文字数 2,149文字

 古来より、姿を映せし諸々は、異界へ通じていると言われている。瀛州(えいしゅう)に住まうヒトビトは、この近くて遠い異界のことを扶桑(ふそう)と呼んだ。
 あちらへ住まう空蝉(うつせみ)どもは、絶えず我らを絡め取ろうとしている。だから月のない夜は、うっかり姿を映してはならない。(こん)を奪われてしまうから。
 真しやかに囁かれる民話はしかし、小馬鹿にしたものではないのかもしれない。何故ならば、取り替えられたヒトビトは姿の崩れた化物へと変じるのだから。
 空蝉は文字通り空ろな存在で、だからこそ我らの魂を奪い去る。そうして、我らと成り変わろうするのだ。
 (はく)のみが残された者は、姿こそ暫く保つものの、やがて(うつほ)へと変じてしまう。それらを退治る方士もいるようだが、その正体を知る者はいない。彼らはこの国の皇尊(すめらみこと)今上(きんじょう)陛下の直属とされた、秘された存在である。
 とはいえ、常日頃から誰もが警戒しているはずもなく、ヒトビトは呑気に世の泰平を謳歌していた。
 主上(おかみ)の威光は国土の隅々まで行き届き、長らく戦乱からは遠ざけられていることも大きいだろう。ヒトビトは生産に励み、商いに励み、存外豊かな暮しを満喫している。
 全国へ張り巡らされた、主要都市を繋ぐ街道沿いには流通の要所が設置され、兎に角いろいろな物が行き交った。整備された問屋場に本陣、脇本陣を中心とした宿駅に、旅籠や木賃宿、茶屋や商店が軒を列ねる。彼ら管理する者が暮らしていくための設備も増えて、そこは一つの町となる。
 そんな国土の片隅の宿場町、ヒトビトの往来も多く賑わうその場所に、評判の香具師(やし)がいた。
 近頃は見世物を主体とした商いをする者も多い中、彼は筒袖と括袴に大きな薬箱を背負った昔ながらの薬師(やし)として、きちんと活動している稀有な者でもある。今では彼をして香具師(こうぐし)と呼び、その他をまとめて香具師(やし)と称するくらいだ。当人は、香具売(こうぐう)りと間違われるから嫌だと顔を顰めているけれど。しかし、彼が根付いた理由も理由だ。こうした勘違いをする者がいるのも、仕方がないかもしれない。
 かつての宿場町では湯屋に湯女(ゆな)がつき物だったが、今では飯盛女(めしもりおんな)を抱える丹柱(にばしら)旅籠(はたご)が主流らしい。それらを横目に裏町を行くと、目当ての青楼(せいろう)が見えてきた。こちらは、通り過ぎてきた艶やかに下品な丹柱と違い、黒檀のような柱が存在感を出している。
 御免よ、と遣戸を開けて訪えば上がり框の向こう、奥から覗いた若い娘が歓声をあげた。
「ちょうどいいとこ、クロさん! 白粉(おしろい)切らしちまって、待ってたの!」
「おや、そりゃ間が良かったな。銀朱(ぎんしゅ)に似合いそうな、良い紅も入ってるぜ」
「それも見せて。主人(あるじ)ー!」
 上がっておいでな、と奥から気怠い声が応じて、嬉々とした娘に手を引かれた彼は、履物を脱ぎ捨て上がり込む。
 この国の青楼は、半人(はんじん)たちの住処だ。
 瀛州のヒトビトは、誰しも身体の何処かへ生まれながらに(いん)を持つ。けれど時折、印を持たずに生まれる子もあるのだ。そうした子は、成り変わった空蝉がヒトとの間に成した子、ヒトの皮を被った人ならざるモノとされる。爪弾きにされ、真っ当に生きることも難しくなる半端者だ。故に、半人と呼ぶ。
 しかし反面、彼らに見目の佳い者は多く、総じて身が軽い。芸で身を立てるほどの才溢れる者も少なくなかった。青楼はそんな彼らの受け皿の一つで、この町のものは特に有名である。楼主含めて上物だらけ、という意味で。
 ふわふわと、鼻先に刻み煙草の香りが届いた。辿り着いた奥座敷の長火鉢の傍らで、ひらりと白皙の美人が手を振る。
 束ね髪を長く背に垂らし、黒の羽織に艶やかな長着。頬杖ついた手には長煙管。瓜実(うりざね)の頬も薄い唇も大層見目麗しく、時折客に本気で口説かれもするが。
 これで、男である。
 よく見れば手足は男のそれであるし、華奢ではあるが、薄赤く印明(いんみょう)が覗く首筋も、女ほど細いわけでもない。艶やかな女物の反物で仕立てられてはいるが、長着だって普通に男物。それなのに、誰もが美女と見紛うのだ。
「銀朱、皆を呼んどいで」
 はぁい、と軽やかに踵を返して娘が階段へ向かうさまを何気なく見送って、彼はちょいと嘆息する。
「ランさん、相変わらずだねぇ」
「クロこそ、相変わらずの男っぷりじゃないか。そこかしこで噂になってるよ」
 嫌みか、と半眼向ける彼に、美貌の楼主はからからと笑う。
「暫く見かけなかったが、仕入れにでも行ってたのかい?」
「まァな、シュウに色墨頼まれた序で」
 背負った薬箱を下ろして留め金を外すと、中の小抽斗から巻紙の信書を取り出した。
「こいつも序で。婆様からランさんへ」
 何とも面倒そうに手を伸ばし、楼主は無造作に放って書面を開く。墨跡鮮やかなそれを目でなぞり、一つため息を落とした。そうして、どうやら暫く騒がしくなりそうだ、と。ひらりと信書を振ってみせたのだ。
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