第1話

文字数 1,925文字

 学生時代から五キロ増え、ダイエットをしようと決めたのは、初夏の匂いのする季節だった。
 これから暑くなるのを見越して、運動は早朝に行う。
 壁の薄いアパートで朝早くから動くのは現実的ではなく、近所の公園にあるランニングコースを利用することにした。
 まだ町のほとんどが寝静まっている時間に、朝もやの公園を訪れる。
 眠さにボンヤリとする頭を欠伸一つで起こし、軽くストレッチをしてから走り出す。
 公園は広く、コースは一周するだけでもなかなかの距離がある。
 自分に課したノルマは五周。速度はジョギング程度。慣れてきたら速度を上げたり、ノルマを増やしたりするつもりだが、それは秋までお預けだ。夏の間は無理をしないつもりだった。
 やけに大きく聞こえる鳥のさえずりに、気の早い蝉の声が重なる。夜勤明けなのか、それとも早番勤務なのかは分からないが、公園の横を通り過ぎていく人の姿が見える。
 半周を過ぎたころ、前方から大柄な男性が走ってきた。
 なかなかに恰幅の良い男性は、こちらに気づくと爽やかな笑顔を浮かべた。

「おはようございます」
「おはようございます」

 笑顔が交差し、離れていく。
 こんな朝から走っている人もいるのだと思うと同時に、一人ではないと言う安心感があった。もしかしたら、男性もダイエット目的で走っているのかもしれない。
 一周目が終わる頃には、息が少々上がってきていた。
 緩く走っているとは言え、一周が長いためどうしても呼吸が乱れてくる。
 うっすらと額に浮かんだ汗をタオルで拭い、腰元のポーチから水を取り出して一口飲む。冷蔵庫から出してしばらく経っているため温かったが、それゆえの喉通りの良さがあった。
 一周目のときとほとんど変わらない位置で、先ほどの男性と再び出会った。
 男性が笑顔のまま頭を下げ、こちらも同じように会釈を返す。
 ペコリと下を向いたまま交差し、離れていく。
 男性の息は乱れていなかった。走り慣れているベテランの貫録を感じ、こちらも負けじと二周目を走り終える。
 男性とは、三週目もほぼ同じ位置で遭遇した。ちょうど斜め前方の木々の間から真っ赤なポストが見える位置だったので、間違いない。
 今回も男性の息は乱れていない。一周目から変わらない、余裕の笑顔を浮かべている。
 凄いと感心していると、今度は年配の女性が走っているのに気付いた。
 颯爽と走る姿に見とれていると、目が合った。

「おはようございます」
「おは……ようっ、ございます……」

 爽やかな笑顔と共にかけられた挨拶に、途切れ途切れに返事をする。
 そろそろランナーが増えてくる時間なのか、年配の男性や若い女性と出会う。そのたびに、上がる息を押さえつけながら挨拶を返す。
 四週目では、男性と年配の女性が並走していた。もしかしたら、二人はランニング仲間なのかもしれないと思いつつ、笑顔で頭を下げる二人に会釈を返す。
 斜め前方には真っ赤なポストが見えるため、今回も同じ位置で出会ったのだろう。つまりは、走る速度はこちらと同じはずなのだ。
 それなのにあれほど息が乱れていないなんてすごい。
 そんな羨望にも似た視線を背後に送れば、先ほどすれ違った二人と目が合った。どうやら同じタイミングで振り返ってしまったらしい。気まずさに顔をそらすが、すぐに網膜に焼き付いた光景の違和感に気づいた。
 足を止め、振り返る。
 二人はまだこちらを見ており、先ほどすれ違った時と全く同じ笑顔を浮かべている。
 いや、違う。二人はこちらを振り返っているわけではない。完全に後ろを向いたまま走っていた。
 足元に目を向けるが、つま先は進行方向に向いている。
 つまり、顔だけが百八十度回転してこちらを見ている状態なのだ。
 喉の奥で小さな悲鳴を上げたとき、後ろから「おはようございます」と声がかかった。
 見れば若い女性が笑顔で走っている。引き締まった体には無駄がなく、惚れ惚れするほどスタイルが良かった。
 一瞬だけ見とれ、すぐに彼女に危険を知らせようと口を開く。
 彼女が真横に来た瞬間、消えたと思った。そう錯覚するくらい、彼女には横幅がなかった。
 紙のようなものがペラリと通り過ぎ、笑顔の彼女と目が合う。
 後頭部があるはずの場所にも、彼女の顔があった。
 よく考えれば、この公園ですれ違った人全員、真横を通るときに厚みがなかった気がする。
 ゾワリと鳥肌が立ち、震える脚をなんとか動かして公園から離れた。


 それ以来一度もそのランニングコースには行っていないが、たまに朝早くに公園のそばを通りかかることがある。
 今日も走る人の数は多いが、果たして何人が本物のヒトなのだろうか。
 そう考えるたびに、あの日出会った人々の笑顔が脳裏をよぎるのだった。
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