わせても、結局何の木でできているのか判明しなかった。
父なら詳しいだろうと思ったが、剣道の専門家に分からなければ鑑定はお手上げだ。
「ありがと。んじゃ」
「そうだ。この前言ってた件ね」
用事は済んだとばかりにさっさと部屋を出ようとする息子を、父は穏やかな笑顔で呼び止めた。
「ホタル狩り、今度の週末にしたから。万障繰り合わせて頼むよ」
「は!? なんでそう、急なんだよ!」
「まだ一週間も先じゃないか」
家族皆でホタル狩りに行こうという話になったのは、珍しく全員が揃った一週間前の夕食時。真奈は乗り気だったけれど、視矢としては家族と出掛けるより大学の仲間と遊びに行く方がずっとよかった。
バイトで忙しくしていれば、そのうちうやむやになるだろうと思っていたのに、既に決定事項となっているとは。
物静かながら圧倒的な威厳で家族の和を説く父親に逆らえる程の気概は持ち合わせておらず、視矢は頭を掻いて不承不承頷いた。
「分かった。なんとか都合付ける」
「視矢」
今度こそ自室に戻ろうと立ち上がった時、またも引き止められる。げんなりして振り返ると、父は厳しい眼差しを視矢の持つ木刀に向けていた。
「それは恐らく霊木の類だと思うな。良い方ではなく、悪い方の」
警告めいた不吉な言葉に、視矢は昨夜腕に感じた痺れを思い出した。父親もこの木刀から何かを感じ取ったに違いない。
超常的な感知能力と言える程ではないが、武道家として人や物の発する気配は直感的に掴める。強い念や力を宿した道具が不可思議な現象を引き起こす事例を、視矢は父と共に時折目にしてきた。
「早く手放した方がいいね」
明言しないまでも、父は木刀に込められたものが人に仇なす邪気だと認識している。
「そうする」
視矢は木刀に目を落とし、口を引き結んだ。今度バイトへ行った時に、木の種類を鑑定できなかったと告げてさっさと返してしまうに限る。
もとより手元に置いておくつもりはないし、わざわざ厄介事を招くのは御免だった。
大学四年生は、履修単位さえ足りていれば毎日学校へ通わずに済む。
春から本格化した就職活動で早くも内定を獲得した学生がいる一方、勝負をかけるのは夏以降と決め、説明会程度にしか足を運ばない学生もいた。
当然のように、視矢は後者の部類に入る。バブル景気で求人倍率が軒並み高い昨今、さほど焦る必要もない。
「ここでそんなん見るの、やめねえ?」
最近開店したばかりの喫茶店『オーガスト』で、視矢はお勧めメニューのオレンジタルトをフォークで突いた。
連れ立って来た大学の友人はアイスコーヒーを片手に、新卒向けの会社情報誌を入念にチェックしている。売り手市場といえど、有名企業への就職はやはり狭き門だ。
「お前、のんびり構えすぎだろ」
「平気平気。どっか潜り込めるって」
『アリとキリギリス』のキリギリスを地で行く視矢を横目で見て、友人は情報誌に付箋を貼って行く。視矢はといえば、真面目に就職活動に勤しむ気はさらさらなく、じっと窓の方を見つめていた。
「なあ。窓際にいる子、いいだろ」
目線で示す先には、二十歳くらいの若い女性客がいた。連れはなく、通りに面したテーブル席に一人で座っている。やや幼い感じの可愛い少女で、清楚なセミロングの髪が日差しを受けて艶めく。
「よくこの時間にいるんだ。いつもあの席」
締まりのない顔で呟く様に、友人の男は呑気だな、と肩を落とした。
大方この店に入ろうと視矢が主張したのは、お目当ての子に会いたいがためだろう。
「気になるなら、誘えばいいじゃん。『一緒にお茶でもどう』って」
「茶店で誘えるか」
適当すぎる助言を聞き流し、視矢はタルトの最後の一かけらを口に放り込んだ。
するとそんなやり取りが窓際の席まで届いたかのように、不意に立ち上がった彼女が、彼らのテーブルの方へ歩いて来た。
目を丸くする男たちの前で、その少女は腰を屈めて視矢に話し掛ける。
「アナタ、持ってるでしょ。ちょっと来て」
「え?」
いきなり長い睫毛と澄んだ瞳が間近に迫り、視矢は瞬きも忘れ可愛らしい顔を凝視した。
質問自体、目的語がないので何を “持ってる” のかさえ分からない。とりあえずこの場で思い付くのは会計ぐらい。まさか、たかるつもりでもあるまい。
困惑しながら、否応なく腕を引っ張られた視矢はあたふたと椅子から立ち上がる。
残された友人は「がんばれよ」と無責任に小さく手を振っていた。
成り行き上、結局は彼女のパフェの代金も払って店を出た。しかし支払いが済んでも腕を取られたままで、目的は金ではないらしい。
喫茶店の外では、断続的なドリル音が鳴り響いている。オーガストの道向かいの建物は、現在解体工事中のためシートで覆われていた。以前はこじんまりした古本屋があったが、所有者の老人が亡くなり土地が売りに出された。
工事が気になるのか、そちらにじっと目を向けていた少女は、くるりと向き直り人差し指を突き付ける。
「死にたくなかったら、木刀、ボクに寄越しなよ」
「……木刀?」
予想よりぞんざいなしゃべり方に視矢は唖然とするものの、問題はそこではない。
多分彼女は、工事現場で掘り出された木刀の事を言っている。直接話をしたのは今日が初めてで、オーガスト以外で会ったことは一度もない。
なぜ、よりによって好みのタイプの少女の口から木刀の話が出されるのか。
「何のことか分かんねえけど、まず名前ぐらい教えて。俺は高神視矢。きみは?」
あれこれの疑念を一旦脇へ退け、にこやかな笑顔で尋ねた。
「……セレナ。ボクに興味持つのはやめた方がいいよ」
「脅し? つーか、木刀って何」
あくまでとぼけて見せると、セレナはどうでもよさげに手で遮る。
「せっかく忠告してやったのに。聞けないなら、しょうがないね」
「聞けないとは言ってない。ちゃんと説明して欲しいだけ」
視矢は立ち去ろうとするセレナの前へ回り、柔らかい口調で宥めた。
当初抱いていたイメージとのギャップに未だ心が追い付かないとはいえ、思いは冷めていない。せっかく会話できたのだから、このまま終わりたくなかった。
「……どうしようか?」
セレナは冷ややかに視矢を一瞥した後、目を閉じて独り言を呟き始めた。
頭の中で別の誰かと相談でもしているように、一人で「だけど」「でも」と否定の言葉を重ねる。近くに人の姿はないので、傍から見るとひどく奇妙だ。
「少しなら教えてもいいってさ。でも、また今度ね」
あっさりそれだけ言って、踵を返す。スカートとヒールで颯爽と走り出すセレナに視矢は半ば感嘆の眼差しを向けた。年頃の女性で翻るスカートをまったく気にしないのも珍しい。
「セレナ! 今度いつ会える?」
「大体この時間、オーガストにいるよ。ずっと見てたでしょ」
遠ざかる背に急いで確認を取れば、振り返った彼女が少しの遠慮もなく声を張り上げる。
ここ最近、彼が送っていた視線はしっかり気付かれていた。
(やべ……。これ)
視矢は自然と緩んでしまう口元を掌で覆った。心に芽生えた甘い感情の正体は当然知っている。
邪気が宿ると父がみなした木刀と、木刀を欲する少女。近付くべきではないと自分の中の何かが引き留める。
それでも危険な匂いがするからこそ、謎めいた彼女に惹かれる気持ちを抑えられない。
とりあえず木刀を主任に返すのはやめにした。今後のことを考える余裕もなく、まるで熱病にでもかかったかのごとく視矢は浮かれていた。
翌日の日曜、土汚れを落とした木刀を父親に見せた際の返答がこれだった。
思惑が外れ、視矢は失望の溜息をもらす。
木刀の材質は一般的に使われる赤樫や白樫ではなく、黒檀や枇杷でもない。書物と突き合わせても、結局何の木でできているのか判明しなかった。
父なら詳しいだろうと思ったが、剣道の専門家に分からなければ鑑定はお手上げだ。
「ありがと。んじゃ」
「そうだ。この前言ってた件ね」
用事は済んだとばかりにさっさと部屋を出ようとする息子を、父は穏やかな笑顔で呼び止めた。
「ホタル狩り、今度の週末にしたから。万障繰り合わせて頼むよ」
「は!? なんでそう、急なんだよ!」
「まだ一週間も先じゃないか」
家族皆でホタル狩りに行こうという話になったのは、珍しく全員が揃った一週間前の夕食時。真奈は乗り気だったけれど、視矢としては家族と出掛けるより大学の仲間と遊びに行く方がずっとよかった。
バイトで忙しくしていれば、そのうちうやむやになるだろうと思っていたのに、既に決定事項となっているとは。
物静かながら圧倒的な威厳で家族の和を説く父親に逆らえる程の気概は持ち合わせておらず、視矢は頭を掻いて不承不承頷いた。
「分かった。なんとか都合付ける」
「視矢」
今度こそ自室に戻ろうと立ち上がった時、またも引き止められる。げんなりして振り返ると、父は厳しい眼差しを視矢の持つ木刀に向けていた。
「それは恐らく霊木の類だと思うな。良い方ではなく、悪い方の」
警告めいた不吉な言葉に、視矢は昨夜腕に感じた痺れを思い出した。父親もこの木刀から何かを感じ取ったに違いない。
超常的な感知能力と言える程ではないが、武道家として人や物の発する気配は直感的に掴める。強い念や力を宿した道具が不可思議な現象を引き起こす事例を、視矢は父と共に時折目にしてきた。
「早く手放した方がいいね」
明言しないまでも、父は木刀に込められたものが人に仇なす邪気だと認識している。
「そうする」
視矢は木刀に目を落とし、口を引き結んだ。今度バイトへ行った時に、木の種類を鑑定できなかったと告げてさっさと返してしまうに限る。
もとより手元に置いておくつもりはないし、わざわざ厄介事を招くのは御免だった。
大学四年生は、履修単位さえ足りていれば毎日学校へ通わずに済む。
春から本格化した就職活動で早くも内定を獲得した学生がいる一方、勝負をかけるのは夏以降と決め、説明会程度にしか足を運ばない学生もいた。
当然のように、視矢は後者の部類に入る。バブル景気で求人倍率が軒並み高い昨今、さほど焦る必要もない。
「ここでそんなん見るの、やめねえ?」
最近開店したばかりの喫茶店『オーガスト』で、視矢はお勧めメニューのオレンジタルトをフォークで突いた。
連れ立って来た大学の友人はアイスコーヒーを片手に、新卒向けの会社情報誌を入念にチェックしている。売り手市場といえど、有名企業への就職はやはり狭き門だ。
「お前、のんびり構えすぎだろ」
「平気平気。どっか潜り込めるって」
『アリとキリギリス』のキリギリスを地で行く視矢を横目で見て、友人は情報誌に付箋を貼って行く。視矢はといえば、真面目に就職活動に勤しむ気はさらさらなく、じっと窓の方を見つめていた。
「なあ。窓際にいる子、いいだろ」
目線で示す先には、二十歳くらいの若い女性客がいた。連れはなく、通りに面したテーブル席に一人で座っている。やや幼い感じの可愛い少女で、清楚なセミロングの髪が日差しを受けて艶めく。
「よくこの時間にいるんだ。いつもあの席」
締まりのない顔で呟く様に、友人の男は呑気だな、と肩を落とした。
大方この店に入ろうと視矢が主張したのは、お目当ての子に会いたいがためだろう。
「気になるなら、誘えばいいじゃん。『一緒にお茶でもどう』って」
「茶店で誘えるか」
適当すぎる助言を聞き流し、視矢はタルトの最後の一かけらを口に放り込んだ。
するとそんなやり取りが窓際の席まで届いたかのように、不意に立ち上がった彼女が、彼らのテーブルの方へ歩いて来た。
目を丸くする男たちの前で、その少女は腰を屈めて視矢に話し掛ける。
「アナタ、持ってるでしょ。ちょっと来て」
「え?」
いきなり長い睫毛と澄んだ瞳が間近に迫り、視矢は瞬きも忘れ可愛らしい顔を凝視した。
質問自体、目的語がないので何を “持ってる” のかさえ分からない。とりあえずこの場で思い付くのは会計ぐらい。まさか、たかるつもりでもあるまい。
困惑しながら、否応なく腕を引っ張られた視矢はあたふたと椅子から立ち上がる。
残された友人は「がんばれよ」と無責任に小さく手を振っていた。
成り行き上、結局は彼女のパフェの代金も払って店を出た。しかし支払いが済んでも腕を取られたままで、目的は金ではないらしい。
喫茶店の外では、断続的なドリル音が鳴り響いている。オーガストの道向かいの建物は、現在解体工事中のためシートで覆われていた。以前はこじんまりした古本屋があったが、所有者の老人が亡くなり土地が売りに出された。
工事が気になるのか、そちらにじっと目を向けていた少女は、くるりと向き直り人差し指を突き付ける。
「死にたくなかったら、木刀、ボクに寄越しなよ」
「……木刀?」
予想よりぞんざいなしゃべり方に視矢は唖然とするものの、問題はそこではない。
多分彼女は、工事現場で掘り出された木刀の事を言っている。直接話をしたのは今日が初めてで、オーガスト以外で会ったことは一度もない。
なぜ、よりによって好みのタイプの少女の口から木刀の話が出されるのか。
「何のことか分かんねえけど、まず名前ぐらい教えて。俺は高神視矢。きみは?」
あれこれの疑念を一旦脇へ退け、にこやかな笑顔で尋ねた。
「……セレナ。ボクに興味持つのはやめた方がいいよ」
「脅し? つーか、木刀って何」
あくまでとぼけて見せると、セレナはどうでもよさげに手で遮る。
「せっかく忠告してやったのに。聞けないなら、しょうがないね」
「聞けないとは言ってない。ちゃんと説明して欲しいだけ」
視矢は立ち去ろうとするセレナの前へ回り、柔らかい口調で宥めた。
当初抱いていたイメージとのギャップに未だ心が追い付かないとはいえ、思いは冷めていない。せっかく会話できたのだから、このまま終わりたくなかった。
「……どうしようか?」
セレナは冷ややかに視矢を一瞥した後、目を閉じて独り言を呟き始めた。
頭の中で別の誰かと相談でもしているように、一人で「だけど」「でも」と否定の言葉を重ねる。近くに人の姿はないので、傍から見るとひどく奇妙だ。
「少しなら教えてもいいってさ。でも、また今度ね」
あっさりそれだけ言って、踵を返す。スカートとヒールで颯爽と走り出すセレナに視矢は半ば感嘆の眼差しを向けた。年頃の女性で翻るスカートをまったく気にしないのも珍しい。
「セレナ! 今度いつ会える?」
「大体この時間、オーガストにいるよ。ずっと見てたでしょ」
遠ざかる背に急いで確認を取れば、振り返った彼女が少しの遠慮もなく声を張り上げる。
ここ最近、彼が送っていた視線はしっかり気付かれていた。
(やべ……。これ)
視矢は自然と緩んでしまう口元を掌で覆った。心に芽生えた甘い感情の正体は当然知っている。
邪気が宿ると父がみなした木刀と、木刀を欲する少女。近付くべきではないと自分の中の何かが引き留める。
それでも危険な匂いがするからこそ、謎めいた彼女に惹かれる気持ちを抑えられない。
とりあえず木刀を主任に返すのはやめにした。今後のことを考える余裕もなく、まるで熱病にでもかかったかのごとく視矢は浮かれていた。