天秤座の雨女

文字数 45,242文字

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 テレビ画面に映るのはキンモクセイの花だった。都内の公園に中継が繋がっていて、中継先のレポーターが、今年もキンモクセイの香る季節になりましたと明るい声で伝えていた。やりとりしているニュースキャスターが嬉しそうな顔してキンモクセイの、その匂いのことを話しているものだから、さぞかし芳しい香りなんだろうなと想像しながら、いつもなら三分で食べ終わるトーストを手に持ったまま時が過ぎるのを忘れ、テレビ画面を食い入るように見入ってしまった。そんな朝の始まりだった。
 気もそぞろに午前中に単語の暗記、予備校の授業内容の予習と復習を済ませた後、部屋を出る。徒歩二分の場所にある行きつけのとんかつ屋の暖簾をくぐり、いつものロースカツ定食のランチを注文する。
 ──この辺にキンモクセイの咲いている場所ってありますか?
 ──キンモクセイ? キンモクセイってあの良い匂いのする? そうだねぇ、この辺では見たことないねぇ〜。
 おばちゃんは厨房で肉を叩いている旦那さんにもきいてくれるが、旦那さんからの返事はない。
ちょっと期待していただけにがっかりしたが、安易に近場でキンモクセイの在処を済まそうとしたのが間違えだったと思い直し、出された瓶のオレンジジュースをグラスに注ぎ、飲む。冷たい。
 ──東京の大きな公園に行けばあるんじゃないの?
 とおばちゃんは興味なさそうに答えながらも小鉢を冷蔵庫の中にしまうその手を休めない。その後、あ! と大きな声を出す。どうしたんですか急に。
 ──この前貰った島らっきょうとゴーヤありがとうね。美味しかったよ。
 ──あゝ、とんでもないです。お口に合って良かったです。
 ──旦那なんか、毎晩晩酌しながらあのらっきょう食べてんだよ。ねぇ?
 やっぱり無口な旦那さんは返事をしない。代わりに肉を叩く音がいつもより大きく聞こえてきた。
 ──シンプルに塩漬けしても美味しいらしいですよ。
 ──そうなの? まだ少し余ってるからやってみるわね。
 ──来月は海ぶどうとかもずくを送るって母が言ってたんで、また持ってきますよ。
 ──海ぶどうってあのプチプチしてるやつ? 今の時期も取れるんだね。いつも悪いわね〜。
 部屋からすぐの場所にあるこのとんかつ屋に、店が定休日の水曜日と日曜日以外、週五日通っている。
 昼の営業時間はランチ料金で提供されるので財布にも優しいのと、ご飯が何杯でもおかわりができることが何よりも良かった。商店街でも大通りの国道沿いでもない、普通の住宅地の通りにぽつんとある店だが、昼も夜も客が絶えなく入っていて繁盛しており、地元の人に愛される人気店であった。四人がけのテーブルが六席しかない小さな店で、寡黙な店主と愛想の良いおばちゃんの夫婦二人で店を切り盛りしている。
 お昼どきはたいてい混雑していて、一人客が多いのもあり、相席になることもあった。はすかいとはいえ、赤の他人が咀嚼する姿が視界に入るのは嫌なので、先に誰かが座っているときは店に入らなかった。
 何回か通ううちに十三時を過ぎた頃に店に行けば空いていることがわかったので、昼の営業は十四時まででそのラストオーダーが十三時半だった、毎度その時間に行くようになると、忙しさが一段落したおばちゃんからあれこれ声をかけてもらうようになり、今では気軽に話しあえる関係になった。
 実家から仕送りされてきた大量の野菜などをお裾分けするととても喜んでくれる。どうせ独りでは食べきれないし、部屋で調理も滅多にしないから腐らせて捨ててしまうよりはと思い、渡したのがきっかけだった。実家の母にその話をすると、いつも食べさせてもらってるからとさらに倍の荷物が毎月届くようになった。
 それからというもの、貰ってばかりで悪いからと、店に行くたびに瓶のオレンジジュースを無料でサービスしてくれる。本当はアイスコーヒーの方が良いのだが厚かましいのでそれは言えなかった。瓶のオレンジジュースの方がアイスコーヒーよりも高価なのだ。
 ──ご馳走様です。
 食べ終わって、店を出ようとするとおばちゃんからまた来週ね、勉強頑張るんだよと声をかけられる。今日もロースカツ定食を食し、ご飯を三杯おかわりした。
 腹一杯になって部屋に戻る。テレビを見ながら横になっていると自然と寝ている。セットしていたスマホのアラームで目が覚めるのがきっかり一時間半後。予備校へ出かける支度をささっとし、部屋を出て、駅前にあるスーパーマーケットの駐輪場に自転車を置き、駅まで歩き、電車に乗る。そんな毎日の生活リズムで動いている。
 車窓から見た空は曇っていて今にも雨が降り出しそうだった。傘を持ってくるのを忘れてしまったことを後悔したが、降ってもぱらつく程度だと朝の天気予報を思い出した。電車を乗り継いで、予備校のある横浜に向かう。

 キンモクセイの花は鮮やかなオレンジ色をしていて、濃い緑の葉にその色がとても映える。生まれ育った島にはない花だったから、当然直に見たこともない。
 さらに調べると、キンモクセイには別の種類があり、ギンモクセイというものもあることがわかった。金もあれば銀もあるのかと感心していると、中国にはキンモクセイが町全体に植えられている場所もあるという。キンモクセイが咲く季節になると、その町じゅうキンモクセイの匂いに溢れるのだろうか。甘い香りというから、それを毎日嗅いでいたら逆に気持ち悪くなるかもしれないなと思いながらも、今朝見たあのニュースキャスターの嬉しそうな顔が頭に浮かぶと、そんなことはないような気もした。
 その匂いを嗅いでみたい。
 キンモクセイの開花の時期は短く、あと一週間もすればその芳しい香りは消えてなくなるらしい。早く見に行かなければ。こうしているうちに香りを嗅げなくなっちまうじゃないか。
 そんな風に期待と焦りを感じながら、移動中の車内でスマホを睨めっこするように、キンモクセイのことを熱心にヤフーで検索していると、隣に座る中年の女性がおれのスマホ画面を覗いているような視線を感じた。いつから見られていたのか集中していて気がつかなかったが、横目で確認しても女性はやはりがっつりおれのスマホを見ているようで、わざとらしく咳払いしても、スマホの位置を変えても、やはりその視線はこちらに向けられている。
 結局、横浜駅までその女性とはずっと隣同士で、降りタイミングも一緒だった。ドアが開いて降りるときに、
 ──赤黄色の花を見られるといいわね。
 とその女性から声をかけられた。女性は笑みを浮かべるとドアが開いた後、足早に先へ歩き出し、すぐに人混みに紛れて姿が見えなくなった。
 あかきいろ、とはキンモクセイの花の色のことだと知るのはもっと後のことだった。

 中国ではキンモクセイの花のことを、《桂花》と呼ぶらしく、その漢字から連想したのは桂子だった。もしかしたら《桂子》という名は、キンモクセイに由来しているんじゃないかと安直な関連づけをして、彼女にそのことを聞いてみたくなり、予備校に向かう道すがらLINEを送るが返事はいっこうに来ず、送った内容は既読にもならない。
 彼女は、桂子はおれの通う予備校でチューターの仕事をしている。大学受験のアドバイスをくれたり、文系科目を中心に勉強の質問や悩みに答えたりしている。
 予備校に入学した春、アドバイスを求めてチューター室に初めて行ったとき、長蛇の列ができているチューターがいる中、彼女の前には質問をする受験生が全くいなかった。列に並んでまで質問するのは嫌だったので、すぐに対応してくれる桂子のところに行った。桂子は優しく丁寧に授業内容を教えてくれて、大学の学部のことまでアドバイスをしてくれた。どうしてこの人に質問が来ないかとはじめは疑問だったが、しばらくすると他のチューターの方が経歴的に長いことがわかった。桂子はチューターの仕事をこの春から始めたばかりだった。出会ったばかりの頃の桂子はどこか人を寄せつけないような雰囲気があり、気軽に質問できない感じがしたのは確かだった。慣れない仕事に緊張して、怖い顔になっていたんだろう。このとき桂子が人気のチューターだったり、また潤一郎に教えてもらえなかったら、おそらく桂子との接点はなかっただろう。
 彼女とは年齢が一緒だった。誰もが知る有名私立K大学に通う三年生で、将来は学校の教員を目指していた。教員になるなら集団塾で大勢の生徒を前に教えた方が実践的で良いのではと個人的に思うが、受験生が抱えている悩みがどんなものかを個別で対応して、自分の中の引き出しを増やしたいのだと彼女はその理由を答えた。集団塾よりも個別の方が生徒自身が抱えている弱みや悩みなどをケーススタディで増やすことができる。だからチューターという仕事をして個々に受験生に関わりたいと。将来のことから逆算して必要なことを磨き上げ、今何をすべきかを明確にしている考え方であった。
 一方でおれはこの春、一念発起して故郷の沖縄から大学に入るために上京をした。高校卒業後は定職には就かずフリーターをして日々を過ごしていた。毎日その日暮らし。楽しいことがあれば友人の誘いに乗って出向いて朝まで遊んで、アルバイトに行ってと、そんな生活を繰り返していた。
 しかしこのままでは駄目だと将来に漠然とした不安を感じてもいた。大学に入ろうと決意したのは、ちょうど大型の台風が島を直撃した夜だった。外から唸るようなものすごい風の音が聞こえてきて、猛烈な雨風が家を吹き壊すようにもの凄い音を立てていた。家は揺れ、雨戸は壊れんばかりだった。そのときの雨風の音が人の声のように、大学に行け、大学に行けと聞こえてきたのだ。
 台風一過の翌日、大学受験のために上京することを皆に伝えると、親を含めて周囲の人たちには驚かれ、笑われた。
 ──お前が大学? 台風の夜に神様の御告げを聞いたから? そんなバカな話無いって。やめとけやめとけ。
 ──どうせ無理だからやめなさい、お金をドブに捨てるようなもんだよ。せっかく貯めたお金がもったいない。
 ──冗談なら寝てから言いなさいよ。
 それから目が点になってきょとんと時間が止まる者、三度訊き返す者などもいた。誰も真剣に取り合ってくれなかったが、それでかえって心に火が点いた。台風の暴風が人の声に聞こえたなどと他が聞けば確かに馬鹿げているが、きっかけは何だって良かった。おれはくすぶった現状を変えたかった。
 すぐに行動に移した。来年の四月から東京で暮らし、予備校に通うための準備を進めた。住む部屋、予備校の授業料、食費など年間でかかる費用を計算したら、一年間なら何とかなりそうだった。
 同時に勉強も始めた。既に当時の教科書など何も残ってなかったので、まずはと英語の単語帳と文法書を購入した。しかしどう勉強して良いのか分からないし、何から進めていけば良いのかも分からないので、図書館に行き《勉強のやり方》に関する本を大量に借りた。それを片っ端から読み漁り、最良の方法を模索するが、活字を読み慣れていないため、内容が頭の中に入ってこなかった。
 自分で考えるのは限界があった。これは誰かに大学に合格する勉強の仕方を直に聞いた方が早いと思い、アルバイトが休みの平日に母校に出向き、まだ母校の高校で教鞭をとる当時の担任の先生を訪ねた。
 元担任の老先生は久しぶりに訪ねてくれたことを嬉しがり、お茶とサータアンダギーを出してくれて歓迎してくれた。現状を伝えたところまでは良かった。しかし大学を受験すると報告をすると眉間に皺を寄せて、急に難しい顔をつくる。何を今更。悪いことは言わないやめておけと一刀両断されると構えたが、こう言った。
 ──思い立ったが吉日。とても良いことじゃないか。ぼかぁね、まさかお前の口からそんなことを聞くだなんて、ゆめゆめ思っていなかったよ。人間、何かを始めるのに遅いなんてことはないんだよ。だってお前はまだ二十歳そこそこだろう。これから頑張ればどうにでもなるし、何者にだってなれる。おおいに結構。もう少し早く、そりゃ高校の時にそう思ってくれたらとは思うところはあるけど、それでもぼかぁ嬉しいよ。それは自分で決めたことだからな。覚悟と責任を持って最後までやり通しなさい。たとえどんな大学に行こうとも、後悔ないようにやりなさい。そうすると道は開けて来るんだよ。行動しないことには何にも始まらないからな。お前は遅くはなったけど、自分で将来を切り拓こうとしたんだろう。それがどんなことよりもかけがえのないことなんだよ。ぼかぁね、そう思うよ。
 相変わらず、僕はを、ぼかぁと言うところは変わってないんだなと懐かしんだのも束の間、それからが老先生は止まらなかった。ここぞとばかり、言葉が次から次へと迸った。大学に合格することがどんなに険しい道なのか、そもそも学ぶこととは何か、しまいには人生とは何かを熱く語った。ぼかぁ、ぼかぁというフレーズばかりが頭にこびりついてくる。ここまで話が長いともう説教を受けているようなものだった。
 確かにおれは高校の時まともに授業を受けてなかったよ。先生の授業なんかほぼ寝ていたしね。
成績だって良い方ではなかった。悪くもなかったけど。これっておれの学生時代の悪行を恨んでの説教なんですかね? なんて訊くこともできず、時間が過ぎるのを待った。
 結局、そのご教授を二時間たっぷり受けて、ようやく解放された。苦行のような時間だった。本当にここ何年かで一番のストレスフルな時間だった。ぼかぁあと少しで倒れそうだったよ、先生。
 ──上里、今日は来てくれてありがとう。久しぶりに血が騒いだよ。また来なさい。
 ──はい。
 ──次来る時は前もって教えなさい。今度はモンテドールのバナナケーキを用意しておくから。最近食べてないだろ? バナナケーキ。
 別れ際に先生はスッキリした笑顔でそう言ってくれた。確かにバナナケーキは魅力的だったが、それから二度と先生のところに行くことはなかった。ごめん先生。
 迷った(誰に)アドバイスを求めるか、はとても大事だとその時学んだ。誰でもいいわけじゃないんだ。
 そんな中、唯一嬉しい言葉をかけてくれたのが、アルバイト先のバーのオーナーだった。
 ──茂春くんならできるよ。絶対できるって。チャレンジしなよ。
 何にも根拠のない言葉だったが、背中を押してくれたというか、自信がついた。なぜか、おれでもできるんじゃないかという気持ちになった。
 人の言葉は不思議だ。同じことを言われても、言う人が違えばまったく違う意味合いを持つようだ。だから大事なのは何を言うかではなくて、《誰が》言うかだ。
 
 準備で一番悩んだのは住まいで、探しても探してもなかなか良い物件がなかった。良いなと思うものはみな家賃が高く、想定したよりもうんと上。通う予備校は横浜にある大手の予備校にした。その近隣を探すが、横浜から近い場所で周辺の駅名や地図を見てもまったくわからない。家賃の金額だけみて探したが、それでも見つからず焦りが募った。
 親戚が神奈川県の川崎に住んでいるから地元の不動産屋で直に探してもらおうか、と母からの提案を飲むことにして、それで年明けにようやく見つけることができた。ワンルームで相場よりもうんと家賃が安かったのは、築年数が古かったからだった。トイレはあるが風呂はない。近くに銭湯があるからそこに行けばいい。何よりも出て行くときに敷金が返ってくるというのが良く、すぐに契約をした。すんなりと契約ができたのは、川崎に住む親戚の叔母さんが不動産屋の奥さんと友達だったのが大きかった。契約書も郵送でやり取りをし、家賃と敷金、礼金を指定された口座に振り込んで、契約が完了した。
 それで上京。出発の日、空港には母だけ見送りに来た。他には誰にも知らせなかった。仲の良い奴らの顔を見ると決心が揺らぎそうだったからだ。母は最後まで快く送り出してはくれず、搭乗口に向かうときまで、東京は怖いところだ怖いところだと独り言のようにぼそぼそと言っていた。それでも直前で、
 ──身体に気をつけて頑張んなさいよ。
 と送り出してくれた。母の眼には泪が溜まっていた。

 桂子の話に戻る。
 桂子のところに足繁く通い、受験のことを中心にいろいろと話をしているうちに仲良くなった。ゴールデンウィーク中にちょうどタイミングが合って、桂子を食事に誘ったら来てくれた。横浜駅前のシェイキーズという店で、おれと潤一郎と郁也の四人でピザを食べた。ビールも呑んだ。話も盛り上がって時間があっという間に過ぎたのを覚えている。
 ──君たちね、受験生だってことわかってる?
 それが彼女の口癖だった。酒が入ると饒舌になり、ずけずけと言いたいことを言う彼女をおれは好きになった。きっとその時からだろう。おれたちが彼女のことを《桂子》と呼び捨てするようになったのは。
 ──来年、桂子と同じ大学に入学したらさ、同じサークルに入るよ。
 年下の潤一郎までそんなこと言うから、桂子は、
 ──あんたは年下なんだから、桂子さんと呼びなさいよ。
 ──そんなの、無理だよ桂子。
 ──だから、そこ、桂子さんでしょ?
 桂子は口を尖らせて怒っているが、潤一郎がわかってるよと受け流すから、おれと郁也はそのやり取りが可笑しくて声をあげて笑った。
 桂子は高校を卒業してから勤めていたアルバイト先であるバーのオーナーにどことなく雰囲気が似ていた。そのバーのオーナーは元々は東京の人で、四〇代の独身女性だった。年齢より断然若く見え、モデルのような洗練された美しさとでも言おうか、とにかく綺麗な人で、その店に来る客の誰もがそのオーナーを目当てに通っていると言って良かった。
 その人の域まではいかなくても、桂子にも人を惹きつける魅力が十分あるとおれは思っていて、そのことを潤一郎と郁也に話したが、彼らはまったく興味がないようで、桂子を交際する対象としては見てなく、単なる通う予備校のいちチューターとして、もしくは友人としか見ていなかった。それはそれでおれにとっては安心だった。田舎者のおれが都会の女性、しかも同い年で大学生と知り合いになり、かつ会話ができること自体奇跡のように思えていたから、彼女はおれにとって特別な存在になった。

 ──なぁキンモクセイの香りってどんなんなの?
 英語の授業が終わった後、郁也に尋ねる。
 ──キンモクセイか、そういえば今朝ネットニュースで見たわ。
 ──おれも今朝テレビで見たんだよ。朝からずっと気になってさ。
 ──向こうにはないのか?
 ──ああ。だから聞いてるんだ。
 ──そっか。向こうはハイビスカスとかだもんな。ハイビスカスって匂いすんの?
 ──嗅いだことないよ。
 ──そっか。
 的を得ない答えばかり返ってくるので、それ以上訊くのをやめた。
 話題は今日返された模試結果のことになり、前回と比べてもぴくりともしない数字にお互いどんよりした気持ちになり、口数が減ってしまう。
 ──まぁ、切り替えて次だろ。次がんばろうぜ。
 そう言って、模試の結果を笑い飛ばそうしたが、
 ──お前はお気楽でいいな。
 鼻で笑う郁也に怒りが湧いた。郁也がその場から去ろうと背を向けたところ、その肩を掴もうと手を伸ばすが、
 ──ちょっとちょっと、喧嘩はダメっスよ〜。
 と潤一郎が間に入ってきた。
 ──何でそんなに仲が悪いんスか? 仲良くしましょうよ。ね?
 潤一郎はおれたちの手を取って握手をさせようとするが、郁也はすぐにその手を払った。
 ──お前は模試の成績どうだったんだよ?
 と郁也が睨むが、
 ──俺? そんなことを俺に聞きますか〜?
 と潤一郎は戯ける。聞くと結果はいつも通り良くなく、国語に関しては全国順位が下からベストテンに入ったと自慢げに言う。
 ──俺、真面目に解いたんスよ。この模試ってマークシートだから、絶対に適当に解いてるヤツっていますよね? それよりも成績が取れないって、マジでヤバくないっスか?
 ──そりゃヤバいだろ。
 郁也は声を上げて笑った。
 医学部を狙っている郁也とは違って、そこそこの大学ならどこでも入れれば良いという潤一郎のスタンスは、おれたち三人の関係をうまくまとめてくれていた。おれと郁也は同い年だが、潤一郎は一つ年下ということもあり、弟的な存在だった?いつものニコニコしていて愛嬌があり、何よりも憎めない性格だった。きっと親の育て方が良いんだろう。
 ただそんな潤一郎の自虐的な話を笑い飛ばせるほどおれには余裕がない。桂子から、現状を知るには模試を受けると良いよと勧められてから、これまで五回受けているが、偏差値40台前半からぴくりとも数字が動かないのだ。勉強というものはすぐに結果を伴うものではないことを日々痛感しているが、いくら何でも凹む。夏期講習で頑張った成果がまるで現れていない。もう九月だ。受験まであと数ヶ月しかない。
 お気楽と言った郁也の言葉もご尤もで、おれは
このままでもまだ何とかなると心の底では思っているのだ。そういう意味で郁也は言っている。それはこれまでが何とかなってきたからだ。高校の時から、いや中学の時から定期試験の前にちょちょいと勉強するだけで、そこそこ得点が取れてきたし、成績もまずまずだった。短期間でぱぱっと勉強してきたから、長期戦の勉強の習慣がまったく身についてなく、すぐに集中力が切れる。今では幾らかマシになったが、それでもやる気のエンジンを保ち続けるのは難しい。
 ──勉強は集中力だ。
 どの先生も口を揃えて言う。その集中するための土台というのは、これまでの日々の生活習慣が規則正しくないとそもそも良くならないことは理解してきた。夜型の生活は改めた。桂子から勉強の仕方を教わっているものの、それ通りにやることの難しさ。今んなって、四月に桂子から言われた言葉が頭ん中で蠢いて不安になってくる。
 ──高校受験が地方の県大会だとしたら、大学受験は全国大会。各地方から出場切符を持った全国大会レベルの猛者たちと戦わないといけないの。自分のレベルを上げていかないと彼らには到底、追いつけないし、勝てないんだよ。
 
 授業が終わった後、桂子のところに行こうと二人を誘うが、模試の復習をすると断られたので独りで向かった。二人は、桂子によろしくと手を振って駅の方へ肩を並べて歩いて行った。
 チューター室へ向かう途中、多くの受験生とすれ違った。制服を着た現役生は何人かで固まって談笑している。独りで歩く私服の人は下を向いて歩いている。たまたまそういう顔に目がいってしまうのもあるが、他と群れないそういう人の方がどこか受験に対して、真剣に向き合っていると思えてくる。
 ──受験とは己との闘いだ。怠惰な自分に打ち克ち、受験を通して人間的にも成長するものだ。
 これは英語の先生から教えてもらった言葉だ。知識は思うように入ってこないのに、そういう受験の、人生の教訓的な言葉ばかりが身に染みるように入ってくる。きっと心が寂しいんだ。だからプラスとなる言葉はどんなものでも骨身に沁みてくる。合格するかもわからない先のことが不安で仕方ない。一年後は一体おれは何をしているのか。

 ──キンモクセイかぁ。言われると最近その匂いを感じないね。
 桂子は実家のある静岡でそのにおいを嗅いだことがあると言うが、どんな匂いなのかは表現できず、とにかく良い香りだと桂子は答えた。
 ──この辺だとキンモクセイってどこにあるんだろうね。大きい公園とか、そうね……昭和記念公園とかにあんのかな。
 ──あ、それテレビでも言ってた場所だ。遠いのそこ?
 ──確か立川の方だったと思うけど。
 ──立川って、どこ? 何線?
 聞くと郁也の住む武蔵小杉駅が通る南武線で、立川駅はさらにその先にあり、一時間以上はかかるらしい。
 ──一緒に行ってくれないかな?
 ──え!? 私が?
 ──うん。
 ──嫌よ。何で二人で行かなくちゃいけないのよ。
 ──ダメなのか? じゃあ潤一郎も誘ってみるよ。
 ──人数の問題じゃないから。
 ──じゃあ何だよ?
 桂子は答えなかった。一緒に行くこと自体が嫌なのかと考えていると、こう答えた。
 ──そうじゃなくて、色々と忙しいのよ。
 ──そっか。わかった。
 何も進展がなさそうなのでその場を後にしようとしたとき、桂子の視線の先が気になり、そこに目をやると、背広を着た男が入り口付近に立っていた。一見して受験生でないことはわかる。背広の男はキョロキョロして誰かを探しているようだった。明らかに桂子の様子がおかしく、顔を伏せた。
 ──お願い。私と話しているふりをして。
 と小声で言ってくる。そのまま従い、質問をするふりして鞄の中からテキストを取り出してページを開く。
 ──あいつ誰なの?
 ──いいから。見ないで。
 顔を突き合わせると桂子が身につけている香水の香りがした。シトラス系の良い香りだった。
 背広の男は室内に入ってきて、近くにいたチューターの女性に声をかけて何やら話していた。すぐにその女性はこちらを指差す。
 ──こっちに来るよ。
 小声で伝えると桂子は目をつぶり、くぅと小さな声をもらした。
 ──追っ払おうか?
 桂子は首を振る。
 男の足音が近づいてくるのがわかる。背後に気配を感じた瞬間、
 ──田中くん、ちょっといいかな?
 男の低い声がした。振り返ってみると、特徴のない男が立っていた。紺の背広を着て、背は一七〇くらい、髪型は長くもなく短くもなく、顔にも特徴的なところが何一つない。普通の男だった。ただ桂子の反応をみると明らかに狼狽えていて、両者は何らかの関係であろうことは感じ取れた。
 何も話すことはないよ、と突っぱねる桂子に対して男は食い下がり、押し問答が続いた。ちょっと今田中先生に質問している途中なんですけど、と桂子に加勢をしたつもりでいたが、当の桂子はそれを無視する。男がおれに睨みをきかすものだから、かあっとなっちまって立ち上がる。やんのか、コラ。
 ──やめて!
 桂子の一際大きい声に場が一瞬静まった。その場にいた皆の視線がこちらに集まる。チューターの中で一番のリーダー格の男がすぐさま事態を収拾しようと駆け寄ってきた。物腰の低い男であったが、ラガーマンのように体格が良く腕っぷしは強そうである。ここでうるさくされると受験生に迷惑がかかるので、と言葉を途中で切り、笑顔で背広の男とおれを見る。
 ──何でもないんです。すみません。
 桂子が横から入ってくる。大声をあげて何でもないはないでしょう、とラガーマンは笑顔でおれを見て語りかける。その笑顔が不気味だった。
 結局背広の男が折れる形になった。また連絡するよと桂子に言ってその場を後にした。さらりとしたその去り方に拍子抜けしてしまった感はあるが、大声を出した自分が悪者のような気がして、おれもその場から出て行った。
 その後、桂子はラガーマンから早退を促され、素直にそれに従い仕事を切り上げたという。駅に向かう途中に桂子から電話があり、ちょっと話をしたいと言われたので、駅前で待ち合わせをして、一緒に横浜駅前にある喫茶店に入り、コーヒーを飲みながらさっきの事情を聞いた。
 桂子の話では、背広の男は、桂子の通う大学のサークルの三つ上の先輩で、卒業後は大手家電メーカーに勤務しているという。桂子は一年前から交際しているつもりでいたが、男に婚約者がいることをつい最近知り、連絡を取らなくなったのだと話してくれた。
 ──ん? 交際? 付き合ってたの?
 ──うん。そのつもりでいた。でも、結果的に不倫だったんだよ。
 桂子は静かな口調で話し、コーヒーをひと口飲んだ。おれは心臓がばくばくするほど動揺しながら彼女の話の続きを待った。
 ──この前婚約者からいきなり電話があってね。うちの夫をたぶらかさないでくれって、はじめからもの凄い声で言われてさ。そりゃもうちょっとした修羅場だったんだよ。いや、ちょっとじゃなくて相当なものだった。向こうは話していくにつれてヒステリックになって、怒鳴り散らかしてさ。私悪者みたいに散々罵倒された。みたいにじゃなくって、まさしく悪者ね。笑っちゃうでしょ?
 ──それは大変だったね。
 ──ええ。そりゃ怒るよね。向こうは結婚してるんだもん。でもふと思ったのよ。こういう風に所沢さんにしがみついて生きていくことが、私にはできないなァって。その女の話を聞いてたらさ、段々所沢さんへの想いが冷めていく自分がいたのよ。きっとこの人は所沢さんなしでは生きていけない人なんだって。私が逆の立場なら、浮気されたら即離婚だと思うしね。
 だから最後にはね、もう会いませんからとその女にきっぱり宣言をした。電話やメールにも一切出ませんと言ってやった。女は電話を切る直前まで何があったら訴えるからねと脅してきたという。そんな程度の低い女と結婚する器量のない男だったのか、と思ったらさらに熱は冷めた。
 本当にそれからは彼に会ってないの。何度も何度も彼から電話やメールがあったけど無視した。もう別れたつもりでいたのにね。あゝして職場まで会いに来られるとね。参っちゃうね。
 ──あの男、会いに来たってことは、まだ桂子のこと諦めてないのか?
 桂子は首を傾げる。
 ──私が大学を卒業したら結婚しようって言うのよ。そういう内容のメールが来た。
 ──え? じゃあ今の奥さんとはどうすんの? 離婚するってこと?
 ──うん。
 ──何だよ、それ。勝手過ぎるだろ。
 ──本当だよ。勝手過ぎるんだよ。
 そう言う桂子であったが、決して嫌で別れたわけではなさそうだった。それから桂子はべらべらと話を始めた。その男との出会いから聞かされることになったが、桂子は自分のことを話したがるタイプの女性なのだなと、その時初めて知った。その話をしている時の嬉しそうな表情といったらなかった。うっとりしていて、自らの物語に陶酔する、頬を赤らませて話す少女のように、彼との甘いエピソードが止めどなく出てきた。その度におれは、その言葉の銃で何度も撃たれた。それはそれは致命傷だった。おれは、さっきの引き攣った笑顔のラガーマンよりも、もっと引き攣って苦しい笑顔を桂子に見せていたことだろう。でも大丈夫だ。今の桂子はおれのことなんか眼中にない。それほど自分の話に酔っているから。
 ──本当に付き合ってたんだね?
 桂子は頷く。
 ──そっか。まだ好きなんだろ?
 ──いやいや、もう好きじゃないよ。
 ──あの男が本当に離婚したらどうするの? またよりを戻すの?
 ──それはないよ。
 慌てて否定するところが怪しい。
 ──そういうことははっきりさせた方がいいよ。後々引きずることになるから。話し合いの場を設けた方がいいんじゃない?
 彼女は俯いてまばたきもせずしばらく考えていた。
 ──何か経験したことがあるような口調だね。
 ──おれじゃないよ。島にいたときにさ、バイト先のオーナーがそう言っていたんだ。その人、昔超好きな男がいたらしくてさ、素直になれなくて相手の真っ直ぐな想いを受け取るのが怖くて自分から離れたんだって。離れてみたら自分の気持ちがはっきりとわかったみたいでさ。でも時にすでに遅しで、意中の男の人が結婚したのを人伝手に聞いて、相当落ち込んだんだと。そのオーナーね、もう四〇歳を過ぎてるけど、二〇代の時に別れた男のことをまだ一途に想ってるんだよ。
 ──へぇ。すごいね。
 ──すごいんだよ。……ん? すごいのかな? よくわからないけど。でもとても綺麗な人なんだよ。今でああだから、若い頃はきっと男の人は放っておかなかったと思うよ。
 写真とかないの? と訊かれたので、スマホに保存されている写真を調べて見せた。桂子は本当だねと何度も頷く。
 ──その人、他の男の人と結婚しないんだ? 女の人って、男の人と違って切り替えるの上手だとだからそんなに綺麗な人ならすぐに結婚できそうなのにね。
 ──うん。その気になればできると思うよ。でもね、もう恋愛は良いんだって。それよりお金、お金って、今は金儲けのことばっかりしか話さない。
 ──ふっ。急に現実的な話になったね。
 桂子は笑った。
 ──そのオーナー言ってたよ。若さって怖いものなしだけど、年を取ったら昔のこと思い出して後悔することばかりだって。誰かを好きなら好きで良いじゃんって。変に遠慮せず、自分の気持ちに正直に従いなさいって。
 ──うん。よく分かった。その人から良い話沢山聞いたんだね。
 ──良い話かどうか分からないけど、直で聞くともっと内容すごいかも。おれ伝えるの下手だから。
 ──そんなことないよ。でも、その人に一度会ってみたくなったよ。
 ──あゝいつでも案内するよ。
 ──いつか行ってみたいな、シゲくんの育った島にさ。きっと海とか空とか雲とか綺麗なんだろうね。いいなァ、そういうところが実家ってさ。
 その後に、その人はあなたに似ているんだ、と付け足さなかった。この場で告げるタイミングではないと思った。
 ──その所沢さんって人のところ、一緒に付いていってやろうか?
 桂子は黙って顔を伏せた。オーナーの話で少し表情が良くなってきたのに、また雰囲気を悪くしてしまった。一連の会話を振り返り、桂子が男と別れるのをはっきりさせた方が、この後自分にとって都合が良いような言い方をしていたことが情けない。なんて小さい男なんだ、俺は。そんなことを思ったら、次に発する言葉が出てこなくなった。気持ち悪い沈黙が続く。
 それでも何を話しかけようか、頭の中で言葉を選んでいると、これまで気にもかけなかった店内の音楽がはっきり聞こえてきた。その特徴あるナンバーがザ・ロネッツの《Be my baby》だとすぐにわかった。その音楽から島の海の光景がどばっと脳裏に広がる。旧友たちも家族もバイトの仲間たちの顔も蘇った。一瞬でとても懐かしい気持ちで包まれる。それは、その曲は、島のバイト先の店でよく流れていたものだった。確かその歌詞は、《私の恋人になって、私の恋人になって》と繰り返し歌っていたのを思い出した。ポップなメロディーとは裏腹にとても悲しい歌なのだとオーナーが言っていた。今の桂子の心境と重なるのか、はたまた己の心境と重なるのか、きっとどっちもだろうと勝手に結論づけて、眼に溜まった泪を桂子に気づかれないように、おしぼりでさっと拭った。
 ──来月引っ越すんだ。手伝ってくれないかな?
 桂子は急に話題を変えた。
 なぜこんな中途半端な時期に引っ越すのかと理由を訊くと、契約が切れるからだと簡潔に答える。
 ──あ、あゝわかった。何なら郁也と潤一郎にも声をかけようか? 引っ越しは男手が多い方がいいでしょ?
 ──うん。ありがとう。そうしてくれるととても助かるけど、あの二人大丈夫なの?
 ──大丈夫でしょ。
 そう断言したが、郁也は来ないかもしれない。
 ──でも、引っ越し業者にお願いしなかったんだ?
 ──計算してみたんだけど、業者に頼む方がお金がかかるのよ。だから軽トラを借りてやった方が早いかなって思って。ホントはね、サークルの友達に何人か声をかけてオッケーもらってたのよ。でもみんな当日予定が入ってきてね、来られなくなっちゃって。
 ──予定って。手伝うって言っといて、それはなくない?
 ──仕方ないよ。みんな就職活動で大変だからね。無理には頼めないよ。一人が行けないって言うと、次の人もダメ、また次の人もダメって、伝播するのね。不思議だよね?
 不思議というか、単に頭数が少なくなるから大変さが増して面倒なだけなんだろう。第一、日曜日も就職活動ってするのか? という疑問が浮かんだが、その言葉は言わなかった。友人たちが断った理由を探ったところで進展のない話だ。
 ──ホントに急でごめんね。シゲくんに運転も頼みたいけど、車の運転はできる?
 ──もちのろん。
 そう答えたけど上京してからは一度も運転していない。交通量の多い都内の道路は少し不安だ。確か潤一郎は免許を持っていたはずだ。いざとなったら運転してもらえばいい。そんなことを考えていると、突然スマホが鳴った。
 画面を見ると郁也の文字。桂子に断り、すぐに出る。郁也はこれからすぐにうちに来られるか、と静かな声で聞いてきた。今桂子と一緒だと答えると、ピザでも食ってんのかと尋ねてくる。何かあったのかと訊き返すと、やんごとなきことが起こったとだけ言って、電話じゃ話せない内容だと答えた。
 速攻で来てくれと言って郁也はすぐに電話を切った。いつになく慌てた様子だった。
 桂子のことも心配だったが話をすることで楽になったのか、表情はいくらかこの店に来た時より和らいでいた。この先所沢という男とどうするかまでを決着づける話はできなかったが、これから郁也のところに行かなきゃいけなくなったと伝えると、桂子はわかったと答え、一緒に店を出た。
 外に出ると霧雨が降っていた。桂子は折りたたみの傘を持っていたが、駅はすぐだったので傘はささずに歩き、京浜東北線の改札前で別れた。桂子は東京の田町に住んでいる。少し歩いて京浜急行線の改札を抜けて、階段を上がるとちょうど快速特急の電車が到着していたので、急いで乗り込んだ。

   £££

 京急川崎駅で降りて、徒歩でJR川崎駅まで歩き、改札口へと向かう。エスカレーターは使わず、階段を登りきり、駅構内に入ると人が山ほどいる。改札口を過ぎて通路をさらに先に行くと大型商業施設があり、多くの人はそこへ流れていく。東海道線、京浜東北線、南武線の三つの線が通っているこの駅は、大抵人で混雑しているからあまり好きではない。郁也のところに行くときしかこの駅は利用していない。そういえばさっき横浜で別れた桂子と同じ京浜東北線に乗っても川崎まで行けたんだなと駅の案内を見て思った。
 電車に揺られること十五分ほどで武蔵小杉駅に着いた。広すぎる1Kの部屋で、彼は独り暮らしをしている。そこは高級マンションだった。
 彼の家系は医者の家系で、父、祖父は医者だ。彼は幼い頃から英才教育を施され、中学受験で多くの医学部を輩出する御三家のひとつである有名私立中学に入学した。
 小学校時代の彼は何をやらせてもずば抜けていた。勉強もそうだし、運動神経も良く、運動会にはリレーの代表選手に選ばれるほど脚も速かった。周りからは神童と呼ばれていた。やっぱり血は争えないわよね〜と周囲の人たちが口を揃えて言うほど、郁也の活躍は医者の血統の確かさを周りに知らしめており、ゆくゆくは祖父、父をも超える一角の男になるであろうと誰もが信じて疑わなかったという。これは郁也の母親からの聞いた話だった。
 しかしだ。
 中学に入り、状況は一変した。
 中学校で一番始めの定期テストの得点がほぼすべての教科が平均点くらいだった。まだ学校生活に慣れていないから本来の力が発揮できていないのだろう、と誰もが気にも止めていなかった。が、次も、その次も成績の不振は続いた。
 二学期を終えてもまだ復調の兆しが見えない状況に、流石の郁也の父も痺れを切らし、著名なプロの社会人家庭教師を郁也につけて指導にあたった。だがそれでもまったく効果はなく、むしろ得点はどんどん下がる一方で、学年順位もワースト10に入り、次の学年でもそこから抜け出して上がることはできなかった。
 ──あの頃は自分でも何をやってるのかわからなかった。まさに暗黒時代だったよ。
 後にそう語る郁也であったが、高校に進級するタイミングで学校側から、このままの成績では進級はできないという知らせが届いた。つまり、それは学校側からの実質的な退学宣告だった。
 もうそこからは家庭がひっちゃかめっちゃかだったという。家族は途方に暮れ、狼狽え、この状況をどうにかして解決しようと母親は学校とほぼ毎日連絡を取り合った。しかし具体的な策はない。最後の学年末試験で定められた得点を収めない限り、進級は無理だった。またその得点というのが、すべて80点以上というバーが設けられた。
 平均点さえ取れないのにそんな高い得点ラインを彼が超えられるはずがない。誰もがそう思ったが、一縷の望みにかけるしかない。打てるすべての手は打ち、学年末試験に臨んだ。
 しかし、案の定、それは叶わなかった。郁也は中学校を自主退学する形で手続きをした。祖父は郁也が中学を卒業するまでの間、家で怒り狂っていたという。
 郁也に医者にならなければいけないプレッシャーがあったのか。それとも勉強が手に回らないほどの悩みがあったのか。
 いや、それはなかったと郁也は断言する。  
 ──何をやってもうまくいかない時期ってのは人生で必ずあるものなんだよ。
 と煙草を咥えながら煙に巻かれて彼がそう呟いた光景をおれは今でも鮮明に覚えている。武蔵小杉駅前にある古びた喫茶店だった。まだ人生を語るには早すぎる年齢で彼が自らの実体験で得た人生におけるひとつの真理。彼の不幸と言っていいのかどうか分からないが、彼には家族内に誰一人味方がいなかったようだ。彼の心に寄り添って話を聞いてくれる存在がいたら、少しは違う結果になっていたのかもしれないとおれは思う。
 郁也の話には続きがある。
 高校に進級が出来ないと話が決まった後、彼は都立高校への編入を希望した。しかし家族から猛反対される。橘の家の者が都立高校? あるわけがないと祖父が一蹴した。祖父の上の代から橘家の直系、その親族も含めて公立の中学と高校に通った者は一人もいないらしく、郁也がそうなったら、ご先祖様の顔に泥を塗ることになる。そんなことは死んでもできんと祖父は声を荒げたらしい。
 そんな世間体を気にした家族は、名のある私立高校に編入させるべく、さらにあらゆる伝手と手段を使い、進学校を探した。ここなら安心だと家族一同安堵したらしい。
 そのことに関して郁也はこう話してくれた。
 ──裏から手を回したんだよ。あいつらは金にものを言わせて、踏み外しちゃいけないものを平気で踏み外したんだ。そんなことさすがに許せないだろ? もううんざりだったよ。ふざけんなって話だよ。
 で、編入試験当日。郁也は解答用紙を白紙で出すという暴挙に出たのだ。それはせめてもの反抗だったのだろうか。自分の人生が家族の敷かれたレール通り進むことに嫌気がさしたのか。白紙で出した真の理由は郁也の口からは語られなかった。
 編入試験不合格の結果、彼は強制的に家から追い出された。勘当されたのだ、郁也は。
 高校に進級できず退学になったことは周囲には隠されたという。ただ近所の人たちに郁也の姿が見られないのは不審がられるため、周りには海外に留学したことにして、郁也を実家の田園調布から多摩川の向こう側にある武蔵小杉に島流しのように追いやった。二度と実家の敷居は跨がせるなと祖父は怒鳴ったという。
 そして母親の名義で部屋を借り、高校一年生時から今の部屋で一人暮らしをしている。もうそこで五年以上は住んでいることになる。始めのうちは母親が通っていたが、二年目からほとんど来なくなったらしい。自由に使っていいクレジットカードを渡されていたから生活するのにまったくをもって支障はなかったと郁也から聞いた。彼は通信制の高校に入学し、大検の資格を取り、医学部への入学を志し、今に至る。 
 おれが聞いた話だとざっとそんな感じだ。彼もおれと同い年なのにこれまで辿って来た歩みがまったく違う。それが良いのか悪いのかは分からないが、その話を聞いたとき、不遇な青春時代を送ってきたのだと可哀想に思い、同情した。
 ──同情? 馬鹿だろお前。俺のどこに同情する価値があるんだよ。
 と強がる郁也がまた不憫だった。
 医者にならない選択肢もあっただろう。でも結果的に、祖父と父と同じ医者を目指している。何年も受験に失敗しても、まだ医者になるべく、医学部に入るための勉強をしているのだ。結局のところ、離れて暮らしているとはいえ、家系の呪縛なのだ。見えない力で彼は縛られ、動かされていることが不憫だと思うところだ。
 ──俺は医者になる。何年かかっても絶対に医学部に入る。
 古びた喫茶店での決意表明。彼の手元にある煙草の煙が空調の風に揺れていた。
 予備校では、彼は医学部コースに籍を置いている。通常ならおれと潤一郎の基礎文系コースで出会うことはない。彼は英語が苦手なので、基礎文系コースの学費も払って、そのコースの英語の授業だけに参加しているのだ。一体どんなお金の使い方をしているんだと思う。
 
 郁也の住む部屋まで行く途中、キンモクセイの木を探すがそれらしいものもなく、甘い香りもなかった。代わりにアスファルトを濡らした雨のにおいがする。さっきまで降っていたんだろう。今は雨が止んでいた。
 マンションの前でオートロックの施錠を解いてもらい、最上階の六階までエレベーターで上がり、角部屋の608号室のドアフォンを押し、扉を開けて入る。
 ──悪いな、急に呼び出して。
 郁也は上下黒のスウェット姿だった。
 ──なんか飲むか? と言ってもこれしかないけど。
 郁也はバドワイザーの缶ビールをテーブルに置いた。
 広すぎる部屋。
 簡素といえば聞こえは良いだろうが、本当に何もない。テレビもないし、オーディオもない。棚もない。この部屋には生活感がまったくないのだ。キッチンにあたるスペースには家族で使うサイズの大きな冷蔵庫はあるが、自炊することもないのでガスコンロなどは前からピカピカだ。リビングに大きなテーブルと六脚の椅子があるだけ。普段はそこで勉強しているという。しかしそこには勉強道具、テキストなどがテーブルの上に乗っているわけではなく、いつ来ても部屋はスッキリと整理されている。ものは寝室にまとめているというが、寝室はこれまで一度も見せてくれたことはない。
 ──努力しているところを見せたくないんだよ。躍起んなって勉強やっている風に思われてしまうのが嫌なんだ。テキストがこのテーブルの上に散らかってたら、スマートじゃないでしょ。
 以前彼はそんなことを言っていた。出会って半年以上経つが、それは今でも変わっていない。元々片付け上手の綺麗好きなんだろう。
 要件を切り出すと、郁也は衝撃的なことを話した。受験を辞めようと言うのだ。一瞬に何を言われのか判断に困った。
 ──いつまで経っても成績も上がらないから、もうここいらで潮時だと思ってさ。
 いつもの彼じゃない気がした。予備校でも今日の彼は様子がおかしかった。このことが原因なのか。しかし辞めるのは、成績が上がらない理由だけじゃなさそうで、色々と訊いていくと、付き合ってる深津清香が妊娠をしたと言うではないか。聞き間違いだと思い、もう一度尋ねるが、同じことを言った。こりゃあ、只事じゃない。
 ──お前の子なのか?
 ──ああ。あいつあゝ見えて、一途なヤツなんだよ。俺以外の男は考えられない。
 ──どうすんだよ?
 ──どうするって言ったってよ。どうしようもないだろ。
 郁也は吐き捨てるようにそう言って話を切った。バドワイザーをぐいっと呑むとマルボロの箱から煙草を取り出して、マッチを擦って火を点ける。マッチの香りが鼻につんとくる。
 ──清香とも散々話したんだよ。でも産む、って言うんだよ。俺が父親だよ。笑っちゃうだろ?
 郁也は頭を抱えた。煙草の煙がゆらゆらと天井に登ってゆく。

 清香とはこの夏に六本木のクラブで知り合った。知り合ったと言っても、一緒に行った潤一郎が郁也からけしかけられて、近くにいた女三人組に声をかけたところ、なぜかヒットし、その後みんなでクラブを出て、近くのバーに入り、酒を呑んだ。確か全国模試の判定が出た直後のことで、散々な結果で落ち込んでいるおれと潤一郎を郁也が励まそうとしたことが六本木に行くきっかけだった。
 ──ぱぁっとやって、悪い流れを払拭しようぜ。 
 そんな大都会のど真ん中に急に行くことが決まり少なからず動揺した。勉強があるからおれは帰るよと断ったらこの空気を壊すから、ここは流れに従って彼らに付いていくことがベストな選択だと思うようにした。
 これまでテレビでしか聞いたことがない《六本木》というフレーズが眩しかった。田舎者のおれがそこに行けるんだという期待が膨らんだし、反面そんな場所に今のおれが行っていいのかと躊躇ったのを覚えている。
 六本木の駅に降りて、街に溢れる人混みを見たら緊張の方が増した。地に足がつかないような感覚を覚え、脚が震え出した。郁也は慣れた足取りで先をすいすいと歩き、それに遅れないように後に続き、店の中に入った。
 異次元の世界を目の当たりにすると目眩を起こす。そこはおれには完全に場違いな世界だった。爆音でかかるダンスナンバーで踊り狂う男女の姿。その様子にしばし呆気に取られた。目を奪われた。とにかく激しい。もう夏が終わったのに、このフロアの中は暑く、汗が吹き出てきて、真夏のような熱気だった。現に水着のような格好をして踊っている女もいた。青、ピンク、紫のレーザービームが忙しく動き、薄暗い店内を妖しく彩っていた。潤一郎から声をかけてもらわなければ正気に戻れなかったくらい、その異次元の世界にまどろんでいた。音楽の音量が爆発しそうな音、ひしめく男女、すべてがごった混ぜになって凄まじく乱れている。
 ──こういうところ初めてっスか?
 三度聞き直し、ようやく潤一郎の声が耳に届いた。大きな声で耳元で話しても聞こえづらい。
 ──俺、二回目っスよ。
 潤一郎は六月に郁也と来たことがあるらしい。
 こんなの会話どころじゃない。馬鹿高いビールを注文し、それをちびちび呑みながら隅っこの席にじっとして周囲をただただ観察することしか出来なかった。
 郁也は音楽に合わせてステップを踏み、軽快に踊っていた。慣れた感じだった。その隣ではぎこちない動きでまるでロボットのような、いや身体にハリガネでも入っているのかと見間違うくらい、その踊りはがちがちで固く、独創的なダンスだった。おれの目から見てもそれが滑稽に映ったから、その動きは近くにいる者の注意を引いた。しかし、このダンスがあったからこそ、潤一郎の近くにいた深津清香とその仲間たちの興味をも引いたのであった。やはり面白い男に女たちは寄るものだ。こうして普段の生活では決して交わるはずのない二つの線が交わることになった。医学部を目指す浪人生の郁也の線と、週五回で会社勤めをする社会人の清香の線が。
 ──もっと落ち着いたところで飲み直そうぜ。
 そんな郁也の提案に女性陣は従った。すぐに店を出て、近くのバーに入った。
 ──よくこんな洒落た店知ってるね。
 ──すごいね、君。遊んでるね。
 清香の連れがそんなことを言った。おれも同じことを思った。
 ──俺も兄貴に連れてきてもらったんだよ。
 とさりげなくかわす郁也。爽やかな笑顔が胡散臭かった。おいおいお前兄貴いたのかよ、とおれと同じ目をして郁也を見る潤一郎がおかしくて思わず笑ってしまった。
 おれたち六人でひとつのテーブル席に座った。訳のわからぬカタカナの名前のドリンクは、どれもが一〇〇〇円を超える高価なものばかりで、とりあえず一番安いドリンクをおれは注文した。出てきたものを見て驚き、こんな少量すぐに空けてしまうじゃないか。しかも女たちは時間が経つにつれてがんがん呑んで、すみませ〜んと悪びれもなく注文した。
 そうか。おれは理解した。これが都会の基準、いわばスタンダードなのかと最近覚えたばかりの英単語が頭に浮かんだ後、別の不安が過ぎる。すでにクラブの場代とドリンク代で素寒貧になっていたから、終電過ぎたら帰ろうにも帰れなくなる。そうなったとき頼むわ、と小声でタクシー代を潤一郎から借りようとしたが、彼も同じで無一文だった。こりゃ朝まで郁也に付き合うしかなそうだと覚悟した。
 この日どこかぶっ飛んでいた郁也は、会計は全部俺が持つからお金のことは気にせずに飲んでいいと上機嫌の大盤振る舞いだった。その言葉に女性陣は遠慮なく、まさしくその言葉に甘える形で、さらに料理だの、ドリンクだの、がんがん注文した。郁也の隣にいるおれは、お前本当に大丈夫なんだろうなと確認するが、郁也は笑って頷くだけだった。酔いもすっかり覚めて怖さだけがあり、目眩がしてそのまま倒れそうだった。
 店を出る際本当に郁也はカードですべての支払いを済ませた。怖くてその総額まで聞けなかった。女性陣はそれが当たり前かのように、郁也に簡単なお礼のみ伝えた。母ちゃん、東京は本当に怖いところだよ。心の中でそう呟く。
 女性二人は終電間際に帰っていった。でも清香だけは帰らなかった。あの人たちは明日も仕事で、私は休みだからと郁也の隣にくっ付いていた。その後、清香は郁也と二人で、おれたちとは別方向の電車に乗って別れた。
 残されたおれは泥酔した潤一郎と一緒だった。手持ちがなかったのでコンビニでお金を下ろしてから駅に向かった。よろよろと千鳥足の潤一郎と駅まで行くのは大変だった。彼はすぐに腰を下ろそうとしてしゃがもうとするが、そうさせたら朝までそのままになると思ったので、力ずくて身体を起こし、駅まで連れて行った。
 車内では会話少なげにシートに座らずに吊革に捕まり立っていた。二人分の空席がなかったこともある。おれは酔ってはいなかったが、疲れから座ったらすぐに寝てしまうことが想像できた。少しだけ酔いが醒めた潤一郎はいつもと調子が違っていて苛立っていた。目も据わっていた。酒が入るとやや横柄になる彼は、あいつらどこ行ったんスかね、とぶつぶつ文句を並べて、
 ──やっぱりお金持っているだけでも女にモテるんスね? 俺、頑張ってお金持ちになりますヨ。
 吐き捨てるように言った。おれは相槌を打って、その後、潤一郎は吊り革を持ったまま頭を垂らして目を瞑っていた。おれは彼が吐かないかどうかだけが心配で、彼がしゃっくりをするたびにどきっとしたのを今でも覚えている。

 清香のことだ。
 彼女の年齢は二五で郁也より年上。都内の私立大学を卒業後に一部上場企業の商社に就職し、OLをしている。自分の学歴では総合職に就くことは困難だったと本人から聞いた。
 彼女には大人の女性らしい色っぽさがあり、一見遊んでいそうな雰囲気を感じるが、郁也から話を聞くと大分真面目な考え方をしていて、
 ──人を見た目で判断したらダメだ。
 と島のバイト先のオーナーが事あるごとに言われていた言葉を思い出した。
 てっきりその時だけの関係になるのだろうと思っていたら、後日郁也の口から清香と付き合い始めたと知らされ驚いた。
 清香は六本木のバーで、早く結婚をしたいと言っていた。年々社内結婚で寿退社する同期が増えてきたらしく、まだ25だけど、もう25なんだよと嘆いてもいた。三年も会社にいれば、社内の男女の泥泥の関係も見えてきて、部長があの子と不倫しているだの、課長があの子に手を出しているだの、もう表面では見えないところで、男女の駆け引きがもの凄いことになっているとも言っていた。そんなもんなんスかね〜と潤一郎が軽口を叩いたら、まだ社会にも出ていない人たちにはわからない世界よと清香は見下したように言った。
 彼女は、清香は玉の輿に乗りたいらしい。これは彼女の連れが言っていたことだった。しかし良いなと思った男性には付き合っている女性がいたり、また結婚していたりと事はうまくは運ばないようなことも口にしていた。条件が良い男と巡り合って結婚することは、難しいことなのだとしみじみ語っていた。そんな清香と郁也が付き合ったとは信じられなかった。
 お前受験生なのに大丈夫かよと思わず口にしてしまったが、本気なんだよと真顔で言われたから、それ以上は何も言わなかった。
 それから何度も郁也の授業の終わりに迎えに来た清香と会うこともあったし、郁也に誘われて三人で食事をしたこともあった。今日清香とデートなんだよと決まって土曜の授業が終わった後、郁也は早々と帰っていった。
 ──郁也さんが車を持ってたら最強なんスけどね。
 そう言う潤一郎に対して、
 ──郁也は免許は取らないってよ。医者が事故起こして怪我でもしたら大変だろ?
 と答えると、彼はふうんと興味無さそうに答えた。
 そんなこんなで六本木に行ってから、もう二ヶ月が経とうとしている。

 ──俺、受験やめて働くわ。
 と郁也が言った。
 ──はぁ? 働くって? 本気で言ってんのか?
 ──本気だよ。
 ──どこかあてでもあんのかよ?
 郁也は首を振る。
 ──働くって、お金を稼ぐってそんな簡単なもんじゃねぇぞ。今までバイトのひとつもやったこともねぇヤツができるわけ無いだろ。やめとけって。素直に受験を目指せよ。
 郁也は黙っている。
 ──医者になる夢はどうすんだよ?
 ──医者にはならない。
 ──はぁ? お前これまで医学部に入るためにかけてきた時間をぜんぶ棒に振るのか?
 ──だからもういいって。
 郁也は静かにそう答えた。
 言葉が出なかった。どんなことを言っても言葉が宙に浮かんで消えていく。彼には届かない。きっともう答えは出ているのだろう。でもどうしておれを呼んだんだ。おれに同意して欲しかったのか。そんな受験まであと半年もないってタイミングで受験をやめるって。
 結局、話はまとまらないまま、時間だけが過ぎた。これ以上ここにいてもどうにもならないと思ったので、そこを後にして帰った。帰る間際に郁也が、これから母親が来ると言ったので、
 ──清香の件は今日は言わない方がいいぞ。
 と強く伝えた。郁也の口から清香の妊娠が母親に伝わったとき、どんな修羅場になるのか想像するだけでぞっとする。それこそ今の居場所さえも取り上げられて郁也には何にも残らなくなってしまう。そうしたら郁也が郁也ではなくなる。
 ──おれがお前だったら、もっとちゃんと清香と話すぜ。それに本当に子どもができたんなら事実確認が先だろ。エコー写真とかも見せてもらえよ。
 郁也は肩を落として俯いている。
 
 その帰り道、郁也のことを潤一郎にメールを送るとすぐに返信が返ってきた。
 《残念です。》
 とだけあって、あとに続くメールを待っていたがそれっきりだった。
 部屋に戻り、途中コンビニで買ってきた弁当を食べた後、いつもならすぐに勉強を始めるが、桂子のことや郁也のことを考えていたら、勉強する気持ちが湧いてこなかった。とりあえず銭湯に行き、さっぱりして部屋に戻ると今度は眠気が襲ってくる。色んなことがあった一日だったなと振り返り、畳で仰向けになる。天井の木目見つめながら、こんな場所で俺は一体何をやっているのだろうなという思いが湧いてくる。外からは産業道路を往来する車の音が聞こえてくる。
 キンモクセイのことで始まった一日だった。模試の成績が返却されてその結果が芳しくなく、桂子に相談に行ったら結果的に桂子が男と付き合っていたことが発覚して、しかもそれが不倫関係だったこと。郁也から呼び出され、彼の元に行くと今度は清香が妊娠していて受験をやめて働くと言う。
 みんな変わっていく。知らないうちに変わっている。変わらないものなんてないんだろうなァと思いを巡らせていると、ふと島の青い空とか海とかが脳裏に浮かんだ。その風景や色を丁寧に思い出しながら、記憶をなぞるように辿っていると、上京してから初めてかもしれない、故郷を恋しく感じて眼に泪が溜まった。紀貫之が詠んだ和歌で、人の心は変わるけど故郷の梅の花の匂いは変わらない、という意味の和歌があった。梅の花の匂いから連想して、キンモクセイのことを再び思い出した。やはりその匂いを嗅いでみたいという衝動に駆られた。

 £££

 翌日、授業に出ると潤一郎がすっとんできて、郁也のことを訊いてくる。昨日メールで送った通りだよと答えるが、ちゃんと病院で調べたんですかね、と訊き返す。そこまでは聞いていない。
 ──じゃあ清香さんに電話して直接聞いてみましょうよ。
 と潤一郎。
 ──え⁉︎ 直接? 郁也がそう言ってんだから間違いないだろ。
 どうやら潤一郎は清香の言葉を信じてないようだ。
 ──そりゃあそうですよ。そもそも郁也さんが受験やめて働くって言ってることを清香さん知ってるんスかね?
 おれは黙って首を傾げる。
 ──清香さんって独占欲の塊みたいな人じゃないっスか? 郁也さんのことを好き過ぎてそんなこと言ったんじゃないかなって思ったんスよ。
 一理ある。そんなことをおれが送ったメールの後考えていたのか。大した洞察力じゃあないか、潤一郎くん。そういう人の感情の機微を察する力があるのなら、それをもっと勉強以外のことに活かせそうなんだけどな。いやはや、人の才能って罪なヤツだよ。人生には本来持つ力を発揮しなければいけない場面がある。しかしその力を発揮する必要のない場面に、その力を発揮しようとしたら本来発揮しなければいけない場面で力を発揮できないため、そこではあえて発揮しない方が良いという場面もあるようだ。回りくどい言い方をしたけど、君のことだよ、潤くん。調子づいた彼はさらに饒舌んなって続ける。
 ──郁也さんが医者の卵だから、清香さんは絶対に別れたくないのが先に来てると思うんスよね。だって将来安泰じゃないっスか、医者の奥さんって。それに郁也さん家は金持ち。どうやってもこの先郁也さんを超える男と巡り合える確率なんて、そうそうあるわけがないじゃないっスよ。彼女、本当に郁也さんのこと好きかどうかわからないスよ? 郁也さんの外堀に惚れただけなんじゃないんスかね?
 ──そう言われるとな。そうなんじゃないかって思ってしまうな。お前凄いな。そこまで考えていたのか。
 ──絶対そうっス。獅子座のB型は独占欲が強いんスよ。
 ──へぇ、清香って獅子座なの? しかもB型? で、独占欲ねぇ。わかる気がするなぁ。何かの占いとかの情報?
 ──いえ、過去の経験から基づくデータです。俺これまで関わった人たちの性格や行動を、星座と血液型で分けて頭の中に入れてるんです。
 そう言って潤一郎はしたり顔をする。
 過去の経験? 一体どんな経験なのか気になるし、そもそもそんなことを分析している暇があるんなら勉強しなさいよ、と口元まで出かかったが飲み込んだ。洞察力に長けて、星座占いまでできる。もう占い師の方が向いてるんじゃないか。
 ──ちなみに、茂春さんの双子座のA型は、何ものにも縛られず自由な生き方を追求するタイプですよ。何か茂春さんらしくてカッコいいっスね。
 褒めてんのか、貶してるのかわからない。
 直後、授業開始を知らせるチャイムが鳴ったので、二人して急いで教室に戻り、席に着いた。
 程なくして古文の先生が入ってきて、授業が始まった。今日の授業内容は『雨月物語』だった。昨日予習もせずに寝てしまったから、先生の話をもらさず聞かなくては、と意気込んで手に持つペンに力を込めた。前の方の席に座る潤一郎は大きな欠伸をしていたかと思ったら、その後授業の大半机に伏して寝ていた。先生はきっと気づいているが何も注意をしなかった。他にも同じような生徒が何人もいた。
 いつも白衣を着て、甲高い声で話をし、時折声が裏返るその女性の先生の授業がおれは好きだった。高校の時古文なんかまったく興味もなかった。教えている先生が好きだと成績も上がるかもしれないなと最近思う。現に古文の成績が一番良いのだ。この先生の指導によって、『宇治拾遺物語』や『今昔物語集』などの説話のジャンルは、面白く読めるようになってきた。入試によく出題される『源氏物語』はまだよく読めない。今では大学に行ったら古文を専門に学びたいという思いも出てきた。これもこの先生のおかげだ。ただ文学部は定員が少なく、倍率も高い。合格するのは狭き門だ。募集人数の多い経済学部を当初目指していたが、大学で学ぶなら自分の興味がある学問を学ぶ方が良いと桂子はアドバイスをくれた。正直今の時点では決めきれない。
 教え方は上手いと思うが、潤一郎にはそうでもないらしい。予備校の先生になるくらいだからきっと超優秀な人なんだろう。しかし先生が予備校の講師としてどれくらいの実績があるかどうかは知らないが、受験が近づいているのに寝ている生徒がいるクラスを受け持つことにどんなモチベーションをもって仕事をしているのか。一度尋ねてみたくもあった。
 先生が『雨月物語』の現代語訳をわかりやすく教えてくれている中、突然、ガタっと大きな音がした。その音の出先をみると潤一郎だった。きっと寝ている潤一郎の身体がビクッと無意識に動いたことによるものに違いない。自分が立てたその音によって彼は目覚め、むくっと上体を起こした。
 授業を中断されても先生は怒らず、潤一郎の方をみて笑顔を浮かべ、大丈夫ですか〜と優しく声をかけた。大丈夫っスと潤一郎は答えた後、すみませんと謝った。先生はくすっと笑い、
 ──その身体がビクッとすること、ジャーキングって言うのよ。無理な姿勢で寝ているときに起こりやすいんだって。
 子どもの悪さを諭す親のような口調だった。
 へぇ。きっと授業よりもこういう入試にまったく関係のない無駄な雑談はずっと覚えているのだろう。ジャーキングって言葉はもう脳に完全にインプットされた。受験勉強もこんな風にすとんと脳に吸収できたら良いのにな。そんなことを思っていると、なぜか潤一郎の親父さんの顔が脳裏に浮かぶ。

 潤一郎は千葉の新浦安出身で、実家は地元で不動産業を営んでいる。潤一郎は郁也のことを羨んでいるが、潤一郎も十分過ぎるほど金持ちのボンボンである。
 潤一郎の両親ともに稼業を継いでほしいため、潤一郎が受験をし、大学生になることを心から望んではいない。こんな馬鹿が大学に受かるわけないよな、と親父さんは豪快に笑い、こんな馬鹿息子が、馬鹿息子が、と大声で連呼していた。潤一郎の親父さんは声が大きくて、豪快に笑う人だった。
 ──大学なんてもんはな、遊びに行くようなところなんだよ。今の大学生見てみぃよ。勉強してるヤツいるか? みんなサークルだの、合コンだの、飲み会だの遊んでばっかじゃないか。勉強なんてしてんのかね? してないだろうよ。そんなとこ行くだけ無駄よ。無駄無駄。お金をドブに捨てるようなもん。それよりもな、社会に出て、社会人としての経験を積む方がうんと大事なんだよ。わかる? 俺を見てみぃ。俺はな、高卒だけどよ、すぐに社会に出てだな働いたよ。それこそ身を粉にしてだな働いたんだよ。まぁ今だってたいした稼ぎでもないけどな、それでも大学出のやつよりも稼いでるとは思うよ。
 親父さんは人生を熱く語った。半ば説教されているような感じで、俺と郁也と潤一郎の三人は聞いていた。いや、聞かされた。
 住んでいる家はといえば、そりゃあもう大豪邸と言って良かった。部屋は数えきれないほどあったし、著名な建築家が設計したというだけあって、外観からして立派な豪邸だったが、内部の家具や調度品はごく一般的なもので揃えられていた。親父は見栄っ張りでケチなんだよと潤一郎は顔を顰める。
 ひょんな流れから潤一郎の家に行くことになったのは、潤一郎と仲良くなって間もない頃、確か六月頃だった。ちょうど梅雨に入ったくらいの時期で、潤一郎の家に行った時は雨がしとしと降っていた。
 潤一郎は陽気で気さくなやつで、誰からも好かれる性格の男だった。何よりもいつもニコニコして笑顔なことが良い。彼がいるだけで場が和らぐ。この予備校に通うようになってからは郁也を含めた三人でつるんでいる時間が多く、おれと郁也が揉めそうになるときに、間に入ってくれて良いバランスを取っている。こういうタイプの人間がいるとグループは大きく崩れない。目立ちはしないがしっかり仕事をするボランチみたいなタイプの人間だ。
 そんな彼だか当初は別人かと思うくらい様子が違った。予備校の浪人生だけで占められる私立文系の基礎クラスで、初めの一ヶ月は誰ともつるむことなく、ひとりぽつんと座っていた彼。孤独で、無口で、静かで、空気のように、いつも決まった席、教壇から見て左側の前から三番目の席に座り、いつも退屈そうに大きな欠伸をしていた。
 その姿がおれの眼にはひどく寂しく映った。まぁおれも同じようにクラスに馴染めず、一番後ろの席からクラスの状況をいつも観察をしていたから、潤一郎と同じようなもんだった。
 日が経つにつれて寂しき浪人生たちは、沈黙や孤独に耐えきれず仲間をつくっていく。段々それらが二、三人の塊になり、別の塊と統合してさらに大きなグループが形成される。グループのそいつらは楽しそうに休み時間には談笑して、昼食時には一緒に食堂に行き食べたりしていた。
 潤一郎はといえば昼食時も教室に残っていて、参考書やテキストを広げては、持参したパンを齧りながら黙々と勉強していた。それがはじめの一ヶ月近くは続いたのだろうか。そのストイックな姿勢に興味を待ち、つまるところおれ自身も場に馴染めずにいたから、彼に同じ仲間のような連帯意識のようなものを密かに感じていた。類は友を呼ぶ。
 ある日おれは意を決して彼の隣に座り話しかけた。
 ──ねぇ君さ、どんな勉強してるの?
 彼は無言で威嚇するように睨んできた。
 おれは怯まず笑顔で、
 ──おれさ、受験勉強というものを始めたばっかりで勉強のイロハがまったくわかんなくてさ、良かった教えてくれないかな。
 ──俺バカだから、違う人に聞いた方がいいっスよ。
 と即断られたが、そこでも怯まず、いや君から聞きたいんだよと食い下がった。
 後に潤一郎からこの時のことを聞くが、どこかの方言訛りの怪しい男が話しかけてきて怖かったと語った。
 ただ巡り合わせとは面白いもので、この時彼がチューターの存在を教えてくれなかったら、おれは桂子と出会うことはなかっただろうし、その後、おれと潤一郎が話している様子を見て話しかけてきた郁也とも知り合うことはなかっただろう。人と知り合って仲良くなるきっかけは、いつだってちょっとしたことだ。
 要はそのきっかけをつくる気持ちがあるかどうかだ。もちろん時間の経過と共に自然にそうなることだってあるだろう。そういう場合は共にある一定の同じ時間を共有しなくてはならない。ひとつの話しかけから生まれる関係が世の中にはごろごろある。一方で話しかけなければ、一生巡り合えない関係だってある。出会いとは不思議なものだ。
 それから、チューターで良い先生がいたことを彼に伝え、礼を言うと、彼もいつの間にか桂子のところに通うようになった。気がつけば潤一郎とはいつの間か仲良くなっていたといった感じだった。
 潤一郎は実家を離れ、鶴見のアパートで独り暮らしをしている。はじめの頃は実家から通っていたが、予備校のある横浜まで往復で三時間もかかるため、行って帰ってくるだけで体力を消耗するからと親父さんに直訴して、予備校の近くの部屋を借りることになったらしい。それは郁也から聞いた話だった。
 どうしてわざわざ千葉から横浜まで来ているのかそもそもの疑問だったが、千葉だと地元の知り合い連中に会うのが嫌だったというのが理由だった。きっと違う場所でもう一度やり直したかったのだろう。ある意味おれも同じようなもので、生まれ育った島を離れた。まさしく類は友を呼ぶのだな。

 潤一郎の言う通り、授業が終わった後、清香に電話をした。出ない。まだ仕事をしているのか。このままもやもやしたまま答えを先延ばしにするのが嫌だったので、清香の職場まで行こうかと潤一郎に提案すると、二つ返事で潤一郎は了承した。この時点でいったん清香にメールを送っていた。
 一度郁也に付き合って清香の職場まで行ったことがある潤一郎の後に付いて、電車に揺られ、大森駅に着いたときにはすでに日も暮れていた。そこで清香に電話をするとようやく連絡が取れ、ちょうど今仕事が終わったばかりだと言う。ルアンという喫茶店を指定されたので、そこで待つこと二〇分、清香が現れた。
 ──どうしたの? 二人して。
 ──ちょっと話したいことがあってさ。
 潤一郎はそう言って席を立ち、おれの席の隣に座り、清香は向かい合う形で座った。彼女の動きに合わせて、彼女の身につける香水の香りが鼻腔をくすぐる。とても甘い香りだった。清香の表情は変わらない。いつもと同じ彼女だ。
 昨日郁也から聞いたことを清香に話した。郁也が受験を辞めて働くと言っていること、そうなれば郁也は医者の夢を諦めることになる。それでも郁也と一緒にお腹にいる子と生きていく覚悟はあるのか。なるべく問い詰めるような口調にならないように気をつけたつもりだったが、清香は表情を曇らせ、黙っている。言葉を選んでいるようにも見えたし、放心しているようにも見える。すっかり冷えてしまったコーヒーをすすり、清香からの言葉を待った。
 ──それが郁也さんにとって、ベストな選択なんですかね?
 ──っていうか、君たちには関係ない話だと思うけど。
 突き放すような口調で清香は潤一郎を睨む。
 ──関係あるよ。仲間のことだから。
 潤一郎ははっきりと言い放った。
 清香はその言葉に一瞬怯んだように見えた。そして何かを言いかけてやめた。
 ──って言うか、清香さん本当に妊娠してるんですか?
 おぉっと〜。ちょいと待ちなさいよ。それは穏やかじゃないよ、潤一郎くん。いくらなんでもそりゃあ、ど直球すぎる。もっと言葉の緩急を使わないと、それじゃあ清香は心の内を明かしてなんかくれないで。ちょいちょい。ちと作戦会議だ、潤くん。 
 ──ごめん清香、二人で煙草買ってくるから、ちょっと待っててもらっていい?
 潤一郎の腕を掴み、急いで外に出た。出るや否や、問い詰める。バカヤロウあんなこと言ったら良くないだろ。はじめから決めつけているような言い方だろうに。
 潤一郎は生ぬるいやり方じゃダメですよ、と平然としてまったく悪びれていない。逆にじゃあどういうやり方が正しいんですか、と突っかかってくる。興奮しているのか、目がいつもの穏やかな彼ではない。まぁ落ちつけよ。歩きながらきょろきょろ眼を動かし煙草の自動販売機を探すが見つからない。右手にはパチンコ屋があり、さらに先まで歩くと、アーケードのある商店街の入り口がある。そこを右に曲がると、先に煙草屋が見えた。あった。行くぞ。
 ──別に俺は煙草必要ないんで、茂春さんだけ行ってくればいいんじゃないんですか。
 確かにご名答である。しかし君をあの場で清香と二人きりにするのは流石にない。何をしでかすかわからないじゃないか。それにさっきあれは何だよ。妊娠してるのか清香に問い詰めた後、ポケットから何を取り出そうとしたろ? お前のことだから、妊娠検査キットでも出して今すぐ確認しろ、なんて言いかねない勢いだったぜ。何もそこまではなぁ。公衆の面前でそんなことしたら、そりゃあもう事件だろ。お巡りさんに捕まっちまうぜ。そもそも清香をそこまで追い込むことに何の意味があるんだ? 妊娠してるのかどうかを清香の口から確かめればいいだけだろ? 違うのか。どうせそんなの意味なんてないって言うんだろう? お前はただ自分の仮説が正しいってことを証明したいだけだろ? じゃあもうそれくらいにしとけよ。それ以上は良くないよ。やり過ぎだ。
 ──茂春さんのそういうところ、俺好きじゃないっス。肝心なところで濁すというか、中途半端なところ。
 カチンときたが、堪えた。
 ──茂春さんって、郁也さんと俺とじゃ対応が違いますよね? 俺が年下だからっスか? 遠慮してるんですか? 俺に。
 言わせておけばいけしゃあしゃあと喋りやがる。煙草屋に着いたのでマイセンを二箱買う。怒りに震える手で小銭がうまく掴めない。胸中で深呼吸をして、乱れた気持ちを落ち着かせた。
 ──今は喧嘩している場合じゃないだろ。
 ──そうやって話をはぐらかすんですか?
 ──お前はおれを怒らせたいのか?
 低い声で訊いた。すると潤一郎は黙って首横に振る。俺たちは来た道を引き返し、喫茶店に戻った。
 しかし席に清香の姿がない。ソファに置いていた彼女のバッグもなくなっている。トイレに行ったのか。店員を呼んで、ここに座っていた女の人はどこに行ったのかと尋ねたら、もうお帰りになりましたと答えた。しかも律儀におれたちの分の会計も済ませていた。慌てて清香に電話をかけるが繋がらない。あゝ言わんこっちゃない。
 店を出ると小雨がぱらついていた。空気が少しひんやりしていて肌寒かった。清香は怒って帰ったのだろうか。それとも的を得たことを言われて居られなくなって帰ったのだろうか。さっきまで威勢の良かった潤一郎はだんまりを決め込んで一言も話さない。深いため息を溢したとき、吐いた息がうっすら白く見えた。
 今日一日の行動を振り返って、受験生として実りがある行動を取っただろうかと考える。答えはノーだ。何ひとつ合格に繋がっていない行動だ。こうして無駄に一日一日がめくられていくのだ。そうしてそれが積み重なり、受験直前になってあのときもっと生産性のあるマシな行動をしておけば良かったと後悔するのだろう。
 いや、それは受験生だからというわけではない。これまでの過ごし方、もっと大きく捉えれば、これまでの生き方に直結しているのではないか。そんなことを思う。大事なもの、今やらなければいけないことを後回しにしてずっと生きてきたのではないか。
 そういう姿勢というかスタンスは、何も勉強をするときだけには限った話ではないのだ。すべてに共通する話なのだ。だから生き方や習慣の問題。そもそも受験自体がお門違いなのだ。ぐうたらなおれも、お節介焼きの潤一郎も受験をし、大学合格を志すような身ではないのかもしれない。
 この先はどうだ? どうなるのだ? 一年後の自分の姿が真っ黒に塗りつぶされているようで、将来ある場所で大学生となって活動しているイメージがまったく湧いてこない。現在なしくずし的に色んなものに絡み、その多くは人間関係だが、本当にやらなければいけないことに特化しきれていないのだ。そういう訓練というか、習慣がなく過ごしてきたのだ。
 清香のことを責め立てる立場になんかにおれたちはない。いくら友人の、仲間のためだからといってもこれは清香のことを鬼退治の鬼のように、桃太郎の立場で捌こうとした。あたかもおれたちが正しいという下に立ってだ。あの桃太郎の話だって、桃太郎は鬼の立場からしてみたら、平和に暮らしていた世界に突然現れた殺戮者だ。おれたちが正義だと思っていたことが、清香の立場からしたら完全なる悪でしかないのではないか。清香には清香の真っ当な人生がある。それなら、桂子と所沢の関係もそれにあたるのかもしれない。
 出しゃばる必要はもうないかもな、と独りごちて、空を見上げた。曇天の空が広がっていた。夜なのに街の明かりが明るすぎて、本来の色を変えている。ぱらぱらと落ちてくる雨粒が心地よく思える季節はもう過ぎ去ろうとしていた。
 ふと、桂子の引っ越しのことが頭に浮かんだ。
 ──そういえば、桂子が引っ越しを手伝ってくれってよ。
 潤一郎はわかったと即答した。勉強があるからって断れよ、と心の中で毒づいたが、潤一郎ならそう言うと思っていた。
 桂子は桂子であの所沢という男が絡んだ複雑な事情を抱えている。さっき清香が言った、関係ないといえば関係ないおれと潤一郎がそれらに首を突っ込むことで、余計に絡まって拗れてしまい、本来着地するはずのところを、別の場所に着地させてしまっているのもしれないな。おれたちは余計なことをしているんだ。本来おれたちが優先してやらなければいけないことを後回しにして。
 それは、仲間のため?
 仲間のために動くことが今の置かれた境遇の最優先事項なのか?
 ──なぁ、潤一郎。
 ──はい。
 ──お前は俺や郁也たちとずっと仲良くやりたいって思うか?
 ──もちろんですよ。
 ──この先もずっとか?
 ──愚問ですよ。茂春さんは違うんスか?
 ──おれも、そう思ってる。
 本心から出た言葉ではなかった。
 そんな力のこもっていない言葉だから潤一郎は察しているのだろう。例えばおれたちが大学生になっても付き合いが続いていて、その先もずっと関係が続いて、卒業して就職して社会人になって、会社帰りに待ち合わせして居酒屋で酒を交わす。そしてお互いの結婚式に参列する。おれにはそういう未来の絵がどうしても描けない。そんなことまで潤一郎が考えているかどうかはわからないが、潤一郎ははっきりと言い切れるだけの仲間に対する熱や想いがある。一年後は? 五年後は? どうだ? たまたま予備校で知り合い、仲良くなり、大学合格という同じ目的に向かい進んでいるが、この先もずっと同じような関係を継続していけるのか? もう色んな考えが頭に浮かんでは消えを繰り返して、訳がわからなくなったきた。
 ──茂春さんは難しく考えすぎですよ。
 え?
 ──そんな先のことなんか誰にもわからないっスよ。ただ、今を積み重ねるだけじゃないですか、俺たちは。
 そう言って、潤一郎は笑顔をつくる。目尻に出来た笑い皺が胡散臭い。
 ──この先もずっと付き合っていきたいって思いますよ、茂春さんと郁也さんとは。単純にそう思う気持ちじゃダメっスかね?
 ──そうだな。
 ──難しく考えなくていいんスよ。シンプルにいきましょうよ。自分が選んだ選択は合ってるって、正しいって思わないと、この先後悔だらけっスから。
 そう言って、俺の肩にぽんと手を置く。潤一郎の言う通りだな。
 ──でもまずは大学生にならなきゃですよ。ずっと浪人なんて嫌ですよ。だから頑張って合格しましょうよ。
 と潤一郎は俺の少し先を歩き、手を広げて天を仰いだ。決めポーズだが背景が牛丼屋なので、今ひとつ映えない。それでもスマホを取り出して、写真を取ろうとしたら、雨が本降りになってきた。
 ──やべえ、急ぐぞ。
 ──はい。
 おれたちは駅まで駆け抜けた。

 この日以後、おれたちが清香と会うことは二度となかった。郁也には清香からメールが来たらしく、後日、清香とは別れたことを郁也から直に聞いた。
 結果的に潤一郎が主張した清香の妊娠虚偽説が正しかったのだと思えた反面、そうとも言えないとも思っていた。
 郁也の話だと清香は会社を辞めて実家の静岡に帰ったらしい。一部上場企業を二〇代で退職してまで実家に帰る決意をしたというのはどんな理由によるものだろうと想像してみるが、単純に考えるなら退職しても十分なのものを見出したのではないのか。つまり、一部上場企業に籍を置いているより、価値あるものが清香には得られたということは考えられないか。
 おれたちが出した答えというのは憶測の域でしかなく、実際に清香本人の口から語られない限り、その真相までははっきりとは分からない。
 あれだけ玉の輿に乗りたがっていた女性だ。おれたちに嘘がバレただけで会社を辞めるなど到底考えられない。郁也に見切りをつけた後でも、東京にいれば、郁也ほどじゃなくとも、それに近い男に巡り会えることだって田舎で暮らすよりはあるだろう。それを捨ててまで田舎に引っ込む好条件、価値あるものが彼女にはあったのだ。

 郁也はこの件で多くを語らなかった。おれもまた深く知ろうとも思わなかった。訊くだけ野暮だとおれは思ったが、潤一郎はかなり知りたがっていた。潤一郎は自分の立てた仮説が正しいことを証明したかっただけで、しばらくの間、事あるごとにその話を持ち出し、郁也にあれこれ尋ねた。しかし郁也にはぐらかされていたし、しまいには完全に無視された。芸人のワンパターンのネタのようなそのやりとりはいつもおれを笑わせた。またいつもの日常に戻り、勉強中心の生活になった。
 ──二〇年後が楽しみだな。
 おれは郁也の耳元でぼそりと呟く。
 郁也は目を大きくした後、おれを睨むが、何も言い返しはしなかった。郁也にだっておれの考えていることくらいはわかっているのだ。

 それからはただただ、日常が日めくり的に過ぎていった。キンモクセイのことが気になってはいたが、はじめのときの強い衝動は薄れていった。それが日が経つにつれてさらに薄れる。もうその花の香りを嗅げる時期が過ぎてしまったかもしれないなと一日の終わりにふと思い出すくらいだった。結局キンモクセイの存在はおれにとって、そんなもんだったんだ。きっとそういう想いはすべてに通ずるものなんだろう。好きな人への想いとか、大学に合格したいという想いとか。今のおれにはそういう強い想いがあるのだろうか。畳に仰向けになって天井の木目をしばらく見ていたら、その模様がどこか人の泣き顔のように見えた。それはおれの顔のようだった。

 £££

 桂子の引っ越しの当日はあいにくの雨が降っていた。スマホで送られてきた地図を頼りに傘をさして、電車を乗り継いで、桂子の住むマンションに着くと、マンションの前には、わナンバーの軽トラが停まっていた。
 オートロックの入り口の前で桂子に電話をすると、そのオートロック壊れてるから上がってきてと言われ、そんなんなら防犯の意味がないではないかと、半信半疑で扉を押すと本当にそのまま開いていた。
 エントランスを抜け、エレベーターで五階まで上がり、聞いた部屋番号を頼りに辿っていくと、角部屋の桂子の玄関扉は開けっ放しになっていた。一応ドアフォンを押してから、お邪魔しますと遠慮がちに声を発して、玄関に入ると、そこには男ものの靴が何足かあった。すでに郁也も潤一郎も来て、テレビを見ながら寛いでいた。
 ──遅いっスよ。
 潤一郎が声をかける。
 郁也は頭に白いタオルを巻いていて、ジャージ姿だった。
 ──何で一人そんな気合い入ってるんだよ。
 と言うと、郁也は、
 ──引っ越しって気合い入れるだろ。それに動き易い格好じゃないとな。
 と自信たっぷりに答える。軽トラは潤一郎が先程レンタカー屋から運転してきたらしい。おれだけ集合時間間違えたのかと思ったが、潤一郎が一番乗りで早く来すぎてしまったらしく、それで時間があったから桂子と一緒にレンタカー屋に行き、桂子はペーパードライバーなので潤一郎が運転をしてきたらしい。
 ──雨だと荷物濡れちゃうな。
 そう郁也が心配すると、桂子は笑顔になって、
 ──別に大丈夫だよ。大きなビニールシートも借りたし。それに雨の日に引っ越しするのって縁起が良いんだよ。
 ──へぇ。そうなんだ。
 と潤一郎が横から入ってくる。
 ──雨が降ると神様が祝ってくれてるんだって。あくまで迷信だけどね。
 そう言って桂子は微笑んだ。
 ──雨は嫌なことを流してくれるんだって。
 ──ふうん。ものは考えようだな。
 と郁也は一言でまとめたが、良い方に考える桂子らしいと思った。
 ──さぁ始めましょうか。
 桂子の号令の下、作業を開始した。
 すでに段ボールでまとめてあったものを男手で運んでいく。分担を決めた。五階の部屋からエレベーターまでをおれがやり、エレベーターから軽トラの前までを郁也がやり、軽トラに積んでいくのは潤一郎がやった。
 あまり荷物がないとはいえ、段ボールは二〇個近くあった。持ちやすいように気を配ってか、大きなものはない。段ボールには、《夏服》《冬服》《タオル》《食器》《本》などとマジックペンで書かれていて、一番多かったのが《本》だった。本は重いのだ。小型のテレビや冷蔵庫や棚などはさすがに一人では持てないので、郁也と協力して下まで運んだ。中にはフォークギターのケースがあって、弾くんだ? と尋ねると、
 ──それ貰い物なの。弾こう弾こうと思って結局押し入れの中に眠ったままになってた。何だか捨てるに捨てられなくてね。
 と桂子は首を振る。そのギターケースには沢山のシールが貼られていた。アパレルブランドのショップシールが大半だった。その中にアルファベットで《T》の大きめのシールが貼られていた。
 要る? と訊かれるが、さすがにおれの部屋でギターなんか弾いたら近所から苦情が殺到すると断った。
 一番大変だったのはベッドで、本当に骨が折れる作業だった。ただベッドは要らないものでマンションのゴミ捨て場まで運んだ。すでに大家の許可は取っていると桂子は言った。明日粗大ゴミの回収が来る日らしく、ベッドの縁に粗大ゴミの回収シールが貼ってあった。まだ比較的新しく、売れば幾らかお金になりそうなベッドだったが、荷物になるからと桂子は捨てる決断をしたとおれたちに説明した。
 ちなみに洗濯機は新しいものを実家から購入してもらい、すでに新居にセッティングしてもらったらしい。今まで使っていた洗濯機は先日業者が引き取りにきたと言った。
 俺たちが作業を進める中、桂子は部屋の掃除をしてフローリングを雑巾で丁寧に拭いていた。
 ──敷金なんて戻って来ないけどなんだかんだで約三年住んだ家だからさ、最後はピカピカにしてあげたいでしょ。
 そう言って桂子は磨く手に力を込めている。おれも今住んでいる部屋を引き払うとき、同じことをしようと思った。
 軽トラに荷物をすべて積み終わり、荷物が落ちないようにしっかり固定をしてから、大きなビニールシートを上から被せた。男三人でようやく出来た作業だった。これだったら業者に頼んで大きなトラックでプロの作業員の手でやった方が速かったんじゃないかと潤一郎はぼやく。何も返事をしなかった郁也も同じことを思ったのだろう。確かに荷物は少なかったが、晴れている日より作業量は増え、時間がかかった。作業が完結した後、疲れ果てたおれたち三人は重い足取りで桂子の部屋に戻った。雨具の下は汗でびっしょりだった。
 雨具を脱ぎ、部屋に上がると、おれたちの声に気づいた桂子がありがとうと声をかける。桂子はまだしゃがんでフローリングを拭いていた。
 ──荷物がないとこんなに広いんだ。
 と潤一郎が言う。
 桂子は立ち上がり、ふうと息をついて、首にかけていたタオルで汗を拭うと、ありがとうと頭を深く下げた。
 ──ちょっと一服する?
 桂子は提案するが、腰を下ろしてゆっくりしたら最後、立ち上がれず日が暮れることは間違いないことをみんな知っていて、いやすぐに行こうと郁也が言う。せっかくだからとみんなで最後に記念写真を撮って、新居へと向かおうとしたとき、ドアフォンが鳴った。
 ──誰だ? こんなときに。
 その郁也の言葉に、気まずい表情を浮かべた桂子をおれは見逃さなかった。大家さんかな、とわざとらしく言って玄関扉へ向かう桂子。嫌な展開になりそうだな、と不安がよぎった直後、帰ってくださいと玄関から桂子の大きな声がしたので、ハッとしてすぐに桂子のところへ行く。男が立っていた。所沢だった。
 ──引っ越し手伝ってくれた人たち?
 所沢の言葉は柔らかったが、鋭い眼でおれたちを牽制しているようだった。おれと目が合い、先日会ったことを思い出したようで、
 ──あゝ君は、この前の。田中くんは彼と付き合ってんの?
 ──そんなんじゃないよ。
 ──そっか。手伝いに来たんだけど、もう終わったんだね。
 所沢は覗くように首を伸ばして部屋の様子を見る。
 ──誰なんだよ。
 郁也が小声で聞いてくる。
 ──桂子の元彼だよ。
 ──えぇ!? 桂子彼氏いたのかよ!
 潤一郎が声を出す。
 ──ちょっと君たちさ、申し訳ないんだけど、少し外行っててくれないかな? この人と話したいから。
 桂子にそう言われ、おれたちはすごすごと外に出た。一人で大丈夫かと尋ねるが、桂子は大丈夫だと頷く。眼には泪が溜まっていたがもう一度大丈夫だからと引き攣った笑顔をつくり、話が終わったら連絡するからと電話をかける仕草をする。
 おれたちはエレベーターで下まで降りて、壊れたオートロック扉を出た。駐輪場があるスペースに腰がかけられる石がちょうど三つあり、雨に当たらないようになっていたので、そこで桂子からの連絡を待つことにした。
 雨はまだ降っていた。今日は一日中雨らしいなと郁也が天を仰いで言った。マンションの前に停めてある軽トラの荷物を覆ったビニールシートに雨が落ちていて、ぱちぱちと乾いた音を立てているのがこちらまで聞こえてくる。一応家電製品にも防水のためゴミ袋を袋代わりにしてかけたが、出来ることなら早く出発して新居に運びたかった。段ボールに雨が染み込んで本などが濡れて使い物ならなくならないか心配だった。
 すぐ近くのコンビニで郁也が缶コーヒーを買ってきて、それぞれに手渡す。
 ──やっぱジャージで来て正解だったろ?
 ──まぁな。
 汗をかいて気持ち悪いのもあったが、郁也はタオルもそれぞれに買ってきてくれたので、コーヒーを飲む前に濡れた身体をタオルで拭った。
 ──なかなか気が効くだろ?
 得意げな笑顔を見せた郁也はキレの良い音を立てて、プルタブを開けると、一気にコーヒーを飲み干した。ポケットからマルボロの煙草を取り出し、火を点ける。
 ──お前も吸うか?
 桂子の部屋に置いてあるカバンに煙草は入っているので、郁也から一本もらい、ジッポライターを借りて火を点ける。オイルの香りがつんと鼻腔を刺激する。
 ──こんなところで二人して煙草吸わないでくださいよ。このマンションの住人が来たらどうするんスか。
 潤一郎はマンションの入り口の方を気にしていたが、住人がきたらすぐに火を消すよと空き缶を持ち上げて振って見せる。
 ──でも驚いたな。桂子に彼氏がいたなんて。お前知ってたのか?
 郁也が神妙な表情を浮かべる。潤一郎もおれの方を向く。
 ──あゝ、ごめん。別に隠してたわけじゃないんだけどな。例の郁也の件があった日におれも知ったし、完全に言うタイミングを逃したよ。実のところあの男、奥さんいるんだよ。
 ──はぁ? 奥さん? 不倫!? それって不倫っスよね?
 ──だから声がでけえっつうの。
 もっと声を抑えて話せよと郁也に叱られて、潤一郎は謝った。
 この前横浜駅近くの喫茶店で桂子から聞いたことをかいつまんで二人に話した。二人とも黙ってその話を聞いて頷いていた。
 桂子は純粋そうだからまだあの男のことが好きなのかもしれないなと郁也はぼそりと言った。雨が地面を叩く音がやけにうるさく聞こえた。スマホでウェザーニュースを見た潤一郎が、この雨は時間が経つとさらに強くなりそうだと言う。軽トラに積んだ荷物を見つめる。見上げると曇天の空が広がっている。重いため息が溢れた。
 ──桂子のこと好きなんだろ?
 突然郁也が言った。
 ──別に好きじゃねぇよ。
 と誤魔化すが、
 ──ばればれっスよ。
 潤一郎が笑う。
 ──俺が言うのも何だけど、お前と桂子お似合いだと思うよ。
 郁也がそう言った後に、俺もそう思うっスと潤一郎が続いた。
 ──心配なんだろ? 桂子のとこ、行ってきたら?
 郁也に背中を押されるが、おれが行ったところで解決する問題じゃないような気がして躊躇した。
 ──この中でお前が一番桂子のこと心配してるんだよ。だからお前が行くべきだ。早く行って来いって。
 ──だから、おれは……。
 ──四の五の言わず早く行けって!
 ──ったく、うるせぇな。行きゃいいんだろ。
 煙草を郁也が持つ空き缶の中に入れ、立ち上がる。壊れたオートロック扉を抜け、エレベーターのボタンを押す。エレベーターはすぐに開く。外にいる二人に目をやると、ドアを叩くような仕草をする郁也、なぜかジャンプを繰り返している潤一郎の姿が見えた。ふっと鼻で笑い、エレベーターに乗り込んで、五のボタンを押した。
 ゆっくりとエレベーターは上昇して行く。話す内容を考えている時間はなく、すぐに五階に着き、扉が開く。桂子の部屋までの通路を歩いていき、部屋の玄関扉で立ち止まって深呼吸をする、ここまで引き下がるわけにはいかないと、ドアフォンを鳴らそうとしたとき、いきなり扉が開いた。
 出て来たのは所沢だった。所沢は目の前におれがいたため少し驚いた様子を見せたが、何も言わず去っていった。
 すぐに扉を開けて、部屋に入る。何にもない部屋の真ん中で床に頭をつけているように屈んでいる彼女の姿が目に飛び込んできた。大丈夫かと声をかけようと近づくが、咽び泣いているのがわかったので、そのままおれの身体は固まってしまった。
 こういうとき、どんな言葉をかけたらベストなんだろうか。きっと郁也なら気の利いた言葉をかけてあげることができるだろうし、潤一郎なら笑わせることができるだろう。おれは……そう、おれは何にも出来ない。何も出来ないから、近くで彼女が落ち着くのを待つしか出来なかった。
 何分くらい経っただろうか。彼女がゆっくりと上体を起こした。真っ赤な眼をしておれをみて、ごめんねと弱い声を出す。
 すぐに抱きしめてやりたかった。そうして何にも悪いことなんてないよと声をかけてやりたかった。でもそんなことをしていいのかどうかの判別がつかない。
 ──シゲくんのそういうところ、私は好きだよ。
 そう言って、桂子は笑顔をつくった。その無理につくられた笑顔に胸が反応して、ぎゅんぎゅん鼓動が鳴っている。その音が外にもれていると思うくらいぎゅんぎゅん鳴っている。
 彼女は泪を手で拭うと、さぁ行こうかと立ち上がった。
 ──桂子。
 ──何?
 ──おれがさ、大学生なったらさ……。
 ──うん。
 鼓動が高鳴る。目と目が合い、時が止まるようだった。
 ──おれと付き合ってくれないか?
 彼女の眼が一瞬大きく開いた。彼女が言葉を発するのが怖くて、すぐに言葉を継いだ。
 ──やっぱおれ、桂子が好きだよ。
 彼女は微笑んで、何度も頷く。
 ──今はおれ受験生だから、まだ成績もこんなんだし、まったく桂子にとってはただのいち生徒かもしんないけど、来年大学に合格してさ、桂子と釣り合うようになったらさ、ま、それで釣り合うのかどうかもわかんねぇけど、桂子は頭も良いしさ、……もう何を言ってるのかわかんねぇけど、まぁつまりは、結婚したいんだよ。
 ──結婚!?
 彼女は声を上擦らせた後、くすっと笑った。ずいぶん飛躍したね。
 ──ごめん。でも、ゆくゆくはそういう風になれたらって、おれホント真剣に思ってるんだ。
 ──そっか、わかった。
 話を打ち切るようにそう言った後、くるりと体を反転させておれに背を向けた。そして、少し間をおいて同じ姿勢のまま、話を始めた。
 ──好きって言ってくれてありがとう。嬉しいよ。結婚って、まさかそんなことをシゲくんが思っているとはまったく想像してなかったから、正直ね、今動揺してる。
 彼女の言葉の流れから、その後の嫌な展開を想像してしまう。おれは次の言葉を待った。しかし彼女はその次の言葉をなかなか発しなかった。その沈黙に押し潰されそうで息が苦しくなる。思い出しかのように外の雨の降る音が聞こえてきた。彼女は黙ったままだ。その長い沈黙に耐えきれなくなった時、玄関から声が聞こえてきた。
 ──お〜い、まだかぁ。
 郁也の声がだった。
 あ、っと我に返ったのは桂子も同じだったようで、慌てて部屋の掃除道具を片付け始める。郁也があの男帰ってったぞと言って部屋に入ってくる。郁也から煙草のにおいがした。その後に続いて潤一郎がどたどたと足音を立てて入ってくる。まだ終わらないんスかと周囲をみて、もう終わってるじゃないですかと誰に向けるわけでもなく言う。
 ──あいつが出て行ったってことは、解決したんだろ? 終わったんなら早く行こうぜ。
 と郁也は桂子を見る。桂子は、わかったと言って掃除道具をまとめ、ゴミ袋に突っ込んで袋を結んだ。

 雨は止まなかった。ワイパーが規則正しく動き、フロントガラスに落ちてくる雨を払う。潤一郎は今頃早起きのツケがまわって来たと言ってきたので、運転はおれがすることになった。軽トラには全員が乗れない出来ないので、郁也と潤一郎は桂子から新居の住所を聞いて別でタクシーで行くことになった。また妙な気を遣ったつもりなんだろうか。おれと桂子が二人、軽トラで新居に向かった。
 桂子は新居までの道のりを説明すると、走り出してすぐにうとうとし始めた。初めて都内を運転するのにそんなに信頼して大丈夫かと思ったが、安全運転を意識して、ゆっくりと車を走らせる。
 雨の日の運転は好きじゃない。島にいた時も雨の日はあまり運転しなかった。雨で風景は滲んでぼやけはっきり見えないのが嫌だ。フロントガラスに落ちてくる雨粒が激しくなり、視界を悪くさせる。ワイパーの間隔を短くしようと操作するが、今度はワイパーが激しく働き出し、ぎしぎしと嫌な音を立てるから、もう一度元に戻した。桂子は目を瞑っている。
 つけっぱなしになっているカーラジオからは、DJの陽気な甲高い声が、リスナーからのリクエストに答えている。今日は昭和歌謡特集らしい。少し音が大きいかなと思い、音量を絞ろうとしたとき、聞き覚えのある曲のイントロが流れてきた。
 ──こんにちは。私は来年大学受験をする受験生です。とても好きな人がいて勉強に手がつきません。どうしたらいいんでしょうか? 
 ラジオネーム片想いさんからのリクエスト曲です。これは、そうですね。勉強に手がつけなくなるなら仕方がありません。もう後は、自分の心の趣くままやってみてはどうでしょうか? それではお聴き下さい。フリッパーズギターで《恋とマシンガン》。
 バツの悪い質問だと思いながら横目で桂子を一瞥した。眼は閉じていた。聞いていないのか、内心ドキドキしてハンドルを握る手に力を込めた。とても良い加減な回答をするDJだなと最初は思ったが、よくよく考えたらそれが正解のような気がしてくる。
 信号にも捕まらずスムーズに走らせ、新居に着いた。すでに郁也と潤一郎は着いていて、さしているビニール傘を上に持ち上げて潤一郎が合図をした。
 ──ずいぶん安全運転ですね。もうとっくに着いてましたよ。
 潤一郎が小言を言う。
 ──さぁ、ちゃちゃっと終わらせようぜ。
 我々はまた作業を開始した。足元に気をつけながら慎重に運ぶ。すべての荷物の入れ込みが終わり、作業が終了したのは、午後四時だった。
 そのタイミングに合わせるように宅配の業者が来て、寿司を置いて行ったり、レンタカーを返しに行った潤一郎が近くのスーパーから大量のお酒を買い、両手いっぱいのビニール袋をぶら下げて帰ってきた。
 桂子がシャワー使っていいよ、と言うので、おれたちは遠慮なく使わせてもらい、事前に持ってくるように言われた着替えを済ませ、さっぱりした後、みんな揃ったところでビールで乾杯をした。時計はすでに午後六時をまわっていた。
 ──それにしても桂子って変わってるよな。普通、新居に来て一番はじめに住人じゃないヤツにシャワーは貸さないだろ? 
 と潤一郎。
 ──え? そう? まぁ普通は貸さないだろうね。今日頑張ってくれたからね。着替え持ってきてって言ったの正解だったでしょ?
 ──まぁね。
 ──実はこの部屋今日が初めてじゃないんだよ。一週間前からちょこちょこと荷物を移動してたんだよ。
 ──え、そうなんだ。 
 何故か残念がる潤一郎に、何を期待してたんだよと郁也が突っ込む。口にはしなかったが、皆のシャンプーの香りが甘くて何だか落ち着かない。
 ──潤一郎ってさ、前にも言ったと思うけど、郁也とシゲくんには敬語使ってんのに、どうして私にはタメ口なのよ? 
 ──ダメなの?
 ──そりゃダメでしょ。もっと年上を敬いなさいよ。
 ──えぇ〜。だって桂子さんって呼ぶの、よそよそしくないですか? 他人行儀というか……、そりゃないっスよね?
 潤一郎は同意を求めてくるが、おれと郁也はそれには取り合わず、受け流した。ただそのやりとりが面白くて笑った。
 楽しい時間だった。他愛もない話で盛り上がり、真剣な話になると真面目に聴き、高校時代の笑い話などでまた笑い合った。この部屋は鉄筋コンクリート構造だから隣には一切声は漏れないよと桂子は頬を赤くして唾を飛ばずほどの大声で話した。
 あっという間に時は過ぎる。気がつけば九時を過ぎていた。すっかり酔ってしまったが、また明日からいつもの日常が戻るのかと思ったら、切ない気持ちが胸に溢れた。おれたち三人が大学生だったらどんなに良かっただろう。明日の勉強のことなんか気にせずに朝まで呑むこともできるのに。こうして呑むこともこの先ないんだろうとな、ふと思ったら、この時間を大切にしなきゃいけないという感情も芽生えてくる。誰もが今の状況だからこそ、みんな出会えたのだ。島にずっといる選択肢だってあったのに、此処にいる。
 ──だから、茂春さんは難しく考え過ぎなんですよ。双子座のA型はそういうところがあるんですよ。
 そう言って潤一郎はグラスに入ったビールを一口含む。
 ──何それ? 楽しそう。
 桂子が話に食いつく。潤一郎の目が光った。その話聞かなくて良いよと話題を変えようとするが、桂子は目を輝かせて、その星座の話もう少し聞かせてよと潤一郎に迫る。隣の郁也はため息をこぼした。女子は占いが好きなんだよ。
 ──桂子の星座と血液型教えて?
 ──天秤座で、A型。
 潤一郎は顎を指先で摘むような仕草をして考える。みんな彼の言葉を待っているが、肝心の言葉が出てこない。どうしたと郁也が訊く。
 ──天秤座のデータが俺の中にないっス。
 苦笑する潤一郎に対して、桂子は残念がった。聞くと彼の占いのようなものの根拠は過去自分が関わった人物たちから判断しているらしい。つまりデータがないものも中にあると本人が言う。
 ──でも天秤座って、確か九月とか一〇月生まれだったよね?
 おれが尋ねると桂子は頷いて、明日誕生日なのよと応えた。誕生日だと知っていれば何かプレゼント用意したのにと後悔したのは、おれだけじゃなかったようで、郁也は腕時計を外し、これあげるよと渡そうとするが、桂子はいらないと拒否した。結構な値段のする高級時計なのにと郁也はもう一度腕にはめ直した。
 ──今はデータはないけど、これから先出会う人には、天秤座のA型って言われたとき、桂子のデータを元にするよ。
 ──どんなデータなのよ。
 ──雨女。
 自信たっぷりと断言したので、俺は思わず吹き出して笑ってしまった。
 ──確かにそうなんだよ。受験した日も降ってたし、車の免許を取った日も、もっと遡れば遠足の日とかもよく降ってた。修学旅行とかも雨が降ってた気がするなァ……。なにかと雨に縁があるみたいだね。今日も雨だったしね。間違いないね。私、雨女だ。
 天秤座の雨女は何度も頷いて、遠くに過ぎ去った記憶を思い返すように中空をみつめた。

 出前の寿司もなくなり、買ってきた缶ビールはすべてなくなった。腹もいっぱいになり、もうこれ以上は入れらないが、桂子がつくってくれた料理、料理と言ってもフライパンで焼いたウインナーと冷凍食品のギョーザーは残すわけにはいかず無理矢理口の中に押し込もうとするが、
 ──無理して食べなくて大丈夫だよ。
 と桂子はおれを見る。残りものは明日の食事になるらしい。いや、もう箸つけちゃったから、食べるよ。飲み込む。
 一〇時を過ぎると場は落ち着いて、会話も途切れ途切れになり、テレビの声がはっきり聞こえるようになった。もうみんな疲れていて、これ以上の元気は無さそうだった。そろそろ帰ろうか、と示し合わせたように男性陣は腰を上げる。
 ──今日はありがとうございました。
 桂子は深々と頭を下げた。
 こちらこそごちそうさまでしたと桂子に礼を言って、部屋を後にした。
 三人で駅の方に向かって歩き始めたが、思ったよりも駅は遠かったし、雨が降っている。雨脚はまだ強い。今日一日の疲れがどっと押し寄せる。これ以上歩きたくないからタクシーで川崎まで行こうと郁也が提案をした。しかしタクシーを捕まえようにも大通りまで出る必要があり、そこへはまだ幾分距離があった。
 滅入った気持ちのまま足を踏み出そうとしたその時、背後から声がした。振り返ると自転車のライトの明かりが見えた。雨具を着た桂子だった。
 ──ごめん、ごめん。
 ──何か忘れものあった?
 ──違うの。
 桂子は自転車を止めると、自転車の前カゴに入れていたビニール袋を取り、おれに手渡す。濡れちゃったけど、はい、これ。
 ──何、これ?
 受け取るとずっしり重い。
 ──桂花陳酒よ。
 桂子は微笑む。
 ──キンモクセイのお酒だよ。さっき呑んでるときに出そうと思っていたのをすっかり忘れちゃって。
 あゝと声が出る。
 ──キンモクセイのにおい気になってたでしょ? そのにおいを嗅げばキンモクセイのにおいがわかるよ。あげる。
 ──ありがとう。帰ったら開けてみる。
 ──私も飲んだことないけど、白ワインにキンモクセイの花を漬け込んだお酒なんだって。ロックで飲んだ方がより香りを楽しめるってお店の人が言ってたよ。
 ──何だよ、茂春さんばっかり。
 潤一郎は口を尖らせるが、郁也に制された。
 ──じゃあね。また、予備校で。
 桂子は手を振って自転車を漕いでいった。おれたちは踵を返して大通りに足を進めた。その道すがらキンモクセイのことが話題になり、郁也がフジファブリックってバンドの《赤黄色のキンモクセイ》って曲、知ってるかと訊いてくる。知らないと答えると、良い歌だからYouTubeで聴きてみなよ、と言う。確かにあの歌良いっスよね、と潤一郎は相槌を打った。キンモクセイのことが気になって調べていた日、電車を降りる際に中年の女性から言われた赤黄色という言葉の意味がわかった。その日からずいぶん日にちは経ったが、こうしてキンモクセイの香りがわかるという桂花陳酒を桂子からもらったことで、一連の出来事がいったんは終わりを迎えたような気がした。郁也と清香のことも、桂子と所沢のことも、いったんは終わったのだ。あとは……。
 ──桂子のこと、どうすんだよ?
 郁也が尋ねる。
 ──どうもこうも。まずは勉強して大学に入らないとな。
 ──茶化すなよ。桂子のこと好きなんだろ?
 ──そりゃ好きだよ。
 おおぉと二人して息があって唸ったが、それはようやく白状したかという意味を含む唸りだった。
 ──で、告白するんスか?
 潤一郎の顔はにやついている。
 ──うるせえよ。
 潤一郎の肩を軽くどつき、
 ──すべては心の趣くままに、だよ。
 と答えた。
 訳分かんねえこと言うなよと郁也は鼻で笑った。
 それから大通りに出て、一〇分くらい待ってタクシーを拾った。余程疲れていたせいか、川崎駅に着きタクシーの運転手から起こされるまで三人ともぐっすり寝ていた。割り勘で支払いを済ませ、タクシーを降りて、二人と川崎駅で別れた。
 川崎駅へと向かう傘をさす人たちの流れと逆行して京浜川崎駅の乗り場まで歩きながら、一年後の自分を想像してみる。おれは大学生になっていて、隣には桂子がいて、その隣には郁也と潤一郎がいる絵がぼんやりと浮かんできた。すると身体に力が漲ってくるような感覚を覚えた。まだ桂子からは返事を聞いていない。さっきの場でもそのことはあえて尋ねなかった。返事は先の方がいい。むしろ先でいい。この気持ちを持ったまま、受験まで過ごそう。そして受験が終わったらもう一度気持ちを伝えよう。そう思った。
 天秤座の雨女と双子座の男。なぜか巨大な天秤の二つの皿の上に双子の子どもが乗っていて、どちらかに傾くことなく、ゆらゆら揺れながら均衡にバランスを取り合っている絵が頭に浮かび、思わず、笑みがこぼれる。余程ニヤついていたのか、すれ違った女性から変な目で見られてしまった。


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