第1話

文字数 4,046文字

 我が子は天才だ。親バカでなくとも、たいていの親は自分の子どもについて、一度くらいはそう思うことがあるはずだ。
 息子の修哉は、しゃべり始めるのがすごく早かった。1歳になる前に、僕らと簡単な会話ができるくらいになった。
 胎内にいた頃のことを覚えている赤ちゃんがいるという話を聞いたことがあったので、修哉にも訊いてみた。あったかい・あかい・どくんどくん。修哉は胎内の様子をそう表現した。覚えているんだ。僕は驚いた。
 うちは共働きで、妻の由香はドラッグストアの店員、僕は印刷会社の経理をやっている。由香は仕事柄、土日はたいてい仕事だ。僕はカレンダー通りの勤務。平日は修哉を保育園に預けているが、土日は僕が修哉の面倒を看ることが多かった。これといって趣味もない僕には、妻のいない週末に、1歳5ヶ月になったばかりの息子と遊んだり一緒に過ごすことがこの上ない幸せだった。

 ある土曜日の午後も、いつもと変わらず二人で過ごしていた。修哉は一人遊びも得意だ。一通り僕と部屋でボール遊びをした後、積み木で遊んだり、おもちゃの料理道具で料理のまねごとをしたりしていた。
 キャッキャッキャ!
 修哉は楽しそうに笑いながら、手にしたおもちゃの泡だて器を振っていたが、突然ピタリと動きを止めた。そして向こうの、キッチンのほうを見ながら、チョイチョイ!と声を上げた。
 僕はあれ?と思った。「チョイ」は、修哉語では「こっちにおいで」の意味だ。チョイ!チョイ!修哉は微笑みながら、キッチンのほうに向かって泡だて器で手招きしている。
「誰かいるの?」
 僕は戯れに訊いてみた。修哉はちょっと真顔になり、ンーチャ、ンーチャと言っている。子育て広場に連れて行った時に、年上の女の子のことをそう呼んでいた。
「おねえちゃん?そこにお友達がいるの?」
 修哉は頷いた。そして立ち上がり、キッチンに向かってよちよちと歩き始めた。よく言われるように、乳幼児には大人には見えないものが見えているのだろうか。まてよ。僕は思った。修哉が見ている何者かが、妖精なのか幽霊なのか解らないけど、そいつがどんな感じなのか探ってみたら面白いのでは?修哉は何もないほうに向かって、何か話しかけたり、手を伸ばして触るようなしぐさをしたりしている。修哉の目だけに見えているものが何なのか、知りたくなった。よし、やってみるか。
「シュウちゃん、そこにいるおねえちゃんってどんな感じの子?」
 僕はメモ帳とペンを持ってきて、修哉に訊いた。修哉は困ったようにもじもじしていたが、丸いほっぺを膨らましてにっこり笑った。
「ンーチャ。かみ、くるくる。あかいぷく」
 なるほど、巻き毛で赤い服か。背がどれくらいなのか訊いたら、手で、修哉よりもやや高いところを示した。僕は夢中で、修哉の話すことをメモ帳に書き留めた。
 妻が勤務に出ている週末の夕食を準備するのは僕の役目だ。でも僕は修哉が見ているものを書き留めるのに夢中になり、妻が帰ってくるまで夕食の準備の事なんてすっかり忘れていた。
午後7時半にくたくたになって帰ってきた由香は、夕食の準備ができていないことに腹を立て、文句を言った。僕は修哉の見ているものを探っていることを話した。すごくないか?研究して発表したらちょっとした騒ぎになるかもな。僕は興奮気味に語ったが、妻は興味を持たないようだった。
「パパってさ、ほんとくだらないことに夢中になんのね」
 由香は鼻で笑うと、出前取るから、と不機嫌に言った。

 それから毎日、僕は修哉に「見えないお友達」について聞き取りをした。訊いていくうちに、修哉が見ているのは少なくとも3人いることが分かった。皆、修哉よりも2~3歳年上らしい子ども達らしかった。巻き毛に赤い服の女の子、坊主刈りらしい男の子、もう1人は特徴はよくわからないが多分男の子。修哉はニコニコしながら、その子たちを僕に紹介した。巻き毛の子は「あっちゃん」、坊主の子は「うー」、もう1人は「みゅん」。修哉はそう呼んだ。修哉に彼らの似顔絵を描かせてみたが、むろんグチャグチャな絵で何だか分からない。ただ、あっちゃんの巻き毛と赤い服、うーの坊主頭は何となくそれらしかった。
 とても息子の妄想だとは思えなかった。なぜなら、彼らには姿だけでなく性格にも個性があり、行動にある種の一貫性があったからだ。しっかり者らしい「あっちゃん」、やんちゃな「うー」、相変わらずどんな子なのかよくわからないがおとなしいことだけは確かな「みゅん」。妄想やでまかせなら、毎回違う人物が登場したり、人物が混淆したりするはずだ。僕は興奮した。すごいことだぞ!僕は修哉の証言を元に、彼らの肖像のモンタージュを作成してみたが…修哉以上に絵心のない僕には、上手く描けなかった。
 修哉とお友達は、かくれんぼで遊ぶことが多かった。あとは何か、童謡のようなものを一緒に歌ったりしていた。歌詞を書き取りたかったが、これも下手な修哉の歌では全く解らなかった。ただ、日本語であることは確かだった。修哉は木のおにぎりをあっちゃんに渡そうとしたり、うーが意地悪したと訴えたりした。概ね、楽しそうに過ごしていた。僕は分かったことはとにかく全て書き留めた。
 状況が変わったのは、一週間後の週末のことだった。修哉はいつも通り何もないほうに向かって笑ったり片言の言葉を掛けたりしていたが、突然黙りこみ、おびえた表情になった。
「シュウちゃん、どうしたの?」
 僕は優しく訊いた。手にはもちろんメモとペンを持っている。
「こわい」
 息子は明らかに怯えている。僕にしがみ付き、僕の後ろに隠れ、覗き込むようにキッチンのほうを見つめている。いつものお友達じゃない子がいるの?と訊くと、静かに頷いた。半べそになっている。
「おじちゃん。あとイヌ…」
 新しい登場人物だぞ。大人の男性と犬?本人が怖がっているものが出てくるのだろうか?しかし修哉は、おじさんはともかく犬を怖がったことは記憶にある限り一度もない。近所の家の割と大きな犬にも、怖がらずに自ら近づいて行ってしまい、むしろ僕の方が慌ててしまったくらいだ。
 僕は修哉の様子を注視した。修哉は僕に強くしがみ付き、しまいには泣き出してしまった。僕は慌てて、おやつの時間だと言って宥めた。すぐにその幻影は見えなくなったらしく(去ったと言うべきか?)、数分後には何事もなかったようにおやつを食べ始めた。
 夜、そのことを妻に話したが、興味がないどころか呆れかえった表情をした。僕は書いたメモを見せようとしたが、妻は取り合わなかった。スマホを見ながら、ポツリと言った。
「あんまり変なことに首を突っ込まない方がいいんじゃない?」

 数日後の土曜日。今日はドラッグストアの本社から役員が巡回に来る日だと、由香はピリピリしながら出勤していった。僕はもちろん、修哉と遊び、修哉が見ている者の記録を取るつもりだ。
 お昼を食べた後、修哉はソファーで1時間くらい昼寝をした。今日は例の「お友達」も来ていないようだ。そう言えば、「おじちゃん」と「イヌ」の話も、あの時以来出て来ない。
 いつものように修哉は、積み木を積んでは崩したり、お気に入りの木の包丁で木の魚を切ったりしていたが、ピタリと手を止めた。
 来るぞ。僕は身構え、メモを手に取った。
 修哉はいつも通り、ニコニコ笑いながら狭い範囲を走り回り、誰もいない空間に向かって声を掛けたりしていた。僕は何か変わったことがないか、ペンを握り締めて凝視した。
「みるな!みるな!」
「なあに?シュウちゃん、何を見ちゃだめなの?」
 僕は優しく訊ねた。修哉は僕の言葉が耳に入らないようで、キャッキャと声を上げながら、グルグル回っている。
「やめろ!さぎゅるな!これいじょ!さもないと!」
(!)
 誰かが言っている言葉を復唱しているようだった。言葉はつたないが、本人が知らないような単語。僕は背筋が寒くなってくるのを感じた。その時、ピタリと止まってこっちを見た修哉と目が合った。
 うわ!
 一瞬、その目には明らかに修哉のものとは違う光が宿っていた。
 僕はすぐに、見えない者について書き留めたメモ帳を、ペンを、全てゴミ箱に投げ捨てた。
修哉は、再び部屋の中を走り回り始めた。楽しそうだ。その目は、いつもの修哉の目に戻っていた。
『見るな』『やめろ』『探るな』『これ以上』『さもないと』
 警告だ。例のおじちゃんだろうか?誰が言っていたのか訊こうという気は、もう起きなかった。入ってはいけないところに、僕は片足を突っ込んでしまったのだ。それは確かだ。
 霊界なのか他次元なのかパラレルワールドなのか分からないが、ともかくそこを探ろうとして何者かから警告を受けたのだ。

 修哉はそれからもしばらくは、見えないお友達と遊んだりすることがあったが、次第に頻度が減り、2歳の誕生日を迎える頃にはほぼ見えなくなったようだ。
 修哉はちょっと舌足らずなところがあるが、ごく普通に成長している。相変わらず一人遊びもパパやママとの遊びも大好きで、保育園の他の子たちとも仲良くしているようだ。元気に育ってくれれば、何も言うことはない。

 ふと、あのことはなんだったのだろうと思うことがある。だが、それを探ってはいけないし、思い返すことすら罪深いことのように感じて、僕は頭からそのことを追放しようとした。

 数年が過ぎ、早いもので来年度には修哉は小学校に上がる。大きな病気もなく、いつも朗らかで、我が子ながら本当にいい子だ。
 そんなある秋の日、僕が修哉を保育園へ迎えに行った時、修哉はポツリと言った。
「ユウくんがね、見えないお友達がおうちにいるって言うんだ。そんなのあり得ないよ、ね、パパ」
 僕はドキリとして修哉の目を見た。一瞬、そこに別の光が宿り、すぐに消えた。
「そうだね」
 僕は引きつった笑いを浮かべながら、修哉の頭を撫でた。
                                       了
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