第1話

文字数 1,806文字

「信じられないよな。ここまで来たのはきっと俺たちだけだぜ。見ろよ、あれ。あんなにブラックホールが近い」

彼はそう言って右手の方を指差す。禍々しいくらいの渦巻き。今まで見てきた銀河系のどの輝きもそれに飲み込まれればひとたまりもない。光さえ逃れられない重力。

「巻き込まれないように、気をつけないとな」

男は白々しく言って、電気タバコに点火した。その指先が震えているのを私は見逃さなかった。左の薬指には指輪を外した後がある。地球の古い習慣らしい。結婚、とかいうものに縛られていた原生人類の風習は私にはよく分からない。

「もう……通信も届かない。終わりだ」

言って私は助手席で呆然と外を眺めた。
誕生日なんて形骸化したものに男ははしゃいで私を宇宙へと連れ出した。ヒトが火星へと移り住んで100年になる。男はその最初の探索隊の孫で、まあ由緒ある家というわけだ。
私は、探索隊とは関係なくその後火星に送られた大規模移民の二世である。

百周年記念パレードの途中で男に出会った。というのは建前で、男に偶然を装って近づくように金をもらって動いていた。おそらく、男のスキャンダルを狙う政敵だろう。だが、誰であろうと興味はなかった。男が妻帯しているということも関心がなかった。
男なんて単純な生き物だ。だからドライブに誘われても断る理由はなかった。

「もう最後だ……ヤーナ、本当にすまない」
「ふざけるなよ…こんなところであんたと心中なんて予定外だ」
「予定外?」

男は意外そうに問い返した。「どういうことだ」
私は笑った。全くどこまでもおめでたい奴だ。

「あんたもここで終わりだ。畜生、こんなはずじゃなかったのに。あんたみたいにボケボケしたやつにのこのこついてきた私が馬鹿だった。これじゃあマードックの思い通りだ」
「マードック?マードック火星防衛副士官?」
「他にどのマードックがいるっての。そう、十中八九あんたのスキャンダル狙いでね。くだらない、今度の選挙の前にリークするように仕掛けていたはずだ」
「ヤーナ。でも言っただろう?僕は君を友達だと思っていると」

私は鼻を鳴らして笑った。

「誰がそんなこと信じる?例え手を出さなかったとしても、何度も密会してる。あんたの髪の毛のサンプルは取ってある。それで体液でもなんでも作って偽造すればよかった」
「そんな……信じていたのに」

これだからボンボンは。私は頭を抱える男を哀れに思わなくもなかったが、それよりもそんな甘い考えで生きていける環境の生ぬるさに吐き気を覚えた。いつだってそうだ。可哀想な立場の人間に施しを与えようというその甘さにムカついていた。

「一度だって友達と思ったことはない?少しだって騙すことに罪悪感を覚えない?」
「私たちは対等じゃない。あらゆる意味で。あんたみたいに恵まれた生活を送ってこなかったおかげで、少しは鼻が効く。あんたみたいに無防備じゃ生きてられない。だから私にはあんたから奪う権利がある。今まで与えられなかった分を」

言い終わって私はせいせいした気分だった。死ぬのは最悪だが、火星の重要人物を巻き添えになんて、大スキャンダルだ。
男は頭に両手を当てて顔を伏せたままだった。ようやくゆっくりと顔を上げる。怒り?悲しみ?男がどうするか私は少しの興奮と恐れを持って見守った。だがこちらを向いた男の顔はそのどれとも違っていた。
いや、今まで私が見たどんな顔とも違っていた。

「最後に本音が聞けてよかったよ。これでこちらも心置きなく騙せる」

そう言って、男は自分の制服の右胸元を指でトントンと叩いた。
サッと視界が頭上から明るくなる。目を丸くして見たそこは、宇宙船の停泊所だった。出発した時から少しも変わりがない位置。

「どういう……」

呆然とする私の前で男は電子画面を操作して周囲の扉を開けた。立ち上がると、グイッと前髪をかき上げる。その冷めた瞳。そんな瞳は今まで一度も。この男はどうしようもないあまちゃんで。

「シミュレーションもしないでいきなり出るわけないだろ?」

そう言って私を見下ろす。その顔は確か冷酷な戦略家のそれだった。

「マードックに会うのが楽しみだよ」


男はタバコを片手に吸いながら宇宙船を降りていく。その向こうに控えるのは同じく制服を着た男の部下たち。

「ちょ……」

思わず言いかけた私を制するように男が振り返らず左をまっすぐ指差した。思わず見たそこには、私の顔が丸くカーブした天体の壁の大画面に映し出されていた。
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