春の日

文字数 1,997文字

「もうさ、仕事辞めたら」
 僕は言った。ずっと言わなければならないって思っていたんだ。彼女は玄関から僕を見ている。少し瘦せてしまった。名前も聞いたことのないような薬の量が増えた。その顔をしっかりと見たのはいつ以来だろう。僕は少し濃くなった彼女の化粧にようやく気が付いた。
「それで、いいの?」
 おかしな返答に思えるけれども僕には意味が分かった。
「次の桜くらいならきっと見に行けるでしょ」
  彼女は笑ったような涙を流したような。ハッキリとしない。だって暗がりにいるんだ。玄関の灯りはついていないから。
 ワンルームの狭い部屋。彼女が選んだカーペットの上で、僕はゲームのキャラクターのクッションを枕に寝ころんでいた。
「じゃあ、そうする」
 彼女は僕の隣に座り込んで、今度こそ確かに笑った。嬉しかった。僕は転がっている毛布を手に取って彼女とくるまった。毛布越しの光に照らされて、目と目が合うと胸の中で何かが溶けて崩れるような感覚があった。なつかしいねって僕は言った。彼女は何それって言った。薄い毛布は何から僕らを守ってくれるわけでもないのだけれど、そういうものこそ温もりだと思い出した。
「疲れた」
「ごめんね」
「謝らないでよ」
「冷蔵庫には何があったっけ」
「お酒と、あとは……覚えてないや」
 彼女は恥ずかしそうに言って、僕は胸が痛んだ。誤魔化すように彼女を抱きしめた。小さな身体は僕が想像していたよりも崩れてしまいそうで。ごめんねとも、もう言えないから。
「何かつくるよ」
「今日はお酒は、まだいいや。このままでいいや」
 僕は目を閉じた。彼女と出会った頃の事と、これまでの事。日常の中でふと涙を流して蹲る彼女、上手く生きれないんだって言うんだ。僕はそれでいいと思うから、ただ寄り添っていた。それだけの夜が数えきれないほどにあって、それは実際に苦しい日々だったんだよ。でも、そういうのとは別の部分で僕は陶酔していて悲しいことと嬉しいことの境界線があやふやになっていく感覚があって。そんな中で僕の身体は植物みたいになっていった。心だってきっと。
 血管を通る酸素。呼吸の音が聞こえる。彼女は憑き物が落ちたように眠りに落ちた。僕の心臓はどうしてか動いている気がしなくて、彼女の体温だけで無理やり生きているような気がした。
「おやすみ」
 それはきっとただ自然なことなのだと思った。

「そろそろ付き合わない?」
 そう言ったのは確か僕が大学を卒業してからすぐのことで、彼女は仕事帰り、まだ物が揃っていない僕の家をよく訪ねて来た。そのころ僕は友人と同人ゲームを作ろうなんて思っていた。
「ごめんね。貴方と付き合う私にはなりたくないの」
 さほど悩まずにあっさりと彼女は言った。僕はそっか。って言ったと思う。
 僕はその頃彼女が何を求めていたか少しずつ分かってきたころだったから、少しだけショックだったけれども、その言葉を受け入れられた。別に彼女と触れ合えなくなるわけでもないし、彼女がここに来なくなるわけでもないと解っていたから。
 そのころ僕の六畳のワンルームに置いていたのは布団と丸テーブルぐらいで、固い床に座って彼女が飲みきれなかった日本酒を代わりに飲んだ。
「飲みやすい」
「でもやっぱりお酒って怖いからさ、あんまり飲めないや」
 日本酒の味が好きな彼女は、けれどいっぱい飲むことを怖がっていた。自分の手綱を手放すことを恐れていた。だけど僕は彼女が日本酒に限らず、おいしいものを食べたり飲んだりしたときの笑顔が好きだった。言ってしまえば彼女らしくない表情なんだけれど、彼女が本当に幸せそうな顔をするのはその時くらいで、その笑顔で僕まで嬉しくなるんだった。
「今日は何があったの?」
 彼女が仕事帰りに僕の部屋に来るときは、大体苦しさが原因だっだ。僕はそれをどうにかしてやりたいけれど、きっと彼女はそんなことを求めていなくて。
「ちょっとまってね。目瞑りたいから」
 彼女にとって僕が僕であることはどれほどの意味を持つのだろうか。考えてしまえば僕にとっての彼女だってそうで、例えば彼女が明日名前を失っても、姿かたちが変わってしまっても、僕は彼女を彼女として受け入れるんじゃないだろうか。人間関係、役割を演じる事。全てがそうだとは思わないし、それを糾弾しようとも思わないけれど、罪悪感は残った。そういうことを考えてしまう僕や、彼女に身勝手に僕を重ねたことに。
「そう」
 絨毯にそのまま寝転がった彼女の傍らに僕も寝転がる。そうすると彼女は僕の腕を、縋りつくように抱きしめる。僕は彼女の呼吸による胸の動きを腕で感じる。何度となく繰り返してきたことで、僕はぼぉっとする頭で天井を見上げていた。自分の口座の残高と、ここ三日起動していないパソコンと、バイト先で口喧嘩するおじさんとおばさんを思い出して、それがごちゃ混ぜになって。
たしか叫ぶ代わりにただ俯いたんだった。
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