森は佇む
文字数 10,783文字
すねこすり
ある男が夜道を歩いていると、犬のようなものがまつわりつく
うるさい犬めと脚もとを見るが、何もない
気のせいかと思ってまた走り出したところ、やはり何ものかが脚にからみつく
男は恐ろしさのあまり、夜の道を無我夢中で逃げ出したという
奄美の方では「耳無豚 」とか、「片耳豚 」というこれと似た妖怪が出てくる
これは脚に絡まるのではなくて、人の股をくぐる
股をくぐられたその人は、魂を抜かれるか、性器を駄目にされて腑抜けにされる
※『日本妖怪大全』参照
◇◇◇◇◇
序章
車のヘッドライトが、国道のセンターラインを無機質に照らしていた。男が運転するサニートラックのカーラジオからは、数年前巷で流行した明るいポップスが流れていた。
「人生は何があるか分からない。涙の先にも光はある。だから諦めずに前を向こう」
男の顔から皮肉な笑みがこぼれ落ちた。確かこれを歌った若い女性歌手は、自らの手でその命を絶ったはずだ。当時、彼女の突然の死が世間をひどく賑わせたのを覚えている。その死に関するあらゆる憶測がファンの間で飛び交ったが、その理由は未だ謎のままだった。男の働く会社でも、数か月間はこの話題で持ちきりだった。なぜ彼女が死を選らばなければならなかったのか。なぜ誰にも相談することができなかったのか。その答えを出すことは誰にも出来ないようだった。だが男には分かっていた。彼女は絶望したのだ。自分で作詞した、その詞の説得力のなさに。きっと気づいてしまったのだろう。所詮、その勇ましい言葉は誤魔化しでしかないと。自分の中の虚無を埋めるための。
“人生は何があるか分からない”
男は車内のデジタル時計をちらりと見た。22時16分。恐ろしく機械的に、そして緑色に光るその数字は、男に何の意味ももたらさなかった。男の人生が、男に何の意味ももたらさなかったのと同じように。
男の顔にちらりと怒りの表情が浮かんだ。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。今まで自分は、どんな状況下にあっても上手くやってきたはずだった。どんなに理不尽だと思われるような立場に立たされたとしても――口煩い上司から罵声を浴びせられ、不感症の妻からは甲斐性なしだと罵られるようなことがあっても――なんとか彼らと折り合いをつけ、物事に対処してきたはずだった。
だが、最近起きた原油価格の高騰や円安の進行が全てを変えてしまった。建築資材の価格が急騰し、国内で多くの建築会社が苦境に立たされた。男が働いていた建築会社も資金繰りが悪化し、とうとう一か月前、倒産にまで追い込まれてしまった。職を失った男は、その挙句、妻にまで愛想をつかされてしまった。
まさかこんなことになるなんて。
“人生は何があるか分からない”
男は深呼吸を一つした。そして隣の助手席に一瞥をくれた。薄汚れたシートの上には、一匹の中型犬がいた。白い毛並みと先の尖った鼻、そしてピンと立った耳を持つ、スピッツが。その下には段ボールが一つあり、その中から、子犬特有の、あの甲高い小さな鳴き声が聞こえてきた。
「やめろ」男は悲鳴にも似た声を、その真一文字に結んだ口から吐き出した。
これは俺の所為じゃない。断じて、違う。そんな目で俺を見るな。
犬は咎めるような、それでいて諦めきったような目つきで男を見ていた。この犬は数年前、会社の同僚から譲り受けたもので、男が気まぐれで育ててきたものだった。自分の心の隙間を埋めるために。
男はハンドルを握りながら、自問自答を続けた。
しょうがないじゃないか。こうなってしまった以上、他に選択肢はない。だってそうだろう? 俺にだって生活があるんだ。明日の事さえ分からなくなってしまった今、自分の事だけでも精一杯なのに、他の奴の面倒なんて見てられない。それにこの馬鹿犬、どこかで子供なんてこさえてきやがって。
動物愛護団体にでも頼めっていう奴がいるかもしれないが、そんなことは御免だ。あいつらは人の揚げ足取った挙句、きっと鬼の首を取ったように俺を責めるに違いない。
カイショウモナイノニ、ナゼカッタノ?
男はもう一度助手席に目をやった。白い毛に覆われた、漆黒に輝く一対の瞳が、暗がりの中で男をじっと見据えていた。男の心の内を見透かすように。男を咎めるような、それでいて、何もかもを諦め切ったような表情で。
カイショウモナイノニ、ナゼカッタノ?
オイテカナイデ。
「ヤメロ」
男はブレーキを踏み、車を止めると、ハンドルに頭を押し付けた。そして自分に言い聞かせた。俺は間違っていない。そうさ、間違っているのはこの世界なんだ。この世界はどこか狂っている。その所為なんだ。会社が社会から見捨てられたのも、あいつが俺を捨てていったのも、俺がお前らを捨てるようなことになったのも。
“人生は何があるか分からない”
サニートラックのカーラジオから、狂ったように歌謡曲が流れていた。「セ・ラ・ヴィ! セ・ラ・ヴィ!」
男は顔を上げると、再びアクセルを踏んだ。そう、これが人生 だ。だからお前らも諦めろ。
男はカーラジオの音量を上げると、目的地の森へと車を走らせた。
◇◇◇◇◇
第一章
一台のセダンが人気のない夜道を駆け抜けていく。モノクロで味気ない世界が、闇に溶けるように消えていく。
青年は窓の外をぼんやりと眺めていた。過去、現在、未来が目まぐるしく交差する車内で、後部座席に座りながら、彼は“一瞬”とは何なのかに想いを馳せていた。呼吸を一つする。その都度、時間は、世界は、流されていく。古いものが消え、新しいものが現れる。捨てられていくもの、それは窓の中、切り取られた景色も例外ではない。カチリという腕時計の秒針が回る音に、パチリという景色が切り取られる音が続いて、サッとそれが後ろへ流されていく。
カチリ、パチリ、サッ。カチリ、パチリ、サッ。
青年はその瞬間、とてつもない虚無感に襲われた。それに加え、恐ろしいまでの孤独感にも。深い眠りから目を覚まし、ムクムクと湧き上がったそれらは、闇の中、手を伸ばして彼を捕まえようとした。ある一つの言葉を囁きながら……。
「雄介、雄介!」
松乃屋雄介は、自分を呼ぶその声にハッと我に返った。隣の席で、友人の田嶋恭吾が彼を訝し気に見つめている。
「どうしたんだよ。ぼーっとして」
雄介は狭い車内の中で大きな伸びをした。彼を襲った孤独感はもうそこにはなかった。その代わり、曖昧模糊とした靄のようなものが頭の中にこびりついていた。それから、夢から覚めた時に感じる、あの不思議な虚脱感も――いや、落下感だろうか?――彼の体に粘りつくように纏わりついていた。
雄介は自分の存在を確かめるように、ゆっくり拳を握り締めると、頭を軽く振ってから、恭吾に笑いかけた。
「ごめん、少し寝てた」
「退屈か? 待ってろよ、もう少しで着くから」
運転席でハンドルを握っている田中浩一が、バックミラー越しに後ろの二人を見た。
この三人は、同じ道内の私立大学に通う学生だった。高校の同級生だった雄介と恭吾が同じ大学を目指し、そこで浩一と知り合うことになったのだ。
専攻学科が同じ英米文学科だったこともあり、彼らはすぐに意気投合した。そして何をするにも一緒に行動した。特に浩一はリーダシップがあり、大学生活においては旗振り役となって、他の二人をいつも引っ張っていってくれる、頼りがいのある男だった。
雄介の大学生活はそれなりに充実していた。講義は刺激のあるものだったし、異なる思想を持つ生徒達との会話は有意義なものだった。だがその一方で、彼はいつも得体の知れない焦燥感とも闘っていた。楽しい時間はすぐ終わる。来年は就職のことも考えなければならない。そしてその後は? その後は、いつか浩一や恭吾とも別れる日がやって来るだろう。
カチリ、パチリ、サッ。カチリ、パチリ、サッ。
押し寄せる時間の波に飲み込まれ、いつか自分は取り残されてしまうのではないか。何気ない日常の狭間でも、友人とのたわいない会話の最中でさえ、平静を装ってはいたが、雄介はいつも怯え、いつも不安だった。一歩前へ進んでは、名残惜しそうに後ろばかりを振り返っていた。そんな不毛なことを繰り返していたある夏の日。浩一が燦燦と輝く笑顔を見せながら、雄介と恭吾のもとへやって来て、二人の肩に手を乗せると、親指を立ててこう言った。
「肝試しに行こうぜ」
◇◇◇◇◇
第二章
市街地から車で四十分。人々の喧騒から遠く離れた場所に、その森はあった。車のヘッドライトが、鬱蒼と茂る木々を不気味に照らしている。一直線に伸びるその光の筋は、森一帯に広がる闇の色を弱めるどころか、逆に強めていた。自然界が生み出す闇の中にあっては、人間が編み出した文明の利器など何の役にも立たないのであろう。
雄介は思わず感嘆の声を上げた。「すごいな。まだこんな場所が存在していたなんて」
この森は雄介が想像していたものよりも、はるかに桁違いの規模を持っていた。まず彼が目を見張ったものはその広さだった。東京ドーム五個分は収まりそうな位の面積がある。そこに、原初の時代から手つかずのままだったかとも思われるような青々とした木々が、人を寄せ付けないように密生して立っていた。もちろん舗装された遊歩道なんてものはなく、獣道のようなものも、浩一が車を停めた場所からは見えない。
浩一は車のエンジンを切ると、にやりと笑った。「この広さで、これほど手つかずの自然が残っている場所は、もうあまり見ないかもな」
三人は車から降りると、トランクに回り、中から懐中電灯を取り出した。
外に出てすぐ、雄介は異変に気がついた。夏真っ盛りだというのに、ここにはいやに冷たい空気が流れている。それだけではない。森はまるで、静寂を一つの空間に詰め込んで密閉したかのような、異様な静けさに包まれていた。そよとそよぐような風もなければ、動物の鳴き声一つしない。
雄介はここにだけ時間が流れていないのではないかという妙な錯覚にとらわれた。
「それで? この森にはどんないわくがあるんだ?」雄介はぶるっと身震いして、浩一に訊いた。
浩一が懐中電灯のスイッチを押しながら答えた。「一種の怪談話さ。先輩から聞いた話だと、なんでも昔、生活苦に陥った男が、飼っていた犬をここに捨てたらしいんだよ。産まれたばかりの子犬と一緒に。だけど食べ物を見つける事ができなかったその母犬と子犬は、やがて衰弱死してしまったというんだ」
雄介は眉を顰めた。「ひどい話だな」
浩一は頷いた。「ああ。だけどそれ以来、死んだはずのその母犬と子犬が夜毎出てくるらしいんだ。腹を空かせながら、食い物を求めて。そうやって森に訪れる人間を片っ端から引きずり込んでは、自分達の食い扶持にするんだってさ」
雄介は浩一の“引きずり込む”という言葉に嫌な予感を覚えた。車の後部座席で揺られながら、無意識に感じたあの孤独感を思い出す。何ものかに掴まれる恐怖。そして朧げに浮かんだ謎の言葉。あれは一体何だったのか。
「どうかしたか?」浩一が雄介の顔を覗き込むようにして訊いた。
「いや、それじゃ怪談というより昔話みたいだなと思って。年寄りが孫に聴かせるような」雄介は自分が感じた嫌な予感を隠すように笑って誤魔化した。
「確かにそうかもしれない」浩一は雄介の言葉を聞くと、彼の不安には気づくことなく、声を上げて笑った。
「おかしいな」恭吾が首を傾げた。
「何が?」
「実は俺、ネットで調べてみたんだよ。ここに来る前に」
「それで?」浩一が興味津々といった様子で恭吾に訊いた。
「ネットでは、犬の話なんか一つもなかったけどな。俺が見たのは、彼氏に捨てられた女性が自殺する話だったけど」
重苦しい沈黙が三人の間に流れた。
不意に、夜の闇が確かな形をとり始めた。ざらざらとした質感、ずしりとした重量。それが三人の上にのしかかろうとしていた。三人は急に心細くなってきた。船から投げ出され、孤島に置き去りにされたかのような気分になった。肝試しにおいてはつきものの、未知のものに触れる事ができるかもしれないという、あの期待や高揚感はとうに過ぎ去ってしまっていた。
沈黙を破ったのは、浩一だった。「そっちの方が、怪談味はある」
恭吾が不安を払拭するかのように、声を張り上げた。「まっ! どっちでもいいさ。それよりこれからどうする?」
浩一が懐中電灯の明かりを這わせながら、森の端を指差した。「まずは外周を回ってみようぜ。この時間、奥の方にでも入って迷子になったら大変だし」
「よし! それじゃあ、さっそく出発だ」恭吾が先頭に立って、森の中へと進んで行った。
「随分、威勢がいいじゃないか。珍しい」雄介は彼の嬉しそうに前を行く姿を見て、驚いた。
恭吾は普段、先頭を切って前を行くようなタイプではなかった。彼はどちらかというと引っ込み思案な方で、自分の考えをあまり表には出さず、質問された時にだけ答えるといった、口数の少ない男だった。高校時代、彼は学友からよく「あいつは大人しすぎる」と言われていた。
「俺、こういうの大好きなんだ。非現実的なものが。現実は詰まらないことの連続だし。だからワクワクするんだ」
「あいつ、ホラー小説ばかり読み漁ってるもんな」浩一が面白がるように雄介に言った。
雄介は恭吾の意外な一面を見て、呆気にとられてしまった。彼との付き合いは長い。高校時代からだから、もうかれこれ五年くらいにはなる。だが彼がこういう事に興味を持っていたというのは初めて知った。確かに、彼は怪奇小説が大好きだった。A・ブラックウッド、М・R・ジェイムズ、H・P・ラヴクラフトなどの古典怪奇ものが、彼のお気に入りだったのは知っている。しかしそれは、物語に登場する怪異そのものよりも、それら作家が用いる格調高い作風やウイットに富んだ文章表現に目を奪われているためだとばかり思っていた。
自分は彼のことを何も分かってはいないのかもしれない。
そして浩一は……、浩一は知っていたのだろうか。彼のこの一面を。
「雄介! 早く来いよ!」
気がつくと、二人はもう彼から大分離れた場所にいた。雄介は気を取り直すと、持っていた懐中電灯を固く握り締め、慌てて二人の後を追いかけた。
◇◇◇◇◇
第三章
三人は、恭吾、浩一、雄介の順に並んで、足元に気を配りながら、慎重に森の際を進み続けた。林立する木々の中には根が露出しているものがあり、また場所によっては苔むして滑りやすくなっている箇所もあったので、転倒しないよう十分に注意する必要があった。
彼らは時々立ち止まると、それぞれ思い思いの場所を懐中電灯で照らしあった。森に入ってからというもの、彼らの内にはまたあのゾクゾクするような高揚感が甦ってきていた。時には自分達の息づかいに驚き、時には人間の顔のように見える木々の幹に悲鳴を上げるなどして、彼らは最初に感じた不安も忘れ、この肝試しと銘打ったささやかな時間を目一杯楽しんでいた。
しばらくそうやってはしゃいでいると、浩一が歩調を落とし、雄介の隣に来た。「なあ、雄介」
「何?」
「実は俺、考えていたことがあるんだけど」
「どうした? 急に改まって」
浩一はどうやって切り出そうか迷っているみたいだったが、すぐに意を決したように喋り始めた。「お前、大学卒業した後はどうするんだ?」
雄介はその質問の答えに窮した。彼は自分が卒業した後どうするか、まだ何も決めてはいなかった。大学院へ進むか、就職するか。ただなんとなく就職することになるだろうとは予想していた。自分には大学院に進学するだけの経済的余裕がない。その上、成績もありきたりで、奨学金を手に入れることなど夢のまた夢だった。このため彼は、自分にはもう就職するといった選択肢しか残されていないような気がしていた。
だが、彼にとってそれはどこか他人事のようであり、現実感もまるで湧いてこなかった。前を向いて生きるという実感。他の人が出来て、自分には出来ない事。
雄介は浩一の問いに曖昧に答えた。「まあ、多分就職するんじゃないかな。他の奴らと一緒さ。流れに身を任せるんだ」
浩一は彼のその答えの中身を――暗にそれが意味していることを――吟味するように、じっと前を向いたまま黙り込んでしまった。
永遠に続くのではないかと思われるような沈黙が二人を支配する。雄介は闇がその濃さをまた増したのではないかという不安な気持ちになった。
ややあって、浩一はまた喋り始めた。「俺の身内に出版社に勤めている人がいるんだけど。その人、今人手を探しているんだ。翻訳ができるような人間を。それでさ、俺、その人から『うちで働いてみないか』って誘われてるんだよ。卒業まではアルバイトとして、卒業したら正式に社員として。」
「やるのか?」
「ああ」
雄介は頷いた。さすが、浩一だ。彼は常に前を向いている。行動に迷いがない。
浩一は雄介をじっと見た。「お前も、やってみないか?」
雄介は弾かれたように彼を見た。心臓が激しく脈打っているのが聞こえる。動揺も上手く隠しきれない。今、彼は確かに自分を誘わなかっただろうか。翻訳の仕事を。一緒にやろうと。
雄介は信じられないような気持で、彼に問い返した。「ごめん、今なんて言った?」
「一緒にやらないかって言ったんだ」浩一は噛み砕くようにしてもう一度言った。
「以前から考えていた事だったんだよ。お前達も誘ってみようかなって」彼は恭吾を顎でしゃくりながら話を続けた。
「俺、お前達とは気が合うし。もう少し長い時間、お前達と一緒にいてみてもいいかなって思ったんだ。卒業して別々になったら、もうこれまでみたいにそうそうお前達と会う時間も作れないだろうし。恭吾にはこれから話そうと思っているんだけどな」
当惑する雄介を見て、彼は弁明するように手を振った。「もちろん、答えは今でなくてもいいんだ。大学生活はまだ続くし。ただお前にその気があるんなら、アルバイトの件は早めに答えが欲しい。その人が、お前達の適正諸々を見てみたいんだって」
「もちろんやるよ」雄介は息を継ぐ暇も見せずに言った。
「本当か? 就職の方はどうする?」
「もしその人とお前さえよければ、その申し出を有難く受けさせてもらうよ」
浩一は笑った。「良かった。じゃあ、そう言っておくよ。恭吾には帰りにでも訊こう」
雄介はほっと胸を撫で下ろした。浩一が仕事のオファーをくれた時、彼が最初に感じたもの、それは喜びなどではなく安堵感だった。就職が決まって良かった、などという単純なものではない。有史以来、全ての人類が常に抱え続けているであろう潜在的な恐怖。日々、人々の内側を侵食し、防壁の弱い部分を狙っては、時折顔を出す恐怖。
“独りになりたくない”
雄介の胸にひしめいていたものは、その恐怖から逃れ得たという純粋な解放感だった。
――オイテカナイデ。
「うん?」恭吾が奇妙な声を上げ、立ち止まった。
「どうした?」
「いや、今何か見えたような気がしたんだ。白っぽい形をした何かが」恭吾はそう言うと、森の奥へどんどん進んで行った。
「お、おい」雄介と浩一は慌てて恭吾の後を追った。
◇◇◇◇◇
第四章
「おい、恭吾! あんまり奥へ行くな。帰れなくなるぞ」
浩一からそう言われても、恭吾は何かに取り憑かれたように、森の奥へと進み続けた。どんどん、どんどん闇が濃くなる。漆黒の壁が、屋根が、三人を押し潰そうとその範囲を狭めてくる。雄介は窮屈さを感じて、堪らず喘いだ。懐中電灯の明かりが、前方の二人の姿を捉えてはいたが、風に揺れながら力なく消えゆく蝋燭の炎のように、次第にそれも力を失い、今では浩一の後頭部の一部のみを照らすだけとなっていた。
突然、恭吾の足が止まった。と、同時に、時間の流れが止まった。
少なくとも雄介にはそう感じられた。彼の中で、一切の時間の概念が消えた。音のない世界。動きのない世界。嘘偽りのない純粋無垢な世界。雄介の頭の中に、これこそ世界が本来あるべき姿なのではないかという確信めいた考えが浮かんだ。
浩一は恭吾に追いつくと、彼の肩を揺すった。「どうしたんだよ、急に!」
恭吾は浩一には目もくれず、ある一点を凝視していた。懐中電灯を持っていない方の左手の人差し指を宙に上げ、わなわなと震えている。
雄介は彼の指先が指し示す方をじっと見つめた。だがその先にあったものは、望洋と広がる漆黒の海のみで、それ以外には何も見つける事が出来なかった。
「何も見えないぞ」
雄介がそう言った瞬間、周囲からすすり泣きのような、か細い声が聞こえてきた。
それは直接耳元で囁きかけるような、ぞっとするほど小さな声だった。一方で、どこか甘えたような、子供が母親を求める声のようにも聞こえた。
クン、クン、クン……。
三人の間に緊張が走った。
声が次第に大きさを増していき、輪郭もしっかりと形をとり始めた。今ならはっきりと分かる。それは子犬の鳴き声だった。数匹の子犬がどこからともなく鳴きながら、雄介達を取り囲もうとしている。
そしてその鳴き声が最高潮を迎えようとした頃、恭吾が指し示していた闇の向こう側から、一匹の日本スピッツが姿を見せた。
最初に見えたのは、黒い瞳だった。何かに怯え、何かを訴えかけている一対の瞳。
それからほどなくして、白い毛並みが見え始めた。闇の中にいても、それとはっきり分かるような、青白さを帯びた毛並みが。
恭吾が甲高い悲鳴を上げた。「ウワーーーーッ!!」
雄介はこの突然の出来事に、全く身動きが取れないでいた。彼はその黒々とした艶のある瞳に完全に魅入られていた。催眠術にかかったように意識が薄れていく。自分は、その瞳の中にあるものに見覚えがある。どこか郷愁を誘うような、幼少期の記憶に刻まれたもの。親しい友人のような何か。でも、一体どこで……。
「雄介、逃げるぞ!」
浩一のこの言葉に、雄介は目が覚めたように動いた。
彼は浩一の後を追うように走り出した。急がなくてはならない。彼を見失ったら一巻の終わりだ。帰れなくなってしまう。だがそう思ったのも束の間、自分の脚に何かが絡みついたような気がして、目を下に向けた彼は言葉を失ってしまった。彼の足元で、子犬が群れを成すように走り回っている。その内何匹かは彼のズボンの裾に齧りつき、また何匹かは彼のくるぶしにしがみついたまま離れないでいた。
彼は焦りと驚きで、地面にもんどりうってしまった。その反動で、懐中電灯が右手から転がり落ちる。彼は素早く体勢を立て直し、懐中電灯を拾うと、前方に目をやった。もたもたしている暇はない。早く二人を追わなければ。
「――――ッ」
彼の視線の先、そこにはもう恭吾と浩一の姿はなかった。
雄介はこの事実を飲み込む事が出来なかった。認めたくなかった。脳が認めることを拒否している。彼は自分に言い聞かせた。二人が自分を見捨てるはずがない。これは何かの間違いだと。だがその一方で、脳の別の一部はそれを受け入れろと告げていた。目に映るものだけを信じろと。そしてそれは純然たる事実だった。二人は自分を置いていなくなってしまった。二人は行ってしまったのだ。彼一人を後に残したまま。雄介は呆然と立ち尽くしてしまった。
――オイテカナイデ。
再び何ものかにズボンの裾を引っ張られ、雄介は地面へと引き倒された。そのあまりの衝撃に思わず息が詰まり、呼吸が苦しくなった。彼は喉の奥からヒューヒューと音を出しながら、彼を引き倒したものの正体を見定めるため、恐る恐る震える手で自分の足首を照らした。
彼が見たものは子犬ではなかった。それは白い手首だった。女性のような細長い手首が彼の足首をむんずと握り締めている。そしてその奥から、長い髪に覆われた一人の女性の顔が見えた。
――オイテカナイデ。
雄介は声にならない悲鳴を上げた。だが次の瞬間、その女性の訴えかけるような瞳の中にあるものを見て、全てを悟った。
彼が見たもの、それは自分自身の瞳の中にあるものだった。それは日常生活の中で、時折街中ですれ違う男女の瞳の中にもあるものだった。それは落ちぶれた権力者達や、死に怯える老人達の瞳の中にも見ることが出来た。
その瞳の中にあったものは、日々を闘おうともしない、過去にしがみつこうとする嫌らしさだった。それでいて、置いていかれることに恐怖し、何かに必死に縋りつこうとする浅ましさでもあった。
雄介は悲鳴を上げ続けた。だがその悲鳴はなぜか喜びに満ちていた。なぜなら、浩一と恭吾が去った今、彼には新しい友人が出来たのだから。彼はその温かな安らぎの中で、いつまでもいつまでも悲鳴を上げ続けていた。
◇◇◇◇◇
第五章
浩一と恭吾は走った。走って、走って、走り続けた。彼らの頭の中に雄介のことは微塵も浮かばなかった。彼らに後ろを振り返る余裕なんてものはなかった。
彼らはただ前を向いて走り続けた。
◇◇◇◇◇
終章
夏の暑い日差しを受けて、警察官の一人が額に浮かぶ汗を拭った。
「まったく。忌々しい」
数人の警察官が森の中を捜索していた。一人の行方不明者のために。大学生三人が肝試し感覚で森に入り、その内一人が姿を消したというのだ。他の二人は自力で森を抜け出したが、なかなか戻って来ないその仲間を心配して、すぐに近隣の交番へと向かった。そこで捜索願いを出したのだという。
その後、彼の携帯電話に電話を試みるものの、返事は帰って来ず、彼の実家にも連絡を入れてはみたが、やはり彼は戻ってはいないという事だった。
この蒸し暑さの中、汗だくになって探す者の身にもなってくれ。警官はそう独り言ちると、深い溜息をついた。それにしても……。
警官は静かに佇む森を仰ぎ見た。この森はどこか薄気味悪い。周りは、やれ土地開発だ、やれ宅地開発だと、どんどん都市化が進んでいっているというのに、この森だけは依然、同じ姿を留めている。
彼は急に寒気がした。この森が何らかの意思を持っているのではないかという気がしたのだ。何らかの理由で、三人の内一人だけを引き入れたのではないか。だとしたら、彼らともう一人の違いは何なのか。他の二人は何故帰って来られたのだろう。何かあるはずだ。
警官はその答えを見出そうと、天高く聳える森の木々を、もう一度見上げてみた。だが森は何も語らず、ただひっそりと佇んでいるだけだった。
※ 作者からの一言
なんか、色々混ざっちゃいました。
もっとすねこすり感を前面に出そうと思っていたのですが、
結果的にどちらかというと、森の方に焦点を当てすぎちゃいました。
ある男が夜道を歩いていると、犬のようなものがまつわりつく
うるさい犬めと脚もとを見るが、何もない
気のせいかと思ってまた走り出したところ、やはり何ものかが脚にからみつく
男は恐ろしさのあまり、夜の道を無我夢中で逃げ出したという
奄美の方では「
これは脚に絡まるのではなくて、人の股をくぐる
股をくぐられたその人は、魂を抜かれるか、性器を駄目にされて腑抜けにされる
※『日本妖怪大全』参照
◇◇◇◇◇
序章
車のヘッドライトが、国道のセンターラインを無機質に照らしていた。男が運転するサニートラックのカーラジオからは、数年前巷で流行した明るいポップスが流れていた。
「人生は何があるか分からない。涙の先にも光はある。だから諦めずに前を向こう」
男の顔から皮肉な笑みがこぼれ落ちた。確かこれを歌った若い女性歌手は、自らの手でその命を絶ったはずだ。当時、彼女の突然の死が世間をひどく賑わせたのを覚えている。その死に関するあらゆる憶測がファンの間で飛び交ったが、その理由は未だ謎のままだった。男の働く会社でも、数か月間はこの話題で持ちきりだった。なぜ彼女が死を選らばなければならなかったのか。なぜ誰にも相談することができなかったのか。その答えを出すことは誰にも出来ないようだった。だが男には分かっていた。彼女は絶望したのだ。自分で作詞した、その詞の説得力のなさに。きっと気づいてしまったのだろう。所詮、その勇ましい言葉は誤魔化しでしかないと。自分の中の虚無を埋めるための。
“人生は何があるか分からない”
男は車内のデジタル時計をちらりと見た。22時16分。恐ろしく機械的に、そして緑色に光るその数字は、男に何の意味ももたらさなかった。男の人生が、男に何の意味ももたらさなかったのと同じように。
男の顔にちらりと怒りの表情が浮かんだ。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。今まで自分は、どんな状況下にあっても上手くやってきたはずだった。どんなに理不尽だと思われるような立場に立たされたとしても――口煩い上司から罵声を浴びせられ、不感症の妻からは甲斐性なしだと罵られるようなことがあっても――なんとか彼らと折り合いをつけ、物事に対処してきたはずだった。
だが、最近起きた原油価格の高騰や円安の進行が全てを変えてしまった。建築資材の価格が急騰し、国内で多くの建築会社が苦境に立たされた。男が働いていた建築会社も資金繰りが悪化し、とうとう一か月前、倒産にまで追い込まれてしまった。職を失った男は、その挙句、妻にまで愛想をつかされてしまった。
まさかこんなことになるなんて。
“人生は何があるか分からない”
男は深呼吸を一つした。そして隣の助手席に一瞥をくれた。薄汚れたシートの上には、一匹の中型犬がいた。白い毛並みと先の尖った鼻、そしてピンと立った耳を持つ、スピッツが。その下には段ボールが一つあり、その中から、子犬特有の、あの甲高い小さな鳴き声が聞こえてきた。
「やめろ」男は悲鳴にも似た声を、その真一文字に結んだ口から吐き出した。
これは俺の所為じゃない。断じて、違う。そんな目で俺を見るな。
犬は咎めるような、それでいて諦めきったような目つきで男を見ていた。この犬は数年前、会社の同僚から譲り受けたもので、男が気まぐれで育ててきたものだった。自分の心の隙間を埋めるために。
男はハンドルを握りながら、自問自答を続けた。
しょうがないじゃないか。こうなってしまった以上、他に選択肢はない。だってそうだろう? 俺にだって生活があるんだ。明日の事さえ分からなくなってしまった今、自分の事だけでも精一杯なのに、他の奴の面倒なんて見てられない。それにこの馬鹿犬、どこかで子供なんてこさえてきやがって。
動物愛護団体にでも頼めっていう奴がいるかもしれないが、そんなことは御免だ。あいつらは人の揚げ足取った挙句、きっと鬼の首を取ったように俺を責めるに違いない。
カイショウモナイノニ、ナゼカッタノ?
男はもう一度助手席に目をやった。白い毛に覆われた、漆黒に輝く一対の瞳が、暗がりの中で男をじっと見据えていた。男の心の内を見透かすように。男を咎めるような、それでいて、何もかもを諦め切ったような表情で。
カイショウモナイノニ、ナゼカッタノ?
オイテカナイデ。
「ヤメロ」
男はブレーキを踏み、車を止めると、ハンドルに頭を押し付けた。そして自分に言い聞かせた。俺は間違っていない。そうさ、間違っているのはこの世界なんだ。この世界はどこか狂っている。その所為なんだ。会社が社会から見捨てられたのも、あいつが俺を捨てていったのも、俺がお前らを捨てるようなことになったのも。
“人生は何があるか分からない”
サニートラックのカーラジオから、狂ったように歌謡曲が流れていた。「セ・ラ・ヴィ! セ・ラ・ヴィ!」
男は顔を上げると、再びアクセルを踏んだ。そう、
男はカーラジオの音量を上げると、目的地の森へと車を走らせた。
◇◇◇◇◇
第一章
一台のセダンが人気のない夜道を駆け抜けていく。モノクロで味気ない世界が、闇に溶けるように消えていく。
青年は窓の外をぼんやりと眺めていた。過去、現在、未来が目まぐるしく交差する車内で、後部座席に座りながら、彼は“一瞬”とは何なのかに想いを馳せていた。呼吸を一つする。その都度、時間は、世界は、流されていく。古いものが消え、新しいものが現れる。捨てられていくもの、それは窓の中、切り取られた景色も例外ではない。カチリという腕時計の秒針が回る音に、パチリという景色が切り取られる音が続いて、サッとそれが後ろへ流されていく。
カチリ、パチリ、サッ。カチリ、パチリ、サッ。
青年はその瞬間、とてつもない虚無感に襲われた。それに加え、恐ろしいまでの孤独感にも。深い眠りから目を覚まし、ムクムクと湧き上がったそれらは、闇の中、手を伸ばして彼を捕まえようとした。ある一つの言葉を囁きながら……。
「雄介、雄介!」
松乃屋雄介は、自分を呼ぶその声にハッと我に返った。隣の席で、友人の田嶋恭吾が彼を訝し気に見つめている。
「どうしたんだよ。ぼーっとして」
雄介は狭い車内の中で大きな伸びをした。彼を襲った孤独感はもうそこにはなかった。その代わり、曖昧模糊とした靄のようなものが頭の中にこびりついていた。それから、夢から覚めた時に感じる、あの不思議な虚脱感も――いや、落下感だろうか?――彼の体に粘りつくように纏わりついていた。
雄介は自分の存在を確かめるように、ゆっくり拳を握り締めると、頭を軽く振ってから、恭吾に笑いかけた。
「ごめん、少し寝てた」
「退屈か? 待ってろよ、もう少しで着くから」
運転席でハンドルを握っている田中浩一が、バックミラー越しに後ろの二人を見た。
この三人は、同じ道内の私立大学に通う学生だった。高校の同級生だった雄介と恭吾が同じ大学を目指し、そこで浩一と知り合うことになったのだ。
専攻学科が同じ英米文学科だったこともあり、彼らはすぐに意気投合した。そして何をするにも一緒に行動した。特に浩一はリーダシップがあり、大学生活においては旗振り役となって、他の二人をいつも引っ張っていってくれる、頼りがいのある男だった。
雄介の大学生活はそれなりに充実していた。講義は刺激のあるものだったし、異なる思想を持つ生徒達との会話は有意義なものだった。だがその一方で、彼はいつも得体の知れない焦燥感とも闘っていた。楽しい時間はすぐ終わる。来年は就職のことも考えなければならない。そしてその後は? その後は、いつか浩一や恭吾とも別れる日がやって来るだろう。
カチリ、パチリ、サッ。カチリ、パチリ、サッ。
押し寄せる時間の波に飲み込まれ、いつか自分は取り残されてしまうのではないか。何気ない日常の狭間でも、友人とのたわいない会話の最中でさえ、平静を装ってはいたが、雄介はいつも怯え、いつも不安だった。一歩前へ進んでは、名残惜しそうに後ろばかりを振り返っていた。そんな不毛なことを繰り返していたある夏の日。浩一が燦燦と輝く笑顔を見せながら、雄介と恭吾のもとへやって来て、二人の肩に手を乗せると、親指を立ててこう言った。
「肝試しに行こうぜ」
◇◇◇◇◇
第二章
市街地から車で四十分。人々の喧騒から遠く離れた場所に、その森はあった。車のヘッドライトが、鬱蒼と茂る木々を不気味に照らしている。一直線に伸びるその光の筋は、森一帯に広がる闇の色を弱めるどころか、逆に強めていた。自然界が生み出す闇の中にあっては、人間が編み出した文明の利器など何の役にも立たないのであろう。
雄介は思わず感嘆の声を上げた。「すごいな。まだこんな場所が存在していたなんて」
この森は雄介が想像していたものよりも、はるかに桁違いの規模を持っていた。まず彼が目を見張ったものはその広さだった。東京ドーム五個分は収まりそうな位の面積がある。そこに、原初の時代から手つかずのままだったかとも思われるような青々とした木々が、人を寄せ付けないように密生して立っていた。もちろん舗装された遊歩道なんてものはなく、獣道のようなものも、浩一が車を停めた場所からは見えない。
浩一は車のエンジンを切ると、にやりと笑った。「この広さで、これほど手つかずの自然が残っている場所は、もうあまり見ないかもな」
三人は車から降りると、トランクに回り、中から懐中電灯を取り出した。
外に出てすぐ、雄介は異変に気がついた。夏真っ盛りだというのに、ここにはいやに冷たい空気が流れている。それだけではない。森はまるで、静寂を一つの空間に詰め込んで密閉したかのような、異様な静けさに包まれていた。そよとそよぐような風もなければ、動物の鳴き声一つしない。
雄介はここにだけ時間が流れていないのではないかという妙な錯覚にとらわれた。
「それで? この森にはどんないわくがあるんだ?」雄介はぶるっと身震いして、浩一に訊いた。
浩一が懐中電灯のスイッチを押しながら答えた。「一種の怪談話さ。先輩から聞いた話だと、なんでも昔、生活苦に陥った男が、飼っていた犬をここに捨てたらしいんだよ。産まれたばかりの子犬と一緒に。だけど食べ物を見つける事ができなかったその母犬と子犬は、やがて衰弱死してしまったというんだ」
雄介は眉を顰めた。「ひどい話だな」
浩一は頷いた。「ああ。だけどそれ以来、死んだはずのその母犬と子犬が夜毎出てくるらしいんだ。腹を空かせながら、食い物を求めて。そうやって森に訪れる人間を片っ端から引きずり込んでは、自分達の食い扶持にするんだってさ」
雄介は浩一の“引きずり込む”という言葉に嫌な予感を覚えた。車の後部座席で揺られながら、無意識に感じたあの孤独感を思い出す。何ものかに掴まれる恐怖。そして朧げに浮かんだ謎の言葉。あれは一体何だったのか。
「どうかしたか?」浩一が雄介の顔を覗き込むようにして訊いた。
「いや、それじゃ怪談というより昔話みたいだなと思って。年寄りが孫に聴かせるような」雄介は自分が感じた嫌な予感を隠すように笑って誤魔化した。
「確かにそうかもしれない」浩一は雄介の言葉を聞くと、彼の不安には気づくことなく、声を上げて笑った。
「おかしいな」恭吾が首を傾げた。
「何が?」
「実は俺、ネットで調べてみたんだよ。ここに来る前に」
「それで?」浩一が興味津々といった様子で恭吾に訊いた。
「ネットでは、犬の話なんか一つもなかったけどな。俺が見たのは、彼氏に捨てられた女性が自殺する話だったけど」
重苦しい沈黙が三人の間に流れた。
不意に、夜の闇が確かな形をとり始めた。ざらざらとした質感、ずしりとした重量。それが三人の上にのしかかろうとしていた。三人は急に心細くなってきた。船から投げ出され、孤島に置き去りにされたかのような気分になった。肝試しにおいてはつきものの、未知のものに触れる事ができるかもしれないという、あの期待や高揚感はとうに過ぎ去ってしまっていた。
沈黙を破ったのは、浩一だった。「そっちの方が、怪談味はある」
恭吾が不安を払拭するかのように、声を張り上げた。「まっ! どっちでもいいさ。それよりこれからどうする?」
浩一が懐中電灯の明かりを這わせながら、森の端を指差した。「まずは外周を回ってみようぜ。この時間、奥の方にでも入って迷子になったら大変だし」
「よし! それじゃあ、さっそく出発だ」恭吾が先頭に立って、森の中へと進んで行った。
「随分、威勢がいいじゃないか。珍しい」雄介は彼の嬉しそうに前を行く姿を見て、驚いた。
恭吾は普段、先頭を切って前を行くようなタイプではなかった。彼はどちらかというと引っ込み思案な方で、自分の考えをあまり表には出さず、質問された時にだけ答えるといった、口数の少ない男だった。高校時代、彼は学友からよく「あいつは大人しすぎる」と言われていた。
「俺、こういうの大好きなんだ。非現実的なものが。現実は詰まらないことの連続だし。だからワクワクするんだ」
「あいつ、ホラー小説ばかり読み漁ってるもんな」浩一が面白がるように雄介に言った。
雄介は恭吾の意外な一面を見て、呆気にとられてしまった。彼との付き合いは長い。高校時代からだから、もうかれこれ五年くらいにはなる。だが彼がこういう事に興味を持っていたというのは初めて知った。確かに、彼は怪奇小説が大好きだった。A・ブラックウッド、М・R・ジェイムズ、H・P・ラヴクラフトなどの古典怪奇ものが、彼のお気に入りだったのは知っている。しかしそれは、物語に登場する怪異そのものよりも、それら作家が用いる格調高い作風やウイットに富んだ文章表現に目を奪われているためだとばかり思っていた。
自分は彼のことを何も分かってはいないのかもしれない。
そして浩一は……、浩一は知っていたのだろうか。彼のこの一面を。
「雄介! 早く来いよ!」
気がつくと、二人はもう彼から大分離れた場所にいた。雄介は気を取り直すと、持っていた懐中電灯を固く握り締め、慌てて二人の後を追いかけた。
◇◇◇◇◇
第三章
三人は、恭吾、浩一、雄介の順に並んで、足元に気を配りながら、慎重に森の際を進み続けた。林立する木々の中には根が露出しているものがあり、また場所によっては苔むして滑りやすくなっている箇所もあったので、転倒しないよう十分に注意する必要があった。
彼らは時々立ち止まると、それぞれ思い思いの場所を懐中電灯で照らしあった。森に入ってからというもの、彼らの内にはまたあのゾクゾクするような高揚感が甦ってきていた。時には自分達の息づかいに驚き、時には人間の顔のように見える木々の幹に悲鳴を上げるなどして、彼らは最初に感じた不安も忘れ、この肝試しと銘打ったささやかな時間を目一杯楽しんでいた。
しばらくそうやってはしゃいでいると、浩一が歩調を落とし、雄介の隣に来た。「なあ、雄介」
「何?」
「実は俺、考えていたことがあるんだけど」
「どうした? 急に改まって」
浩一はどうやって切り出そうか迷っているみたいだったが、すぐに意を決したように喋り始めた。「お前、大学卒業した後はどうするんだ?」
雄介はその質問の答えに窮した。彼は自分が卒業した後どうするか、まだ何も決めてはいなかった。大学院へ進むか、就職するか。ただなんとなく就職することになるだろうとは予想していた。自分には大学院に進学するだけの経済的余裕がない。その上、成績もありきたりで、奨学金を手に入れることなど夢のまた夢だった。このため彼は、自分にはもう就職するといった選択肢しか残されていないような気がしていた。
だが、彼にとってそれはどこか他人事のようであり、現実感もまるで湧いてこなかった。前を向いて生きるという実感。他の人が出来て、自分には出来ない事。
雄介は浩一の問いに曖昧に答えた。「まあ、多分就職するんじゃないかな。他の奴らと一緒さ。流れに身を任せるんだ」
浩一は彼のその答えの中身を――暗にそれが意味していることを――吟味するように、じっと前を向いたまま黙り込んでしまった。
永遠に続くのではないかと思われるような沈黙が二人を支配する。雄介は闇がその濃さをまた増したのではないかという不安な気持ちになった。
ややあって、浩一はまた喋り始めた。「俺の身内に出版社に勤めている人がいるんだけど。その人、今人手を探しているんだ。翻訳ができるような人間を。それでさ、俺、その人から『うちで働いてみないか』って誘われてるんだよ。卒業まではアルバイトとして、卒業したら正式に社員として。」
「やるのか?」
「ああ」
雄介は頷いた。さすが、浩一だ。彼は常に前を向いている。行動に迷いがない。
浩一は雄介をじっと見た。「お前も、やってみないか?」
雄介は弾かれたように彼を見た。心臓が激しく脈打っているのが聞こえる。動揺も上手く隠しきれない。今、彼は確かに自分を誘わなかっただろうか。翻訳の仕事を。一緒にやろうと。
雄介は信じられないような気持で、彼に問い返した。「ごめん、今なんて言った?」
「一緒にやらないかって言ったんだ」浩一は噛み砕くようにしてもう一度言った。
「以前から考えていた事だったんだよ。お前達も誘ってみようかなって」彼は恭吾を顎でしゃくりながら話を続けた。
「俺、お前達とは気が合うし。もう少し長い時間、お前達と一緒にいてみてもいいかなって思ったんだ。卒業して別々になったら、もうこれまでみたいにそうそうお前達と会う時間も作れないだろうし。恭吾にはこれから話そうと思っているんだけどな」
当惑する雄介を見て、彼は弁明するように手を振った。「もちろん、答えは今でなくてもいいんだ。大学生活はまだ続くし。ただお前にその気があるんなら、アルバイトの件は早めに答えが欲しい。その人が、お前達の適正諸々を見てみたいんだって」
「もちろんやるよ」雄介は息を継ぐ暇も見せずに言った。
「本当か? 就職の方はどうする?」
「もしその人とお前さえよければ、その申し出を有難く受けさせてもらうよ」
浩一は笑った。「良かった。じゃあ、そう言っておくよ。恭吾には帰りにでも訊こう」
雄介はほっと胸を撫で下ろした。浩一が仕事のオファーをくれた時、彼が最初に感じたもの、それは喜びなどではなく安堵感だった。就職が決まって良かった、などという単純なものではない。有史以来、全ての人類が常に抱え続けているであろう潜在的な恐怖。日々、人々の内側を侵食し、防壁の弱い部分を狙っては、時折顔を出す恐怖。
“独りになりたくない”
雄介の胸にひしめいていたものは、その恐怖から逃れ得たという純粋な解放感だった。
――オイテカナイデ。
「うん?」恭吾が奇妙な声を上げ、立ち止まった。
「どうした?」
「いや、今何か見えたような気がしたんだ。白っぽい形をした何かが」恭吾はそう言うと、森の奥へどんどん進んで行った。
「お、おい」雄介と浩一は慌てて恭吾の後を追った。
◇◇◇◇◇
第四章
「おい、恭吾! あんまり奥へ行くな。帰れなくなるぞ」
浩一からそう言われても、恭吾は何かに取り憑かれたように、森の奥へと進み続けた。どんどん、どんどん闇が濃くなる。漆黒の壁が、屋根が、三人を押し潰そうとその範囲を狭めてくる。雄介は窮屈さを感じて、堪らず喘いだ。懐中電灯の明かりが、前方の二人の姿を捉えてはいたが、風に揺れながら力なく消えゆく蝋燭の炎のように、次第にそれも力を失い、今では浩一の後頭部の一部のみを照らすだけとなっていた。
突然、恭吾の足が止まった。と、同時に、時間の流れが止まった。
少なくとも雄介にはそう感じられた。彼の中で、一切の時間の概念が消えた。音のない世界。動きのない世界。嘘偽りのない純粋無垢な世界。雄介の頭の中に、これこそ世界が本来あるべき姿なのではないかという確信めいた考えが浮かんだ。
浩一は恭吾に追いつくと、彼の肩を揺すった。「どうしたんだよ、急に!」
恭吾は浩一には目もくれず、ある一点を凝視していた。懐中電灯を持っていない方の左手の人差し指を宙に上げ、わなわなと震えている。
雄介は彼の指先が指し示す方をじっと見つめた。だがその先にあったものは、望洋と広がる漆黒の海のみで、それ以外には何も見つける事が出来なかった。
「何も見えないぞ」
雄介がそう言った瞬間、周囲からすすり泣きのような、か細い声が聞こえてきた。
それは直接耳元で囁きかけるような、ぞっとするほど小さな声だった。一方で、どこか甘えたような、子供が母親を求める声のようにも聞こえた。
クン、クン、クン……。
三人の間に緊張が走った。
声が次第に大きさを増していき、輪郭もしっかりと形をとり始めた。今ならはっきりと分かる。それは子犬の鳴き声だった。数匹の子犬がどこからともなく鳴きながら、雄介達を取り囲もうとしている。
そしてその鳴き声が最高潮を迎えようとした頃、恭吾が指し示していた闇の向こう側から、一匹の日本スピッツが姿を見せた。
最初に見えたのは、黒い瞳だった。何かに怯え、何かを訴えかけている一対の瞳。
それからほどなくして、白い毛並みが見え始めた。闇の中にいても、それとはっきり分かるような、青白さを帯びた毛並みが。
恭吾が甲高い悲鳴を上げた。「ウワーーーーッ!!」
雄介はこの突然の出来事に、全く身動きが取れないでいた。彼はその黒々とした艶のある瞳に完全に魅入られていた。催眠術にかかったように意識が薄れていく。自分は、その瞳の中にあるものに見覚えがある。どこか郷愁を誘うような、幼少期の記憶に刻まれたもの。親しい友人のような何か。でも、一体どこで……。
「雄介、逃げるぞ!」
浩一のこの言葉に、雄介は目が覚めたように動いた。
彼は浩一の後を追うように走り出した。急がなくてはならない。彼を見失ったら一巻の終わりだ。帰れなくなってしまう。だがそう思ったのも束の間、自分の脚に何かが絡みついたような気がして、目を下に向けた彼は言葉を失ってしまった。彼の足元で、子犬が群れを成すように走り回っている。その内何匹かは彼のズボンの裾に齧りつき、また何匹かは彼のくるぶしにしがみついたまま離れないでいた。
彼は焦りと驚きで、地面にもんどりうってしまった。その反動で、懐中電灯が右手から転がり落ちる。彼は素早く体勢を立て直し、懐中電灯を拾うと、前方に目をやった。もたもたしている暇はない。早く二人を追わなければ。
「――――ッ」
彼の視線の先、そこにはもう恭吾と浩一の姿はなかった。
雄介はこの事実を飲み込む事が出来なかった。認めたくなかった。脳が認めることを拒否している。彼は自分に言い聞かせた。二人が自分を見捨てるはずがない。これは何かの間違いだと。だがその一方で、脳の別の一部はそれを受け入れろと告げていた。目に映るものだけを信じろと。そしてそれは純然たる事実だった。二人は自分を置いていなくなってしまった。二人は行ってしまったのだ。彼一人を後に残したまま。雄介は呆然と立ち尽くしてしまった。
――オイテカナイデ。
再び何ものかにズボンの裾を引っ張られ、雄介は地面へと引き倒された。そのあまりの衝撃に思わず息が詰まり、呼吸が苦しくなった。彼は喉の奥からヒューヒューと音を出しながら、彼を引き倒したものの正体を見定めるため、恐る恐る震える手で自分の足首を照らした。
彼が見たものは子犬ではなかった。それは白い手首だった。女性のような細長い手首が彼の足首をむんずと握り締めている。そしてその奥から、長い髪に覆われた一人の女性の顔が見えた。
――オイテカナイデ。
雄介は声にならない悲鳴を上げた。だが次の瞬間、その女性の訴えかけるような瞳の中にあるものを見て、全てを悟った。
彼が見たもの、それは自分自身の瞳の中にあるものだった。それは日常生活の中で、時折街中ですれ違う男女の瞳の中にもあるものだった。それは落ちぶれた権力者達や、死に怯える老人達の瞳の中にも見ることが出来た。
その瞳の中にあったものは、日々を闘おうともしない、過去にしがみつこうとする嫌らしさだった。それでいて、置いていかれることに恐怖し、何かに必死に縋りつこうとする浅ましさでもあった。
雄介は悲鳴を上げ続けた。だがその悲鳴はなぜか喜びに満ちていた。なぜなら、浩一と恭吾が去った今、彼には新しい友人が出来たのだから。彼はその温かな安らぎの中で、いつまでもいつまでも悲鳴を上げ続けていた。
◇◇◇◇◇
第五章
浩一と恭吾は走った。走って、走って、走り続けた。彼らの頭の中に雄介のことは微塵も浮かばなかった。彼らに後ろを振り返る余裕なんてものはなかった。
彼らはただ前を向いて走り続けた。
◇◇◇◇◇
終章
夏の暑い日差しを受けて、警察官の一人が額に浮かぶ汗を拭った。
「まったく。忌々しい」
数人の警察官が森の中を捜索していた。一人の行方不明者のために。大学生三人が肝試し感覚で森に入り、その内一人が姿を消したというのだ。他の二人は自力で森を抜け出したが、なかなか戻って来ないその仲間を心配して、すぐに近隣の交番へと向かった。そこで捜索願いを出したのだという。
その後、彼の携帯電話に電話を試みるものの、返事は帰って来ず、彼の実家にも連絡を入れてはみたが、やはり彼は戻ってはいないという事だった。
この蒸し暑さの中、汗だくになって探す者の身にもなってくれ。警官はそう独り言ちると、深い溜息をついた。それにしても……。
警官は静かに佇む森を仰ぎ見た。この森はどこか薄気味悪い。周りは、やれ土地開発だ、やれ宅地開発だと、どんどん都市化が進んでいっているというのに、この森だけは依然、同じ姿を留めている。
彼は急に寒気がした。この森が何らかの意思を持っているのではないかという気がしたのだ。何らかの理由で、三人の内一人だけを引き入れたのではないか。だとしたら、彼らともう一人の違いは何なのか。他の二人は何故帰って来られたのだろう。何かあるはずだ。
警官はその答えを見出そうと、天高く聳える森の木々を、もう一度見上げてみた。だが森は何も語らず、ただひっそりと佇んでいるだけだった。
※ 作者からの一言
なんか、色々混ざっちゃいました。
もっとすねこすり感を前面に出そうと思っていたのですが、
結果的にどちらかというと、森の方に焦点を当てすぎちゃいました。