沼で息をする

文字数 3,787文字

 昔、小学校で沼に落ちたことがある。三畳程度のその沼は長年の放置で異臭が酷く、けれど昇降口の傍にあったためにどうしても通らなければならない場所だった。ヘドロと化した泥の上には枯れ枝や蔓が散乱し、休み時間にサッカーボールを入れてしまった日には誰が取りに行くかを放課後まで揉めるほどであった。
 度重なるじゃんけんに敗北した唯斗は職員室で軍手を借りて、口で呼吸をしながらおそるおそる泥沼に近づいた。臭気が口の粘膜から取り込まれ、悪寒が全身を支配する。鼻腔の奥をつつかれているようで、涙と鼻水があふれそうになる。風が強い時は下駄箱にいても匂ってくるほどの臭気だ。保健室でマスクをもらってくればよかったと後悔した。
 結果を述べるならばボールを取ることには成功した。だが、なんとか片手で取ろうとしたせいで踵がすべり、腕と尻をどっぷり沼につけてしまった。咄嗟についた手が何かをつかむ。硬さと柔らかさが混同したそれを拾い上げる。
 亡骸だ。誰が捨てたのか、ザリガニの。
 唯斗は悲鳴を上げ、給食で口にしたものをすべて吐き戻した。
 それ以来、甲殻類が嫌いになった。生臭い匂いも、色すら駄目だ。だから蟹が食卓にのぼるたびに唯斗は酷く憂鬱な気分に陥った。
「……おばあちゃんが倒れた」
 会社帰りの父が頭を掻きむしっている。スーツは背中や裾がよれて、ネクタイまでもが裏返っていた。茹でた蟹を睨みつけて誰にともなく言い放つ。
「意識がないらしい。幹雄さんが病院についてくれているみたいだが」
 母が手をすべらせる。用意した蟹剥き器と殻入れが落ち、唯斗はテーブルに拾い上げた。スマホをいじっていた姉の律子も父の顔をまじまじ見つめて動かない。父は吐息を残し、倒れるようにして椅子にもたれかかった。
 石川に住む祖母から蟹が届くようになったのは今から八年前になる。急性心不全で祖父が亡くなってからというものの、初冬を迎えるごとにクール便で二杯の蟹が送られてくるのだ。蟹は大ぶりで水色のタグを通しており、甲羅に黒いウミヒルの卵をびっしりと貼りつけていた。祖母は蟹が一番の嗜好品であると信じてやまず、父もその日ばかりは必ず家族揃って食べようと提案したために、年間行事のひとつとなっていた。唯斗や律子に門限を突きつけて分配した足と甲羅を余すところなく食べるよう命じるのだ。
 不漁の年には冷凍してまで届く蟹よりも小遣いのほうがどんなに喜ばしいかを主張したこともあったが、すべて「おばあちゃんの気持ちだから」と一蹴されてきた。
「検査入院じゃなかったの」
 母が言う。
「出かける支度の途中で倒れて搬送されたそうだ」
「そんな、一昨日の電話じゃお元気そうだったのに……」
 例年までの父がこの日を楽しみにしていたのは唯斗の目からしても明らかだった。蟹によってデートの約束を反故にされた姉と対立し、半月ほど冷戦状態になったのは去年のことだ。いっそ無邪気さを感じさせるほどだった顔には亀裂のような皺が走っている。
「幹雄さんにばかり頼るわけにもいかないし、父さんは明日から石川に行くことにした」
 すり潰された言葉に律子の喉がこくりと鳴った。皿を押しやり両肘がつかれる。
「もし介護が必要になれば向こうで暮らすことになる。おまえたちも覚悟しておいてくれ」
「ちょっと待ってよ、あたしも唯斗も学校あるじゃん」
 律子はスマホを手離し声を荒げた。以前より同居の話は出ていたが住み慣れた土地から離れるのをよしとせず、祖母の体や頭がしっかりしていたことなどもあり、年に一度顔を出すかどうか程度だった。写真を見れば容姿は思い浮かべられるが声だけではわからない。特に律子は高校に入ってからは部活で忙しくしていたため、ほとんど足を運んでいない。
「転校すればいいだけだろう。おばあちゃんの一大事だぞ」
「何それ、勝手に決めないでよ」
「りっちゃん」
 制止を受けて体を横に向ける。視線の先はテレビ画面だ。ゼリービーンズのように彩られたスタジオで流行り始めの芸人が大仰なポーズを決め、タレントたちが囃し立てる。すかさずリモコンのボタンが押されるも、暗くなった液晶を睨み続けている。
「……」
 関節の隙間から蒸気を放っていた蟹はすっかり冷えている。唯斗にとってもっとも苦手なのは、突起に覆われた甲羅に乗るつぶらな瞳である。同じ名称をした蒲鉾や真薯のように加工してしまえばあくまで『食品』として扱える。だが、黒く丸い瞳だけはそれに命を引き戻し、あの日の沼を呼び起こす。
「あたし、絶対に無理だから」
「じゃあ誰が面倒を見る? まさか全部幹雄さんに頼むつもりか」
 憮然とした唸り声は律子を少しだけ戸惑わせた。
「そ、それは……」
「これから大学受験もあるんだ。おまえひとりで勉強しながら生活できるのか? 早いうちから決めたほうがいい」
「でも、大学なら東京のほうがいいじゃない。家からでも通えるし」
 テーブルを指の腹で叩いて母が紡ぐ。思わぬ援護射撃に父が目を丸くすると、母はコップに注いだ麦茶で唇を湿らせてから言い募った。
「大学の話をするならそのあとの就職も考えなくちゃ。向こうでどれくらい働けるのかは知らないけれど、就職だって東京に近いほうが有利に決まっているわ」
「だからって母さんをそのままにしておくわけにいかない。大学には奨学金もある。東京でろくでもない仕事をするくらいなら、多少給料は安くても向こうで見つけたほうが安定するだろうが」
「お金だったら介護でもっとかかるじゃない」
 次第に早口になる父に対し、母の声は冷静で諭すように降り注いだ。父は頬をわななかせ、口の中で何事かをつぶやく。
 父が黙るとリビングはあっという間に静寂に包まれた。今更夕食というような空気はもたらされず律子が椅子から立ち上がる。後ろ手でスマホを回収するとひとりでリビングから出ていってしまう。音を立てずに閉まる扉。
 ビール缶のプルタブが起こされる。二〇〇ミリほどの中身を一度に飲み干し父がぐっとうなだれた。母も残った麦茶を含んで肩を下げる。誰も皿に触れていない。あんなにも気持ちを強要されてきたはずの蟹はテーブルの置物と化している。唯斗は張り詰めた空気の中に居心地の良さと若干の優越感を感じていた。緩む口角を慌てて引き締める。
 祖母の実弟である幹雄は今年で七十八になるはずだ。祖母の家までタクシーを使って二十分ほど離れた地域に暮らしている彼に介護を依頼するのは、父が言うように不可能に近い。現地でヘルパーや施設を探すにしてもその間の面倒を見る者が必要になる。
 ひしゃげた缶を握り続ける父が石川で暮らすのは間違いないだろう。しかし、彼はひとりでは洗剤の種類もわからない人間である。家事を積極的に手伝おうとする気力もあり細かな説明を受ければ理解はするが、数日たつとすべて忘れてしまう。単身赴任をしようものなら一週間も保たないであろうことは暗黙の了解であった。
 何かの気配を覚えて唯斗はあたりを見まわした。父は突っ伏し、母は台所に向かっている。
 どこからか小さな声がする。テーブルの角から視線を這わせて粒状の瞳にぶつかる。誰にも顧みられない瞳はLEDに照らされたまま、ぬいぐるみのようにしてそこにあった。
(ゆいちゃんは、かたくてあいそらしいねえ)
 唯斗の脳裏に流れ落ちる。思わず蟹と目が合ったが蘇るのは汚泥ではなく桐箪笥のにおいだった。声を発する面影は現れない。皺枯れた声だけが両頬を包み込むようだった。
(本当にかわいい子じぃ)
 波紋さながらに広がる記憶が胸をついと締めつける。声は儚く砕けて頬から離れた。父に連れられ石川を訪れるたび、ほほ笑みを浮かべて出迎えてくれた祖母。背が伸び、眼鏡をかけるようになり、ポケットに手を入れて曖昧な挨拶をするようになってからも、同じ言葉をくり返した。
 何故、あんなにも蟹を送り続けたのだ。何故今更入院だなどと言うのだ。
 唯斗は服の上から懐あたりをかき集めた。胸に集まる記憶を潰せばこの圧迫感を取り除けると思ったからだ。
「唯斗、あなたも部屋に戻っていいわよ」
 肩を叩かれ全身が跳ねる。母は掌を震わせ佇む唯斗を見上げた。
「どうしたの」
「……母さん」
 詰めた息を吐く。笑う。ぬいぐるみのようだった蟹は力を失い再び唯斗に嫌悪感を与えるだけの存在になっていた。いいよ、俺、ばあちゃんとこに行っても。ぐったりしていた父が身を起こす。
「もし本当に必要になったら俺父さんについていく。そうしたら母さんも安心でしょ」
「唯斗……本気で言っているの?」
 腕をさすって眉をひそめる母に頷くと、短い沈黙のあとに「わかった」とだけ返された。父はまだ夢心地らしく口を半開きにして固まっている。ビール缶がテーブルに落ちて初めて鼻の頭を染めてまばたきをした。
 昔、小学校で落ちた沼はつめたく、淀んで、苦しかった。同じ沼にまた入ろうとしているのではないかと鼓動が叫ぶ。介護も入院も形ばかりで実感が伴わない。それでももう一度、忘れてしまったあの声を聞きたかった。蟹を食べたいとは思わない。けれど金沢で暮らすことになったなら。
 いっそ嫌になるほどの蟹を届けてやろう。唯斗は吐き気をこらえながら息巻いた。
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