第1話

文字数 5,493文字

 木島の世界には花と女の足しか存在しない。春めいてくると待ちかねたように方々で鼻が咲き乱れ、木島の働いている花屋も新しい花でいっぱいになる。女の足も同時に咲き誇る。厚いタイツの雪はとけ、軽くなって風に舞うスカートからにょっきり生えた足の花があちこちで開花する。
 木島が働いている花屋は右へ弧を描いている坂の下に位置していた。店を開けて植木鉢や切り花をいっぱいにさしつめたびんを足の踏み場もないほどに準備してしまうと、小柄な木島は花に埋もれてしまった。そうして赤や黄色や紫の花びら越しに坂をおりてきたもの、これからのぼるものを毎日みつめていた。
 店の左手からは曲がった先の坂の様子がガラス窓越しにみてとれた。のぼろうとする人間はたいてい、坂を三分の二ほどいったところで足をとめ、坂の先をみあげてため息をつくと、大きく息をすいこんで再び足をあげるのだった。坂は傾斜がきついうえに距離もかなりのものであったが、階段をきざむことによって傾斜のきつさをうちけすことには成功していた。木島は店番をしながら坂をのぼる足、ことに女の足をみつめていた。
 足は多くのことを物語った。結婚して女から妻になって気遣われなくなった脂肪のかたまりがふつふつと浮き上がった足、ぴんとはった若鳥のような女の足、生まれて一度も男の手がふれたことはない少女の足、一段ごとに運ぶ足のまわりには霞のようなものがとりまいていてそこに蜃気楼のようなものが浮かんで木島にはみえた。言い争う声、暗い部屋、はしゃぐ声、遊園地、パーティー会場、ホテルの一部屋、ほつれた髪――。すべてが映画でもみているかのようにうつって木島は退屈を知らなかった。
 木島は高校を半年通って中退し、親の知り合いのつてで今の店で働き始めた。無口だが花を愛し、頭に二文字つきそうなくらいに真面目なこの男を店の主人は喜んだ。ちいさな背をかがめてより小さく、砂漠で風にさらされて今にも砂になろうかというひび割れた石のような二つの手で傷つけまいと愛おしそうに花を扱い、聞かれなくても、植物の育てる上での注意や、切り花の日持ちさせるこつなどをぼそぼそつぶやくこともあった。
 花は木島を理解し、木島も花を理解した。木島が声をかけると確かに彼女は美しく先、時に木島と戯れるのだった。学校時代、友人たちと離れて下段で一人花に語りかける木島は‘花さかじいさん’と綽名されていた。木島は腰を屈め、O脚の足の間で土をいじり、花を食いあらす虫を丹念につまみあげては石でつぶしていた。
 木島は店の前を通り過ぎる女の足とその人生をじっとみつめてきたが、美しいと思う足には出会ったことがなかった。ただ一人の女の足をのぞいては。
 その女の足を木島はまだ一度も見たことがなかった。いや、くるぶしの部分は垣間見たことがあるので一度もというのは正しい表現ではないかもしれない。
 女は花屋の常連客で、月に二、三度、多い時で連日バラを買い求めた。種類には無頓着で、むしろ香りのきついものを好んでいた。
 いつも和服姿で店にやってきては十本程のバラを花束にするわけでもなく、無造作にかかえて裾を気にしながらも坂をのぼっていった。バラを花瓶から取り出し、水を切ってから湿った脱脂綿で切り口をくるんで女に渡すと、木島は急いで坂の良く見えるところにひそんで女の足をながめた。女は足袋もあらわに坂をのぼっていった。店の女主人とのよもやま話を盗み聞くと女は坂の上で日本舞踊を教えているらしかった。
 木島は女の足をみたいと思った。ガラス越しに遠くからみる女の足はそれよりもはるかに劣る着物の裾に隠されてしまっていた。そうして段をあがるたびに、まるで娼婦が最後の一枚を脱ぎ捨てる時のように、ふくらはぎをちらつかせ、木島に握り拳をにぎらせた。
 木島は女というものの足はくるぶしから膝にかけてのふくらはぎの肉付きのバランスがよいほうがいいと思っていた。足首は細ければよいというものではない。水の滴を垂らしたときにためらうことなく流れ落ちる曲線をもったふくらはぎと、拳程度の膝小僧へすべての曲線が集約され、危ういバランスを保っている足こそが美しいのだ。細くても真っ直ぐに伸びた足はいけない。それは少女の足であって、女のものではない。逆に足首は細かろうと異様な肉付きをもつふくらはぎは木島の食指を動かさなかった。骨に肉付けをする時にへらで丁寧に形を整えた、そんな足が唯一価値のあるものである。
 裾の奥の女の足は美しかった。ふくらはぎは風に身をまかせるすすきの茎のごとく優しい線を描き、片手で覆ってしまえる膝小僧のもとで一つになるのだ。その筋肉の繊維はピンと張って、はじけば世にも不思議な音楽を奏でるだろう。生活に疲れた女の足に浮き出る脂肪の斑点など一つも見当たらない。みつめればすいこまれそうな透き通る肌は男の足がからみつけばほのかに上気して桜の花びらの化身となるのだ。
 木島はそこで目を覚ました。彼の足は背の高い切り花ほどもなく、太く内側に曲がっていた。女の足に自分の足を重ね合わせることはより彼の足の醜さをきわだたせることでしかなかった。
 ある日、いつものようにバラをかかえていった女の後ろ足を見送った後、しばらくして店の電話が鳴り、応対に出た木島はさきほど女が買い求めた同じバラをもう十本持って来てほしいと頼まれた。家は坂をあがってすぐの日本舞踊教室の看板のある家だとも教えられた。急いでいるようなので坂をかけあがっていくことにした。
 女の家はすぐに見分けがついた。案外大きな門構えで、さざんかの生垣はきちんとかりこまれ、手入れは行き届いており、女一人の暮らしとは思えなかった、木島は引き戸に手をかけかけて、荒い息遣いとバラの香りにまじってたちのぼる汗の臭いに気づいて手をひいた。しかし、じっとしていても汗は皮膚の穴から噴き出るばかりで動悸はおさまることはなかった。木島は女と同じバラの香りに誘われるまま、戸をひいた。
「ごめんください、花屋ですが」
 引き戸に鈴がつけてあったらしい。小気味よい音がすると、奥の方から女の声で「お風呂場の方へお願いできます」と返事があった。ぐずぐずしているとまた、「廊下のつきあたりを左のところですから」と声が聞こえてきた。木島は慌てて脱いだ靴を震える右手でそろえ、廊下を渡っていった。
 まっすぐに伸びた廊下の左側からはガラス戸越しに庭の様子がうかがえた。丸刈りされたツツジは青々と茂り、梅の木は小さな青い実をつけていた。紅葉の盆栽もいくつかおいてあり、その曲がりくねった幹は木島に自分の足の醜さを連想させた。庭へおりる石段の上には新聞紙がひろげられており、葉がまだしゃっきりとしているバラの茎だけが首を切り落とされた死体のように整然と置かれていた。
 風呂場の戸は開かれており、中から水を溜める音がしていた。バラはいっそう強く匂ってきた。洗面所で木島がバラの置き場所でまごついていると、女がやってきた。そして浴室のタイルの床に新聞紙を広げると、そこへバラをおくように命じた。木島はいわれるままに従った。
 浴槽からは湯気が立ち上っており、女は蛇口を閉めた。浴槽にはられた湯の上にはバラの花びらが浮いていた。脇には浴槽の湯と同じ色のついた液体の入った小さなガラス瓶がおかれてあり、木島にはそれがバラの香水だと察しがついた。
 女は浴衣の裾をするするとたくしあげると浴室へ降り立った。素足の裏がタイルに吸い付く小気味よい音が響き渡った。女はそのまま腰をかがめて湯かげんをみていた。バラの花びらがかきまわされ、いっそうバラの匂いがたちこめ、水が浴槽にあたってはかえる波の音がいつまでも続いていた。
 それはじょうろが見当たらなく、しかたなしに掃除道具のブリキのバケツに汲んだ水を花壇まで運んでいくときの音だった。バケツを脇にし、手で掬っては、おおつぶの水滴が花びらには思いだろうと根元にかけていた。花に話しかけていて気がつかなかったが、いつのまにかに木島の脇に二本の足が立っていた。きれいに磨かれた革靴に洗い立ての白い靴下、そこから伸びる足にはうっすらと産毛が映えていた。
「じょうろなら体育倉庫よ。金森君たちが隠したの。いやな人達よね。私嫌いよ」
 彼女の名前は忘れてしまった。ただ覚えているのは木島よりも先に高校をやめていってしまったということだ。ただ、間近に見た温かい肉の柱が青空を支えていたことはその後も忘れることのできない光景であった。
 柱は再び木島の前に現れた。吐く息でさえも響いてしまうのではと木島は胸一杯に空気をためこんで女の足をみつめていた。くるぶしのくるみはかたく、かかとはもぎたてのレモンのようにみずみずしかった。ふくらはぎは身の引き締まった魚のようにはねていた。湯気にあてられて毛穴が開いており、流線をうみ出す一つ一つの細胞の様子がうかがえた。バラの甘い香りが暖かい湯気に包まれて木島を取り巻き、木島は眩暈を覚えた。夢の中で彼は人差し指で女の足をなぞっていた。
 女は鋏を取り出すと、バラの花の頭を切り落とし始めた。金属の刃があわさり、バラは美しい頭だけを並べた。それから花びらを毟り始め、浴槽へと放った。女のうなじは常軌してうっすらと、その日買っていったバラと同じ色に染まった。
 ふと女が木島を振り返った。その時の女の顔を木島は見ていない。女は立ち上がると急いで浴室を出て行き、財布を片手に戻ってきた。
「ごめんなさい。気がつかなくって。つい急いでいたものだから。おいくらになるのかしら」
「ちょうど五千円になりますけど」
 木島は女の足の指をみつめていた。まだ乾かないバラ色の湯が所々で滴となってたまっていた。明け方近く、夜露に濡れた花壇の花を木島はみていた。女は財布から五千円札を取り出し、木島に渡した。
「どうもありがとう。またお店には伺いますから、おかみさんによろしく言っておいてくださいね」
 木島は黙って顔は舌へ向けたままで腰だけ曲げた。そして女を避けるようにしてそそくさと廊下を戻っていった。玄関までやってきて後ろを振り返ると、女の姿はなかった。そのかわりに湯を使う音がかすかにしていた。女の体からいつもバラの香りを感じとっていたのは彼女がバラの湯につかっていたからだった。湯船に体をあずけ、夥しい花びらが一斉にその肉体を覆う。腕に足にからみつき、腰にっまとわりつき、乳房を撫でる。バラは開かれた毛穴から女の体の隅々にまで行き渡り、やがて女はバラに取ってかわられる。女の肌を傷つけたならきっとあの香水と同じ色の血が溢れ出すだろう。

 外に出てもバラの香りは木島の体にしみこんでいつまでも鼻についていた。木島はゆっくりと歩くことで汗の出るのを抑え、自分を女と同じ匂いにつつみこんでおこうとしていた。まるで女の体に抱かれているような心地がしていた。
 木島が坂を降りるのとすれ違いに坂をあがってくる男があった。途中で脱いだものか、背広を手にかけ、ネクタイはゆるめてあった。背の丈は高く、体つきは痩せていた。細い銀縁の眼鏡をかけ、同じ銀色に光る髪は油で整えられていたが、ほつれたものが二、三本額にかかっていた。時々それをうるさそうにはらう手は、木島の水で荒れて皮のよれた手とは異なり、はりはないのだが力仕事は一度も経験したことがない柔らかな手であった。
 木島がこの男に会うのはこれが初めてではない。決まって夕方近くになると坂を上る男の姿を見送ったことがこれまでに何度かあった。子供のように大きく丸い目をしていて、皺の溝はそうも深くはなかった。暮らし向きのよい、学者か医者のようなものだろかと想像がついた。
 坂の曲がったところで男とはすれ違った。その時男はバラの風をまきおこした。木島は一瞬足を止めた。男も木島を一瞥したようだったが、そのまま階段を上がり切った。木島はすぐに坂を引き返した。坂の上で彼が見たものは女の家に入っていく男の汗のしみ込んだ背中だった。
 木島は女と薔薇の秘密を知ってしまった。女は男を迎えるために湯につかり、肌を磨くのだ。女にとってバラは自分の美しさを守るため、ひいては男との情事を続けるための尊い犠牲でしかなかった。二人の寝床にもバラの花びらが敷きつめられ、狂わんばかりの香りにつつまれて、男は女の足の間に咲く花を毟り、散らしてしまうのだ。

 翌日も女はやってきて、バラを求めた。
「こんにちは。またバラをくださる。昨日と同じものでいいわ」
 店には木島しかいなかった。男が来る、と勘付いた。
「バラはもうないんです」
 木島は着物の裾をみつめていた。足はもう見えなかった。
「じゃあ、別のものでいいからくださいね」
「ありません」
「えっ」
 女は木島の声が聞き取れなかったらしく、聞き返した。
「バラはありません」
 木島は初めて女の顔を見た。
「どうして、あんなにたくさんいろんなものがあるじゃないの。昨日と同じのでなくていいからバラを頂戴」
 女は自分から花瓶に歩み寄っていこうとしていた。しかし木島がたちはだかった。
「バラはないんです」
 女の顔がひきつっていた。化粧の粉がふいていて、所々ひび割れていた。あんなにも夥しいバラの美しさをもってしても老いは確実に彼女を襲っていた。
「バラはないんです」
 木島は繰り返した。女は目をむいて口をだらしなく開けたまま立ちつくしていた。
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