第1話

文字数 4,998文字

 蛍光灯の灯りがぶっきらぼうに本と私と店主を照らす。堆く積み上げられた本は今にも崩壊を起こしそうでありながら、かろうじて平穏を保っているような緊張感があった。
 本棚に置かれた古い文庫本の背表紙をそっと指でなぞってみる。本のカバーはただの印刷なのだから、目隠ししたら何が書かれているかなどわからないはずなのに、それでもその本が自分の名前を懸命に主張しているような熱っぽさが指先から伝わってくる。
 ほんのりとした粘り気。値引きシールの糊がうっかり移ってしまったのか、それとも前の持ち主のジュースの水滴がそのままカバーに付着したのか。その不思議な粘り気が私の指先をか弱い力で掴んだような気がして、私は何気なくそれを本棚から引き抜いた。
 『フィルムカメラ』光村 樹奈 
耳にしたことはあるが、読んだことのない作家だった。だが、多くの物語から一つを選び取るのは決まって偶然によるものだ。もしかしたら、私に影響を与える一冊になるかもしれない。そんな期待と冒険心を本は与えてくれる。
 私は古本屋が好きだ。そこに陳列された本たちは、すべてがどこかのだれかの手に渡ってからこの場所へ流れ着いた。その本は自身の物語以上の物語を経験して、そこに並んでいるのだ。どんな人に読まれたのか。男性か女性か。若いか年配か。元気で明るい性格か、一人で黙々と過ごす性格か。その人物の好きな食べ物、飲み物、趣味など。私は、そんなことを想像しながら読むのが好きだった。だから大学でも文学部を選んだし、講義がない日でもついつい本のある場所へ足を運んでしまう。
 私は、舟を漕ぐ店主のおじいさんを優しくつつき、レシートも出ないような会計を済ませて外へ出た。涼しさを店の中においてけぼりにしたような、夏の日差しだった。
 
 買った本をカフェでゆるゆると味わうことが、ここ最近の習慣になっている。夜にある彼との約束に合わせて、駅の近くのカフェにしておこう。仕事が終わった彼を迎えに行くのも簡単だ。そんなことを考えながら、汗ばむうなじの汗をハンカチで拭いつつ、駅の方へと向かった。
 カフェの扉を開くと、ひんやりとした心地よさが全身を包み込む。汗が冷えて少し肌寒いくらいにも感じられる。
 ちょうど昼食時も終わったほどの時間だったためか、人はまばらだった。私と同じような大学生くらいの女の子達がフルーツタルトをつつきながら談笑しているのが見えた。
 人差し指を一本立てると、店員がランチタイムの疲れを感じさせないプロの笑顔で窓際の席を案内してくれた。
「ほうじ茶ラテ、ひとつ」
 水を運んできた女性の店員にメニューを開かずに伝える。注文を受け取った彼女は丁寧な所作でそれを控えると、会釈をして店の奥へ引っ込んだ。私はそれを見送ると、カバンの中からさっき買った本を取り出しテーブルの上に置いた。
 文庫を開くと、思ったより本来の紙の色が残っており綺麗だった。最初のページにタイトルと作者が書かれ、そでには著者の簡単な紹介が書かれている。出身地が同じことにちょっとした共感を覚えながら、パラパラとページをめくると、本の間から何かがぽとりとテーブルの上に落ちた。
 どうやら、出版社の本の広告のようだ。翌月の新刊情報などが書かれたツルツルした手触りの小さな冊子。だがどうにも分厚い。不思議に思い、中を開いてみる。
 白くて薄くひらべったいもの。昔よく見た形。どこで見たんだっけ。
 はたして、それは手紙だった。子供のころ、授業中こっそり回した「あの」形の手紙。表面には赤いマーカーで「Dear」と書かれている。大学ノートの罫線が規則的な模様を描き、自分のことを見る者にアピールしているようだ。
 私は何気なく手紙を開いた。すると、こう書かれていた。

Dear こーちゃん
こーちゃんへ。
 直接言ったほうがいいと思ったんだけど、やっぱりはずかしいので手紙を書くことにしました。ちゃんと気が付いてくれて嬉しいです。さすがこーちゃん。
 いつもありがとう。そんなに人と話すのが得意じゃないわたしが、クラスの人と仲良くなれたのはこーちゃんのおかげだと思います。もちろんこーちゃんが貸してくれる本も全部面白かったし、わたしのおススメした本をこーちゃんが楽しそうに読んでくれていたのも、ホントに嬉しかった。
 でもやっぱり、こーちゃんがいるからわたしは学校が楽しく思えるようになりました。だから、こーちゃんとずっと一緒にいたいです。こーちゃんが好きです。優しくて、笑うとえくぼができるこーちゃんの笑った顔が大好きです。
 こーちゃんがいつか●●市に帰ってきたら、▲▲公園でまた話がしたいな。
それまで元気でね。
黒瀬 小春

 動揺した。…これはラブレターじゃないか。なぜこんなものが挟まっているのか。いやそもそも、なぜラブレターが挟まった状態のまま古本に陳列されているのか。こーちゃんはこの小春ちゃんからの手紙を読んだのか否か。読んだならば、なぜ挟まったまま古本屋に売却されたのか。読んでいないならば、小春ちゃんの思いはこーちゃんに届いていないということなのだろうか。そして、今この二人は何をしているのだろうか。  

「お待たせいたしました。ほうじ茶ラテでございます。」
 ほうじ茶ラテが運ばれてきた。手紙を読み耽っていたためか、あっという間だった。
「はい、ありがとうございます。」
 私は女性店員に笑顔を返し、ほうじ茶ラテを一口飲む。ほうじ茶の香ばしさとミルクのコクが身体に染み渡る。気持ちが落ち着く一口だった。
 飲みながら、窓の外をぼんやりと眺める。手紙の文面にあった▲▲公園なら、ここから歩いて5分ほどの場所にあったはずだ。近所の子供が学校帰りにたまり場にしているのを何度か見かけたことがある。
 ということは、「小春ちゃん」はこの近辺に住んでいる人ということなのだろうか。もしかしたら、今店の外を行き交う人の中に「小春ちゃん」がいるかもしれない。窓の外への意識がより一層強くなる。今、自転車を止めた女性が、踏切を渡っていくスーツ姿の女性が、さっきほうじ茶ラテを運んでくれた店員の女性が「小春ちゃん」である可能性もある訳だ。
 考えるほど興味が湧いてくる。時計を見ると4時前。彼が仕事から帰るにはまだ2時間かかる。

 探しに行ってみよう。

 私は興味に促されるまま、残ったほうじ茶ラテを飲み干し会計へと向かった。
 会計をしてくれたのは先の女性店員だった。私は気恥ずかしさと興味を混ぜた気持ちで、彼女にフルネームを尋ねた。
「えっ? …萩原亜由美と申しますが…。どうかなさいましたか?」
「いえ、なんでもないです。ごちそうさまでした。」
 しばらく、このカフェ使いにくくなるかもしれない。


 ▲▲公園の近くには、住宅街が林立している。建売住宅がここ数年で増えたとか彼が話していた覚えがある。私にはいまいちピンとこないが、彼は一時期を除き、ずっとこの街に住んでいるので子供のころと景観が変わることに、何か思うところがあるのかもしれない。
 公園のそばまでくると、ちょうど学校終わりのためか小学生の子たちがブランコや滑り台の近くに集まってワイワイと遊んでいる。日が暮れ始めたが、そんなことはおかまいなく遊びに熱中する声が聞こえる。
 なんとなく公園の周辺を一回り歩いてみる。「黒瀬」の表札を探してみた。冷静に考えてみれば、公園を徒歩圏内にしている住宅なんていくらでもある。少し歩いたところには団地もあるので、そうなったらもう探していられない。明日になれば、この興味の熱意も薄れているだろうから、何かをするとすれば今日だ。ただ、こんな風に漫然と歩いたところで見つけられるはずもない。そう思っていた。
 だが、私は見つけた。
 公園の周りを歩き始めて20分、突然目に止まった門扉には「黒瀬」としっかり表札が掲げてある。こんなにあっさりと見つかるとは思っていなかったので面食らった。それでもまだ、この「黒瀬」さんが件の「小春ちゃん」かどうかは分からない。さてどうやって確かめたものかと表札を眺めていると、
「どうかされましたか?」
 振り向くと女性が立っていた。暗めの茶髪にショートヘアの、どこか落ち着いた雰囲気のある華奢な女性だった。20代後半くらいの年齢だとすれば、彼と同い年か。この年齢くらいになるとみんなこれくらいの落ち着きを持つものなのだろうか。
「あの…」
 あまりにも突然のことだったので、言葉が出てこない。彼女はきょとんとした顔で私を見ている。沈黙が漂う。
「あの、何か御用でしょうか?」
 再度、彼女が私に尋ねてくる。私は意を決して、
「あの…黒瀬、小春さんですか?」とボリューム調節を間違えたアンプのような弱い声で尋ねた。
「…はい、そうですが。あの、失礼ですがどちら様ですか?」彼女は、怪訝な顔を浮かべながら言った。
 だが、そんなことはおかまいなく私は奇跡を感じていた。これは奇跡と言わずして何というのか。思わず鳥肌が立った。私が見つけた手紙の差出人は、あまりにも都合よく私の目の前に現れた。えもいわれぬ達成感がこみあげる。
 と同時に、私は説明に困った。たまたま古本に挟まっていた手紙を頼りにあなたを訪ねてきただなんて、どう説明しても怪しい。突然、全然知らない人に自分の名前を呼ばれたら、誰だって怪訝な顔になるに決まっている。
 私はカバンから手紙と本を取り出し、彼女の前に現した。そして、一つ一つ事情を説明した。最初は訝し気な表情を浮かべていた「小春ちゃん」だったが、本のタイトルと手紙を見るうちに、次第に幼い日の自分の淡い恋心を思い出したのか、最後は気恥ずかしそうな柔らかい笑みをこぼした。「小春ちゃん」は話してくれた。

 同じクラスの好きな男の子。本が好きな男の子。引っ込み思案だった「小春ちゃん」と比べ「こーちゃん」はクラスの人気者で明るい男子だった。そんな「こーちゃん」に彼女は恋心を抱いく。しかし、「こーちゃん」は中学校に上がる前に親の仕事の都合で転校をすることになってしまった。
 彼女は「こーちゃん」に思いを伝えたかったが、勇気が出なかった。だから手紙を書いて本に挟み、その本を「こーちゃん」にプレゼントした。恋心が成就することを願って、自分の想いを本に託したのだ。

「こーちゃんは結局、こっちに帰ってきたんですか?」一通り聞き終わって、私は尋ねた。
「うーん、わからないんだよね。私があまり小学校の友人とつながりが無いのもあって、みんなが今どこで何をしているのかもよくわからなくて。」
「でも、もしこの手紙をちゃんと読んでいたら何かしらの連絡はしますよね。」
「私もそう思う。だから気が付かなかったんじゃないかな。」
「それは…なんというか…ショックですね。」
「ほんとだよ。」
二人で笑いあう。初対面とは思えないほどリラックスした空気がそこにはある。
「でも、もしできるなら、やっぱり会ってみたいですか?」私は踏み込んでみた。
彼女は少し迷って、
「…それはまあ、確かにそうね。どうして私の手紙をはさんだまま古本屋に売ったのか問いつめたい。」
と、意地悪っぽく微笑みながら言った。そこには、学生時代の淡い恋を語る大人の無邪気さが垣間見えた。私も昔の恋をこんな風に無邪気にかわいらしく語る日が来るのだろうか。
気が付くとあたりは大分暗くなっていた。いつの間にか暑さも和らぎ、汗ばみもすっかり乾いている。
 私は「小春ちゃん」に手紙を渡して駅に向かった。最初は本も渡すつもりだったが、彼女は手紙だけで十分だと言った。別れ際、また話がしたいと言ってくれた。私も同じ気持ちだ。
 
 駅に着いたのは6時10分前。スマホを見るとメッセージが来ている。
 水原浩介。何度も見慣れた文字が画面上に浮かぶ。
「もうすぐ駅に着くよー 今日は何食べようかねー。」
 それだけで嬉しくなる。彼の、笑うとえくぼのある顔が目に浮かぶ。さて今日は何を食べに行こうか。もちろん、さっきのお姉さんの話もしてあげないと。
 暮れなずむ空と白色灯の両方に照らされる中、私は彼を待つ間、『フィルムカメラ』をそっと開いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み