第1話

文字数 18,818文字

青春時代に何をしていたかと聞かれれば、少し困ってしまう。
うちこめる部活も、仲間がいっぱいのバイトも経験がないし勉強も苦手。
引っ込み思案な性格もあってか友人も少ない学生時代だった。強いて好きなことと言えば刺繍くらいだろうか。
体育の時間はかなり大変だった。ペアを作れと言われると、余る1人が必ず私だった。
「あぁまたあまっちゃった」とふわり頭に思い浮かぶものの、何か行動を起こして変化を求めることはしなかった。それが私の弱さなのだが、なかなか変える事ができない。
もう少し愛嬌が良ければ、もう少し可愛い顔に生まれていればこんなに虚しい思いをせずにすんだのだろうか。
きっとそれは考えても仕方のないことで、今さら青春時代を謳歌できるわけでもない。
ふと時計を見ると午後6時を指していた。あと少しで打ち込みが終わる書類たちに再び向き直りキーボードへと手を伸ばす。
カタカタと部屋中に響く音に孤独を感じる。こんな時、親しい同僚でもいれば手伝ってくれたりするのだろうか。別に会社の中で孤立しているというわけでもないのだが、話す内容は業務連絡ばかり。成人して多少のコミュニケーション能力を身につけたものの友人を作るのは大人になってからのほうが難しいように感じる。
女性の同僚たちは、バレンタインデーだからと目元をキラキラにして颯爽と退勤を押して帰宅していった。
目元が華やかな彼女たちが羨ましかった。私も昔一度だけキラキラのラメが入ったアイシャドウをして街に出かけたりもしたのだがうまくいかなかった。
ふとみた鏡に映った自分の目が恥ずかしくなってしまったのだ。汗で浮いたアイシャドウが皺に集まってなんとも不恰好になっていたからだ。
その場で目をゴシゴシと擦り、逃げるようにして家に帰ったことを覚えている。
私は、何もうまくいかない自分の人生が、変化することを恐れる自分が大嫌いだった。
窓からうっすらと聞こえる恋人たちのメロディーが癪に触る。私は少し寂しくなって、タイピングする指の力がいっそう強く音を響かせた。

仕事が終わり家に着いたのは午後8時過ぎ。
逃げるように靴を脱ぎ、カチコチに固まった足をヒールから解放させる。
脱いだ途端、足の裏に広がるフローリングの冷たさが全身の毛穴を開かせる。
冷たい。けれど、それと同時に駆け巡る身体中の血液が体温の保持に努めている。急足で裏起毛のズボンにパーカーの姿へと変身した。
暖房器具をフル稼働させ、徐々に部屋と体は温まっていく。それにつれてじんわりと指先までほぐれて完全にリラックス状態となる。
気の抜けた体がぐーっとお腹を鳴らし、私に空腹を伝えきた。
そういえば今日はお昼ごはんにお味噌汁1杯を流し込んだだけで、他は何も胃に入れていない。
お腹が空いて当然である。
けれど何かを作る気にはなれず、2.3分ほど思考を巡らせる。
そうだ。あの店にいってみよう。
がばりと起き上がり、服はそのままに、おろしていた髪は後ろで1つにまとめ、コンタクトをメガネに変えて簡単に身支度を整えた。
あの店とは、先日この家から徒歩で行ける距離にできた小料理屋である。
1人で行動することに慣れている為、小料理屋に自分1人で向かうことに抵抗はなかった。
トントンっとスニーカーをはいて財布と携帯をポケットに入れて外へ出る。
ぴゅーっと吹く木枯らしが私をからかっているようだった。
「こんな日に1人で晩酌かい。けらけら」
そう言われている気がして、聞こえないようにパーカーを深く頭にかぶって小走りで店に向かう。
木枯らしの言葉に影響されて、急ぎ足で向かう私の頭の中はぐるぐると動いていた。
「こんな日に」なんて別になんの関係もないもの。
けれど、心躍る楽しい恋がしてみたいっていう気持ちも無くはない。
そんな事を思いついては、自分の吐く白い息で掻き消した。
バレンタインなんて自分には全く関係のない日だった。
周りが甘いチョコレートの香りに包まれている2月14日に、私はただ普通の1日を過ごしてきたのだ。
大人になってもそれは変わらず、私はいつまで経っても幼い少女の願いから抜け出させずにいる。
どれだけ1人に慣れようと、女としての本能なのか恋に憧れる気持ちだけは一人前だ。
20代半ばに差し掛かろうという私の年齢で、一度でいいから甘くて爽やかな初恋を願うだなんて高望みなのだろうか。
きっと肌を引き締めるほどの寒さの奥に、この季節ならではの暖かさがある。
それに触れて、感じてみたい。
夢うつつに歩いて10分ほどした頃、お目当てのお店に到着した。
看板には大きく店名が書かれている。
小料理屋 夕(ゆう)
「よし。入るか」
かじかんだ指先で引き戸の取手に手をかける。ガラガラっと想像より大きな扉の音が、客が入ってきた合図になるのだろう。
柔らかく大きな声で、ご主人とその奥さんらしき人が「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。
ちいさくお辞儀をして中へ入る。
「あ、1人です…」
ふと、カウンターに座っていた男性と目が合った。
「お客さん、こちらへお座りくださいな」
指さされた席は目があった男性の隣だった。
そそそっと席へ移動し壁にかかってあるハンガーに上着をかける。
熱気や暖房で店内はとても暖かく、外との寒暖差で何度かくしゃみが出てしまった。
「大丈夫ですか?」
そう言ってティッシュを差し出す声の主は、先程目があった男性だった。
仕事帰りなのかスーツ姿で、見かけからしていくつか年上だろうと思われる。カウンターテーブルには徳利と何かの刺身が置かれていた。
さらりとした顔つきで、声のトーンや佇まいが柔和な印象を与えてくる。
「あ、ありがとうございます」
私はティッシュを受け取り鼻を拭く。
くしゃっと小さく丸めポケットにしまい、席についた。
「外寒かったですよね」
「あ、はい、寒暖差が弱くて…」
鼻水がまた出てきそうになり、相手の顔が見れない。俯き手に汗を握っていると店のご主人が私に近づいてきた。
「お客さん、初めてですよねぇ。こんばんは。」
「はい…こんばんは」
「カウンターにティッシュ置いてますから、ははは。いっぱい使ってください」
「すみません、いただきます」
そう言われてテーブルに置いてあるティッシュをを取り、今度は勢いよくかんだ。
ゴミ箱は後ろにあると教えてもらい、先程のティッシュと共に捨てておいた。
「じゃあ、何にしましょう」
「えっと、熱燗ください。それと先ず、きんぴらごぼうで」
壁にかかっている黒板には、ずらりと旬の食材で作られるのであろう料理名が並んでいた。
菜の花のおひたしやカキフライ、それにさわらの刺身。どれもこれも美味しそうだ。私の胃袋に予備の袋があれば、注文できる限り注文してその美味しさに舌鼓を打つところだろう。
この店はカウンター席が5席に、4人ほど座れるテーブルが2席のみの、ひっそりとした小料理屋のようだ。
テーブル席には親戚の集まりと思われるお客が7人、みな顔を赤くしてほっこりとした時間を共有している。
店の中をキョロキョロと見渡しているうちに、注文していた熱燗ときんぴらごぼうが用意されていた。
「寒かったでしょう?ゆっくり温まってくださいね」
目尻をとろんと下げた奥さんの笑みに思わずこちらも表情が柔らかくなる。
「ありがとうございます。いただきます」
お猪口に注ごうと徳利に手をのばすが、熱くて持つことができない。指をふうふうと冷したあと、おしぼりで徳利を包み込み、それからお猪口にほかほかのお酒を注ぐ。
一口飲むと、熱いお酒が舌を触って食道を通り、胃にじんわりと染み渡る。
アルコールのおかげで、一瞬で寒い外の感覚は失われていった。おもわずふぅーっと息が漏れる。
ひとまずのきんぴらごぼうもとても美味しい。シャクシャクとした心地良い歯ざわりに、もう一口もう一口と箸が止まらない。
「幸せそうに食べますね」
隣から声を掛けられ、はっと男性の方へと視線を向ける。
「あ、美味しくて……えっと、すみません。先程はティッシュありがとうございました」
「いえ、別に。今日はお一人ですか?」
「へ、あ、はい。」
しどろもどろでしか返すことのできない私に「くはは」と悪戯に笑う男性に少しムッとしてしまった。
「あぁ、ごめんなさい。悪い気はないんです。ただ僕も一人なのでよかったらお話しませんかと思って」
訝しげな顔をした私に今度は向こうが慌ててそう弁解をした。
「浅井さんが絡みに行くなんて珍しいねぇ。ははは」
目の前で魚を切っているご主人が、芝居がかった驚きの顔を見せる。それをみた浅井さんと呼ばれたこの男性は、やめてくださいよと言わんばかりに手をパタパタと振る。
「ただ、話し相手が欲しかっただけですよ……」
「いえ、私も1人寂しく飲むより話し相手がいたほうが、えっと、いいと思います」
「僕は寂しくはないですよ!」
「あ、すみません!」
そんな私達のちぐはぐな会話にご主人と奥さんが声をあげて笑った。
「はっはっは。はいよ、さわらの刺し身。仲良くなった記念にサービスだよ」
と小皿に乗った魚のお刺身を2人の間においた。
「これ、いいんですか」
「あぁ、お客さん、ここはじめてだったろう。これからもよろしくおねがいしますよ」
「ありがとうございます」
浅井さんとさわらの刺し身を同時に頂く。薄い桜色で肉厚のさわらは、しっとりとしていて甘みがある。
余韻のあるうちに熱燗を1口。思わず顔がほころぶ。ふと横を見ると浅井さんも私と同じ顔をしていた。
「おいしい!」
今年もいつもと変わらない1日を過ごすのだと思っていたが、こんな出会いがあるなんて予想していなかった。
ほとんど男性との接点がない過去を持つ私は、この時間が浮足立つほどに楽しく感じていた。
それから1時間ほど話し合い、お酒を飲み食事をしたあと私は「明日があるから」と家に帰る旨を伝える。すると、浅井さんも残りのお酒を飲み干し立ち上がる。
「僕も帰ります」
「あいよ、浅井さんは4020円。吉成さんは3200円ね」
そう言われ、5000円をご主人に手渡す。ご主人が奥でお釣りを用意している間に2人で連絡先を交換することになった。
私の携帯に浅井悠人(あさい ゆうと)と連絡先が記入された。
彼の携帯にも吉成奏(よしなり かなで)と、私の名前が記入されたことだろう。
「ありがとうございましたっ」
ご主人と奥さんの元気な声に見送られ、気温2度の世界へふたたび踏み出す。
「あの、今日は楽しかったです。お話も、私いっぱい話しすぎちゃった気がします」
「いえ、僕もとめどなく話してしまった気がします。楽しかったです」
先程まで店内の熱やお酒の力でほわほわとした思考回路だったのに、外の気温で理性がはっきりしてくる。
先程までスムーズに交わされていた会話も、少しばかり鈍くなる。
「それじゃあ、あの、また」
浅井さんが笑って手をふる。
私も真似をしてひらひらと手をふった。
「それじゃあ、また」
家への道はお互い店を挟んで反対側なので、帰り道は1人だ。
寒いのに、寒くない。私は不思議な気持ちで、まるでスキップをするかのような足取りで家路についた。


一晩開けて朝日を浴びても尚、昨日の余韻がまだ残っている。
会社に出社して、昨日の甘い匂いを漂わせた女性社員や男性社員をみても心がかさかさすることはなく、むしろ自分自身もその一員のように感じていた。
恋という恋をしたことがない私だが、この感覚が恋、一目惚れというものなのだろうか。答えの出ない考えに仕事がままならない。
ただ1時間少し一緒にお酒を飲んだだけだ。きっと普通の女性なら軽く受け止められるものなのだろう。
そう思いながらも、浅井さんの赤いふにゃっとした笑顔が脳内から離れない自分自身に幼さを感じた。
甘い思考もまともになってきたお昼休み頃に、浅井さんからメッセージが来ていたことに気が付く。午前の疲れもフッと吹き飛ぶくらい体にエネルギーが湧き出る感覚がした。メッセージを開くことにすら胸が躍る。ぱっと視界に入ってきた文字も一文字一文字順を追いながら読み進める。
「こんにちは。昨日は楽しかったですね。また気が向いたらでいいので一緒に食事に行きませんか?」
20代半ばの女が、たった2行のメッセージに心ときめいている。これが学生時代に味わいたくても味わえなかった甘酸っぱい感情というものなのだろうか。
嬉しいのに心臓がきゅっと狭くなってしまった気がして苦しい。こんな状況がずっと続いてしまうのだとしたら世の中の恋愛をしている人々は、よほどの強靭な心臓をもっているのだろうと思った。
さっそく返事を返したいが、なんと返すのがベストなのかわからない。お昼休みいっぱいの時間を使って「こちらこそありがとうございました。ぜひともまた、お食事ができたらいいなと思います」と返事を送った。


返事が返ってきたのはその日の夕方だった。もう少しで今日の業務が終わるというときに、メッセージを知らせるバイブレーションが鳴った。
きっと浅井さんからだろうと思うと、残りの業務にも精が出る。生活の中の小さな彩りが、こんなにも私の世界を華やかにさせてくれるなんて知らなかった。
メッセージにはURLが貼られており、「ここがおすすめなんです。一緒にいきませんか?」と書かれていた。
もちろん私は二つ返事でOKを出し、そこからはトントン拍子で日程や待ち合わせ時間などが決まった。
こんなことが私の人生に起こっていいものなのだろうか。今までではありえない展開に戸惑いが隠せない。いてもたってもいられない衝動が沸き起こる。
わけもなく部屋をぐるぐる歩いたり、鏡をみてみたり、お菓子を食べたり。
自分自身でも気付いていた。私は今、とてつもなく浮かれているのだと。
そんなとき、ふとある事に気付く。
「服……どうしよう」
まともに男性どころか、女友達とも数えるくらいしかお出かけしたことがない私にとってお出かけ用の服なんて持っているわけがなかった。
会社に来ていくスーツ以外に部屋着と、何着かの服があるだけで「浅井さんと2人で合う服」が1着もないのだ。
うーんと頭を抱えていると、ある人物の名前がぽっと頭の中に思い浮かんできた。
バレンタインの日、目元をキラキラにして蝶のように退勤していった同僚の水島さんだった。
あの人なら、服に関して詳しいかもしれない。幸い浅井さんとの約束の日まで時間がある。水島さんにレクチャーしてもらい、かわいい服で食事に行きたい!
とは思いつつ、今の所ほぼ事務連絡でしか会話をしたことがないのだが、いきなり話しかけて驚きはしないだろうか。
緊張と不安でそわそわしてしまうが、ここで勇気を出さないとダサい自分のままで約束の日を迎えることになってしまう。
悶々とした心地のまま、その日は頭の中で水島さんに話しかけるシミュレーションをしながら眠りに落ちた。

翌日、私は朝から水島さんの様子を伺いつつ、話しかけるチャンスを見計らっていた。
しかし忙しなく仕事と人が交差するこのフロアでは、なかなか話しかけるタイミングが掴めない。それにしても、相変わらず水島さんは身だしなみへの気遣いが抜かりなく、爪先まで綺麗であることに感心してしまう。
11時頃、水島さんがコーヒーを買いに自販機へ向かうときに、私も後を追った。
自販機の前に立つ水島さんに向かって話しかけようとするが勇気が出ない。昨夜布団の中で幾度となく繰り返したシミュレーションを思いだし、握りしめる拳にさらに力を込めた。
「水島さん、あの、ちょっといいかな」
いきなり私から声をかけられて、水島さんはやはり驚いているようだ。あからさまに事務連絡ではない勢いで名前を読んでしまったのだ。
「えっ……びっくりした。どうしたの?吉成さん」
驚いた顔をみせたものの、すぐさま笑顔に切り替え反応してくれる水島さん。勢い任せてそのまま本題に入った。
「あの、綺麗な服とか、あと化粧とか詳しく教えてほしいんだけど、だめかな」
くっきりとした大きな目をさらにぱちくりと大きく開けて、水島さんは買ったばかりのコーヒーを握りしめていた。
「え!どうしたの吉成さん。もちろんいいけど!」
お洒落になんて興味がないと思っていた私に、こんな相談をされ驚いたのか声が大きくなる水島さん。しかしこんなにも快諾してくれるとは思わず、私自身も「いいの?」と聞き返してしまった。
「いいけど、どうしたの……?あ、なんかいいことでもあった?」
何かに気付いた様子で悪戯に笑う水島さん。
「うん。ちょっとお洒落していきたい予定があって」
「へー、吉成さん、そういうの興味ないと思ってたけど違ったんだね。あー、じゃあどうする?今日のお昼一緒に食べる?」
「え、いいの?」
思わぬ提案に小さく体が跳ねる。
「あはは、だめなんてことないよ。じゃあ駅前のイタリアンでいい?パスタ食べようか」
「うん!じゃあまた昼休憩のときいうね!ありがとう」
「はーい!」
想像よりも遥かに気さくな水島さんの話しぶりにほっと胸をなでおろす。もしかしたら私自身が警戒しすぎていただけなのかもしれないと反省した。
いつもと変わらない明るい足取りで、水島さんはコーヒー片手に自分のデスクへと戻っていった。


「え!ルミネ行ったことないの?」
綺麗にお皿に盛られたパスタを、器用にフォークに巻き付けながら水島さんはびっくりした眼差しを私に向ける。
「え、うん、なんか気後れしちゃって。なかなか行けないというか」
「普段どこで服買ってるの?」
「えっとね」
いくつか挙げたブランドの名前をきいて不思議な表情を浮かべる水島さん。
「高校生時代で止まってる。更新されていないんだね……」
大学生でだいたい皆更新されていくものよと、小さな声でつぶやく水島さんに私はへへへと気の抜けた笑いでごまかすしかなかった。
そういうものなのか、と目を背けていた真実を突きつけられた気分になった。けれど今やってこなかった過去を悔いても仕方がない。
「吉成さんはどういった感じの服が好きなの?」
「私自身は、派手なものは苦手かなって感じで特にこれが好きっていうのがなくて。浅井さんがどんなのが好きかもまだ全然わからなくて」
「相手に合わせるのもいいけど、やっぱり本人が好きなものを着てるほうが魅力的だと思うし。吉成さんの好きな感じでせめるのがいいと思うな」
「そっか、あ、あの人が着てる服とか素敵だなって思うよ」
と、水島さんの斜め後ろに座っている女性を指差し答える。
薄いグリーンのニットワンピースを1枚でさらりと着こなし、少し踵の高い黒色のブーツを履いており、可愛らしさの中にも大人びた雰囲気がありとても魅力的な着こなしだった。
「え、いいじゃん。かわいい。私も好きかも」
水島さんはこっそり振り向き女性の服装を確認したあとそう答えた。
「だったらねー」
と自分の携帯で何かを調べ始めた水島さん。私はまだ2口程しか手を付けていないパスタにフォークをいれる。くるくるくると具材と麺が絡まってフォークの先は膨らんでいく。私は魚介がたくさん入ったペスカトーレを、水島さんは芽キャベツのオイルベースを注文した。どちらも綺麗に調理されており、女性に人気の店だという水島さんの話にも納得できる見栄えだ。
「吉成さん、URL送っておいたから、その店とかいいんじゃないかな」
そういわれ携帯を確認すると4つURLが水島さんから送られていた。リンクにとんでウェブサイトを見てみるといわゆる「大人可愛い」デザインの服がたくさん紹介されていた。
「うわぁ、ありがとう。すごく可愛いね。あ、こっちもいいかも…...」
「あ、これとかいいんじゃない?吉成さん身長あるしロングタイプとか似合いそう」
「でもこれはモデルさんが綺麗だから着こなせているだけで……。私だと引きずっちゃいそうだよ」
「そんなことないし、そんなこと言わないの。着たいもの着るのが一番なんだから。長ければ裾上げしちゃえばいいし」
「そっか、んー、すごく可愛いしこれにしちゃおうかなぁ」
「決めるの早!吉成さんって意外とサバサバ決めちゃう感じ?」
いつもは「しない」選択をしているだけであって、たしかに言われてみれば何かを決めるときに長く悩むことはないかもしれない。自分では気が付かなかったけれど、人に言われて気付く自分の一部ってあるのだなとうなずく。
「実はそうなのかもしれない……」
「人は見かけによらないねー。私もバサバサ決めちゃうし。吉成さん、仲良くなれそうだわ」
そういって大きく口を開いて笑う水島さん。仲良くなれそうと言ってもらえたことがくすぐったくて照れてしまう。
「んで。いったいどんな人なの、彼」
「まだ1,2時間くらいしか話をしていなくて」
「え、まだそんなに期間浅いのに2人で?やり手だねー」
女友達と恋の話をしている私。浅井さんと出会ったことで、学生時代に憧れていたことが少しずつ叶えられていく。
羨ましくなんかないと言い聞かせて、こっそり聞き耳をたてていた学生時代の私に言ってあげたい。大人になってもキラキラした日常は訪れるのだと。
自分にキラキラした日々が訪れると心なしか余裕ができる気がする。周りを見渡すと平日のお昼帯ということもあって社会人らしき人がほとんどだが、皆それぞれ日常を楽しんでいることに気が付く。
1人で黙々と食事をしている人も、身に着けている腕時計はもしかしたら一番のお気に入りかもしれない。隣に座っている2人組はお互いの応援しているアイドルの話で盛り上がっているし、それぞれがそれぞれの形でキラキラを生活に取り入れて豊かな人生にしている。
人よりもこの事に気が付くのが遅かったかもしれないが、これからキラキラを探して取り入れていけばいい。
この日は残りの時間で水島さんと恋の話や仕事の話で盛り上がってお昼の時間は終わった。


日曜日のお昼前、私は紺色のワンピースに柔らかい白色のブーツを合わせ、黒色のコートをまとって街を彩る一部となり浅井さんを待っていた。男性と待ち合わせをしている現実になんだか落ち着かなくてそわそわしてしまう。
「お待たせしてすみません」
浅井さんは、私が待ち合わせ場所について5分ほどした後に小走りでやってきた。
「いえ、私もさっき来たところです」
灰色のコートに細めの黒いズボンを履いている浅井さん。以前のスーツ姿とまた違う印象を受け、ドキドキしてしまう。
少し早めに着いておこうと思ったのだが、ほとんど僅差で浅井さんも待ち合わせの場所に到着した。水島さんは浅井さんを「ちょっと軽いタイプかもよー」と言っていたが、待ち合わせ時間より少し早めに来るという真面目さから、本当はどんな人なのかわからないというのが本心だ。
あれからメッセージのやり取りは何度かしていたが、不審な点は見当たらない。恋愛経験値の少ない私だから気が付かない事もあるのだろうか。
ひとまず、今日は楽しい時間が過ごせたらいいなという気楽な気持ちで行こうと決めた。
しかし、何を話せばいのからずおろおろしている私に、浅井さんは不思議な笑みを浮かべて話し出す。
「オムライスが美味しいと有名なお店なんです。一度行ったことがあるんですけど初めてみたときは感動しました。卵がつるつるしてるんです」
「つるつる、ですか!」
話の先陣を切ってくれてことにこちらも安心感を覚え少しずつ、浅井さんとの会話の感覚を取り戻す。
「今日、楽しみにしていました。実は男性とこうやって出かける事が初めてで、なにか粗相をしてしまったらすみません」
「あはは、粗相って。取引相手じゃないんだから。この前みたいに気楽に話しましょうよ」
なぜ笑われているのかはわからないが、今日は気楽にいこうと深呼吸をする。
以前は2人きりじゃないということと、お酒の力もあってなんとかスムーズに会話をしていたのだが今日はそうも上手くいかない。シラフの状態で男性と2人きりというのがこんなにも緊張するものなのかと改めて実感し、会話術も水島さんに相談するべきだったと反省した。
けれど会話に詰まる私に浅井さんは返事を急かすこともなく、ただニコニコして待っているだけだった。おかげで店につく頃には緊張もほとんどほぐれ、楽しい気分で体は埋め尽くされていた。
店の外では2,3組ほど席が空くのをまっているようだった。サイトで事前に調べていたが予約は出来ないらしい。評価も高く、少し早めにいくと長く並ばずに入れると口コミには書かれていた。
長い間待たされるかと覚悟していたのだが、実際並んでみると10分そこらで私達の順番がやってきた。近辺にオフィスビルも多いせいか、思っていたより回転の早いお店のようだった。
メニューはオムライスかナポリタンの2品のみで、後はドリンクメニューとなっていた。私達はもちろんお目当てのオムライスを注文し、それぞれ食後のドリンクとして私はカフェラテを、浅井さんはブレンドコーヒーをお願いした。
椅子はL字型のソファに木目調のテーブルでレトロな雰囲気がある店内だった。
外気でかじかんだ指を擦りながら、浅井さんが話しかてきた。
「外寒かったですね」
「私、体が凍ってしまうんじゃないかと思いました」
「僕も凍ってしまうかと思いました。指先なんか特に」
そう言われ、浅井さんの手をよくみると寒さからか真っ赤になっていた。
さすさすと動く浅井さんの手は、私の手より1回り以上大きく、関節も目立っていて同じ手とは思えないくらい違っていた。
ちょっとした大きな違いになんだか異性を意識してしまい、胸の音が少しだけ大きくなってしまった。落ち着かせようとごくりと水を飲む。
浅井さんと会ってから、今日は何度も深呼吸をしている気がする。そうしないと高鳴った胸が呼吸の邪魔をして酸欠になってしまいそうなのだ。
まだかまだかとオムライスを待っていると、来ましたよと言わんばかりに笑顔のウエイトレスさんがお皿を持ってやってきた。
「大変お待たせいたしました。オムライス2つですね」
「うわあ」
想像以上につるつるとしたオムライスに思わず口角が上がり、息が漏れる。
「思っていたよりつるつの卵ですね!美味しそうです」
「僕も久しぶりに食べるので楽しみです。じゃあいただきましょう」
「はい」
さっそくスプーンでつるんとした卵の表面に亀裂をいれる。なんだか申し訳なくなるくらい綺麗に包まれていて、これぞ職人技だなぁと感心する。
ふるふると震える卵とライスをこぼさないように気をつけて、まず一口。口に入れた瞬間バターあの香りがふわりと広がり、卵は柔らかくすぐに崩れてしまった。
ケチャップライスの甘みもちょうど良く、少し大きめに入っている鶏肉が嬉しい。
「めちゃくちゃ美味しいです」
「よかった。喜んでもらえて。気に入らなかったらどうしようかと思ったよ」
「いえ、教えてくださってありがとうございます」
勢い止まらずものの見事に完食した2人。どうやったらあれだけ綺麗に巻けるのだろうか。私自身料理が出来ないことはないが、凝ることはせず無難な家庭料理止まりの実力だ。それに自分一人で食べるとなると料理の見た目などは気にするわけもなく、大皿に1品なんていう日もざらにある。作ること自体は好きだが、手間暇掛けて作った料理を1人で消費するというのも寂しさを感じる。
なので休みの日はお一人様外食をすることも珍しくない。おかげでどんな店でも1人で入っていけるメンタルが出来上がったということだ。
「浅井さんは普段お休みの日は何をしてるんですか?」
「休みの日ですか、これといった趣味はないのですが……映画鑑賞とかですかね」
「いいですね」
「あれが一番好きです、えっと」
その映画は私も名前は聞いた事があるものだった。たしか1,2年ほど前に流行ったラブストーリーで、主演の女の子がとても愛らしい演技だと評判だった。
ストーリーだけではなく、衣装やメイクなどにも力を入れた映画だということで、どちらかというと女性人気が強かった記憶がある。
私も映画館に足を運んだとき、一度見てみようかと悩んだのだが、結局海外の推理映画を選んだのだ。観ておけばよかったと今更ながら後悔した。
「あれすごく評判良かったですよね。でも女性人気が高いイメージで、男性の浅井さんが好きっていうの不思議です」
「あ……そう、かな。まぁ他のも好きだよ、アクションとかホラーもジャンル関係無くみるし」
一瞬バツが悪そうな表情を浮かべ目を伏せた浅井さんに、初めての女の勘というものが働いた瞬間だった。
私に「女の感」が正常に働く自信はないのだが、それが作動するいくつかの要因が一斉に脳裏に浮かんだ。
女性人気が高い映画
男性一人じゃ選ばなさそうなオムライス屋さん
そして、思いだす水島さんの言葉
ちょっと軽いタイプ。それがどんな意味なのか今やっとわかった。
オムライスも映画も浅井さん1人や男友達とで来たとは限らないのだ。勝手に恋心のような気持ちを抱いて、1人ドキドキしながら話をしている場合ではなかった。
ちゃんと確認するべきだった。
「その映画って1人でみたんですか……?」
なんとなく目を見られずに、うつむきながら質問をしてしまう。
すると、少しの間が空いた後、気まずそうに浅井さんが答える。
「……ううん、彼女、と」
「その彼女さんとは、今も……?」
2人で約束をする前に確認するべきだった。答えを聞くのが怖い。ぎゅっとワンピースの裾を握りしめる。
しかし、待てども待てども浅井さんからの返事はなかった。
私は浅井さんの顔を直視できず、どうすればいいのかわからないでいた。浅井さんがどんな顔をしているのか確認出来ないが、私は溢れそうになる涙をこらえ財布を取り出す。
「あの、急用を思い出したので帰ります」
「え、あ、吉成さん、違っ……」
「彼女さんに申し訳ありませんでしたとお伝えください」
財布からお札を少し多めに抜き出し、テーブルにおいた。そのまま上着をかっさらうように抱きかかえ、呼び止める浅井さんを無視してお店を飛び出した。
走って駅まで向かう。先程まで朗らかに見えていた冬の空が、今はただただ寂しい色をしていた。
空を見ているのに涙が頬を伝う。乾いた風が頬の痕をさらりとなでて、冷たい。
「恋ってどんなものかわかったかい?」
ぴゅーっと吹く木枯らしがそう問いかけてきた気がした。
今になって気が付く小さな恋心。まだ傷が浅いうちで良かったんだ。誰かの幸せを壊してしまう前で良かったんだ。
自分にたくさんの慰めの言葉を心でつぶやきながら、私は電車へ駆け込んだ。浅井さんの姿はもうとっくに遠い手の届かないところにあった。


「え、彼女持ちだったの?最悪じゃん」
コーヒーを飲みながら水島さんは声を荒げる。私、もしくはそれ以上のエネルギーで怒ってくれているようだった。
昨日帰っている最中も、家についてからも浅井さんから着信と何通かのメッセージが届いていたが開く気になれなかった。
そして今朝、きれいさっぱり諦めないといけないと考え、メッセージと浅井さんの連絡先を消した。こうでもしないといつまでたっても、浅井さんの思い出が私を前に進ませてくれないのだった。
「元気だして。吉成さんはできるだけのことはやったんだから」
背中をさすりながら慰めてくれる水島さん。こうやってそばにいてくれるだけで、1人じゃないと立ち直る力が湧いてきそうだった。
「うん、ありがとう」
そうだ。私は初めての恋ながら、できる限り全身全霊でぶつかったのだ。それに、浅井さんがきっかけで水島さんともこんなに仲良く話せるようになれたのだ。
「でも、おかげで水島さんとこんなに仲良く話せるようになったし、よかったよ!」
「吉成さん、人付き合いの薄いおとなしい人だと思ってたけど……。ただただ純粋なだけじゃん……。今どき珍しくない?」
「そうかなぁ」
「でもそんなこと言ってもらえるの嬉しいわ。浅井さんは腹が立つけど、私も吉成さんと仲良くなれて嬉しいし万事オッケーって感じ」
初めての失恋に体中の水分が最後の1適になるまで、泣き明かした。
恋に使うエネルギーの多さにびっくりしてしまったけれど、人生において学ぶことはたしかに多い。
今目の前にいる水島さんの屈託のない笑顔に、ぐいっと背中を押される。
「色々相談乗ってくれたお礼に今度ごちそうするよ」
「え、いいの?ありがとう!やったー」
けらけらと笑い合う私達2人のこの空間もこれまで体験してみたかった空間なのだ。大切にしていこおうと改めて心から思った。
それから私は、この1件を機に水島さんとよく一緒に過ごすようになった。
まだまだ下手だったメイクも動画をみて勉強し、ファッションについても挑戦してみることが増えていった。知識が増えていくに連れ、楽しいと感じるようにもなった私は水島さんを誘ってショッピングに出かけたりもした。
気を紛らわせる環境に身を置けたことで、塞ぎ込まないでいられとても助かった。
身を刺すような寒さもおだやかにもなり、色とりどりの季節も目の前という頃、家に一枚のチラシが入った。
それは一度行ったきりの小料理屋 夕 からの案内だった。
B5の紙に手書きの字で、春の食材が入ったこととお店の近状について日記のような文が書かれてあるだけの簡単なものだった。
浅井さんとの1件以来どことなく行き辛くて避けていたまま。ぼーっとチラシに見入ってしまう。
久しぶりに行ってみるかと思ったのは完全に気まぐれだった。
もしかしたら仕事終わりで飲みたい気分だったのかもしれない。浅井さんとの記憶も思い出へと変わったからなのかもしれない。もしくは帰り際に見つけた、小さな春の訪れに心ほぐされたからかもしれない。
私は白のトップスと桜色のスカートに履き替え、軽くメイク直しをしてからお店へと向かった。玄関を開けると、さあっとまだほんのり冷たい風が私の髪を攫う。
「いってらっしゃい」
そう言われた気がして、ふふっと微笑み家の鍵を締める私。
お店に向かう靴のヒールが高いのは、ちいさな成長の証なのだ。コンコンコンとリズムよく地面を鳴らし前へ進む。
家と近い距離なのであっという間にお店に到着した。季節は変われど、窓からこぼれるひかりの暖かさは変わらない。
がらがらっと扉を開けて中に入る。2,3組のお客さんが楽しそうにこのお店の一員となっている。
ご主人がこちらへどうぞとカウンター席に案内してくれる。座って少したってから、今まで不思議そうな顔をしていたご主人がハッとなにかに気付いた様子で駆け寄ってきた。
「あれ、お客さん、吉成さんかい」
「はい、吉成です」
「あぁ、全然気が付かなかった。ごめんなさいね。随分お綺麗になったもんだから」
まじまじとご主人に見られ、気恥ずかしながらも笑顔で答える。
「少し、お洒落を勉強してみようと思ったんです」
「大成功じゃない、はっはっは。おい、吉成さんが来てくれたよ」
そう奥の調理場へ声をかけると、手を拭きながら奥さんがとたとたとこちらまでやってきてくれた。
「あら、お久しぶりね」
「こんばんは、おひさしぶりです。それより、覚えててくださったんですね、お2人とも」
そういうと2人は顔を見合わせ、わははっと大きな声で笑った。
「吉成さん、浅井さんを置いて帰っちゃったんだって?」
「浅井さん、ちょくちょく来ては吉成さん来てないですかって確認していくものだから。私達心配だったのよ、うふふ」
まさかの浅井さんが私を探していたという話に、言葉がまごついてしまう。
あれから1,2ヶ月経つ今も、なおこの店に足を運んでは確認しているとのことだった。もし私が来たら連絡をくださいとお2人に電話番号まで渡してあるらしい。
「どうですか、連絡してやっても大丈夫ですか」
ご主人が電話を片手に私に問いかける。
あの日いきなり帰ってしまった上に、連絡先も削除してメッセージが届かないようにしたことの罪悪感や、彼女さんに申し訳ない気持ちで答えられずにいる。
どうしようかとうつむいていると、奥さんが優しい口調でこう言った。
「話合わなければ気付かないことや分からないこともあるものよ」
にこにこと寄り添うような言葉。隣にいるご主人もうんうんと相槌をうっている。
「わしらからは何も言えませんが、話だけ聞いてやってくれないかい」
少し考えたあと、こくんとうなずく。
「ありがとう」
2人ともとても嬉しそうだった。何かしら浅井さんから話をきいているのだろう。けれど、私は恋人がいる人から、なにか進展を願う気など甚だない。いいお友達でいましょうと改めて伝えよう、そう決めた。
ご主人が電話をかけると浅井さんはすぐにでたようだ。今家にいるのでタクシーで向かいますと言い電話を切ったらしい。
この店の最寄りと隣駅の丁度間に住んでいるらしく、タクシーではどうやら6,7分で到着するみたいだ。
その待っている数分が永遠に感じるほど、ゆっくりと時計の針は進む。普段なら周りの話し声やコトコトとなる鍋、かちゃかちゃと触れ合う食器の音で聞こえないだろう秒針が、今はそれだけしか聞こえない耳になっている。
かちかちかち
もう何回目かわからない秒針の音が止まったとき、外から車の音がしたのに気が付いた。
バタンと扉が閉まる音がして、扉の向こうに見覚えのあるシルエットが浮かび上がる。その影が消えたと同時に、会いたくて会いたくなかった人の姿が現れた。
一瞬目があった後、私は慌てて前を向き直し、注文したレモンサワーに口をつける。しゅわしゅわとした炭酸と爽やかなレモンの香りが理性をここに留めてくれる。
浅井さんが私の隣の席にすわり、常温の日本酒を注文している声が聞こえる。返事をするご主人の声は以外にも料理人としての声で、こちらに割り入ることはない。
双方がどう話を切り出そうか、様子を伺っている。沈黙を破ったのは、私の方からだった。
「この間は、いきなり帰ってしまってすみませんでした」
「あ、いえ、こっちが……」
「彼女さんも、申し訳ありませんでした。知らなかったとはいえ……」
言ってしまおうか、悩む。浅井さんが思い出になっても月日が流れても、伝えなかったという事実は私の中に残るだろう。
浅井さんとどういった関係になるわけでもない。最後、思いを伝えてさよならをしよう。
「知らなかったとはいえ、私は浅井さんに好意を抱いてしまいました」
自分が想像していたよりもあっけないものだった。思いを伝えるまでは頭の中がぐるぐるして苦しい気持ちでいっぱいだけれど、伝える瞬間は素直なものだった。
好きだった。その思いだけが言葉になって声になる。
不思議なほど落ち着きを取り戻した私は、続けさまに話し出す。
「でも、もう大丈夫です。これからは良いお友達として、たまにこの店でばったりあったときは楽しくお話しましょう」
「待って、吉成さん待って」
顔を真っ赤にして必死に話を止める浅井さん。大きな声に一瞬だけお店の中も静まり返る。
「あ、すみません」
浅井さんは他のお客さんたちに誤り、ふたたびこちらに顔を向ける。
「違うんだ、吉成さん」
「何がですか……?」
私は動揺を隠せないまま、浅井さんに向き合う。
「僕に、恋人はいません。今も、あの時も」
想定外の言葉に声が詰まる。
「え、あの」
あの時も恋人はいないというのなら、どうして返事をしてくれなかったのか。そのせいでたくさん悲しい思いをしたし、浅井さんを忘れる努力もしたというのに。
「いなかったって、じゃあどうして返事をしてくれなかったんですか」
「メッセージにも送ったけど、僕は昔不倫相手だった事があるんだ」
……不倫。多くの芸能人がスクープされてニュースになっている。もちろん私自身もそのニュースを見た時はあまり気分が良いものではない。
どうして1人の人を愛し続ける事が出来ないのか、他人の幸せを壊してまでその行為を続けるのかと不思議でたまらなかった。
その不倫という行為を浅井さんが過去にしていた。言葉にならない感情が体の中でうずまいていく。
「引いちゃうよね。僕も知らなかったとはいえ、家族がいる人を好きになってしまったんだ。僕の好きな映画もその人と見に行ったものだよ」
「そう、だったんですか……」
「言い訳になるけど、聞いてくれる?」
私はうなずく。知らないうちに家族がいる人を好きになったという浅井さんの泣き顔のような笑顔がとても心が痛くなった。
「僕が初めて入社した会社の先輩だったんだ。僕の面倒をよく見てくれて失敗もたくさんカバーしてくれた。そんな人だった」
ぽつぽつと、穏やかに話し出す浅井さん。
「告白をしたのは僕の方から。1年ぐらいお付き合いしてたのかな。まぁお付き合いでもないんだけどさ。僕が映画を見るのが好きだからよく付き合ってくれたんだ。吉成さんに教えた映画は初めて2人で見た映画だったんだけど、思いのほか良くて」
ははっと笑い、お酒を飲む。私も一口、レモンサワーを喉に流した。
「私も今度見てみようかな、サブスクにありますかね」
「どうだろうね、面白いよ。たしかに女性向けだけど、痛いほど純粋なヒロインに心打たれたんだ。素直な人って素敵だなって」
「そうなんですね。私もみておけばよかったなぁ」
残念がる私を見て微笑む浅井さん。
「それで、付き合って1年と少ししたあたりから彼女から告げられたんだ。旦那の子供を妊娠したからもうお終いにしたいって。びっくりしたよ、妊娠どころか結婚していることにも気が付かなかったんだから」
「え、1年も……」
「普通気がつくだろって思うよね。僕も思い返せば怪しいところはあったんだ。でもどうやら旦那さんはアミューズメント業界の会社に勤めているらしくて、イベントの日は出社していることが多かったらしい。だから疑うことも少なかった」
「そうなんですね……」
「すごく恨んだよ。騙しやがってとか、旦那にばらして家族めちゃくちゃにしてやろうかとか。でもお腹の子に罪はないし、考えるだけ疲れてきちゃったんだ。」
「浅井さん……。優しい、ですね」
「優しくなんかないよ。ただ疲れただけ。会社も変えて、もう当分恋愛なんてしないんだって思ってた。でもそれじゃいけないって、いつまでも塞ぎこんでちゃいけないって思ったんだ」
ぱっと顔をあげて、自分の中で何かを決意しているかのような眼差しだった。
先程までの痛々しい表情からうってかわって、すでに思い出として昇華した表情をしている。
「そこからは街コンに足を運んでみたりしたけどうまく行かなくて、どうしても初対面の人には構えちゃう癖があるんだよ。連絡先を交換してもそれっきりになってた。」
「街コン、行ったことない。華やかそうですね」
「意外と構えるほどでもなかったかなぁ。……そんなときに吉成さんとばったりこの店で会ったんだ。ちょっと大人しそうな見た目なのに1人でこんな感じのお店に来るんだって意外だった」
「そうですかね……?」
「うん、ははは、鼻水もちょっとでててさ、変な人って思ったんだ。少し気になって、話してみたいなって思った。そしたらすごく居心地が良くて、また会いたいなって思った」
「初対面がそのイメージだと少し恥ずかしいです」
服装や身なりに気を使うようになった今、以前の無頓着な自分を思いだすと反省の波が押し寄せてくる。
「約束の日、待ち合わせにいる吉成さんをみて驚いたよ。ここではお洒落に関心がないって言ってたから、もしかしたら頑張ってくれたのかなって嬉しくなった」
その日、服装については何も言われなかったけれど、そんなふうに思ってくれていた事に心がこそばゆくなる。変わろうと決心し、勇気を出して水島さんに声をかけてよかった。
「会社の子に色々相談したんです。浅井さんに会う為にお洒落がしたくて。それがきっかけでその子と仲良くなることが出来ました」
「嬉しいな。仲良くなれてよかったね、吉成さんいい人だからたくさん友人がいそう」
「そうでもないんです。昔から1人が多くて。浅井さんと出会って私、たくさん変わりました。私が憧れていた青春時代が今やっと私に訪れた気がします」
恋の楽しみ方や、友人との会話、約束の日を待つ間の力が漲る日々。すれ違ってもどこかでまた巡り会えるときが来るということ。
「僕も変わった。この人と新しい時間を始めるんだって、僕が前に進むチャンスなんだって、そう思ったんだ。だからずっと、誤解を解きたくて、探してた」
私を見る眼差しは、真剣そのものだった。
「理由も聞かずに、すみませんでした」
「ううん、僕こそごめんなさい」
絡まっていた糸が解けきった私達は、改めてよろしくお願いしますと、乾杯をした。
すると、いきなりどんっと目の前にお刺身が乗ったお皿が置かれた。
「仲直り記念、桜鯛だよ。お2人さんでどうぞ」
そう言って、がははと大きく口を開けて笑うご主人の奥から、ひょこっと奥さんが顔を出した。
「次からは2人でここへおいでくださいね」
隣では、頬を赤らめ微笑む浅井さん。
「はい、2人でまたここに来ます。……その前に、僕おかわりください」
空になった徳利をご主人に手渡す浅井さん。私も残りのレモンサワーをぐいっと飲み干しおかわりを頼む。
「はいよ!」
ご主人の威勢の良い返事が店の中に響き渡った。


待ち合わせは駅前に11:30。昨晩切りそろえた前髪は、柔らかく山なりになって目と眉の間に毛先が落ちる。
ようやく訪れたうららかな春の日に、街中が優しい風の流れを作り出す。
近頃のテレビでは各所の桜情報が報道されており、2人で花見に行きたいと浅井さんに連絡したら、ぜひ行きましょうと今日の約束が交わされた。
改札から出てくるたくさんの人々。お弁当を持ったカップルや子連れの家族、カメラを持った男性。とめどない人の流れから1人、こちらに向かって歩いてくる男性がみえた。
「お待たせしました、行きましょう」
「はい」
さわさわと2人の髪が揺れる。二人の関係はまだ始まったばかりで、未来はどうなっていくのだろう。喧嘩をして仲直りをして、今はまだ恋しか知らない私がいずれ愛を知るようになるのだろうか。
未熟なこの気持ちを2人で育てていけるようになりたい。
「僕、おにぎり作ってきました。向こうに着いたら2人で食べましょう」
「わ、ありがとうございます。お茶だけコンビニで買っていきましょう」
目的の園内に入り、ベンチに腰掛ける。テーブルにおにぎりとお茶をひろげ、両手を合わせる。
「いただきます、おいしそうですね」
「一応おかずで卵焼きと唐揚げだけあります」
「すごい、何から何までありがとうございます。ふふ、気分上がっちゃいますね」
口いっぱいに頬張ったおにぎりは、ほろほろと舌の上に崩れてお米の甘い香りが食欲をそそる。しゃけと昆布、2種類のおにぎりはどちらも丁度いい塩加減ですぐに平らげてしまった。
「吉成さん、楽しいですね」
憧れていた時間は、だんだんと私にとっての日常となっていく。
ふと見上げた爽やかな春の空は、真っ青に晴れ渡っていた。
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