幽霊の仕事も楽じゃない

文字数 2,100文字

 草木も眠る丑三つ時。
 柳の下の幽霊に、一人の男が近づいてきた。
「あなたは幽霊ですね?」
「そうだ……」
「折り入って頼みたい仕事がありまして……」
「仕事だと? どういうことだ?」
「あっしは何でも屋ですが、厄介な客が一人いまして……」
「どんな?」
「根っからの善人で、これまで人から恨まれたことがない、一度でいいから恨まれてみたい、って言うんです」
「変な客だな。いくら善人とはいえ、一人くらいは恨んでいる人間もいるだろう」
「そう思って、片っ端から聞いて回ったんですが、誰もが、あの男は善人だ、恨む人間などいない、って言うんです」
「そうか……」
「それで、すっかり困ってしまって……」
「なるほど……で、頼みたい仕事とは何だ?」
「その男を恨む仕事を引き受けてもらえませんか?」
「変な話だな」
「その通りですが、恨む仕事にかけては幽霊の右に出る者はいません。困っている人間を助けると思って、何とか……」
 深く頭を下げる相手を見て、幽霊は言った。
「頼まれてやる仕事ではないが、まあ、今回は特別に引き受けるか……」
「ありがとうございます」
 何でも屋はその男の名前と住所を伝えると幽霊に言った。
「じゃあ、よろしく頼みます」
「分かった。やってみよう」

 翌日の深夜。
 幽霊はその男の家で枕元に立ち、恨めしそうな声で言った。
「うらめしやー」
 しかし、男は目が覚めない。
「熟睡しているな」
 何の不安もなさそうな安らかな寝顔だ。
「どうやらかなりの善人のようだ」
 幽霊は気を取りなおして、声を大きくして言った。
「うらめしやー!」
 それでも男は起きない。
「おい、起きろ!」
 幽霊が怒鳴ると、ようやく男は目を覚ました。
 幽霊は改めていつもの小さめの声で言った。
「うらめしやー」
「あっ! あなたは幽霊ですね?」
 男は嬉しそうな顔で言った。
「そのとおりだ。うらめしやー」
 男は布団に正座して丁寧に言った。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「何だか調子が狂うな……礼なんかいい。うらめしやー」
「恨まれてみたかったので、その希望が叶うのは嬉しいのですが、一体、どんな恨みを持っていらっしゃるのですか?」
「何だと? そんなことを聞かれるのは初めてだ。一つくらい人から恨まれる心当たりはあるだろう」
「いえ、全くないんです」
「そんなはずはない、何か、人に冷たくしたことはないのか?」
「そうですねえ……そういえば、あります」
「そうだろう、どんなことだ?」
「半年ほど前、大雨の日に傘をさして歩いていると、おばあさんが空き家の軒下で雨宿りをしていたんですが、私は急ぎの用があって、そのまま通り過ぎたんです」
「そうか、お前は酷い男だ。そのおばあさんは、雨に濡れて風邪をひき肺炎で亡くなったに違いない……」
「いえ、私は用を済ますとすぐに戻って、おばあさんに傘を渡しました。膝が悪いようだったので、家までおぶって連れて帰り、とても感謝されました」
「なんだ、そうか……他に何かないのか? よく思い出してみろ」
「そうですねえ……そういえば、一年ほど前、私の家の前で空腹で倒れていた旅人が、私に、何でも良いので一口食べ物はありませんか、って尋ねたんです」
「そうか……お前は善人だから、何か食べさせたのだろう?」
「いえ、私は貧乏で、その時は何も食べるものがなかったので、何もない、と言ったんです。そうしたら、その旅人は、ばったりと倒れこみました」
「そうか! その旅人はそれで命を落としたのだな?」
「いえ、私は庄屋さんの家まで走って、何か食べ物をいただけませんか、とお願いしました。庄屋さんは事情を聞いて、食べ物をくれました。おかげで、その旅人は元気になりました」
「それにしても、庄屋は貧乏人のお前の願いをよく聞いてくれたものだな」
「はい。私が庄屋さんにお礼をしたところ、庄屋さんは、お前はいつも人のために身を粉にして働いている。私もたまには人のためになることをしないと、地獄に落ちるからな、と言ってました」
「そうか……お前は何という善人だ……」
「いえ、ただの貧乏人です」
 男の善良さと謙虚さに、幽霊は思わず胸が熱くなった。

 こんなことではいかん……。
 幽霊は少し考え込んでから、意を決したような表情で男に言った。
「私がお前を恨みたくなるようなことを、何かしてくれ」
「どうすれば良いですか?」
「例えば、幽霊を馬鹿にするようなことを言うとか……」
「わざわざ来ていただいたのに、そんな失礼なことはできません」
「何か考えてくれ。そうでないと仕事にならない……」
「今は夜中ですから、仕事のことは忘れて休みましょう」
「お前と話していると、恨みを仕事としてきた自分が、小さな人間のように思えてくる……」
「そんな薄着では寒いでしょう」
 男はそう言うと、枕元にたたんでおいた薄手の着古した上着を幽霊に手渡そうとした。
 幽霊は過去の全ての恨みが消えてなくなりそうになったが、必死にこらえてつぶやいた。
「幽霊の仕事も楽じゃない……」
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