第1話

文字数 2,491文字

 昨日の昼から降り続いた雪は、今朝寮を出るときにはすっかり止んでいた。
 辺り一面銀世界。そこに一歩一歩足を踏み入れる。後ろを振り返ると、薄っすら暗い中でも私が歩いた跡がはっきりと見える。新たな年がいよいよ幕を上げたのだ。
 初日の出を拝むためではない。正月早々、このクソ寒い中、ジャンパーに両手を突っ込みながら、私は勤務先の刑務所へと向かっていた。私はそこに勤める刑務官であり、今年も正月勤務であった。
 多くの日本国民が休んでいる中、働かなければならないというのは正直気が重い。正月は受刑者の刑務作業は休みであるが、我々刑務官はそんな日でも、奴らを監視しなければならないのだ。巷では働き方改革が声高に叫ばれているが、我が刑務所でも積極的に推し進めていくべきである。今日みたいなおめでたい日に我々が働かなくてもいいように、盆正月くらいは受刑者たちを実家ヘ帰すくらいの思い切った改革をしてもらいたいものだ。
 去年も正月勤務であり、プライベートで正月らしいことは一切しなかった。今年も何もせずに終わるんだろうなと思っているうちに、とうとう刑務所の門の前まで来た。
 このまま正月らしいことを何もしないまま新年初勤務に臨むことを考えると、何だか癪に障った。時刻は午前5時過ぎ、勤務開始までまだ1時間近くあった。
 私は再び歩き出した。途中何度か風がヒューっと吹いた。自販機で買った熱い缶コーヒーをカイロ代わりにして寒さを凌いだ。20分程かかって、私は山の麓にある神社の鳥居の前まで辿り着いた。
 鳥居をくぐると、石段を登り、手水舎へと向かった。柄杓で水を掬い、両手にかけた。柄杓を元の位置に戻すと、素早くハンカチで両手を拭った。
 既にいくつかの足跡が拝殿まで続いていた。私もその後を辿って、拝殿へと向かった。
 鈴を鳴らし、お賽銭を投げ入れ、今年1年の無事を願った。
「どうか今年は受刑者たちからあまり馬鹿にされませんように、そして彼らがまともな人間になりますように」
 参拝を終え、鳥居から出ると、来た道を戻って勤務先へと向かった。
 刑務所に到着したのは、勤務開始10分前だった。更衣室で同僚と新年の挨拶を交わした。
「いつももっと早く来るのに今日はどうしたんだい」
 同僚が言った。
「通勤途中に初詣に行ってきたんだ」
 私は答えた。
「新年早々、元気だね」と同僚は言いながら更衣室を出ていった。
 刑務所の廊下で受刑者たちとすれ違った。私は彼ら一人一人に「明けましておめでとうございます」と挨拶した。まともに挨拶を返してくれたのはごく少数であった。無視されたり、「おとしだまぁぁ!」なんて言ってくる輩はまだマシな方で、酷いのになると、「俺の刑期が明けたのかい、だったらさっさとここから出してくれよ」などと言ってくる始末である。お前は無期懲役の意味が分からないのか。
 表ヘ出ると、ちょうど日が昇り始めた頃であった。こんな凶悪犯だらけの刑務所からでも初日の出が拝めるということに、私は心底感動した。と同時に、お前らのようなろくでなしにもお天道様は平等に接してくださるんだぞ、感謝しなさい、と受刑者たちを説教したい気分になった。
 受刑者たちが朝食を終え、トランプや花札に興じている傍ら、私は10時からの餅つきの準備を始めた。受刑者たちの参加は自由である。
 もち米を蒸したり、あんこを茹でたり、臼や杵を広場ヘ運んだりと大忙しであった。
 10時の開始にはどうにか間に合った。広場には30人程の受刑者が集まっていた。
 主に男たちがつき上げまでを担当し、女たちはつき上がった餅を千切り、形を整える役割を担った。男勝りな女が、俺にもやらせろと入れ墨入の腕を捲り上げ、杵を引っ掴んて餅をつき始めたり、逆に男が意中の女の隣を陣取りたいがために、餅の成形に加勢する様子も見られ、何だか微笑ましかった。
 餅つきに飽きた受刑者数人が、広場に積もった雪で雪合戦を始めた。特に意に介さず見守っていた所、突然1人の受刑者が成形した餅を投げ始めた。私が注意したら、「この方が勝敗が分かりやすくていいだろ、餅が体にたくさん付いてた奴の負けだ」と言い放ち、私にも投げてきた。この受刑者は他の刑務官に連行されていった。今日のこいつの昼と晩の飯は当然抜きである。食べ物を粗末にした罪を、腹を空かしながら反省するがいい。
 餅がつき上がると、あんこやきな粉に漬けたり、酢餅にしたりして、皆で食した。私も食べた。餅がしっかりつかれていて、食感が良い。さすがは、子どもの頃から喧嘩に明け暮れた、パワーが有り余った連中がついただけのことはある。
 私が餅の出来栄えに感心していると、1人の女受刑者から悲鳴が上がった。そして隣にいた男受刑者に向かって「お尻撫で回すのやめてよ!」と叫んだ。男の方は「餅と間違えたんだよ」と言い訳をしていた。当然こいつも連行されていった。
 後片付けをしながら、多くの受刑者が口々に、楽しかっただの満足しただの餅が美味かっただの言っているのを耳にした私は、餅つきを開催して良かったと思った。と同時に、いつの日かそのような高揚感を、塀の外で味わえるように、今年1年更生へ向けてしっかり努力してほしいと願った。
 午後からは受刑者たちをひたすら監視するのみであった。その間特に問題を起こす受刑者はいなかったので、予定通り16時の勤務終了時刻に上がることができた。
 道路の雪は人や車が通った跡でぐちゃぐちゃになっていた。長靴が立てるべちゃっという音で私の体がブルッと震えた。両手をジャンパーのポケットに突っ込むと、右手が今朝購入したすっかり冷めた缶コーヒーに触れた。その瞬間、今朝の初詣で、受刑者に馬鹿にされないように願ったのに、早速餅を投げつけられたということに考えが及んだ。しかし考えているうちに次第に眠くなった私は、早朝だったから神様はまだ寝ていたんだろうと結論づけたきり、考えるのをやめた。さっさと帰ってシャワーを浴びて暖かい布団にもぐり込むべく、私は寮への道を急いだ。

〈完〉
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み