第1話

文字数 1,113文字


 二人で遠くの入道雲を見ながら、おそろいのサイダーを飲んでいた。昼休みの、忍びこんだプール。夏の終わりが近づいていた。

「ねえ、どこかに行っちゃおうか」

 彼女は脱いだ靴下をぶらぶら揺らして、白い足先を日に焼かせながら言う。

「どこかにって、どこに?」

 私の問いに、彼女は答えなかった。ただセミの声が響く。気休めの生ぬるい風が、ときたま水面を揺らしていた。
 サイダーはもうぬるく、甘ったるい液が舌にべとべと張りつく。隣の彼女に視線を向ける。髪を耳にかける彼女の首筋を、一粒の汗がつたった。

「せっかくなら、入っちゃおうよ」

 そんな私を気にもせず、彼女は立ち上がって私の手を引く。炎天下に転び出て、プールの水面を覗きこむ。澄んだ青が一面に広がっている。映った彼女と目が合うと、彼女は笑った。その透明な瞳に何もかも見透かされそうで、私は目をそらした。
 顔をあげると、彼女の髪先が視界を掠めて消えた。どぽん、と大きな音がして、飛沫がつま先を濡らす。冷たい水に、乾いた身体が汗を吹く。
 ずっと静かだった水面が乱れ、きらきらと光が反射していた。泡の中から彼女が顔を出し、ずぶ濡れになった髪を振り上げて手を差し出す。

「ほら、早く」

 催促する彼女の手から雫が滴る。制服はびしょびしょに濡れ、下着が透けて見えている。私はつばを飲みこんだ。

「でも……」
「だいじょうぶ、おいで」

 きょろきょろと周りを見ても、人の気配はない。私は眼鏡を外し、ハンカチの上に置いた。
 しゃがんで、手のひらで水を遊ぶ。火照った指が心地よい。それから意を決して、彼女の手を取る。ひんやりとした細い指が、瞬く間に私の指を絡めとる。そのすばしっこさにどぎまぎしているうち、ふいに強く引かれ、私は水の中へと落ちていく。

 境界を越える大きな音に、彼女の力強さに驚く。ぶくぶくと息を吐きながら、目を開けて彼女を見る。ぼやけていても、笑っているのがわかった。彼女は上を指差す。私はつられて見上げる。
 青空があった。太陽が投げかける光が、水面にゆらゆら揺れる模様を映し出していた。一羽の鳥が遥か彼方を飛んでいた。
 浮かぶ木の葉が影を作る。衣服が水を吸って重くなる。私はだんだん苦しくなって、涙が出た。涙は流れず、すぐに溶けて消えた。

 上へ行こうと彼女に伝える。けれど彼女は手を離さずに、私を連れて、底へ底へと沈んで行く。振りほどこうともがいてみても、彼女の意思は硬く、爪が甲に食いこみ、血を滲ませる。逃げようとする私を彼女は笑い、ぐいと引き寄せる。

 私は地上を歩くことも忘れ、熱にうなされる夜も忘れ、明日の天気も思い出せずに、ただ泳ぐ。

 彼女の中を、帳の向こうを、言葉の間を。

 私は魚になる。

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