第12話

文字数 13,288文字

12・ アーサフ王

 四日後。
 エリ島に、リートムに、その朝が来た。
 アーサフは歩んでいた。固い、引き締まった顔をフードの奥に隠しながら、しかし眼は真っ直ぐに前方を見据え、最終の目的地へと向かって歩いていた。

 今朝。夜明けの直後。
 朝霧がかかっていた。太陽は見えず、ひんやりとした寒さと湿度が街を覆っていた。
 長かった一夜を終えて、アーサフは深い呼吸を意識した。見る見るうちに明るさを帯びてゆく空を見た時、確実に時間が、現実が進んでいることを意識した。
 ……この三日間。
 どれ程に力を尽くしても、マクラリや他のリートムの旧臣達との接触は叶わなかった。分ったのは、彼ら皆が王城内に置き留められたまま、外部との接触を妨害されているらしいという事だった。おそらくモリットの入れ知恵だろう。
 計画は妨害を受けた。それでも時間は進む。どうあがいても時間は留まらない。今日という時間はやってきてしまった。
 唐突に、背後で聖リート大聖堂の鐘が鳴り出した。
 これに僅かに遅れ、街のあちこちからも鐘が鳴り出した。祝典の日が来たことを告げながら乳色の霧を揺らし始めた。
 アーサフは振り返る。背中の側には、キクライアのミコノス卿親子がいる。いつもの通り、固く引き締まった表情の二人が自分を見据えている。
「予定通りに行う」
 アーサフの言葉に、ミコノスは表情を変えない。ただ、もう一度確認をする。
「マクラリ卿を始めとする旧ガルドフ家従臣達とは連絡を取れず仕舞いです。それでも今日、行動を起こすのですか」
「行う」
「急いで今日行わなくても良いはずでは」
「今日ならば、祝典を行う広場に全員が揃う。王城に留められていると思われる私の従臣達も、マナーハンの代表達も、他国の使者も。そして勿論、多数の住民達も。このような機はもう来ない。それに、――」
 アーサフはちらりと聖堂の聖リート像を見てから続けた。
「“至高なる神の御前で宣誓された婚姻は永久不滅なるものである。これを遵守せず離婚・再婚・重婚をする者は、姦淫者として石打刑に処せられる”。
 今日の時点ならば、防げる。明日の二人の結婚を中断できる。二人を姦通の大罪人にしないで済む」
「その教会法については、よほど高位の聖職者以外、誰も周知していないのでは」
「確かに。ほとんども者が知らないと思う。私も知らなかった。なぜモリットがこれを私に教えてきたのか、その意図はどうしても解らないが、でも私は、この教会法を利用する。この法を全面に出して、二人の婚姻を正攻法で阻止する。コノ王の策略を潰す。
だから今日だ。今日、私は二人の婚約披露の式典に出る。名乗りを上げて、リートム王位に復権する」
 真っ直ぐに言った。
 ミコノスはもう、それ以上を意見しなかった。ただすべき事を簡潔に述べた。
「私と郎党達は、ひと足先に式典の場である王城前広場に向かいます。場の状況を把握しておきましょう」
「だったら貴方の護衛は私が」
 続いたリアの口調もまた、簡潔だ。
「行きましょう。決めるのは貴方だから。決めた以上は、全力を尽くすだけ」
「そうだな」
「もう一つだけ。――神の御加護が貴方の上にありますように」
 彼女としてはすこし意外な、優しい余韻を感じさせる言葉で締めくくった。
 朝霧が、ゆっくりと動き出していた。少しずつ見え始めた空が、薄い青色を帯びている。今日のリートムは、珍しく好天になりそうだ。
 鐘の音は終わってゆく。アーサフは一度、ゆっくりと息を吸う。自分の腰に差してある短剣に触れ、その感触を確認する。
「行こう」
 踏み出した。
 ――
 早足で、二人は歩む。
 アーサフは地味な土色の外套に、フードをかぶって歩む。右横のリアもまた質素な長外套を着、中に剣と小弓を隠す。ぴったりとアーサフの横に付き、周囲を警戒しながら歩む。
 大路を進むにつれて、城門前の広場に近づくにつれて、往来は賑わいを増してゆく。様々な物音と人通りが増えてゆく。ふと見ると右手に、こんな祝祭の日なの聖地へ旅立つ巡礼達の姿もあった。それがどこか印象に残った。
 頭の中に、考えだけが流れてゆく。この後の様々な展開を思い、思考をめぐらしてゆく。
 ……旧家臣達との再会、……復権の宣言、……人々の反応、……マナーハンの出方、……コノ王の出方……、
「イドルとディエジ……。二人の婚姻……」
 小声で、呟いた。その時、冷やりとした感触が皮膚の下を走った。
(行ってらっしゃいませ。御無事をお祈りしています)
 あの出陣の朝の微笑みが、ふわりと感覚を覆う。
 その次は、小声で泣く姿。運命を決めた夜の中。一本だけの燭台の揺れる光の中。
(なぜ一言いってくれなかったんだ? 少なくともそれで私は救われたのに!)
 あの時。真夜中の静まり返った室内。自分はそう言った。完膚無き敗北に引きずり落とされた果てに、確かそう言った。
 あの時からどのような日々が、自分と彼女と、そしてディエジの上を流れたのだろうか。これから自分達三人は、どのような顔で再会するのだろうか。自分達は皆、正しい事をしながらここまでに来ただろうか。そしてリートムという国は、正しい道へと進んでゆくのだろうか。
 一体何が、最も正しい道なのだろうか――。
 祝典の時間は迫って来る。大路を行き交う人々が、嬉しそうに喋り合っている。これからのリートムの繁栄を信じて疑わず、期待感に高揚した顔で広場を目指してゆく。それを無言で見つめながら、アーサフもまた歩む。
「何を考えているの?」
 歩みも止めず振り向くこともなく、リアは訊ねた。
「不安なの?」
「――。いや」
 霧は消えかけている。空には薄い陽射しが現れている。頭上にはためく飾り旗や布が、色の鮮やかさを強めている。
「色々とあったけれど、でも貴方はここまで来た。貴方は今日、再びリートム王となる。それで間違い無いんでしょう?」
「――。その為の貴方達の協力に感謝している。有難う。心から。
 私は今日、私の正当な権利としてリートム王に復権をする。だが――」
 唐突に、アーサフの足が止まった。賑やかな往来のただ中、リアの前に立った。顔を見た。
「私は、本当に正しい選択をしているのだろうか?」
「何を言いたいの?」
「最後の確認だ」
「――」
「今日、私が王位復権を宣すれば、必ずコノ王が動きだし干渉してくる。間違いなくリートムに混乱を招いてしまう。場合によれば流血をも招く騒動になるかも知れない。
 それでも私は、王位復権を主張して良いのだろうか?」
 通りがかった近郊の農夫の肩が、アーサフにぶつかった。何でこんな所で立ち止まってるんだ糞がっ、という罵声が投げかけられた。
「もし、私が名乗りを上げなければ、このままディエジとイドルが婚姻すれば、少なくともマナーハンとの関係は良い方向へと向かう。国内は安定する。
 加えてディエジは――彼は、間違いなく王の質だ。彼ならば、リートムに優れた統治を敷いてくれるはずだ。コノ王の主張の通り、二人の結婚はリートムに良い未来を招くはずだ。
 だとしたら、この国はこのまま二人に託した方が良いのでは無いだろうか」
(僕は王なんかになりたくないっ)
 あの日。霧は出ていただろうか。リートムの空は。
 あの日。怖かった。自分の意志で国を動かし、その責任を負うことが怖かった。それは今も同じだ。
 今も、自分は怖い。自分の選択が正しいのか、怖い。だが、選ばなければ、より恐怖は増す。
「――」
 往来の中、リアの冷たい眼が無言で自分を見ている。
(早く皆の所へ行け、アーサフ!)
 あの時、ディエジは泣きながら自分を殴った。それならばリアは? リアもまた今、自分を殴るのだろうか。
「それで。貴方はどうしたいの?」
 そう訊かれた瞬間だ。アーサフの全身が素早く反応した。何のていらいも無く、即座に答えた。
「私は、再びリートム王となりたい」
 あまりにも当然の事として、自分の喉は発したのだ。
「リートムの王となり、神の御前に王としての使命を果たしたい。リートムとその臣民に、安定と繁栄の未来をもたらしたい」
「だったらそうすれば?」
「――」
「だって貴方は正当なリートム王なのだから」
 常通りの、冷めたい、何の飾りも無い言葉だった。
 これで、終わった。
アーサフは、己の生涯で最も大切であろう確認を今、終えた。終えることが出来たのだ。
「有難う。リア」
 ふっと、アーサフの口許に僅かな笑みが走った。強まり始めた陽射しの下、騒々しさの消えない往来のただ中だった。
 あとは、自分がやるべきことをやるだけだ。
 ――
 陽が強まっている。明度を増す空の青が、祝祭の雰囲気を高めてゆく。
 大路の突き当りでは、ガルドフ城門の塔が大きくなっている。その手前にある王城前広場は、もう目前となる。
 アーサフは右腕を頭上に回した。灰色の頭巾を頭から外した。その瞬間、自分の額に清涼な風が触れるのを感じた。
「え?」
 すれ違う瞬間、着飾った女が足を止めて振り向いた。
「アーサフ王?」
 隣の子供連れの農夫が見る。一瞬の無言の後、驚きの顔で叫んだ。
「ガルドフ家のアーサフ王だ!」
 周辺の群衆が一斉に振り向く。だがアーサフは真っ直ぐに前を向いたまま、早足で歩み続ける。
「アーサフ王だ!」
「アーサフ王がいる!」
 声が取り巻く。彼の周りに人々が集まってくる。それでも足を止めない。そのまま前方を見据えて進む。
 王城前広場では、城門の前に舞台が設置されている。女宗主とガルドフ家血縁者との婚約の公表のための舞台の、青色の天幕ととりどりの花飾りが陽射しに映えているのが見える。
 広場にはすでに、多数の人々が集まっていた。その中へと今、アーサフは踏み入った。
「ガルドフ家のアーサフ王が来た!」
 一斉に人々が振り向いてアーサフを見た。
 彼には、自分のやるべき事が解っている。自分が帰って来たという事実を衆目に見せる事、一人でも多くの人間に見せつける事。
(さあ。見ろ)
 唖然の視線の人々を自分の周りに引き付けたまま、アーサフはゆっくりと進み出てゆく。
(さあ。全員で見ろ。私を見ろ)
 横ではリアが、四方に鋭く目を配る。自分の父親や郎党が、そしてリートムやマナーハンの兵達がどこに位置しているかを確認していく。外套の上から手を当てて、剣の位置を確認し続ける。
 強まり出した陽射しを受けて、そのまま広場の中心へと向かっていた時だ。
「アーサフ王!」
 強引に人垣を押し分けながら、一人の男が夢中で走り寄ってきた。その姿を見た瞬間、足は止まった。アーサフの目が大きく見開かれた。
 忘れようもない。背筋の伸びた体躯の、白味がかった髪と顎髭の、確固とした顔立ちの。そして信頼できる深い眼のその老騎士。
「マクラリ卿……っ」
「アーサフ王! よくぞ御無事で……!」
 躊躇の一片も無い。旧臣・マクラリ卿は本来の冷静の質とは真反対に、感激のままに主君を抱きしめたのだ。
 ついに旧臣との再会を果たしたのだ。自分はここまで来た。来れたのだ。神様。
「もう亡くなったものと……! ああ……よく生きておられた、よく……!」
 体内が熱くなる。自分も叫び上げたい、力を込めて抱き返したい。だがアーサフは堪える。落ち着きをもって応じる。
「久し振りだ。マクラリ卿。貴方も無事でよかった」
「どうして! 貴方様は泥棒のモリットと共に賊に襲われたと聞きました。そこで落命したと聞いていたのに、まさか生きていらしてこのように……突然……、まさかこの――、今日の祝祭の場で再会を……っ」
「一刻も早く貴方に会いたかったのだが、どうしても機が掴めなかった」
「はいっ。私を含め、かつての臣下達がリートムの街に来ています。数日来王城に逗留していましたが、今日はすでにこの場に――」
と、上ずった口調が言い終える前だ。
 視界の右手側から、群衆を押し分け七~八人の男達が駆け寄って来るのに気付いた。どの顔も激しく興奮し、夢中の目で自分を見ているのに気付いた。
「アーサフ王! 生きてらした!」
 勢いのまま、アーサフを取り巻く。泣き声のような叫びを上げながら抱き着く者、手を握る者、片膝を付いて敬意を表す者……。
 どの顔も見知っている。かつての王城での臣下達だ。どの顔も最大限までに驚愕を、それをさらに上回る喜びを剥きだして自分を見据え、叫ぶ。
「アーサフ王! よくぞ御無事でっ」
「お会いしたかった! もう二度と会えないと思っていたものを…!」
「殺されたものと……! 何があったんですかっ」
「一体今日までどこにいらしたんですか? どこで何を!」
 投げかけられ続ける言葉の一つ一つに、感慨を押さえ切れない。そして、心よりの安堵を覚える。だというのにだがそれでも、この間にもアーサフの神経は、ちらちらと広場のあちこちに目を配らせてゆく。
 ……マナーハンの人間は来ているのか? マナーハン兵は? どの位?
 ……他にも、かつての自分の臣下や王城の関係者は?
 ……他国の者は? 知った顔は? ミコノス達は今どこにいる?
「何か、感じが変わりましたね、王」
 はっと振り向いた。すぐ左手から、かつて側仕えていた従士が、興奮を隠しきれない眼で自分を見ていた。
「顔立ちも、雰囲気もです。貴方様の印象が随分変わっている気がします、王」
 その言葉が心の琴線に触れて、消えた。彼は一度空を見上げ、それから大きく呼吸をした。
 再び、アーサフは歩み出す。家臣達は自分を取り巻き、はからずも防御の盾になってくれる。少しでも、一人でも多くに己の帰還を見せつけるべく、彼は広場の中心を目指す。強まってくる陽射しと冷えた風の両方を、全身に受ける。
 その時。
 鐘の音が大きく鳴り響いた。
 群衆の眼が大きく、一斉に動いた。アーサフと旧臣達もまた、広場の中心付近で立ち止まり、振り向いた。
 時が来たのだ。今から式典が始まる。新郎と新婦が、前方の舞台の上に現れる。アーサフの眼が、広場中の眼が、そちらに集中する。
 ――
 しかし。
 新郎と新婦は、現れなかった。
 鐘が鳴っているというのに、両者ともが広場に現れなかった。
 二人はまだ王城の門内にいた。すでに身支度も整え万全を機しているというのに、しかしディエジは今、驚愕の顔をさらしながら夢中で横の者に迫っていた。
「アーサフが来ているのか! 生きてたのかっ、本当に!」
 横に立つマナーハンの文官もまた、露骨に焦った顔をさらすだけだ。返答出来ない。
「まだ……真偽はまだ分かりません……。ただ広場の一部の住民が騒いでいるだけです」
「何しているんだ! 早く確認を――いや! いいっ、俺が行って確認するっ」
「止めて下さい! 今から式典が始まります、貴方様はこのまま壇上へ上がられ――」
「アーサフに会うのが先だっ」
「駄目ですっ、止めて下さい、予定通りに式典を進めないと困ります。式典を進めて行かないとコノ王が――」
 言い終わる前、もう相手の体を押しのけた。ディエジの脚はすでに動き出している。城門を目指して即座に走り出そうとする。
 それを、前に立つ事で止めた。真っ向から行く手を塞いで、イドルが立ちはだかったのだ。
「退いてくれっ」
強引に押しのけようとする右腕を、しかし彼女の右手が掴んだのだ。思わずディエジはそれに驚く。そのまま声を荒げて叫んでしまう。
「なぜだ! 貴方だってアーサフに会いたいはずだ!」
「会いたいわ。でも、私は行かない。貴方も行かないで」
「なぜっ」
「私はリートムの宗主だから。だから私が今やらなければならないのは、宗主としてこの式典を無事に挙行することで、それには貴方も必要だから」
「――だがっ。だが……、とにかくアーサフにすぐ会わないとっ」
「ええ。会いたい。正直にいえば今、驚きが強くて、怖い。怖くて、動揺が抑えられなくて、体が震えている。本当にアーサフ様だったらどうしようって……。
本当にこのまますぐにアーサフ様の所へ駆け付けたいけれど、けれど、私は今、それをやるべきではないから」
 およそ動揺しているとは思えない、冷静な口調だった。イドルは真っ向から夫を見て言ったのだ。
「……」
 ディエジが、当惑の顔をさらしてしまう。
 この少女が自分と同じ決意を抱いているとは、とっくに気づいている。自分と同じ考えを持った上で、自分と同じものを求めていると。しかし、
「今すぐに確かて、そして本当にアーサフ様だったら……、そうだったら、どうしよう……。とにかく――謝罪を……。
 でも、今は――今は私は、この式典を始めないと」
この少女の方が、はるかに自分を上回っている。
 現実を見据えて判断をし、その上で先を見ている。このような事態にも冷静に己の感情を律し、己のすべき行動を選択しているのだ。動揺しているだけの自分とは違って。
「……。煉獄で呪われろ」
 小声の呪句を自身に吐いた。ディエジは苛立ちのままに上を見上げ、深く、大きく息を突いた。
 鐘の音が高く、長く響いている。
 前方の広場には、青い空から大きく陽光が射しこんでいる。現れてくる新宗主夫妻を祝福するべく、群衆が式典の開始を待ち構えている。真っ直ぐの目で舞台を見ている。
 アーサフの目も見ている。周りを旧臣達に囲まれたまま、彼は広場の中心からじっと舞台を見据えている。
 鐘の音がゆっくりと、間延びをしながら止まっていく。冷えた風が、広場を抜けてゆく。全ての眼が、舞台の上を見据え続け、
 ――現れた。
 ディエジが、硬い顔で現れた。
 それに四歩遅れて、イドルが現れた。彼女もまた硬い、しかし強い表情で現れた。
 マナーハンから贈られたのだろうか、二人共が豪華な装飾の晴着を着ていた。新郎はびっしりと草紋様の刺繍をほどこした白の長衣。新婦は幾つも幾つも細やかな襞を重ねた赤布に白を組合せた衣装。
 派手やかな装束が、青さを増す空の下で映えていた。リートムの新宗主となる新郎新婦を、文句の付けよう無く華やかで飾り立てていた。
「新たなリートム国王夫妻万歳!」
 舞台下から誰かが大声を発した。が。
 その後は続かなかった。広場は、奇妙な静寂となった。
 舞台の周囲で、王城の関係者達・マナーハンの文官達が、互いの顔を見合わせている。予想もしなかった展開に、状況を判断しきれず、当惑しながら周囲を見回している。
 ディエジもまた、露骨に緊張の顔をさらしている。その顔のまま、広場を見渡してゆく。
(どこだ? どこなんだ?)
 夢中の眼で、広場を見渡してゆく。
(どこなんだ? 本当に来ているのか? どこに? どこだ? どこだ、アーサフ!)
 空はすでに晴れ上がり、陽射しが強い。真昼の光の中、広場を埋め尽くした皆が自分を見ている。その全ての顔をディエジは必死で見返し、隅々から広場を夢中で見返し、見渡していき、
 ……小さく、うめくように息を突いた。
 叫ぶことは無かった。それでもただ僅かに、頷くように頭が動いてしまった。
 固く握りしめてしまった両掌を、緩める。止めようのない感情の高揚を自制し、しかしそれでも、こらえ切れずに一言だけを発した。
「アーサフ……」
 会えたのだ。互いに。生きて。
 長かった、途方も無く長かった異変の時間は、終わったのだ。
 ディエジの顔が感情を消化しきれず、歪んでしまう。衆目の中だというのに、笑うとも泣くともつかない感極まった顔を、隠しようも無くさらしてしまう。
 だが、イドルは違った。
 イドルもまた、アーサフを見出していた、群衆の中、かつて自分が心から愛し、それなのに深く傷付け、果てに命運そのものを変えてしまった夫が、静かな眼で自分を見ているのに気付いていた。それを無言で見返していた。
 夫が今、何を思っているのかは解らない。自分が今どんな顔をさらしているのかも。
 ついに再会できたという喜びは、確実に体内を覆い尽くしていく。それなのに、それと同量の別の感覚が生じている事にも気づいている。
 何の感覚だろう? こんな時に? 何を?
 判った。――理不尽だ。
 今彼女は、リートムと、祖国マナーハンと、そして自分自身の状況が今また、大きく変わってたことを自覚した。
 アーサフもまた、広場の中心から二人を見上げていた。
 抑えても抑えても、体の奥からは感情が湧き出てくる。懐かしさ、切なさ、愛おしさ、そんな甘美な情感が体を包み、思わず目に涙がにじみかけている。そんな自身に気づき、小さく息を漏す。
 聖リート様。今は違う。今はその時ではない。
 ゆっくりと、呼吸を整えた。
 ゆっくり体を動かし、自分の周囲を見渡した。回りの衆目が自分を見ていることを確認し、それからゆっくりと、意識してゆっくりと、大きく、声を発した。
「私は、リートム小王・ガルドフ家のアーサフだ。
 長らくこのリートムの地を不在にせざるを得なかったが、今、帰還を遂げた」
 どよめきの声が、広場に走った。
 それはどよめきだ。歓声ではない。ほとんどの人々がこの唐突の事態に戸惑い、判断に躊躇をしている。
 だから、今だ。自分が動くのは、今だ。
「私は、長期にわたって王国・リートムを不在にしてしまった。その間に国内を襲った混乱について、心より皆に謝罪する。本当に申し訳なかった。
その上で私は、今、己が果たすべき使命を自覚している。再びリートム王として王国を安定させることが己の果たすべき使命であると、強く自覚している」
 空が青い。広場は静まり返っている。アーサフを見ている。
 宣すべき言葉については、この数日間にわたってずっと考え続けて来た。だがそれにはもう意味が無かった。言葉はごく自然に、勝手に、自分の体内から喉を通って出て来た。
「今、私は皆に宣する。
 私は今日、リートムの王位に復権する。そしてこのリートムの土地と民に安定と繁栄をもたらすという使命に、全てを捧げる」
 人々はまだ自分を見つけたままで静まっている。まだ判断が出来ていない。
 ディエジもまた無言で見つめる。だが彼の内面は丸切り当たり前のこととして、遠いあの日を呼び起こしている。
“いやだ。王になんてなりたくない。代わりにお前がなってくれ、ディエジ!”
 あの日。アーサフはあまりに弱かった。痛々しい程にもろかった。
 しかし今、視界の中にいるアーサフは、印象的に姿を変えている。広場の群衆を見据えてゆくその顔に、眼に、芯の強さを帯びている。
 あの日から途方もない時間が流れた。全てが変わったとディエジは痛い程に覚えた。
 陽射しが眩しい。広場に緊張した静寂が続いてゆく。ディエジは一度青い天を見上げ、それからふと横の王妃を見、
「……。え?」
 驚いた。
 王妃の顔が、不満を帯びていた。
 なにを? どうして?
 風が冷たい。陽射しが眩しい。広場は静まっている。
 確固とした意志をもつアーサフとイドルとそしてディエジは、三者ともが互いを、そして広場の全体を見つめ続け、……
 緊張の空気は突然に破られた。
「アーサフ王万歳!」
 唐突にミコノス卿が叫んだ強い声が、大きく広場に響きわたった。
 人々が周りを見回す。互いを見渡し、誰かが何か反応をするのを待ち、そのまま永遠のように長い呼吸四回分の時間を待ち、そして――
「ガルドフ家のアーサフ王万歳!」
 右手の人垣から、地元の農夫が素朴な大声を上げた。はっと、今さら気づいたかのように、アーサフの周囲の旧臣達が反応した。
「リートムのアーサフ王万歳!」
「アーサフ王万歳!」
「リートム王アーサフ殿万歳!」
 これに、空気が大きく動いた。群衆が、歓声や拍手を上げ始めた。
「ガルドフ家のアーサフ王陛下、万歳!」
 アーサフの帰還は今、受け入れられたのだ。
 この機をアーサフは逃さなかった。そのまま力強い歩みで前方へ進んでゆく。ディエジとイドルが立つ舞台の方へと進み出てゆく。
「アーサフ王万歳!」
「リートムのアーサフ王万歳!」
 群衆の喜びに満ちた声が、王に望まれているのはアーサフであると壇上のディエジとイドルに告げる。
 二人ともが、アーサフを見据えて待った。自分達の所まで来る時間を長いと感じていた。吹く風が冷えているとも。空から注ぐ陽光が眩いとも。
 アーサフもまた、空が眩いと思った。雲は全て消えていた。光に満ちたその透明な青色がなぜか印象に残った。そしてそのまま、壇上へ上がった。
「やあ。ディエジ」
 普通に、言えた。
 この一言を発するまでには、凄まじい、慟哭を覚えるほどに激しい感慨が含まれていても良いはずなのに。
 堪えきれなかったのは、ディエジの方になった。
「アーサフ……」
 泣きだしそうな眼でアーサフを迎えた。彼に出来たのはただ、力を込めて相手を抱き締める事だけだった。
「生きていてくれた、神様……」
 抱擁してくる相手の感触が懐かしいと、アーサフも感じる。胸を熱くする様々な感情だけが、途方もなく浮かび上がる。だが、それを抑える。なぜなら今は、やるべき事が別にあるのだから。
「後で話そう。今夜、ずっと、一緒にずっと話そう、ディエジ」
「そうだな、……アーサフ。ずっと話せるから……」
「そうだ。話そう。これからはずっと一緒だ」
 自らが言った言葉が、自らに繊細で温かな安堵という感情を与えてくれた。
 それからアーサフは、もう一人を振り見た。
「イドル。貴方も久しぶりだ」
「……。お帰りなさいませ。アーサフ様。御無事での御帰還を、神に感謝します」
“行ってらっしゃいませ。御無事で”
 胸をかきむしるほどに渇望した瞬間だったはずだ。夢にまで見た言葉だった。
 あれから、どれ程の時間を経たのだろう。
「本当に驚きました。聖天使様、まさかこの様に再会を果たせるなんて……」
 今、目の前の少女は、記憶から大きく印象を変えていた。かつての少女から百年もの時を経たかの様に、冷静さと強さを身に纏っていた。
 同じだ。彼女も変わらざるを得なかったのだろう。
 現実は、全てを変えた。自分も変わった。イドルもただ笑い、泣き、夫にすがるだけの少女で居続けられなくなったのだろう。日々を進めてゆくためには、変わらざるを得なかったのだろう。深く自分を見据える思慮の眼が、そう語っている気がした。
 そう。イドルは今、真剣に思慮していた。
 自分が大切に思うリートム、そして自分自身がまた、今また大きく変化をしてしまったという現実を、猛烈な勢いで考えていた。
 夫・アーサフは、舞台の一番前に進み出てゆく。歓声を上げ続ける群衆に大きく宣言をする。
「私を受け入れてくれたことに、感謝をする。
今日、再び私はリートムの王となる。正に今より、このリートムの為に成すべきことは全て成すことを神の許に宣誓しよう。この場にいる皆に、このリートムに、平和と繁栄をもたらすことを神に約束しよう」
「アーサフ王万歳!」
 かつての家臣達そしてミコノスの郎党達が、この時とばかりに一斉に声を挙げた。これに広場の群衆もつられるように大声を挙げた。
「ガルドフ家のアーサフ王万歳!」
 いや。それでもまだ、状況を判断し切れない住民も居たはずだ。こんなに唐突に旧王が帰還し王位に就くはずの新宗主夫妻に取って代わることが、本当に正道なのかどうかと。
 だが、広場は熱気に満ちているのだ。
 希望と光を感じさせる高らかな宣言が、それを支持する歓声が、青い空の下に響き渡っているのだ。
「リートム王の新王万歳!」
「アーサフ王万歳!」
 舞台を取り囲むよう立ち並んでいるマナーハン人達が、苦々しい眼でアーサフを見ている。激しい焦燥の感をさらしている。だが、彼らの誰も行動も起こさない。いや。起こすことが出来ない。
 彼らにとって旧王の登場は、あまりにも唐突で予想に外れた展開だったのだ。そして広場の群衆は、ここまで熱狂に包まれてしまったのだ。今となっては“なぜアーサフ王が現れた直後に素早く対応しなかったんだ”と痛恨の後悔する事しか出来無い。
 ここまでは計画通りだ、と、アーサフは思った。
 ここまで、全て順調だ。あともう少しだ。
 あともう少しで叶う。自分に襲い掛かり、ゆえに自分を大きく成長させることになった長い厄災が、あともう少しで終焉する。リートムの霧の無い青空と冷涼な風の許、全てが終わる。その光の許に。――、
 アーサフの息が、滞った。
(神様……)
 唐突に心臓を掴まれたかのような感覚が、背筋に走る。
 駄目だ。顔に出してはいけない。皆が見ている。それだけは駄目だ。
(……いる)
 広場のやや右手の、人垣の半ば。そこから、見ている。
 ニコニコと笑っている。嬉しそうに。楽しそうに。面白がるように、こちらを見ている。
(カラスの、モリット!)
 奇妙とは思っていたのだ。だって、わざわざ教会法を示唆しに来たあの夜以来、モリットは何もこちらに仕掛けてこなかったのだから。
(だから。なぜ?)
 勿論、今日来る事も予想していた。確実に何かしらの妨害を行うだろうと。
 来ている。なのに、何もしない。だから何も起こらず、ここまで自分の計画は全て順調に進んできた。奴はこのままこちらの計画を成就させる気なのか?
 まさか?
(だから、駄目だ!)
 高揚の空気を冷ますな。自分はこのまま続けろ。堂々の態を続けろ。とにかく場を完結させろ。
 眩い陽射しの中、熱狂の歓声の中、アーサフは意識して大きく笑顔を作る。ディエジに向かい合う。
「私の忠実な臣下であるショーティアのディエジ卿。
 私が不在の間は、貴方が王妃と協力してリートム為政に尽力したと聞いている。その様な貴方には、これからも今まで同様にリートムの為に、その住民の為に忠勤をして欲しい」
「リートムの為に。――そして貴方の為に。アーサフ王陛下」
 静かに、ディエジはアーサフを見据えた。
「己の命に賭けて、貴方への忠誠を誓う。リートム王アーサフ国王陛下、万歳」
 そのまま流れるような動作で片膝を折った。主君・アーサフ王の右手の甲に、心底よりの忠誠の接吻を捧げたのだ。遠い日よりの長い、深い想いと共に。
“お前が代わりにリートム王になってくれっ”
 目の前にいる旧友は、今、自らの足で王に成った。だからもう、自分の出る幕は無い。不要になったのだ。だから、長かった自分の逡巡も今、ようやく自分を離れたのだ。自分は解放されたのだ。そうディエジは受け止めた。長い、深い想いと共に。
 だが。
 この情景を、舞台の四歩後方で見ていた。
 見ながらイドルは、かすれるような声で呟いた。
「今になって、リートムを引き継ぐの? 今さら?」
 アーサフが振り向く。
「イドル?」
 群衆の歓声がうるさい。妻が何かを言ったのか?
 一瞬だけ不思議そうな顔を示したが、アーサフはすぐに場を進めてゆく。広場に向かい堂々の笑顔を作る。その上であらためてイドルを振り向き、大きく声を発した。
「イドル王妃。貴方もまた、臨時の宗主という大役を良く果たしてくれた。あらためて、心から感謝をする。
 これからも、神の許に誓った私の妻として私を支えて欲しい。正統なるリートムの王妃として、これからもずっと私を横から支えて欲しい。私が新しいリートムを作るために」
「……」
 イドルは無言で、答えない。
「貴方を信じている。心から。イドル王妃」
 夫が自分に笑んでいる。それを見続けたまま、
(自分はまた王妃に戻るの?)
心中に強く発する。
(夫を支えるという妻に? 新しい夫と共に宗主を続けるはずだったのに?)
 ずっと。子供の時からずっと、己の意思を持つということを知らなくて。
 だから今回、余りにも多くの出来事の中にさらされながら、それでも意志を持つことが解らなくて。それでも、だから、怖くて、怯えて、悩んで、思慮して、覚悟して……。
 そうやって散々に苦しんでやっとここまで進めたのに。
 それなのに、夫は長い不在の果てに突然帰還して、そしていきなり群衆の前で王位復権を宣するの? 当然のように己の王国を取り戻すの? だから私はまた、夫を支えるというだけの存在に戻らなければならないの? 
(また、従うの? 父に従い、兄に従い、今もまた、夫に従うの?)
 また自分のしてきた事は無視されるの? ここまでの必死の想いは、怖さを乗り越える為の努力は、もう無意味になるの?
(そんなの、私は、嫌!)
「そんなの、嫌」
「――。え?」
「貴方を支える妻なんて。私は、嫌」
「イドル?」
 妻が何を言っているのか解らず、アーサフは言葉に詰まる。その表情が困惑を示す。青空と陽射しの下、その表情が衆目にさらされてしまう。
 この時。
「王妃はもう結婚している」
 歓声に紛れるように、小さな声が響いた。
 広場の一角で、何人かがそちらを振り向いた。
「王妃は二度の結婚をしている。同時に二人の夫を持っている」
 はっと壇上の三者も気づいた。素早くそちらを見た。
 アーサフの首筋に、寒気が走った。群衆の中、モリットが喜々の顔が、自分を指さしながら見ていた。
「王妃は、二人の男と同時に結婚をした。二人の夫を持っている。
 俺は知っている。重婚だ、姦通という大罪だ」
 ――モリットが、動き出した。


【 最終章に続く 】
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