特攻を選んだ男の半生と母

文字数 5,487文字

 紺屋町の桟敷で井の頭マサは夫勝造と阿波踊りを見ている。
義弘との再会を果たした翌年からマサは、四十年の歴史の空白を埋めるように、年に一度
この時期、徳島へ帰ってきた。義弘の存在はマサの晩年をぽっと灯したようである。

 大正十五年田村義弘は、母マサの実家佐賀県藤津郡太良町で産声をあげた。父秋太郎は二十歳、母マサは十八歳であった。秋太郎は唐津の窯元へ修業に来ていてマサと知り合い恋に落ちた。が、役所勤めで堅物祖父貞七は認めようとしなかった。
 出産の後、二ケ月が過ぎたころ秋太郎は、流行病で突然夭折した。駆けつけた貞七は、あたふたと葬儀を済ませ、マサと義弘を連れて秋太郎の古巣徳島へ帰った。こうして運命の子義弘は、非嫡出子のまま、木の葉のように小川から大河へと流されていった。
 マサは、見知らぬ土地で悲しむこともままならず、ただ義弘の成長を楽しみに生きていた。
「若いもんはええのう、よい音させておこんこ(おしんこ)食べて」 歯の悪い姑ヌイは言う。ご多分に洩れず嫁と姑は義弘を中にして平行線のままである。錆びたレールの交わることは遂になかった。徳島へ来てやがて二年が来るある日

「マサはん、あんたはまだ若い亭主もおらんのに、貧乏のこの家でいつまでも辛抱しておることはないわ。義弘はわしらがちゃんと育てるけん佐賀へ帰りな」

 義父貞七に引導を渡され、半ば強制的に追い出された。マサは、故郷へは帰らず船場の乾物問屋(吉本)へ住み込みの女中奉公に入った。事情を知った女将さんはいつも気にかけてくれるただ一人の理解者だった。久しぶりにお暇が出た日は、木陰から家の陰から、義弘の成長を垣間見た。姿を現すことも声を掛けることもしなかった。祖父母の愛を一身に受けて、極めて健やかに育ってゆく我が子のさまを複雑な思いで見ていた。マサの故郷からは「早く帰ってこい」とひっきりなしに手紙が来ている。思案し悩んだ末、佐賀へ帰ることにした。明日は徳島を離れるという前日、義弘の姿を求めて長期戦の覚悟で店を出た。六歳になった義弘は、佐古の隣家の庭で、遊んでいた。あの小さかった手に棒切れを持ち振り回していた。今生で二度目の別れが迫っている。涙も鼻も出っ放し、全霊で脳裏に義弘の姿を焼きつけた。この世には神も仏もない。あるものかとその夜は遂に眠れなかった。

 昭和六年七月、後ろ髪を引かれる思いで、小松島港から大阪行きの粟國共同汽船「田村丸」に乗った。船は海原をひた走る。船内に入る気になれず海と言ういうより泡立つ波ばか見ていた。波の彼方から誰かが微かに呼んでいる。絶望感はあったが死のうとは考えてもいなかったのに、逢魔がどきというのか?このまま飛び込んだらいいのだと誰かがずっと囁いてくる。すこし吐き気がしてふらっいた。
 気がついたら、男の人に抱き抱えられていた。飛び込もうとしているように見えたのだろう。マサを助けた井の頭勝造は、小豆島の生まれで早くに父親と死別し、最近母親にも旅立たれ葬儀を済ませたばかりだった「縁は異なものというか、奇縁というか、二人はそのままマサの故郷の向かった。マサの実家は漁師をしている。両親も一人の兄も、勝造のことを命の恩人ともてなし近 くに新居を構えてくれた。勝造は漁師になるのを断り、身に付いている大工で生計を立て ることにした。マサは井の頭マサになった。細やかな暮らしながら昭和七年に長男、二年 後に二男、続いて三男、しばらくして長女に恵まれた。勝造は大工としての技量はそこそ こであったが、妻に優しく申し分ない親父だった。こうしてマサは義弘のことを思い出す ことはあっても、涙に暮れることもなく、あの子は外つ国にいるものと諦めていた。
 義弘は貞七(祖父)ヌイ(祖母)と叔父(良雄)と共に豊かではなかったが、大裏丁( 佐古の旧名)で伸びやかに暮らしていた。愛日小学校(現佐古小)では首席を通した。難 なく徳島中学校(現城南高校)に入学し、人も羨むE組に入り花形のボート部で心身を鍛 えた。負けずきらいで、残念ながら弱者を思いやる心は持ち合わせていなかった。
 通学は徒歩で佐古から眉山の山越えが通学路だった。ある日、生意気な新入生がE組に 入った「それっ」と上級生に痛い目(本人曰く半殺し)にあわされた。後日、体調を整え て目には目の返礼をした。これは終生通した義弘の流儀であり、悔いない学生生活を送っ たようである。中学四年生の秋母とも慕う祖母ヌイが他界した。一日中泣き通した義弘は「一生分泣いたけんもう泣かん」以来、生涯冷徹な一面を秘めた寡黙な男になった。徳島 民報新聞(1954年徳島新聞社が吸収)の記者だった叔父はちょうどその頃結婚した。
 昭和十六年に大東亜戦争(当時はそう呼んでいた)が勃発し、戦時中に迎えた五年生は、 進学するもの、家業を継ぐものと道は別れた。義弘にとっては初めての大きな岐路だった。 大学進学は既に諦めている。が、海兵(海軍兵学校)をめざして入学要項を取り寄せた。 しかし、非嫡出子は願書さえ受理されなかった。考えても見なかった現実に、彼は己の生 い立ちを改めて認識し同時に両親を恨んだ。消沈の彼に関係なく十八年三月事なく、名門 徳島中学校を卒業
「新婚の叔父には世話になりたくない」
それだけで代用教員の道を選ぶ。
 はじめての任地は上勝小学校。二年生の担任になった。大自然の懐で、戦時中と思えないほど穏やかな時を過ごした。赴任中の八月、台風がきて水嵩が増した勝浦川へ義弘は、若気の至りで、肝試しを盾にいきなり飛び込んだことがあった。
 後日談になるが上勝温泉でその話をする老人がいた。そこに居合わせたこれまた老婆が
「私、父と見ていたから知っているの、それは二年生の時の担任多村先よ。見ている人たちが『アッ』と、驚いている間に川下から這い上がってきたわ
遠くを見る眼差しで当時を語った。上勝に遺した義弘十八歳の唯一のエピソードである。
 翌十九年四月、義弘は名東郡の山奥、宮前小学校に転任し、共学の二年生を受け持った。
戦局は日々苛烈さを増していった九月、六年の担任が病欠のため、当分の間六年生を受け 持つことになった。その生徒の中に気になる女子生徒がいた。菊である。
 義弘は大本営発表を聞く度に、自分はこれでいいのかと、自問自答を繰り返している内 に未来像がはっきりしてきた。幸か不幸か自分には親も兄弟もいない。死んでも泣く者は どこにもいない。お国のためという美名のもとではないが、海兵には取ってくれなかったこの命だ「よーし、特攻隊へ行こう」と決意。同時に教職を辞した。
 出征の前日、菊の家へ行った。菊のおばあさんに「お別れに今夜芋でも蒸すから菊と芋を掘ってきな」と言われて向かいの山へ菊と芋掘りに行った。掘ったばかりの芋籠を中に して畑の畔に腰をかけた。山の端に傾いた太陽は大きく格別赤く見え、残照が東山の峰々 を燃やしていた。菩提寺の入相の鐘を聞きながら義弘は、まだ蕾の少女菊に 「万に一つ生還することがあり、菊が十八歳になったら飛行機で迎えにくるからと謎めいた言葉を残した。飛行機は小学校の運動場に降りるのか?菊は黙ったままだった。
 翌日の十一月八日、全校生は多村先生の壮行会のため運動場に集められた。校長先生はお国のため死出の門出をする多村先生を称え励ました。
「お国のために戦って参ります」
先生の挨拶が済むとそのまま、みんな学校前の道路の両側に日の丸の小旗を持って並んだ。
「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは・・・」
小旗を振り振り特攻隊へ入隊する先生を見送った。菊はなぜか先生の長靴のコツコツの音 がいつまでも脳裏に残った。ああ「先生は死にに行ったんだ」と思うと子供なりに心に空洞ができたが、穴は日が経つに従って小さくなっていった。
 義弘の軍歴を紐解くと、所管は佐世保鎮守府、所轄は土浦航空隊、十九年十一月十五日 土浦(霞ケ浦)航空隊入隊。海軍二等飛行兵拝命、甲飛電測練習生となる。翌年五月、海 軍飛行兵曹。戦後の九月一日、任海軍二等飛行兵長。同日任命予備役編入となっている。
 義弘は徳島海軍航空隊に入隊したのではなく、霞ケ浦航空隊へ入隊した。霞ケ浦は日本海軍部隊教育の原隊であり、ここには東洋一といわれた航空基地があった。義弘は 「見よれ、今に華々しく散ってやるぞ」 と意気込んでいたが、いきなり飛べるものではな かった。パイロットになるためには厳しい訓練が課せられていたようだ。軍は若い命を求めた。愛知一中生は三年生から五年生までの七百人に及ぶ全員が飛行兵 に志願することを生徒大会で決定したという。以来軍はますます中学生の志願を渇望した。
 基地では死ぬための訓練が毎日繰り返されていた。
「一番仲のよかった先輩美波を送った日のことは生涯忘れられない。一月早く敗戦してい たら美波を死なせずに済んだのだ。口惜しい」
義弘は、一言だけ吐き出したことがあった。
 知るところによると、霞ヶ浦からは、特攻機は飛び立っていない。飛行機は本土から台 湾にかけて二十二ある飛行場から飛び立ったことを知った。義弘は、ずっと霞ケ浦を離れ ていないから、美波を見送ったのは特攻機ではなく、いずれかの特攻飛行場へ美波を乗せ てたった飛行機のことだろう。大戦末期には搭乗員を大量に募集したものの乗る飛行機が 乏しく、そのため特攻兵器として人間魚雷などを次々と開発していった。また隊員は神風 特攻隊と囃され「十死零生」の作戦に己を委ねた。敗戦の前には出撃する飛行機はなく実 戦に参加できず、基地の防空壕堀の要員、いわゆる(ドカレン)で終戦を迎えた隊員もあ ったと聞く。世の中の急変について行けなかった生き残りの多感な青年に軌道を逸する者 が出たのも事実であった。一度も戦わなかった地に落ちた神風の生き残りを、特攻崩れと 特別な目で見る人たちもあった。生き残りの兵士の中には幾多の友を死なせて
「生きて帰った者として死んでいった人に申し訳がない」こんな気持ちの者も多くいた。
「今、生きているのはお釣りの人生だ」は義弘の持論であり、何年かは特攻崩れを地で生きたようだ。敗戦後数年を経て菊の前に現れた義弘は、住む世界の全く異なる菊を見て「土手かぼちゃになったのう」と、のたまった。菊はよく解らないけど、スマートでないといっていると解釈した。そういう己も好青年には見えなかった。こうして十八歳云々の 謎めいた言葉はお互いに、バブルと化し菊はほっとした。
 更に何年か経て菊に会った義弘は、時代の流れの先端で肩で風切っている感じだった。 それからは、時々土産を持って菊の家へ来ることはあったが所詮、菊とは異次元の世界の 住人で、まいにち面白おかしく暮らしている様子に好感は持てなかった。
 また数年の時を経て右往曲折の後、義弘と菊は挙式した。菊はすでに二十九歳、当時と しては晩婚であった。その後、間も無く独立して鉄工所を起業したが、不況の波に呑まれ 彼の言う「お釣りの人生は七転」また振り出しに戻った。その上、糖尿病が悪化して万事休すである。こうして義弘と菊は、出口の見えない長いトンネルに入っていった。
 三年後、幼なじみの準の紹介で義弘は社会復帰が叶った。徳島に初めて上陸してくるボーリング場の機械のメンテナンスの仕事であった。
 義弘は、オープンに向けて一ケ月の講習のため長崎にいる。この地続きに別れたままの母がいる。訪ねてみたい気が、日増しに強くなってゆく。佐賀県太良町を見るだけでよい と九月のある日曜日出かけた。田舎は狭いから家もすぐ分かったし、義弟夫婦は中学校の 教師であるらしいことも知った。感激のシーンは他人事でも好まない義弘にとって、その 感動の渦に、自分が向かおうとしている矛盾に足が竦むが「エーイ」 と歩を進めた。
「ごめん下さい。井の頭さんのお宅はこちらですか」 婦人が出てきた。
「はい。どちらさんでしょうか 」
「はあ。申し遅れました私、徳島の多村義弘と申します」
「ああっ!お母さん」と言ったまま婦人は慌てて奥へ消えた。少なくともこの婦人は多村 義弘の名前を知っているらしいと感じてほっとした。すぐ家族が束になって出てきた。
「お兄さんですね。私は治郎と云います。まあとにかくおあがり下さい」 通された客間で
「お母さん」 と言ったのが先か「義弘さん」 と言ったのが先か。とにかく二人は手を取り あっていた。マサは「よーくまあ」 とただ泣いていた。なん分かが過ぎて義父になる勝造、 義弟の妻麻絵(さっきの婦人)と挨拶を交わした。別れわかれになった四十年の歳月には いろんなことがあった。お互いに何から話してよいか会話の途切れる度に、話の潤滑油になってくれた義弟夫婦に義弘は親近感を覚えた。祖父母はもうとっくに死んだことや自分 は特攻隊の生き残りであること、苦労をかけた妻菊のことなど近況を走り語りした。生きて生かされたことに、柄にもなく義弘は感動したひとときだった。マサも義弘も興奮冷めやらぬまま「アッ」という間に二時間が過ぎた。
「今度は徳島へ来て下さい、長生きして下さいよ」
「よく訪ねてくれました」「母が喜びますから、次はゆっくりして下さい」「さようなら」。
「さようなら」、「さようなら」。

 振り向かず駅への道を急いだ。案ずるより産むは易しか。
汽車に乗りこんで腰掛けてか らやっと落ち着いた。

 義弘はふるさと(産声を上げた地)、有り明け海の干潟をぼんやり眺めていた。




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