文字数 1,827文字

 四十を過ぎて、ウィスキーを美味いと思うようになった。独り身の自由さゆえ、いつでも好きなときに飲みにいける。でも周りはそうもいかないらしい。もともと人付き合いが上手な質ではないうえに、誘えるような人もめっきり減ってしまって、もっぱらひとりで飲む。
 秋も深まってきたある晩、仕事の飲み会の帰りで、なんだかもやもやしていたから、最寄り駅から家に向かわず、近所にできたばかりのバーに立ち寄った。橙色のやわらかい灯りが、カウンターだけのこじんまりした店内をほのかに照らしていた。
 先客は男女の中年カップルが一組だけだった。マスターに促され、女性の一つ隣の席に座った。
 棚に並ぶウィスキーを眺めていると、ちょうど面白いのが入ったんです、とマスターが一本のボトルを取り出した。
「パワーズです。アイリッシュの」
 二十年以上も前になるが、アイルランドに留学していたから、アイリッシュという響きが懐かしかった。
「じゃあ、それをロックで」
 パワーズは軽く、口当たりがよかった。みぞおちのあたりに鉛みたいに抱えていたもやもやが溶けていくような気がした。
 ふと、何かが私の肩に当たった。一つ隣の席に座っているカップルの女の背中だった。
 女は揺れていた。
 相当酔っているようで、隣の男の方に体を向けて、甘えるように彼の腕をつかみながら、前後に大きく揺れていた。
 どうやら、男と女はその日出会って意気投合し、バーに流れて来たようだった。ちらりと横目で男の顔をのぞき見ると、こちらも相当酔いが回っているようで、真っ赤な顔で鼻の下を伸ばしていた。
「この人ぉ、こんな私に優しいのぉ。私、もう四十三歳なのに、優しくしてくれるのぉ」  
 女は子どもみたいな声でマスターに訴えかけた。マスターはやさしく微笑んだ。女は揺れ続けながら、その反動でまた私の肩にぶつかった。でも、彼女はそんなことにはおかまいなしだった。あるいは、ぶつかっていることすら、気づいていないのかもしれなかった。
 マスターが、声を出さずに、すみません、と拝み手をした。私も、だいじょうぶ、と声を出さずに答えた。
 いい歳をした女がみっともないと言えばそれまでだ。でも、私には彼女の気持ちが痛いほどわかったから、笑う気にはなれなかった。 
 私が二杯目をお代わりして、ちびちびやっている間も、女は揺れていた。
 どうせ行き先は決まっているのだから、とっとと行ってしまえばいいだろうに、二人はもったいぶったようにその場に居続けた。
 私が三杯目を注文した頃、ようやく二人はバーから出ていった。
「あの女性、あんなに酔っ払うなんて珍しいんですけどね」とマスターがつぶやいた。
 パワーズのせいかもしれない。
 アイルランドに留学していた頃、バックパック旅行でデンマークのコペンハーゲンに立ち寄ったときのことを思い出した。ユースホステルでひとりの女性と出会った。確か、洗面所で一緒になって、同じ日本人ということで会話が始まったのではなかったか。ただ、長いこと言葉を交わしたはずなのに、内容も、彼女の人となりもほとんど覚えていない。記憶にあるのは、彼女が四十歳で独身であることと、そんな彼女をカワイソーと思ったことだけだ。
 そのときの心情が蘇って、ひどく恥ずかしくなった。昔の自分をグーで殴ってやりたい衝動に駆られた。
 若くて未熟で社会経験もない私には、四十女の人生を想像するチカラがなかった。狭量な考えしか持たなかった私の中に残ったのは、その女の人のおぼろげな輪郭のみであった。
 四十を超えた今、私は、ひとりで旅をし、ひとりで食べ、酒を飲む。
 二十代の頃の自分には想像もできなかった。
 人生は選択の積み重ねだと言うが、その結果、私はひとり、夜中にウィスキーのロックをすすっている。あの頃の自分がどう思うか知らないが、悪くはない。
 だけど、揺れているのは、あの女の人だけじゃない。私だって時々、揺れる。
 三杯目を飲み干してバーを出た。寒さに身をすくめる心づもりをしていたのに、もわりとした暖かい空気に包まれて拍子抜けした。まあでも、こういうのだって悪くない。
 今さらだが、あのとき私の貼ったレッテルは的外れで、コペンハーゲンで出会った見知らぬ女の人は、心からひとり旅を楽しんでいたに違いないと確信する。彼女だって、揺れていたかもしれないけれど。
 月がちょうどいい高さだった。 私は家路につきながら、右手で両頬をなぞるようにして、自分の輪郭を確かめた。
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