第1話

文字数 2,506文字

「あら?遺影の写真、これしか無かったの?随分、若い頃の写真ねぇ」
遺影が置かれた祭壇の前で足を止めた紗月は、そう呟いた。
今は、葬儀場に集まってから葬儀が始まる前の隙間のような時間で、周囲には誰も居ない。
喪主である姉の悠香は、離れた場所で葬儀場の職員と話し込んでおり、数少ない参列者達は、三々五々、立ち話をしたり、葬儀場の外で煙草を吸ったりしている。
そこに居るべき人―これまで、こうした場で紗月と悠香を支えてきてくれた母親―の姿は無い。
「まぁ、でも、そう。この少し後にお父さんが亡くなって、それからずっと忙しかったもんね。お母さん、働きづめだったし。写真どころじゃなかったか」
紗月の視線の先、遺影の中の女性は、長い髪を靡かせて嬉しそうに微笑んでいる。
カメラを前に表情を作ったのではなく、思わず零れた笑みをカメラが捉えたのだろうと伝わってくる―成程、確かにこれは良い写真だと紗月は思い直す。
遺影から読み取れる瑞々しさは、失われて久しいが、棺に横たえられた遺体の横顔には、確かに、在りし日の面影が感じられた。
姉は、見る目がある。
実際のところは、これ以外に写真が見当たらなかったからかもしれないが。
これは、昔、両親と悠香と紗月の一家4人で海へ出かけた時の写真だ。
あの頃は紗月も悠香も反抗期で、何かにつけて両親を困らせたけれど、この旅行は楽しかった。
海で泳いで、魚を食べて、夜は皆で花火をした。
海を見るのは初めての紗月が、はしゃぎ過ぎて熱を出し、姉に呆れられたのも、良い思い出だ。
この旅行から1年も経たない内に父が亡くなって、紗月達の生活は様変わりしてしまった。
遺された家族3人、頑張ったけれど、もう出かけるような余裕は無く―。
けれど、あれは……、あの頃の不協和音は、金銭だけが理由ではなかった。
父が亡くなってからの紗月と母は、必ずしも仲の良い家族ではなかった。
姉が早々に切り替えて反抗期を終わらせた一方で、紗月は、どうしても母に寄り添えず、優しく出来なかった。
父は出勤途中の事故死で、遺された家族の誰にも責任など無かった。
むしろ、まだ未成年の悠香と紗月の為に、下げたくない頭を下げ、母は身骨を砕いてくれたと思う。
紗月は、ただ、気持ちのざわめきを姉のように上手く、おさめられなかったのだ。
姉が呆れた目で見ているのが分かっても、母を傷付けたと反省しても。
紗月は何度でも繰り返す。
……そこに、諫めてくれる父親は居ない。
だから、大人になって曲がりなりにも自立した時、ほっとした。
母を嫌いではなかったから、距離を置きさえすれば上手くやっていけるのではないかと。
お金が貯まると早々に家を出た紗月に対して、何か言いたげだった母は、結局、何も言わなかった。
母の方でも、この関係は離れた方が上手くいくと思っていたのかもしれない。
ひとり暮らしの生活は苦しかったが、母娘の衝突は減り、表面上、関係は円満になった。
メールや電話なら、自分にとって良いタイミングを狙ってすれば良いのだから。
その内、紗月は母に―昔なら、決してかけられなかったような―労りの言葉すら、かけられるようになった。
―けれど本当に、これで良かったのだろうか。
この期に及んで、紗月は、まだ迷っている。
父との別れを経験していながら、紗月は、母との関係が永遠に続いていくように錯覚していた。
こんな風に突然、会えなくなるのなら、もっと本音で向き合うべきだった?
しかし、互いに傷付けると分かっていて近付くのは、不毛だ。
自分と母が一緒に暮らして、今よりも円満な関係を築いている想像がつかなかった。
親子の間にだって相性はあって、どうしたって紗月と母のそれは悪かったと思う。
結局のところ、何が正しかったのかなんて永遠に分からない。
いつの日か、2人の両方が天に召されるまで、話し合いも出来ないのだから。
「出来るなら、最後に1度だけ、声が聴きたかったな……」
ふと気づくと、それぞれに距離を置いていた参列者達が、集まり始めている。
もうそろそろ葬儀が始まるのだろう。
葬儀場の外から戻って来る参列者達に目を向けて、その中に、会いたかった人の姿を見付けて、紗月は目を見開いた。
車椅子に乗って、夢見るような風情で宙を見詰める、年老いた女性。
紗月によく似た、その顔は―。
「お母さん」
紗月の横をすり抜けて、悠香が、その人のもとに歩み寄る。
車椅子を押していた女性が、そっと悠香に頭を下げた。
「来られて良かった」
「葬儀が終わったら、すぐに病院へ戻って頂きますが―」
「本人もどこまで分かっているか、曖昧ですし、無理を言いましたけど、やっぱり、娘の葬式には出させてあげたくて……」
隣で立ち話をする2人が見えていないように、母は、ぴくりとも動かない。
母は何年も前から、夢の世界の住人だ。
体の調子も悪く、今はほとんど病院に繋がれたように生きている。
だから、今日、会えるとは思ってもいなかった。
階段から転落したあの日、最後に母に会いたいと願って、それが紗月を現世に留めたのだとしても。
どういう仕組みなのか、自分の体からは離れられず、葬儀が済めば、それで終わりだと考えていたから。
紗月は母に近付いて、しゃがみ込み、その頬に優しく触れた。
無論、母の目には―というか、この場の誰の目にも―紗月の姿は映っていないし、触れたとて、互いに何も感じないけれど。
それでも、こうして最後に会えた。
その時、突然、紗月と母の目が合った。
「お母……さん?」
先程まで硝子玉のように空虚だった瞳が、今は焦点が合い、まっすぐに紗月を見ている。
まるで誰かが今だけ母の魂を戻してくれたかのようだった。
母の、この目に見詰められるのは、どれ程ぶりだろう。
母の手が、求めるように紗月の方に伸ばされる。
「紗月―」
そうして母は、紗月の名を呼んだ。
紗月の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
―ああ、最後に1度、名前を呼んでほしいという願いが叶った―。
紗月は母の掌に、そっと自分の掌を合わせた。
心残りが消えて、もう地上に居られる時が過ぎたからか、紗月は、今や消え失せようとしていた。
キラキラとした粒子になって消えていく自分を感じながら、紗月は笑んだ。
遺影と同じ、柔らかな顔で。
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