魅力的な眼球

文字数 53,171文字

1.ラムネ瓶

 粉々に割れたラムネ瓶が眼の前を光の尾のようにきらきらと落ちていく。見惚れていると、ぼんやりと黒い霧が視界の中に立ち込め、まるで辺りが地獄の景色のように見えた。
 彼らを無視するべきか、許すべきか、おれも悪いと打ち解け合うべきか。強張る彼らの表情と夕陽に延ばされる彼らの黒々とした影。コンクリートの上にはガラスの破片がきらきら輝いている。おれはただその景色を見ていた。彼らは落ち着きのない虫のように、この事態にどう対処したらいいのかと無意味に眼だけをおろおろさせている。おそらく結果的になったとはいえ強気な加害者の態度をこのまま続けるべきなのか迷っているのだ。どうして、そうおろおろするのだろう。痛めつけたいと思って痛めつけ、痛そうな様子を見て、困惑する。馬鹿だな。望んだ結果なのだから、喜べばいいものの。困った顔をするくらいなら殴るなよ。温かい涙みたいな血の滴が顎まで流れるのを感じた。
 空の端が青みがかり、夕日の赤と夜の青が入り混じっている。そろそろ家に帰らないと親父がうるさい。どうせこの傷を見て、またひと悶着あるに違いない。面倒なことをしてくれた。多少、自分の中に奴らへの苛立ちを見出してみる。ああ、でも、もういいや。とっとと帰ろう。おれは夕日の反対側を向いて、歩き出した。後ろで音がする。声がする。空き地に生えた草が風に靡いた音。
「おい、待てよ。話はまだ終わってねえぞ。」
「だから、さっきから聞いているんだ、いったい何の話だって。おれがうざいということしかわからなかった。」
「頭おかしいんじゃねえの? この前、おまえが」
「で、おれがうざいんだろ? それでおれにどうして欲しいんだ。うざくなくなれって? 消えて欲しいのか? 知らねえよ。ラムネ瓶で殴る事しか出来ないくせに。立場が不利なのはおまえらだよ。クラスメイトの一人を大人数で囲んで殴って流血事件を起こした。おれは大人に言う。こうやって脅せば、大人しくしてくれるのか?」
 ああ、本当に、おまえらがうぜえ。うざいというより意味がない。どうしてそんなにワンパターンなんだ。うざくても中身のある面白いことを少しでも言えば、まだましなのに。どうして一様に同じことを繰り返して言うのだろう。悪い夢でも見ているのかもしれない。その考えを噛み砕いて飲み込んだ。消炭になった肉の味だ。不味い。
「帰る。明日、学校で。」
 家に向かって歩き出す。
 誰も追いかけてきて、もう一度殴るということはしなかった。でも、切った風がすれ違いざまに囁く。
「死ねよ。」
 公園の水飲み場で顔を洗ったあと、さすがに痛いと頭を右手で押さえていると、
「あきら! 何してるの?」
だだだと走る音が聞こえた。
「こんな時間に何してんだよ、みい。」
「おたがいさまでしょ? りいなちゃん達と遊んだ帰り。あきらも?」   
 今にも飛び跳ねそうなくらいにはしゃいでいる。
「まあ、うん。」
「ねえ、これ見て。取れる?」
 下げているショルダーバッグからみいは何かを取り出した。
 辛うじて残っていた空の茜色がそれを透き通った。ラムネ瓶。今日は小学生のラムネ解禁日だったのだろうか。差し出されたラムネ瓶を受け取ろうとして思い出す。ズキズキと頭が痛んだ。出しかけた右手をまた影に引っ込めた。
「ここのキャップ取れば、取り出せると思うけど、結構力いるからお父さんにやってもらって。ごめん。」
「どうしてあきらが謝るの? 珍しいね。大丈夫? なんかあった?」     
 彼女は朗らかに笑った。
 今まで何も悲しくなく、むしろすっきりとした気分だったのに、みいにこう言われて、思わず歯を食いしばってしまった。そうしないと目に現れそうだった。みいの手を掴んで、みいの手に握られたラムネ瓶のビー玉が入っている部分を自分の右眼に当てた。
「瓶のガラスを通して、さらに中のビー玉を通して、また瓶のガラスを通してさ、景色が見えるんだけど、すげえ面白い。」
 ガラスの向こうにあるのは沈む寸前の夕日。あっという間に消えて、辺りが暗くなり、何も見えなくなった。
「陽が落ちちゃったね。」
 残念そうにみいが言う。
ぱりぱりと音を立てて、公園の入り口の街灯が点く。
「でも、あきらの目は見えるよ! 瓶のこっち側とビー玉と瓶の向こう側を通して。ちょっと歪んで見えるね。へへ。」
 屈託ない笑い声を上げて、ニッと笑った。
 こっちだって、みいの目はぼやけて見える。ぼんやりと強く光る小さな惑星みたいに見えた。
 まぶたが熱い。
「帰ろう。」
 どうかと思うけれど、みいと一緒に帰るということに心の中でほっとした。陽気なみいが歌でも歌ってスキップしながら家まで愉快に帰還する。いつもはそんなこと無いのに、暗い夜が怖かった。
どうして今日はこんな風に見えるんだろう。
家に帰るためには、夜道を見なければいけない。でも、暗闇が怖いだなんて、みいには言えない。



2.ルーペ

 居間にある箪笥の引き出しの中は空だと思っていた。埃に耐えきれなくなり、咳き込みながら掃除機をかけていたら、ふと、引き出しが気になり始めたのだった。もう何年も開けていない。何故だろう。どうしてこの箪笥に近寄ろうともしなかったのか。
あ、と心の声が呟く。脳内のパンドラの箱が少し開いた音が聞こえた。そうだった、と掃除機を止めて、箪笥に寄り掛かり座った。服に埃が付いているのを取りながら、段々とあのときの衝撃を思い出していた。
 母さんが死んで一か月。そういえば、母さんがお気に入りだと言っていたあのペンはどこだろう。そう思ったおれはまず、電話台のペン立てを見て、それから台所に行って、冷蔵庫にマグネットで付いているペン差しを見た。無い。和室か? でも、この部屋には物自体がそもそも無い。なら残るは、居間だ。
 なぜか居間には壁が見えなくなるほど大きな箪笥があった。母さんの嫁入り道具らしい。
下の段には小さな引き出しが二つ付いていた。ここにいつもメモ帳や通帳、便箋と封筒が入っていたのを覚えている。
『このペンね、別に高級品じゃないんだけど。使い心地が良くてお気に入りなの。』
 湿気で開けづらい引き出しを、全体重を指に掛け、引っ張った。ぎいいいと引き出しが鳴る。心臓の音が鳴り止んだ。
コン、と薄い木の音が空しくする。空っぽだった。板には何かがあったという四角く黒い跡が見えた。無我夢中で他の引き出しも開けたが、結果は空。
「おまえ、いったい何散らかしてんだ?」
 親父が後ろから不思議そうに言った。

 教室の天井を見ると、ほのかにピンクがかった茜色が小汚い黄色の染みを覆っていた。首に掛かっている細いチェーンを指に引っ掛け、胸元当たりにある冷たいルーペを引っ張り出す。それから、それを右眼に当てて、左眼を閉じた。
 たった数秒で、教室に差し込む光の色が変化した。そのせいだろう、ルーペでじっと染みを見つめている間にも、その染みが膨張したり霞んだりしたように見える。
 学校に来て最も楽しいと思える瞬間は放課後、誰もいない教室で、一人で夕日が落ちるのを見ているときだ。授業中、おまえらはここから出られない、自由にはなれないのだと嫌がらせのように青空を映し続けている長方形の窓ガラスも、五時になれば空の教室を紅葉のように染め上げる。
 六つほど並べた机の上で、足を組んで寝そべっていた。初めは、椅子に座っていたのだが、途中で机の上に座り、最終的に机の上で寝ていた。
見続けているのに疲れて、右眼も閉じる。
 眼を瞑っているのにも関わらず、黒い影が二、三回見えた。誰か来た。こんなことは今まで無かったのに。ドアを開けるガラガラという音。椅子を引く耳障りな音。しばらくの静音。それから、左耳のイヤホンが外され、すべての音が大きくなった。
「なにこれ、何も聞こえない。」みいが驚いた声で言った。
「うん、何も聞いてない。」
 腕を伸ばして、みいはイヤホンを引っ張り、ポケットから出て来たのは、何にも繋がっていない端子だった。
「学校に音楽プレーヤー持って来たらダメなんだって言ってやろうと思ったのに。どうしてイヤホンしてたの?」
「静かに寝たかったんだよ。」
「あー。」
顔を傾けると、みいがしかめ面でおれを見た。それから、ルーペを眼から外して鎖骨の上に置いた。お互いに何だよという顔をする。仕方なく、おれは体を起こし、言った。
「何だよ。」
「いやいや。これじゃあ、仕方ないなと思ってさ。」はあ、とわざとらしい溜息をつく。
「なにが?」
「私は今日、ある人に頼まれてここに来たの。しかも報酬は貰えないわ。タダ働きよ。」
「何の用? 演劇部。」家庭部だとすぐに返された。
「一人目は、赤沢先生。この前、言い合いになったんだって?」
「言い合い?」
「してないの? クラスで上手くやってるのか、家庭環境はどうなのか、どういうやつなのか教えてくれと聞いてきたよ。」
「ろくなこと考えねえよな。」
「本当にね。だから、『粲は普通の中学生ですよー』って言って、逃げてきちゃった。とにかく、粲は色々反省すべきだよ。」とみいは笑った。
「どうしてさ。」
首を窓側へ垂れると、空はもう五時じゃなくなっていた。ピンクやオレンジが紫や青に塗りつぶされていく。オーロラのように色が変化する雲があちこちに浮かんでいた。
「えっと、まず粲が嫌われているのはだめでしょ。それに粲が好きだっていう人たちの気持ちを粲は無視してる。」
「どっちも別に構わないよ。」
「だめ。」
「どうして。」
「粲はもっと周りの人を大切にすべきだよ。粲をよく思ってくれてる人たち。」
「そう?」
「この前、粲ん家におつかいに行ったら、粲のお父さんが私に聞いたんだよ。」
 よいしょっと言いながら、みいがおれの脚を押しのけて、机の上に座った。
「え。何を。」
「すぐそういう顔する。反抗期?」
「そうかもね。それで?」
「粲は学校ではどんなだって聞かれた。小学校の頃とあんまり変わらないですよ、いつも通りですって答えたんだけど、そうしたら、うーん、なんというかね。」
 みいは急に言葉に詰まって、眉間に皺を寄せた。
「正直に言いなよ。」
 相変わらずだなと笑いながらおれは言う。
「いや、会話ではもっと遠回しで穏やかな表現だったと思うんだけど思い出せなくて。ほら、粲のお父さん、優しいし。でね、えーと」
「つまり?」
「内容的にはあれよ。人に迷惑掛けてるのか、傷つけるようなことをしているのか、それともいじめられているのか、教えてくれって。ほんと、もっとやわらかい言い方だったんだよ? ほんと、ほんと。」
 ああ、なるほど。確かに親父が言いそうなことだ。そうだよな。学校とおれとの様子について知っているのは、小学生の頃からの“ケンカ”して帰って来ることや全然楽しそうにしていない学校行事の様子。  
学校の様子なんか話したことなんかない。いいや、そもそも話すことがあまりない。だらだらとくだらないことは話す。商店街のこととか来た客のこととか。食事や家事や家計のことも事務的に話す。母さんの葬儀以来そうしている。話さないのは、何だろう。何か触れてはいけないものを二人で無意識的に避けているような気がする。母さんのことではない。多分、根本的に分かり合えないということをお互い知りたくない。親子だから、父は親らしく怒る。注意する内容もそうだ。当たり前のことを言う。それをおれが承知でいることも知っているけれど息子だから叱らなければならないから叱る。自分だってそうだ。親だから、自分を理解して欲しい、ケンカするなり喋るときでも本音で向かい合いたいと思ってしまう。これがそれこそ友達とか教師だったら、とっくに無視している。二人きりの家族だから、というわけではないが、無視してはいけない、大切にすべきだと思い、向き合うとこうだ。
 あの後、母のペンどころか、物が全部なかったことを親父から聞かされた。妻が死んだからって、物を全部大切に取っておくのも考えものだが、全部捨てるっていうのもどうなのか。
「母さんの物がない。」
「そりゃあ、捨てたからな。」
 えいしょっ、と言いながら、親父は床に座った。
「えっ。どうして。」
前に進むためだとかいうセリフが帰って来たら、豆腐でも投げつけようかと思った。
「ああ? 捨てた理由? いつまで取っておいてもどうしようもねえじゃねえか。埃まみれになって古くなっていくばかりだしよ。おれはこれで十分だ。」と親父は写真アルバムに指を掛けた。
 まあ、確かに、と思ってしまったので、豆腐は投げなかったが釈然としなかった。写真。思い出。その人がいた証拠? 思い出が心にある限り、その人は心の中で生きている?
 それは空論じゃないのか? おれが想像する未来や証明する数式と何が違う? 見えないのに。なんだっけ。かんじんなことは、目に見えないんだ、だったっけ。そのまえにも何かセリフがあったような。それに何の本だったか、映画だったか。

 昨日、引き出しを開け、奥を覗くと、ルーペが隅にあった。すぐにそれを二階に持って行って、埃と黴がこびりついたレンズを磨いた。大切にしようと決めた。多分、母さんの物だろう。もう最後の遺品かもしれない。大切に持ち続けていれば、釈然としないこの感覚の謎が分かるかもしれないと思った。
 ふうとため息を吐いた時偶然、窓の外で風が強く吹く音が聞こえた。外を見ると、ピンクとオレンジ色の背景に淡い色の雲が轟音を立てて窓枠の外へ流れていった。思わず笑ってしまった。
「ねえ、ルーペを貸して。」とみいが言った。
「これ?」おれは自分の首から掛けられているそれを指した。
「うん。いい?」
 おれは首からそれを外して、みいに渡した。
「こうやって、見るのがいいんでしょ?」
 みいはにっと笑って、ルーペを片眼に当てて、窓の方を向いた。
「何がいいって?」
「あれ、前にそんなこと言ってなかった? 夕日をガラスを通して見ると元気が出る、みたいなこと。」
「言ってない。」
「そう? うん、でも、あんまり元気は出ないかな。両眼で見ると、なんだか酔いそう。片眼だとね、不思議な絵を見てるみたい。」
 その不思議な絵を見ているみいの眼をおれは見た。瞳の上にルーペの反射で濃くなる夕陽の色が掛かっている。
 もう外は暗くなり、グラウンドにいた部活は片付けていた。それでも、おれの眼にはさっきまで見ていた燃えるような赤の夕方とルーペの向こうのみいの眼の光景が見えていた。きれいだ。
「さあて。家に帰ろう、粲。」みいが伸びをして、机から降りた。
 このまま眼を閉じて、寝たふりをしようかな。いたくない場所になぜいなければならないのだろう。分からない。それが当たり前だからという答え以外で誰かおれを説得して欲しい。少なくともこの瞬間には居続けたいと思える。さて、それはどうすれば可能だろう。
「もう帰る時間だぞー。」廊下で触れ回っている大声。
 脚の下にあった机をみいが引っ張り、脚ががくんと落ちる。
「帰るか。」とおれは仕方なく笑った。
みいが当たり前だよ、帰らなきゃともう一つ机を引っ張った。それから、みいが窓から引き剥がすようにおれの背中をばんっと叩く。
「元気出せっ! 帰りに、うちのコロッケ持ってっていいからさ。」
「なんか、お父さんに似てきたな。」
「えっ、嬉しくない。」
「そういえばさ、かんじんなことは、目に見えないんだ、っていうセリフって誰のセリフか知ってる?」
「星の王子様でしょ。小学校の時、暗記させられなかった? 心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。ほら、言えた。」
「それを小学生に暗記させて言わせるの、相当気持ち悪いな。」
「なんか、粲はそう言う気がした。」
「なんでだよ。」
 喋っているうちに教室から出ていた。暗い廊下に響く足音と声だけが聞こえる。廊下の終わりは電灯のせいで真っ白だった。

 

3.水面

 輝いているのは眼か。それとも水面。緑葉の隙間から漏れる木漏れ日。雲間から現れる太陽光。色素を持つ植物。おれの眼鏡。
 池の上に掛けられた小さく短い木の橋の上で、柔らかい小麦色の彼女の手を握っていた。この奇跡のような美しい景色同様に、二人きりで横に並んでいるこの瞬間も、色鮮やかで、それでいて淡く、もはや耐えがたい程のこの幸福感がすべて、おれの瞼を重くしている。でも、目を瞑ったら、もう見られないかもしれないと思うと瞬きも出来ない。
「目が痛え。」と思わず目頭を触ろうと指がレンズに当たった。
 みいが吹き出して、いつものように笑う。
「ほら。」とみいはおれの目の前で手のひらを見せた。
 かと思うと、一瞬のうちに目の前が灰色になり、それから、色と明るさがぼんやりと戻った。みいが眼鏡を取ったのだ。
「うわ、度、強っ。こんなに眼悪かったの? 掛け始めたの最近だよね?」
 まるで印象派の絵画のように輪郭がはっきりしない色の海が周囲に広がっている。横にいるみいもぼんやりと見えていた。
 思わず手を伸ばしていた。左手で橋の手摺の縁を、右手でみいの頬を。景色は別にいいが、みいまでぼんやりと景色に溶けるのは恐ろしい。
「大丈夫? まだ痛い?」
 その声で目が覚め、急いで言う。
「大丈夫。」
 指と指の隙間にあるその流れるような感触を見て、溶け出しているのは、本当はおれの眼球なんじゃないかと思った。しかし、この景色に恐怖を感じていると肯定するのは悔しくて嫌だった。
「レンズ好きとして、眼鏡はどう?」
「どうって、あのさ。」やはり目を閉じてしまって、ついに言う。「見えないから、返して。」
 みいは小さく笑ってから、ごめんごめんと言って、ほらと眼鏡を外して手に持ち、おれの手に眼鏡を置いた。なんだかほっとしてしまったのが少し情けなく思った。
「ちょっと待って。もしかして、今、私の顔、見えてないの?」
 眼鏡を掛けようと持ち上げたときに、みいがそんなことを言い出す。
「ぼんやりとしか。」
「へえ。」
 なにが、へえ、なんだろう。顔がよく見えないし、分からない。
「ねえ、じゃあ、ちょっと屈んでよ。掛けてあげるから。ほら、デートっぽいでしょ。」
「そういえば、デートだった。」定例報告会のような気分でいたのだ。
「それは聞き捨てならない。」とさっき手渡したばかりの眼鏡を彼女はまた取り返した。
 橋の手摺を左手で掴みながら屈むと、当然のように彼女は眼鏡を掛けることをしなかった。
「みいのくせに。」取り返した眼鏡を掛けながら、掴んでいた橋の手摺に頬杖をついた。
「うわあ、粲、顔赤い。かわいい~。」みいが笑いながら、橋の上で跳ねている。
「思えば、みいはやたらとキスする。何? キス魔なの?」
 それを聞いた彼女はげらげらと笑い出した。
「粲じゃないとできないよ。」
「いや、そうじゃなきゃ困るけど。」
「そんなふうに言っちゃう粲好き! 大好き! 愛してる! I LOVE YOU!」
高いテンションで、まるで何かを斬り捨てていくようにそう言った。このあと、何を言うのかと頬杖を橋についたまま彼女を見つめていた。すると、
「ほらね、そういう顔をする。いくら言葉で言ったって、伝わっていないみたいで不安。キスなら言葉よりも分かりやすい気がして。」打って変わっていつものテンションで言った。
「なるほど…?」
ん? ということは、おれの気持ちも伝わっていない可能性があるということか? でも、だからといって、その代わりにキスしようなんて思わないな。いや、そもそも、気持ちの伝達の為にキスをするのか? なんだ? よく分からない。
 池のほとりをぶらぶらと歩いている間、しばらくその考えが離れず、ついにみいに聞いた。
「おれはみいのこと好きなんだけど、それって定期的に言わないとみいが不安ということ? いや、言ってもあまり伝わらないっていうこと?」
「何を言い出すかと思えば。さっきのこと、ずっと考えてたんだ。」軽くみいは微笑む。「うーん、そうだなあ。えーっとね、今、上手い言い方を考えるから待って。」
 みいが考え付くまで、二人は池の周囲の並木の下をただ黙々と歩いていた。
「私は粲のこと大好きだけど、粲がどれくらい、どんなふうに私を好きでいてくれているのか粲の言動以外に知る方法は無いんだよね。そういうのを全部知りたいって思っちゃうんだけど、不安っていうか、私のわがまま。言葉でしたやり取りだけじゃ、足りないんじゃないか、見えていない部分があるんじゃないかって、つい考えてちゃう。粲が悪いんじゃなくて、ほんとにどうしようもない私のわがままなの。」
 足を止めて、みいの眼を見た。瞳の中にぼんやりとおれが映っている。
「どんなふうにとか細かい理由を考えられるような奴じゃないよ、おれ。美味しいものは美味しいし、綺麗なものは綺麗で、好きなものは好き。どれくらいっていうのも無い。0か1なら1。」
「知ってる。でも、知りたいと思って確かめずにはいられないのが恋心なんですなあ。」彼女は朗らかに笑った。
「難しいな。」
 ここには誰もいなかった。当たり前だ。祝日でもない平日の昼下がりに町はずれの公園。みいは学校の創立記念日。おれは自主休校日。
 のんきで穏やかで色鮮やかな休日。緩やかな風に時折靡く彼女の髪の裾を隣で見て、もう何も望むことはないと思う。しかし、おれがそう想っていることをみいは知らないし、そういうことを知りたいと思っている。不思議だ。思えば、おればっかり楽しくて、みいがどんな気持ちでおれと一緒にいるかだなんて知らない。みいも好きだって言うから、それならいいと思っていた。そう、思ってばかりいて言葉にしなかったら、それはそれで彼女は不安なのだ。でも、この幸福の景色をどう伝えればいいのだろう。みいの言う通り、一緒にいて幸せだよという言葉だけでは何かが違うし、明らかに足りていない。あまりにも幸せという言葉が抽象的で嘘くさい。
「そうだ、粲は学校で女の子に告白されたりしないの? それこそ不安だよ。」
 歩き疲れて、池の傍のベンチに腰を下ろしたとき、みいが聞いた。
「不安? そうなの? みいの方がそうなんじゃないか?」
「私の方は彼氏いるってみんな知ってるし。就職目前でお互いがライバルだから、恋どころじゃないよ。問題は粲だけ。なにせ前科があるもん。」
「前科?」
「案外モテるからな。粲が好かれるのは嬉しいんだけど。高校入ってから数回は告白されたでしょ?」
 誤魔化す前に、みいの目に見破られる。ちっと舌打ちすると同時にみいがふふっと笑った。
「何回?」
「二年分?」
「うわー、もうその返事で大体想像つくよ。そういうときって、どうやって断るの?」
「え、聞きたいの?」
 聞きたい、というのでつい先日の出来事をおれは物語った。マイルド改変して。それが嘘かどうかは、いや、嘘だな。なぜかって、この話にはもう一つの話が絡みついて離れないからだ。それをみいに、今日この日に、わざわざ話す気は無かった。

 教室のみならず、校内には電灯が無い。夜のような闇では無く、逆光で見えない景色のような黒さだ。色は周りにあるはずだが、肝心の光が無いため色が無いように見える。毎日、夜の海に潜水しに行っているような感じだ。ノートの行間に沈んでいく自分。浮上するのはみいと会うときだ。
 おれは数日前、中古で、しかも商店街のよしみで相当まけてもらい、念願の一眼レフを購入した。今度、みいと出かける約束をしていたので、そのときに持って行ってたくさん撮ろう、それまで上手く撮る練習をしなくてはと考えていた。何を撮ろうかと考えた時、あの黒の教室と五時の教室を撮りたいと思った。だから、この日だけ、カメラが鞄に入っていた。
「ちょっといい?」
 声に起こされて、顔を上げると誰かがいた。
 五時になるまで待っていたら、知らないうちに眠りに落ちてしまっていたらしい。重い頭を上げると、四時半の夕日がその女生徒を黒く染めていた。
「何?」
「話があるんだけど。ここに来て。待ってるから。」
 手の下にメモがすっと差し込まれた。いったい誰だろうか。確かめる間もなく、その人は消えていて、教室を見渡すと数人が談笑していた。目が合うと、逸らされた。
 あと三十分か。仕方ない、気になるから行こう。おれは鞄を持って、席から立った。手の平にあるメモを見る。『ボイラーフェンスの前』。
 白いフェンスの中に白く大きな箱、ボイラーが三つほどある。夕日に照らされ、今は橙色だ。ここは校舎のどの窓からも死角であり、狭いが、人は来ないところだった。が、おれは既に入学当初から、何度かここに呼び出されており、すっかりお馴染みの場所となっていた。
「粲君。」
 髪が長く、背も高く、すらりとした影がいる。
 鞄を肩に掛けたまま、おれはフェンスの横に突っ立っていた。影がゆっくりと近づいて来る。
「前から好きなの。付き合って下さい。」と彼女が言った。
「ごめん。それは出来ない。今、付き合っている人がいて、その人が好きなんだ。だから、」すぐにそう答える。
 ざっと靴が地面と擦れる音がする。さっきよりも距離が近い。
「私は構わない。あなたが誰を好きでも構わないから。」
「おれは構う。無理だ。だから悪いけど、」
 人影から二本の黒い腕が伸びて、フェンスごと首を掴まれた。
相手の眼を捉えようとしたが、まるでこちらを見ていない。力ずくで引き離そうと相手の手に手を掛けた。
「私を好きに使っていいの。見返りなんて要らない。お願い、傍にいさせてよ。」
そう言って、彼女はおれの手を無理に引っ張った。
「無理。」
ああ、嫌だ。思わずため息をついてしまう。
「どうして? あなたのためなら何でもするのに。」
「なら、諦めて。」
 彼女はしばらく何も言わなかった。教室へ戻るため、おれが横を通ろうとすると、彼女は自嘲気味に笑い声を上げた。
「噂は本当なのね。私を覚えていないんでしょ? あんたは自分のこと以外見えてない! 最悪、本当に最悪。なんでこんな奴、好きになったんだろう。おまえなんか、死ねばいいのに。」
 言ってやったと一人で勝手に狂うように笑っている。なんだか楽しそうだ。ああいう酔っているやつは中高生なら許されるのだろうか。  
今のうちにおれもなんかやっておくか。昔ながらにバッドで窓ガラスを割るとか。とにかく、さっき教室で寝ていたときに見た夢の方がよほど現実的だった。後ろからまだ笑い声が聞こえていたが、耳に残るようなすすり泣きにも聞こえて、結局は自分が相手を傷つけたのかと後味が悪かった。
 五時近い。地面さえも夕焼け色に染められ、赤かった。ただ、今日は幻想的な紅葉のような美しい景色では無く、安っぽいファンタジーのようなグラデーションだ。疲れた。今日は撮るのをやめようか。
 フェンスの終わりは校庭の端で、手入れされていない木が雑に並んでいた。人間も三人並んでいる。揃って全員、こちらを見ていた。
 ふと考えていた。おれはそんなに弱そうに見えるのだろうか。強そうな外見だったら、手を出さないはずだ。眼鏡を掛けていて、痩せていて、運動部じゃなく、テストの点がいいと総じてガリ勉で力が弱いと思うのだろうか。そうかもしれない。
 向かってくる三人に笑みは無かった。特に中央の奴。相手は賢そうな優等生っぽい外見だ。外見だって、おれと大差ない。こっちから見ても、相手は強そうには見えなかった。
「何笑ってんだよ。」気が付けば目の前にいる中央の奴が言った。
「何の用?」
 目の前の相手は本気で顔面を狙ってきた。学校の敷地内で殴ってくるなんて相当だな。不本意だがケンカ慣れしていたおかげで、一発目はかわしたが、これからどう対処すればいいのかは迷ってしまった。無視するか。相手にするべきか。だが、三人だ。やられてもおかしくないが、相手をしないと面倒なことになりそうだしな。ボコボコにされても、おれが教師に言わないことを知っているのかもしれない。
 これから、強そうなイメージを持ってもらう為になんとか試してみよう。そう決めて、鞄を下ろし、遠くに滑らせた。
 相手はめちゃくちゃに攻撃してきた。的確にやっつけたいという感じでは無く、ぶっ潰してやる、痛めつけてやる、というような。とにかく暴力は久しぶりだった。だからか、加減が難しい。おれは相手に強さを見せつけたい。勝てばいい。手段を選ばないのなら、胸ポケットに入っているシャーペンで相手を刺せば勝てるだろう。だけど、それは違う。最低限どの程度で、おれがそこそこ強いということを理解するのだろうか。
 などと、考えているうちに普通の殴り合いになってしまった。右のやつを普通に殴って、叩き伏せたのはいいが、こいつを人質にとれば終わるかと考えていたところ、中央の優等生に頭を殴られ、左には腹に蹴りを入れられてしまった。長く続けて、お互い力尽きて、仲直りということもこれではないだろう。
「どうやったら終わる?」聞いて返って来たのは拳だった。
 じゃあ、やられようか。地面の影も伸びて来たし、帰り時だろう。そう決めて、立ち上がろうとしたとき、顔面に膝が入った。
 まるで花が散るように、血と夕日を通したレンズが目の前を舞った。そのあとで、線香花火が暗闇の中、ぱちぱちと光る。眼元に黒い液体が流れ、風景の色も流れている。いつもの景色が九十度回転していた。黒く細い腕が四本、おれの鞄に伸びているのが見えた。
 走ったが、走ったのはイメージだけで、おれの足は実際動いていなかった。おれは泣いているのだと思った。景色が溶けて、夕方の赤に飲み込まれていく。
 悲しかった。美しい景色を映すはずだったそのレンズは透明な刃物になっていた。土の上を叩く靴の音が地面から聞こえる。口の中が鉄よりも土埃のせいで渋く感じた。
 おまえらは今までいったいどんな景色を見て来たんだ? 何も見えていないのだろうか。あいつらの目なんか腐り落ちればいいのに。暴力がコミュニケーションの一種なら、おれがやったって構わないはずだ。そういうことだろう? 同じ言葉で話せと言ったのはそっちが先だ。
 優等生野郎の膝を蹴りつけて、地面に倒し、足で体を押さえつけて、カメラのレンズの破片の先を眼球に突き付けた。そいつの眼球の中で瞳が花弁のように広がる様を見る。
 それを眼にしたとき、ぼんやりと、潰すべき目はおれの方かもしれないと思った。毎日、同じような表情の顔に同じ内容を繰り返されて狂いそうになる会話というノイズ。同級生たちは楽しそうなのに、楽しいらしいその景色を見れていないおれの目の方が悪いのかもしれない。いかれているのはこっちの方か。どちらを潰そうか。北欧神話の神オーディンは片目を失う代わりに言葉を得た。おまえは何を得るだろうか、おれは何が欲しいのだろう。
 答えが出ずに、レンズの破片を握りしめていた。フェンスの間であの女生徒が一部始終を見ていたことにおれはようやく気が付いた。
 結果、手の平に傷だけが残った。後日知ったのは、あの三人が割と真面目な生徒だということ、控えめに言って、おれを不快に思っていたことはクラスの周知であること、あの告白女はおれに告白したのは二回目で、一回目振られたことを恨めしく思って、わざともう一度告白するふりをして、あの場所に誘い出し、そのことをどうやってか彼らに伝えたということ。恨んでいたから都合よく人に攻撃させたのだとか、痛めつけられるおれを見たかったとか、好きすぎて傷つけたかったのだとか色々ともう散々だった。
 そういった情報も立ち代わり現れる勝手な情報提供者が勝手に言ってきたことで知ったのだから、本当も何もあったもんじゃない。ただ、全員が似たようなことを念珠のように繰り返したのだった。
 言葉では理解し合えないと思ったから、最終手段として不条理にも近い暴力で彼らはおれにコミュニケーションを図ったのだろう、と考えてみた。きっと不条理なのはおれの方なのだ。お互い認知しないのが最善の策だとおれは思うのだが、彼らは真面目だから良識的判断でおれの存在を認めなければという前提で考えて来たのだろう。この件で彼らの価値観も多少は変わったかもしれない。
 自分の場合はというと、あれ以来、以前よりも学校という場所がどうでもよくなってしまった。しばらくは、いつも通り変わらずにいたのだが、窓を見る度に、なぜおれは自らこの景色を見ているのだろうかと始終考えるようになった。どうして毎日、黒い部屋へ禅修行のように通っているのだろう。
おれはこの教室の窓というレンズだけで満足したくない。もう十分に見た。この先もそうなのだ。大学の窓、会社の窓、家の窓に病院の窓。レンズというのは良くも悪くも視点を強制させる。同じ景色しか見られないなんて、狂ってしまいそうだ。
「で、彼女がいるからって断った。」
「またぶっきらぼうに言ったんじゃないの?」
「そんなことしない。」
 どうだか、と言うようにみいはおれを見た。その眼はおれを魅了する。昔から大好きだったその眼。どんな嫌な景色を見ても、見ればファンタジー映画を見てるみたいに楽しくなる。その輝きを見ていれば、自分の眼までその星が映りそうな気がした。
 池には水と空が混在している。見えている草は水の中なのか水際なのか地面に生えているのかは区別がつかない。周りの木々の多様な緑がぼんやりと重なり合いながら水の上に揺れていた。雲の上にある太陽からの光が鏡のような反射を生み出している。連鎖する色の粒が繊細で、淡く、波のように心震わせるこの景色を成しているのだとしたら、それは眼のおかげなのだろうか、光のせいだろうか、水面の反射の効果なのか、みいといて幸福を感じている自分の心が見せている幻なのだろうか。そしてこれ以上、どんな景色を望めばいいのだろう。



4.鏡

 この部屋にもう一人いるとしたら、それはみいではなく、鏡に映った自分だ。死んだような眼で己を見返しているが、その手はネクタイを結び、一応、容姿を整えている。
 窓ガラスの横に置いた自分の背よりも高い姿見が人間のように立っていた。
 鏡の横にはベッドが置いてある。その端に座り、スプリングを感じながら、脚を組んで、鏡の中に映る部屋の隅を見ていた。鉛筆で描いたようなx軸、y軸、z軸がある。
 横を向くと、部屋の隅に肘掛け椅子があった。研究室の引っ越しの時に貰ってきたものだ。この部屋で一番人間味があるのは、あの椅子だろう。何年も研究室で使われてきて、年の功のような疲弊感があるのだ。
 これが部屋のすべてだった。物が二、三あることで余計に空虚感が出ている。腕時計でまだ時間があることを確認し、出発の時間にアラームをセットした。うっかり寝過ごしてしまったら、今日はまずい。いつも大抵のことは雑なおれでも、今日だけはまずいと分かっている。完成するはずのパズルのピースを失くすくらいにまずい。
 ピースといえば、この間、久し振りに三日月を見た。公園のベンチで考え事に集中していたら、ふと、顔を上げると夜で、斜め上に月が光っていた。そういえば、肌寒い。横に置いていた上着を着て、考え事を一端中止し、月見でもしようかという気になった。
 どう見ても、月は欠けているように見える。しかし、あれは欠けているわけではなく、失くしたわけでもない。影が追加されているのだ。月の満ち欠けというのは、真実を知らない地上の人間の客観的事実から想像した現象で、真実はそもそも月自身は光っておらず、光を反射しているだけというもの。普通はそんな真実、ヒントなしには思いつかない。それにしても、月や星自体が光っているという先入観は何なのだろう。
 空を切るような音が聞こえた。辺りを見るが、暗くて木の影さえも分からない。周りに街灯がないのだ。人の気配もしないし、建物も見当たらない。そういえば、ここはどこだっただろうか。
 まあ、どこでもいいか。考えごとをするために良さそうな場所を探していたら、ここまで来てしまったのだろう。人や物があると、それらの情報が邪魔で、考えに集中できないからな。
 ベンチから立ち上がると、遠くに小さな白い光が切れ切れに見えた。恐らく、公園の周囲には木が生えていて、そこを抜ければ、どこかの街に出るはずだろう。そこでタクシーでも捕まえればいい。明日の予定は、と頭の中で透明な円柱を回す。脳内の永久カレンダーだ。『みい 授賞式(17時・イノベーションホール)』と書いてあった。授賞式は覚えているが、みいの方はどうだろう。会う約束をしただろうか。したのなら、場所と時間が書かれているはずだ。それとも、会おうと思って、書いたのだろうか。みいが授賞式に来るのか? 曖昧なメモだな。
 街の灯りが見えた方向直線に進んでいたが、当たり前のように踏み出した右足がまるで元から無かったかのように感じられたその瞬間、身体が宙に浮いた。胸の辺りが冷たい。口の中に黒い水が流れ込んでくる。分かってる、池か沼か知らないけれどおれは落ちた。ああ、これでタクシー拾いにくくなった。
 一歩踏み出して落ちたのだから陸はすぐそこにあるはずだが、違う考えが浮かんで、すぐには地面に戻らなかった。さっき着た上着を脱いで、手を伸ばした先の草っぽいところに置いてから水に向かう。  
体育の授業が無くなり、運動をしなくなってから何年というところだが、出来る限りやってみよう。
 水面と平行にしばらく泳いでから、適当なところで潜ってみる。眼の縁が水のせいで痛いが、それでも目を凝らしてその暗闇の中を見ていた。そして見つけた。
 すぐにその全貌が分かった。ガラス張りのハウスだ。田舎の農家にあるビニールハウスの形で、ビニールでは無く特殊ガラスで出来ている。
 なんだか、ここじゃないかという気がしていた。当たりだ。ガラスを伝って、入口か中にいる人を見つけようとした。横の側面にいるので、入口が右なのか左なのか見えない。ガラスの中は電気が点いていないので、水の中と暗さが変わらず、人がいるかも分からない。地面の方角に入口を付けるだろうか、それとも、反対側に付けるだろうか。このハウスが地面と繋がっているのなら前者だが、孤立して水の底にあるのなら、後者の可能性もある。
 結局、地面側の方を選び、左側を泳いで行った。予想は当たったが、入口は無かった。おそらく地面下から続いているのだろうコンクリート製の四角の廊下が直接ハウスに繋がっていて、そもそもハウス自体には入口が無かったのだ。もう息が続かない。仕方ない、浮上しよう。そう考えた瞬間、閃光のような白さが視界を襲った。驚いて口から空気を逃したが、息をすることを忘れていたらしく、特に気にならなかった。
 電気を点けた相手も相当驚いたらしい。スイッチがおれの目の前にあったらしく、点けたと同時に向こうもこっちに気が付くことになったのだ。若い男が水の底に驚いた顔で漂い立っているのはかなりシュールな光景に違いない。
 さらにおれを驚かせたのは、ガラス板を一枚、押せば傾いたことだ。よく見えない中の誰かは隙間からおれを入れてくれた。引き上げられた魚のように、乾いた地面の上で、水浸しで倒れたまま、最後にうっかり飲み込んでしまった水を吐き出した。
 見知らぬ人は、バスタオルを持って来てくれた上に背中をさすってくれ、手を貸して立たせてくれた。マッドサイエンティストのアジトではないのかもしれない。
「落ち着きましたか?」低く静かな声。妙なアクセント。外国の人か?
「助かりました。」水のせいで声が潰れている。
 バスタオルで頭と顔を軽く拭いてから、ようやく相手の顔を見た。白髪交じりの人の良さそうな笑い皺が目元に入っている初老の外国人。
 一方、相手はまたもや驚いた顔をしていた。
「君は、佐藤粲君かい?」
「はい、そうですが。」顔で名前が分かるほど知られてないはずだ。
「会えて嬉しいよ。私はN・フェルナンドだ。」と彼は手を差し出した。
「助けて頂いてありがとうございます。」握手を返しつつ、未だに事態が分からず、心中で首を傾げていた。
「そうか、君が私を知らなくて当たり前だね。ここではなんだから、奥で話そう。向こうの方が暖かいはずだ。」フェルナンド氏はハウスの奥を指した。
 分かりきっていたことだが、この空間は異常だ。室内の六分の一程はビニールハウスと同じく野菜を育てているらしいが、徐々にそれは観葉植物になって、背の低い草花になり、気づけば日本庭園となっていて、ししおどしと小さな人工池があった。反対側はカフェテラスのようで、白い椅子二脚と丸テーブル、横に長い本棚が壁際に置かれている。すべてはフェルナンド氏のセンスだった。
 勧められた片方の白い椅子に座る。どうぞと花が描かれた高そうな茶器を差し出された。ハーブの匂いだ。
「ここで採れたハーブなんだ。」と嬉しそうに言う。
「いただきます。」
 のんびりと自分のハーブティーを飲んでいて、一向に話す感じのないN・フェルナンド氏についにおれは聞いた。
「どうして私の名前を知っているのですか?」 
「ふふ、“私”か。君は写真で見るより、大分幼く見えるね。私は資産家で、これから会社を立ち上げようとしているんだが、それにはどうしても君の才能が欲しくてね。明日の授賞式で、直接君を勧誘するつもりだったんだ。それがまさか、本人が水の底まで来てくれるだなんて。最初はてっきり、私を知っていて会いに来たのかと思ったよ。いや、ここは誰にも話していない場所だから私を知っていたとしても知らないはずなんだがね。どうしてこんなところに?」
「この場所はばれていますよ。都市伝説のように、水中のアジトと噂されています。この近くまで来たので、ちょっと見てみようかと思って。」うっかり落ちたと言うと面倒そうだったのでやめた。
「君もなかなかの冒険者だなあ。ここはアジトというよりは、私のプライベートルームという方が正しい。地上にはもう完全なプライベートな場所は確保できないんでね。」
「いずれは、海の底ですか? まるでネモ船長みたいだ。」
思えば、名はNだと言っていた。しかし、随分能天気そうなネモだな。
「冒険と芸術を愛するところだけしか共通点は無いがね。どうだ、抜け駆けかもしれないが、私の会社に興味は無いかい?」
 そのきらきらと少年のように輝く眼を見て思った。子どもの夢を実現できるのは、金持ちだけかもしれない。
「どんな分野の会社なんですか?」
「君の頭の中にあるアイディアを現実にする会社だ。いくらでも出す。設備も整えよう。」
「なぜ会社を作るんですか?」
「見たことの無いものを見てみたい。立場上、社会奉仕活動もしたが、どれも似たようなものばかりで本当に役に立っているとは思えない、自己満足でしかないというのが頭から離れず、それが唯一の罪悪感なんだ。それしか罪悪を感じられない程の人間だ。私含め、凡人の憂鬱を打ち破るくらいの天才をみんなが待っていたんだよ。これは自論なんだが、天才とは無から有を生み出す存在だと思っている。私は君こそそうだと信じた。迷ってもいい。他にもう声を掛けられているかい?」
「ええ、まあ。」
でも、大手には他にもたくさんの人がいることだし、そういうところでおれに求めているのはアイディア製造マシンになることだ。
「私には金しか無いが」とフェルナンド氏は席から立ち上がり、ガラスの側に立った。
「君はいま何か現実化したいアイディアがあるか?」
「そうですね…。」氏の背後のパネルには様々な絵画作品や写真が一面に掛けられていた。
「この部屋の模様替えをしたいです。」
 そう言うと、彼は一瞬真顔になり、しばらくしてから笑い出した。
「例えば、どんな風に?」
「砂漠と氷山と野原が水の中に同居するような場所。あなたの後ろにあるパネルみたいに。」おれは指さした。N氏は振り返り、それから笑いつつも首を傾げた。
「このガラス板をモニターにして映像を映すということかい?」
「それだけじゃ、つまらないでしょう? 眼に映すのは本物でなくては。」考えるのが楽しくなって、思わず口元が綻んでいた。「そうですね、それにはいくつか方法があります。実物をここに置く。つまり、砂漠と氷山と野原が同居できる環境をここに作り出す。もしくは、眼自体を変えればいい。」
「粲! 起きて。」
 声がして、はっと目が覚める。眠ってしまったらしい。目の前にはベッドに座った自分自身と背後の遠くに立っているみいがいた。鏡だ。
 振り返ると、みいがいる。
「寝不足? 声掛けても、なかなか起きないんだもん。」彼女はベッドに片手を付いて体を支え、おれを見た。
「夢を見てた。」
「怖い夢?」
「いや、なかなか面白い夢だった。」なのに、苦しいと思うのは何故だろう。
 みいは慎重な顔をして、身体を支えていない方の手でそっとおれの右の目元に指の腹を当てた。ああ、そうか。おれは泣いているのか。
「私も粲の眼を通して同じ景色を見れば、少しは粲の感情が分かるかなあ。」
 みいが寂しそうな顔で優しく笑った。
「どうだろう。」試してみる価値はある。
「あっ、粲! 時間、時間! 遅刻しちゃう! 急いで!」
 みいがそのまま、どん、と両手でおれをベッドから押し出し、大慌てで玄関に追いやられた。
「行ってらっしゃい。私も嬉しい。粲の夢の第一歩だね!」みいがぎゅっと手を握った。
「ありがとう。」
そんなに嬉しいことではなかったが、みいが喜ぶなら、受賞されて良かったな。何はともあれ、第一歩であるには違いない。
 玄関のドアを開く前の、部屋の暗さが及ぶそこまでは、おれの眼も少し笑っていただろう。ドアを開くと、外の光で一瞬景色がすべて白く見えた。まぶしい。思わず、瞬きをした。
 正面を見ると、黒い誰かがいた。自分の顔からさっきまでの表情が消え失せていくのが分かる。急いで、後ろを振り返るとみいはいなかった。代わりに部屋の奥の鏡が見えた。おれは映っていない。知らない人物が目の前にいる。黒い誰か。見知らぬ人物。黒い手がこちらに伸びて来て、頭を抱かれた。視界が暗くなり、眼を閉じる。
 はっとして顔を上げると、目の前に鏡があった。ベッドに座った男がまともじゃない目つきでおれを見ていた。思わず目頭を押さえて、そのままベッドに倒れる。時計を見ると、十七時十分。ホールまで車で三十分。携帯を見ると、連絡通知で画面が埋まっていた。それらを無視して、タクシーを呼んだ。
 タクシーの窓の端から端に流れていく景色を見ながら、夢を遡っていた。あの夢のほとんどが真実だということは認めなければならない。みいと以前似たようなやり取りをしたことがあったし、特にネモ船長もどきは心当たりがある。今日の授賞式は、ある意味、おれ自身の競りであるということを心のどこかで恐れていたのだろう。ペンをポケットに入れ、書いたページをノートから切り離し、折りたたんで、それもポケットに入れた。
 ホールに入ると、怒っている見知った顔が並んでいた。それらを無視して、おれは控室付近にいる黒いジャンパーを来たスタッフに聞く。
「舞台袖はあっちでしょうか?」
「え、あ、はい。」ああっ、どうぞ、こちらですと本当に訳が分かっているのか分からないような様子でおれを舞台袖まで案内した。
 佐藤さん来ました、という司会者と舞台裏のやり取りが聞こえる。
「…大変お待たせいたしました。今年度の受賞者、佐藤粲さんです。」
 波が打ち砕けるような音の拍手が聞こえた。舞台中央に台とマイクがある。その前に立つと、会場が見えた。半弧状のホールにたくさんの眼。校長先生はいつもこんな気分だったのだろうか。寝ている奴がいれば、確かにすぐに分かるな。マイクのスイッチを入れる。スピーカーが鳴った。寝させるつもりはない。きっと、面白いことになる。そうしよう。
「遅れてしまい、大変申し訳ありませんでした。佐藤粲です。自己紹介はうんざりする程、司会者の方がしてくれたと信じ、省きます。今回の受賞に関してですが、私自身はこの賞を頂くことを納得していませんでした。自分の中では中途半端な研究だったからです。ただ、研究を完成するためには皆さんのお力が必要だと思い、受けることにしました。さて、前置きはこのくらいにして本題に移らさせていただきます。」
 指揮者の気分だ。今、手を振り上げれば、皆その手の動きを追うだろう。
「私は、このスピーチが私自身を売るためのセールスだと思っています。いわば、このホールは競り会場です。過去の研究の話は置いておいて、これからの私自身の価値について話そうと思います。まずは、」ポケットからさっきのノートのページ取り出した。
「これです。これを思いついた為、遅刻してしまいました。ここには、机上の空論に近い今回の受賞作を現実化するアイディアが書かれています。魅力的な眼についてです。勘のいい方はもうお判りでしょうか。はい、どうぞ。」
 目の前で片手を大きく振っている男性がいた。ざわつく会場を感じつつ、舞台を降りて、マイクを渡すため近づくと、驚いたことにあの初老の外国人だった。
「そのノートの切れっ端は、ばら売りかね? それとも、君とセットかな?」
「残念ながら、私とセットです。」笑いを堪えながら答えた。周りもクスクスと笑っている。
 これから、どうなるかは見当もつかないが、これで正解だと感じた。まるで水を得た魚のようにおれはここを泳いでいる。どこまでも行ければいいが。どこまでも自由な眼を持つ者は、どこまでも泳いでいける。

  


5.夢のような世界

 ツ、ツ、ツ、ツ、と裏拍子を取る白い歯が見える。
ここ三丁目の柳通りでは、例年クリスマスはさほど盛り上がっていない。だが、今年はどうだろう。なんて素晴らしい。イブの一週間前にはドロップスのようなネオンが通りを飾り、どこかから突然現れた真紅の制服の楽隊が黄金色の音符を吹き鳴らす。白いコートの美人の脚が幸せそうに前を行き、トナカイの角の被り物をした子どもたちはネオンが反射する黒いコンクリートを駆け抜けた。
 これはいったいどうしたことか。この通りにいったい何が起こった? まるでティンカーベルが粉をここだけ集中的に振りかけたようなありさまだ。
 私はとっとと家に帰って寝てしまいたいと思う気持ちを忘れ、目の前を過ぎていくトランペット隊の後ろをついて行った。
 昨日の夜、雨が降ったせいか道に残った水溜りがまるで鏡のように通りを映しているので、私はクリスマスに両挟みにされているような気分になった。オーナメントのように宙に浮かされているような心地。この金管バンドの陽気な音もいっそう浮遊感を助長している。
 着いた先はこの通りの中央で、今はクリスマスツリーが立っていた。ロックフェラーのように巨大ではないが、真下からだとてっぺんの星が見えないくらいには大きい。楽団はツリー前で扇形に並び、ビッグバンドをやっていた。
「ピアーノッ!!」
 気づけばいた男性シンガーが叫んでいる。ピアノなんかいないぞ、と辺りを見回していると後ろからピアノの高音が聞こえた。ジャズアレンジのジングルベル。
 振り向くと、誰もいない。今度は前から聞こえる。またツリーへ顔を戻すと、そこでは車輪の付いたピアノに乗りながら、赤鼻を付けた若い女がペダルを漕いでピアノを弾いていた。
 夢かな、そう思いながら音楽を背にする。ここのところ、仕事で疲れてたから。子どもが走って来て、後ろから追いかけて来る友達を見て笑いながら、私にドンとぶつかった。
「ごめんなさい!」
さっきまでの笑いを残した顔で私に言い、ツリーに向かって走って行った。彼の友達にはぶつからないように、私は店の軒下を歩いた。
ショーウィンドウの中はよりきらきらしていた。その黄金色に近い暖色にいったいどんな感情からなのか思わず涙ぐみそうになる。歳を取ったのだろうか。 
誰かに贈り物をしたい。自分一人じゃこの多幸感を支えきれない。分かち合いたいな。でも、誰と? 誰にそんなものを渡せる?
ふーっと長いため息をつきながら、近くにあったベンチに腰掛けた。一瞬、ひやりとし、あっと声を出してしまった。驚いたが、すぐに昨日の雨だと気が付いた。苦笑交じりのため息をつく。
「そんなにため息をつかないで。私だって、座ってしまったんですから。」
 同じベンチに座っていた老婦人が声を掛けてきた。
「ああ、すみません。失礼しました。」
「もし良かったら、お聞かせ願えませんか? どうして二回もため息をついたのか。」
 私はびっくりして、そのおばあさんを見た。昨今、見知らぬ人に何か個人的なことを尋ねるのは珍しいことだったからだ。私が驚いたせいで、おばあさんは申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、失礼でしたわね。ただ、周りはこんなに賑やかで楽しそうなのにあなたはちょっと違って見えたから。本当に失礼ね、おかしなばあさんだと思われたでしょう?」
「いえ、そんなことは。ため息をついていた理由はですね…、誰かに何かを贈り物したい気分になったのですが、その相手を思いつけなかったからなんです。こんなに悲しいことがあるでしょうか。」
「あら、私は自分に贈り物をすることが多々ありますわ。それはそれで嬉しいことですよ。それではだめですか?」
「私は誰かと分かち合いたかったんです。この楽しさを共有したいというか。」
「贈り物の醍醐味ですわねえ。誰かの喜ぶ顔の為に悩んだり、渡した時のことを想像したり。そういうときに、相手との思い出を思い返して、何を買えばいいのかとヒントを探すのもいいですよね。自分がどのくらい相手のことを知っているか分かりますわ。お羨ましい、これから贈る相手を決めるのね。」
「いや、見つかるかどうか…。そうだ、あなたは今まで何の贈り物が一番でしたか。」
「この老眼鏡よ。夫と贈り合ったの。それまでの乾いた日常の景色がまるで昔観た映画のように美しく変わり、夫が死ぬまで穏やかな日々を過ごせましたわ。あら?」
 思い出を振り返っていたのか遠い眼をしていたその老婦人は、急にベンチに片手を付いて、こちらに身を乗り出した。
「このマーク。」おばあさんは私の眼鏡の柄についているマークを指した。
「え? この眼鏡が何か?」
「私のと同じね。」
 私は眼鏡を外して、ベンチに掛かっている店の灯りのところでそのマークを見た。鳥の頭だ。おかしいな、私の眼鏡にこんなマークは付いていなかったはずだ。いつすり替わったのだろう。眼鏡を掛けたのは朝だ。それ以降、外していない。とすると家でだ。家。私の家に入れるのは鍵を持っている…。
 思わずベンチから立ち上がってしまった。何か手がかりが無いかと、鞄の中を探す。仕事の書類の間を手探りし、眼鏡ケースを取り出した。開けると、一枚のメモ用紙が現れた。
『ちょっと早いけど、メリークリスマス! たまには息抜きしたら?』
「すいません、贈る相手を思い出しました! これで失礼します。」私はそう叫んで、立ち上がった。
 老婦人はなんだか嬉しそうに片手を振っていた。
 色とりどりの光の粒がツリーのオーナメントと区別なく滲んで雨上がりの通りに連なっていた。私はその中を相手との思い出と共に渡り歩く。通りの先の店先からは店の人がサンタの恰好をして、大きな声で宣伝していた。
「さあさあ、皆さん! クリスマスが楽しいのは何故でしょう? ハイテンションの音楽に懐かしい灯り、色とりどりに光が陽気にあなたを取り囲む! 夕焼けを美しいと感じたことは? 湖に映る景色は? 繊細な感受性? 特殊な才能? そんなもの要りません! 誰にでも、あのモネの眼を手に入れられる時代が来ました。世界はやはり美しいのです! あなたの眼の数値はいくつ? ダイヤルを合わせればすぐに世界が、」

 芳田さんからテレビのリモコンを奪い取り、チャンネルを変えた。
「おいおい、みいちゃん。何するんだよー。」
「あのCM見飽きたの。ワインのおかわりいります? ブルゴーニュ。」
 じゃじゃん、と後ろに置いてあったワインを手品師みたいに出した。
 よっ、と後ろにいる槙さんたちが言う。おいおい、まだクリスマスじゃないんだぜと芳田さんが答えていると、調理場からシェフが顔を覗かせた。
「若くてかわいい女の子を雇えば、少しはお洒落なイタリアンレストランになると思ったんだがなあ。大衆酒場と変わんねえじゃねえか。いったいなんでだ?」
「若くてかわいい女の子なんて幻想だからですよ〜。どんなイメージなんだかねえ。」
呆れちゃうといったふうにみいはみんなに肩をすくめてみせた。
「そうだよ、シェフだって見た目が能力に加算されたら不利でしょうよ。」
そうだそうだと芳田さんと槙さんが言う。
「私はカウン。」と奥さんの良枝さんが言う。
「おまえはマンマって感じだろ?」
ははははと笑い声が響く店内。楽しい。でも、昔、家でコロッケを売っていたときと変わってない。残念な気もするけど、これが自分の持ち味だとも最近思っている。
「でもなあ、あの天才君、なんだっけ名前?」と槙さん。
「佐藤粲。」水を注ぎながら答える。
「そうそう。みいちゃんと同い年くらいだろう? すごいよなあ。」
「あれ、私、歳言いましたっけ?」
「みいちゃん、今日はいつもに増して口調が鋭いよ。」隣の金淵さんが言う。
「ああいうのはタイプじゃないの?」と少々酔った羽良さん。
「どういうのですか。」
「わかった、わかった。もう何も言いません。」
「そういえば、あのCMの監督、よく引き受けたよなあ。若い頃、あの監督の作品、すごい見たよ。やっぱり、映像とかに携わっている人は特に興味あるんだろうな。」
「手紙の相手って結局誰だったんだろう。」
「さあ。主人公の家の鍵を持っているくらい親しい誰かってことしか分かってない。元妻とか元カノとか、そんなところだろうなあ。」
「えっ、おれは成人した娘とかだと思ってたよ。」
「いいか、主人公は眼鏡が入れ替わっていることにも気が付いていないくらい疲れ果てている。そこが肝心なんだよ。その疲れから大切な誰かからのプレゼントで解放され、それによってその人との思い出を思い出して、心温まる。そこが重要なんだ。」
 ははあ、と羽良さんの講釈に一同頷く。賛同というよりは、聞いているよの合図だ。
 私は生ハムとチーズ、燻製とアンチョビポテトをことりと順番に置いた。
「欲しいと思うか?」金淵さんが聞く。
「いや、おもちゃだろう、あれは。似たようなものが一時流行ったこともあったが、まあ、そんなようなものだろうな。クリスマス商戦の一環だよ。」
 違う。口に出せるわけがないけど、違うと私は断言出来た。
「そもそもいくらくらいなんだっけ?」
「5、6千円だったような。安いよ、だって最新技術なんだろう?」
「人の見え方は違うが、自分の見え方の固有値との相対で、本当に細かいレベルで調節するらしい。」
「新商品で数か月後に画家シリーズが出るって聞いたよ。うまいこと考え付くよなあ。」
「試してみたいな、それ。ゴッホの眼とかさ。」
「耳を切るなよ。」
「でもよ、オチに惑わされるけど、あのCMは気に食わない。メッセージが押しつけがましいと言うか。なんか気持ち悪いんだよな。ハートフルストーリーに巻いて、騙すような。」
「CMだから仕方ないよ。」
「監督の持ち味なんじゃないか。昔は社会派なメッセージが前面に出ていたし。」
「それか鳥マークの会社か、天才君か。」
「会社の売り出し方だろうよ。眼鏡君はただ開発しただけだ。」
「でもさ、視覚障害の人のことを考慮していないって批判されたときに、『彼らが、眼が見えないことに対して困っていてそれを解決して欲しいなら、その指摘はお門違いです。それはそれでまたなにか考えましょう。しかし、この眼鏡で意思や感情の受容や伝達に変化が欲しいのならば解決します。』って言ってたよ。肝が据わっているというか、目が据わっているというか。」
「見た目、高校生くらいだから、余計ねえ。」
 うわあと私は額を手の平でばちんとやりたくなる。
「なんだかね、あんな若いのにやっぱり天才は天才で変人だよ。何考えてんのか想像もつかない。」
「でも、若者には人気なんだって? 会社の若い奴らもみんな眼鏡買ってたし。」
 みんなが私を見る。
「私は買いませんよ。若者ですけど。」肩をすくめてそう答えた。

 週末、調理師学校時代の友人と会った。お互い忙しい身だから、こうして休みの日を合わせられたのは奇跡に近い。二人とも食道楽なので、新しくできた評判のカフェに行ってみることになった。有名なパティシエがカジュアルな店を出したのだ。
 出会い頭そうそう、久し振りという私の挨拶の返事に彼女はこう言った。
「店構えはなかなかね。本店の高級感はほとんどないけど、代わりにお洒落感がある。女子大生も気軽に入れそう。」
「お値段はお金持ちの女子大生層じゃない?」店のドアを開くと甘い匂い。
「みいは相変わらずだなあ。こういう店はこういう店でいいの。」
そう言いながら、ショーケースの中を見回している。
結局、私はモンブラン、彼女はラムールエアヴーグルというフランボワーズムース主体のケーキにした。意味は『恋は盲目』だと説明が付いていた。
「名前が長いよ。しかも、『恋は盲目』って。パティシエは日本人だったよね?」
「フランスで修業した日本人だよ。味は美味しい。食べる?」彼女が皿をこちらに出す。
「あ、美味しい。でも、モンブランの方が凝ってない?」と自分の皿を出した。
「ああ、うん、モンブランの勝ちかな。値段もそこまで高くないし、味も美味しいからいいけど、この混み様がマイナスだなあ。」
「落ち着きたいなら、高くつくけど本店へどうぞってことでしょ? ねえ、ところで、相談って何?」
「クリスマス、彼氏になにあげよう?」
 てっぺんの栗を一口でぱくりと食べ、そのまま彼女を見つめ続けていた。ぱちぱちと瞬きをする彼女。やがて、根負けしたように口を開いた。
「だって、クリスマスにケーキとか料理作ってもプレゼントとは別だよね、と思うでしょ? でも、物とか何あげたらいいか分からないし。頑張って思いついたの、靴下…。」
「いいじゃん、靴下。それに、何プレゼントしても喜ぶよ。そういう感じの人じゃなかったっけ。」
「そうなの。でも、最近会うたびに彼のクリスマスワクワク感が増しててさ、とんでもないプレゼント貰ってきたらどうしよう、そのあとに靴下あげるのはちょっと。なんというか、自分の気持ちの問題? で、思ったの、例の眼鏡とかどうだろうって。パーティーには持って来いじゃない? 彼、ああいう面白そうなもの好きだし。」
 いいんじゃないかな、と言おうと思っていたのに、フォークを持った手が間違って、モンブランを唇の横に運んだせいで言えなくなってしまった。
「あ、」と言ったのは彼女だった。
「ごめん、もうちょっと上手く聞きたかったんだけど。ここ最近よく出てるから、みいのこと気になって。大丈夫かな、とか。」申し訳なさそうに微笑んだ。
 そうか、今日は私の様子を見るために誘ったのか。
「ありがとう。」ダメだ、泣きそう。
あれからのことを誰かに言ってしまいたかった。だからといって、状況が変わるわけじゃない。相談じゃない。言っても愚痴というより嘆き、ふがいなさ、もどかしさ。
「大丈夫、なのかなあ。もうずっと会ってないの。そのうちに連絡が来るかなとも思ってたけど、その間にあいつはあの眼鏡を作ってた。自分が今どんな感情かさえよく分からない。」軽く最後に笑う。だって、どうすればいいのか分からない。お手上げ。参った。
「じゃあ、もう付き合ってないの?」
「…うん、そう、なのかなあ。」 
自然消滅した感じがしないのはなぜだろう。嫌いになったからだとか、面倒になったからなどという理由で私をあれから放置したのではない、と思うのは自意識過剰だろうか。
唯一、原因として思いつくのは、私がレンズに負けたということだ。私への興味が失せたのだ。魅力が失くなったのだ。
「まだ、好きなの?」
「好き、だけど…。」好きってなんだろう。
 そもそも、なぜ粲が好きなんだ? そう自分に聞くと、すぐに言葉が返って来る。全部好き。一緒にいて、嬉しい。落ち着く。守ってあげたい、助けたいと思う。粲は私を何があっても守ってくれるし、助けてくれると思う。一緒にいて楽しい時間を過ごしている粲と自分が好き。でも、同じ場所に立っているはずなのに、時々、元から違う空間にいたみたいな錯覚に陥る。私は桜の花を見て喜んでいたのに、粲は銀杏の葉を見て喜んでいた。それを実感した瞬間、愕然とし、心が落ち着かなくなって、漠然と恐ろしく思う。
「この前、前のバイト先の人に告白されて、まだ前付き合っていた人のこと引きずっているんでって断ったら、それでもいいから試しにデートだけでもって言われて。」
「行ったの?」
 うん、と頷く。
「いい人だった。」
「なら、その人としばらく付き合ってみたら?」
 そうした方がいい、というように彼女は強く頷いた。だよなあ、普通。テレビの向こうから粲が帰って来る見込みがない。
 その人はいい人だし、好きな食べ物とか映画とか趣味が合う。それに優しい、親切。私にだけじゃない、基本的に善良な人。粲に爪の垢を煎じて飲ませたいくらい。普通の恋愛ができそう。
イルミネーションで白い木が等間隔に並ぶ道をその人と歩いた。他の恋人たちがその下を笑いながら通り過ぎていく。ああ、私、こういうのに憧れていたのか。そう思った。
でもさ、普通の恋愛って、そもそもある? なんだろう、普通の恋愛って。ドキドキして、告白して、手繋いで、キスして、記念日祝って、セックスして、イライラして、不安になって、ケンカして、仲直りして、最初に戻る。それを別れるまで繰り返す。どうして少女漫画って面白いんだろう。いつも同じことやっているのに。両手で頬をばちんと叩くのをすんでのところで堪えた。らしくないわ、みい。粲を好きなら好きでいいじゃない。これからどうなるかは分からないけど、どうにかなるよ。どうにかする。どうにかしたい。どうにかしよう。私は立ち止まった。
「ごめんなさい、やっぱり付き合えない。でも、あなたはいい人だと思う。だから、本当にありがとうございます。あの。本当にごめんなさい。」唐突に言ってしまっていた。これじゃ、粲とどっこいだ。
 彼は覚悟していたかのような表情を見せた。まるで待っていたかのようだ。
「わかった。うん、みいちゃんもがんばれ。」残念そうな悲しそうな顔で彼は笑った。
 ああ、ごめんなさい。でも、申し訳ないという考えが及ぶ前に私は粲のところに走って行かなければいけない。なぜなら、昨日の夜に。
「そういえば、みい宛に何か荷物が届いていたわよ。」
お母さんが洗濯物を畳みながら、ふと思い出したみたいに言った。
「誰から?」コロッケを頬張りながら聞く。
「バーズアイカンパニーって書いてあったよ。」
 小学生のときから使っている小さくて暗い私の部屋。学習机の上に手より少し大きい塊が置いてあった。本当だ、バーズアイカンパニーって鳥のロゴが書いてある。
薄水色の厚めの封筒の中に無理に入れたようだった。端がセロテープで厳重に止めてあった。中身を取り出すと、白い無機質な箱。この箱は見慣れている。CMで主人公の男が見つけた眼鏡ケースだ。開くと、まずメモが一枚現れた。見覚えのある、細い字体。
『右:196375.9108 左:210753.6584』
 説明書を見なくても、その数字が何を意味しているのか理解した。私はそれを机の上に置き、カーテンを引いて、窓の外を見た。思わず、長い溜息をついてしまう。窓の外の夜空はぼんやりと星が輝いていて綺麗に見えた。



6.素晴らしい理解

 誰も使わない休憩室で休憩していた。真っ白い部屋だ。いかにも研究施設っぽい。白い壁に白い長机、白いデザイナーズチェア。首をのけ反らせて、背後にある窓を見る。雲一つない真っ青な空が見えた。またおまえか、青空め。
 ガチャリという金属音が前から聞こえる。衣擦れの音。そして、すうという呼吸音。
「ここにいたんですか。」
「君が勝手にやって来たんだ。」
「何言ってるんですか。これ、書類です。」
 どさりと机の上に書類が滑っていく様を想像した。ああ、文字をたくさん見なければいけない。嫌だな、なんだって文章はシンプルじゃないのだろう。余計な飾りばっかりだ。その中から本当に言いたいことを探さなければならない。大概の書類は実際、名刺一枚サイズで済む。
 嫌々正面を向くと、想像したよりは少なかった。無表情なのにいつも眉間に皺を寄せているように見える研究員、伊織が無表情を湛えて立っていた。
「どうも。」
「どういたしまして。」と言いながら、彼女はおれの真向いの椅子を引いて着席した。
「もう帰っても大丈夫ですよ。」右手でドアを指す。
「全部書き終わるまで見張っていろと指示されました。ということで、います。どうぞ、今すぐ取り掛かってください。」
 そう言って、彼女は机に肘を付き、指を組んでこちらを見た。仕方がない。窓を破る以外に手は無いようだ。
 まあ、そうはせずに紙を捲ったのだが、やはりつまらない。伊織に適当な話題でも振ろうと思ったが、生憎、普段何もしていないせいで引き出しがまったく無い。
「君はEYEについてどう思う?」これしかおれには無い。
「え。」ふいを付かれて無防備というような表情をする。おれは微笑まないように口をきつく閉じた。
「良い製品だと思うか?」
 そう聞くと、彼女は本当に眉間に皺を寄せた。
「判断出来ません。技術は興味深いですが、あれを掛けて楽しむということを自分は理解出来ないです。何を持って良いとするかですね。売れればいいのか、購入者に大切にされるものがいいのか、コストパフォーマンスが良いのがいいのか。」
「きっとそれは全てクリアしている。その上で、これは良い製品だ、買うべきだと断言することは出来る?」
「所詮、私たちはターゲット外です。いえ、分解はしたいかもしれません。」
 その伊織らしい返事に笑いながら、おれは言う。
「そうなんだよ、自分が興味を持って作ったとはいえ、こんなに受けるとは思わなかった。きっと安いからだろうな。」
「昔、似たような企画の商品がありましたが、異様に高かったですよね。本当はみんな欲しかったのでしょう。普通の眼鏡より安いですもんね。」
「一番安い眼鏡と同じくらいだ。カッコつけで買うサングラスとどっちがいいかってところだな。」
「あれはほとんどアクセサリーだから別ジャンルでしょう。」
「違う。面白いよな、レンズに色が付いていて。EYEと似たような発想を感じる。」
「そうなんですか?」
「色ごとに機能がある。面白いから全色欲しいけど、付ける機会が無い。」
「ちゃらちゃらしているという第一印象を抱かれた後に、ただレンズが好きだから掛けていると知ったら今度は余程の変人なのだと納得されそうです。」
「その程度の印象なら掛けるか。」
「おもしろキャラになってしまいます。やめてください。」
「いいじゃないか、おもしろキャラ。いや、おもしろキャラなのに大して面白くないとがっかりされそうだ。」
「そのままでも相当面白いですよ。そうですね、訂正します。それ以上、面白くならないでください。」
「みんな面白がっているのか。」
「え? あなたのことを? あなたがそんなことを気にしているのですか?」信じ難いという眼つきをする。
「いや、おれ自身についてもよくインタビューされるからさ。何が面白いのかわからない。」
「そうですね…。みんな目新しいことに飢えているってことでしょうか。」
「それって、別にそこまで面白くないけど笑いたいから笑うみたいなものか?」
「そこまで自虐的にならなくても。純粋に知りたいんじゃないんですか。世間では評判の製品ですし。世紀の発見だと騒がれているのですから当たり前の反応です。なにか賞を貰っていませんでしたか?」
「貰った。」
そして、まるで取引のようにそのメダルを親父に渡した。店を継がない言い訳の代わりだ。
「嬉しく無いんですか?」
 うーんと曖昧な返事をすると、伊織はまたも淡々とした無表情で言う。
「そういえば、画家シリーズって誰の案ですか?」
「フェルナンドさん。」
「テレビでは違うことを言っていたような…。」
「『何から着想を得たのですか』と聞かれたからだよ。」
「というか、絵画についても詳しいんですね。モネの言葉とかすらすら引用していましたよね。なんでしたっけ、眼がどうとか。」
「『モネは眼に過ぎない、しかし何と素晴らしき眼なのか』。セザンヌだ。言ったらすぐに広告に使われた。」
「ミスター・フェルナンドが如何にも好きそうな。」
「『眼を持っていない者、見る能力、正しく見る能力をある程度持っていない者には、不完全な知性しかないだろう』というルドンの言葉はどうだろうと提案したら、本気で所長に怒られた。」
「お気の毒に。」
「どっちが?」
「所長ですよ、いわずもがな。」
 伊織らしい言い回しだった。
「さっきの話の続きというわけではないんですが、EYEの価値に一つ、加えられそうな新解釈を知っていますか?」
「知らない。」
「他者理解のためのツールです。もし、これに使えるのなら、平和賞ものだそうで。」
「それは複雑な心境だな。」
「若い人の間で流行っているそうですよ。連絡先を教え合うように、自分の数値を教え合う。相手の視点に文字どおり立てるというわけです。」
「使えると伊織は思うか?」
「試してみます?」
 伊織はうさぎのキャラクターのように口をバッテンにし、こちらをじっと見ていたが、それからしばらくして苦笑いして言った。
「言ってみて分かりましたが、これはなかなか恥ずかしいですね。突然、握手してくださいと頼むようなものです。」
 握手って、そんなに恥ずかしいことだろうか。いや、つまりは意識するかどうかだ。電車やバスであんなに人と密接していても恥ずかしいとは思わない。
「じゃあ、握手をすればいいんじゃないか。他者理解を実現させたいのなら。」
「あ、平和賞っぽいこと言いましたね。」
「どこが平和? 他者を理解した上でも残酷なことが出来るのが人間だろう?」
「あなたの眼鏡は掛けたくないです。」
「どうして?」
「理解したくないこともあるじゃないですか。」
「そうなんだ。」
みいとは逆の意見だ。当たり前か。

 次の週、またもこの部屋にいた。今日は曇りなので、部屋の壁はそこまで眼に痛くない。その代わりにのけ反っても、どこからが空でどこまでがサッシなのか分からないくらいにぼんやりとしていた。またおまえかと思っているのはこの部屋の方だろう。結局、自分で窓の内側に自分を閉じ込めている。ここが一番のびのび出来るというのは大した皮肉だ。
 ぎいいと嫌らしくもったいぶった音が聞こえた。静かに開けようとし、同時に、自分がやって来たことを知らしめたいと音を鳴らしている。
「何をしているんですか。」より冷たい伊織の声。
「ここにいる。」
 返事の代わりに溜息が返ってきた。続いて、さらさらと机の上を紙が撫でる音が聞こえた。
「それは何?」
「EYEに関する記事です、CMを作った映画監督が書いた。」
「へえ。なぜそれをおれに?」
「あなたに知ってもらう為にですよ。どうやら一連の件を知らないようだから。」
「知らないな。」
 机に向き直ると切り抜きの紙ぺらがあった。またもや文字がどっさりだ。しかし、あの監督はなかなか面白いから退屈はしないだろう。伊織は朗読を始めた。
「ここ数日の流れを見て、考えたことがある。映画も今回の件と同様のことが言えるのではないか。中略。しかし、いくつかの点においてあの眼鏡は何倍もたちが悪い。まず、眼鏡を掛けて見るものは現実であり、その景色は私たちの日常であるということ。次に、この眼鏡に強制的に望む景色を見させられるということである。眼鏡を掛けるのは自由で、嫌なら外せばいいが、望む景色なのだから外したくならない、しかしどんどんと自分が現実離れしていく。中毒性と呼んでいいだろう。これが恐ろしい点だ。そして、自分が望む世界が必ずしも良いものとは限らないということを知らなければならない。誰でも安価に手に入る夢の世界は果たして善なのか。もう一度、私たち自身を見直さなければならないだろう。」
「なるほど。」
 なんてわかりやすい文章だろうか。以前この監督に会った時、一本芯の通ったしっかりとした人物だと思った。激しい熱情家だが、一見そうは見えずに深い考えを持った温厚な人物に見える。まあ、作風が好きかどうかは人それぞれだ。あまりにも映画らしい感動ドラマ。家族とか友情とか人生とか。オチを見ても、それは知っていると思ってしまうおれには向かない。
「いや、わかっていませんよ。世間はあなたを疑っています。楽しく美しい世界を安易に求めることも悪だと上から目線で我々を弄びつつ示したのではと。」
「驚くね。なぜそんなことを考えつくんだろう。」
「どっちにしろ、あなたが悪者になります。天才なのだから知っていたのだろう、確信犯だ。天才なのにわからなかったのか、中途半端な偽物め。みんなでする責任の追求は、みんなが知ってい人物にしかなり得ません。」
「天才じゃないんだけど。」
「認められません。あなた以外みんなそう思っていますし、私含め。」
「迷惑だ。それに差別的。」
「勘違いしないでください。別に褒めていません。純粋に凄いと思っているだけです。それに少しばかり羨んでいるだけです。」
「…そう。それで伊織はその意見にどう思う?」
「私ですか? 前者はあり得ると思います。しかし、後者は違いますね。わからなかったのではなく興味がなかったのではないかと。あるいは気にしなかった。悪いことだと思わなかった。どうでもいいことだと思った。だから、考えにも上らなかった。」
「よくわかってる。大体正解だ。」
「どちらが?」
「どっちも。ゴッホの眼なんか作ったら耳を切り落としたくなるかもしれないのにどうしてそんな商品をクリスマスに贈ると会議中に聞いたが、結果的にスルーされた。まあ、どんな道具も使い方次第だと思って、そのままにした。」
「視たがった人の心が悪いだということですか? そういえば、先日、眼を持っていないものは不完全な知性しか無いとか言っていましたよね。そういう意味の『眼』ですか。『眼』を持っていないのにEYEを掛けて精神を病むなんて馬鹿だとあなたはやはり皮肉ったのでは?」
「アンチテーゼを提唱するほど真面目じゃないし、好きな研究を皮肉に使うようなことはしない。」
「なら、なぜEYEを作ったのですか? あなた自身が掛けていないのも槍玉に挙げられているんですよ。」
「それは、」思わず言い淀んでしまった。しかし、自分を無視して続ける。
「好きな…人が、あなたの見ている景色を見てみたい、そうすれば少しはあなたを理解出来るかもしれないと言ったから作った。」
 伊織は少し眼を丸くした後、呆れた笑いを含んだため息をついた。
「バカですね。」
 ふっと笑ってしまう。そう、バカだよな。
「それでその方に渡したんですよね?」
「ああ。でも、まだ返事は返って来ていない。」
「その為だけに作ったっていうことですか。別にレンズには興味が無いのですか?」
「いいや。」と首に掛けてあるあのルーペを持ち上げてみせた。
「小さいころから不思議だった。眼がみんなとは違うから、理解されないのだろうかって。レンズを通して見れば、何かが違って見えるだろうかとも思った。それに純粋に、自分の眼で見た景色が好きだった。その不思議さに魅かれた。」
「あなたは彼女の眼鏡を掛けたんですか?」
「掛けていない。なぜ?」
「自分だけ理解してもらおうと?」
「自分を理解してもらおうだなんて思ったことがない。そんなのはもうとっくに諦めている。彼女が理解出来なくて不安で、知りたいと言ったからだ。」
「ああ、それはそうでしょう。」
思い出し笑いのような笑い方をして伊織は言った。
「世間に批判され、悪者と言われて、それでおれはどうすべきだと思う? 悪意はなかったと言うべきか。他の関係者は関係ありませんと言うべきか。ただ謝ればいいのか。」
「あなたはどんな結果を望んでいるのですか?」
「何も。」
「眼鏡を作れて満足ということですか?」
「彼女が満足すれば、すべて良しとなりそうだな。」と自分で笑う。
 白いドアがいきなりバンと音を立てて開いた。おれと伊織はお互いからそちらへ顔を向ける。長身の白衣の男が髪を乱し、息を切らしてドア枠に手を付いていた。研究員の一人の…誰だったか。
「納戸君。」伊織が言った。
「先輩! 大変です! あっ。佐藤さん…。」納戸君がおれを発見したらしい。
「どうした?」伊織が納戸君に聞いた。
「あの、」不味いものを喰ったみたいな顔でおれを見て、それから無表情で返事を待っているだろう伊織の顔を見た。
「自殺したそうです。」
「誰が。」まさか所長じゃないだろうなとおれは思った。
「えっ?」ぽかんとした顔で納戸がおれを見た。
「誰が? 納戸君。」落ち着いた声で伊織が聞き直す。
「えっと、EYE中毒者の、」
回転イスを蹴りながら、窓の外で繰り広げられているマジックアワーを見た。くるりと伊織はおれの方を振り返る。
「佐藤粲さん。」何かの返事を従順に待っているような顔で伊織はおれに言った。
「何?」
「彼女に眼鏡を掛けさせれば、少しは理解されるかもしれないとあなたは言いますが、私からすればそれは期待できないように思います。仮に理解できても、心が近づくことは無いでしょう。元々の眼が違うのですから、あなたの言葉に従えば。私の眼はあなたの眼にきっと近い。どうでしょう、私では不足でしょうか。」
 相変わらずの淡々とした調子で言った。しかし、これは告白なのだろう。面白い。
「不足じゃない。理解という面では、君は完璧だ。でも、だからこそ、別に求めはしないんだろうな。おれは自分にはない彼女のあの魅力的な眼が欲しい。絶対に自分では手に入れられないと分かっているけど、どうしても欲しい。これだけが唯一、おれの中で理屈が通らない。好きだから好きなんだよ。どうしようもない。理屈でいけば、君が好きなんだけれど。訳が分からないよな。」
「正直に言う人がいますか? 合理的に好きだと言われても、何も嬉しくないですよ。まあ、でも、自分も理屈無しに好きなのはあなたですが、合理的に考えると納戸君が好みです。」
「えっ。」まだドア口に立っていた納戸君が驚いた顔をして、それから耳を真っ赤にさせた。
「納戸君は伊織と違って、そう言われても嬉しいらしい。」
「そういう細かい心情が分かっているなら、本当に最悪ですね。悪魔ですよ。」
「相対的に。」とおれは微笑んだ。
 


 電話を掛けても、繋がらなかった。仕方ない、直接家に行こう。粲が大学の頃から住んでいるアパートで、ちょうど両隣も上も下も住んでいなかったはず。今もそうなのだろうか。
 この辺りにしては、かなり家賃が安かった。いつの間にか、大学も決まっているし、いつの間にか住むところも決まっていて、私も粲のお父さんもびっくりした。ちょっとだけ、一緒に住めるかもと淡い期待を抱いていたけど、本当に淡かったなあ。
 何度か来たけれど、部屋には何もなかった。ベッドと鏡と椅子とランプだけ。キッチンはあるけど、キッチン道具がないし、ゴミもないし、郵便受けも無い。
「どうやって生きてんの。」そう聞くと、
「生きてるから生きてるよ。」と言って、粲は笑った。
 あの部屋はなんだか頭がおかしくなりそうだった。そう言うと、だからほとんど帰って来ないんだと粲は答えた。
 ずっと一緒にいるというのはああいうことなのかな。部屋に聞こえる物音は私たちが動く音だけで、意識にあるのはまず粲で、その次に自分。何かに麻痺しそうだった。眠気に負けそうな感じ。もしかしてこれが彼に夢中ってやつなんじゃない? 恋は盲目で、そのことしか考えられない、他のことはどうでもよくなる。
 何かがおかしい、このままじゃだめだと思ったのは粲の研究が賞を取って、そのお祝いをしたときのことだ。私は粲の希望で外食では無く、修行の成果を披露するため、道具を持ち込んで料理を作った。粲はその間、テーブルと椅子の準備をした。
 あのランプもいけないんだと食事中思った。この寒々しい部屋に反して、暖か味がありすぎる。簡易的に作ったにしては上出来なテーブルに、私の作ったイタリア料理、私が喋っているのを静かに食べながら聞いていて、美味しいと言う粲。お互いの動きや表情や感情が一挙一挙、見えすぎていた。その僅かな変化に気が付き、何かを思ってしまう。粲がただ食べ物をフォークで刺して、口に運ぶ様子だけでだ。これが恋? 好きっていうこと? 
 一緒にいて嬉しいだけだったのに。食器洗いをしながら考えていた。大好きだって伝えたいから、相手もそうなのか知りたいと思って一緒に過ごして、それで幸せだったのに。疲れる。面倒だなあ、自分。赤ワインを振って、フランベしたい気分だが、生憎、粲の家のキッチンはIHだった。
 仕事で慣れているはずで、しかも二人分なのに、いつもの数倍、洗うのに時間が掛かってしまった。これが恋する乙女状態ならば、なんて鈍臭くてカッコ悪いんだろう。
 あ、でも、それが可愛いなのでは、と部屋に戻りながら思いついて、その考えをどう思うか粲に聞こうとすると、一瞬、粲を見失った。どこ?
 見回せば、ランプの光の外の椅子に座っているのを見つけた。椅子の肘に寄り掛かり、体が傾いている。近づくと、頭がかくんとして、寝てしまっていることが分かった。
それにしても、なんてつまらなさそうに眠っているんだろう。私は思わず笑ってしまった。面白くない夢を見ているくらいなら、起きて私と喋ればいいのに。それとも、私にその夢を見させてくれればいいのに。感染したみたいにうつったその眠気の中で、そんなことを考えていた。ここ数年、私ばっかり喋っている気がする。それは粲が大人になったからだと思っていた。小さい時みたいに、ラムネ瓶を眼に当てて綺麗だろって、それでいいのにな。
 椅子の下から彼を見上げると、ランプの光がちょうど左目に入って眩しかった。思わず、片目を閉じると、何かが目の端で光った。
 粲が泣いている。でも、ちっとも悲しそうじゃなくて、さっきみたいに寝ながらで、ただ涙を流しているという方が正しい。
 私はそんな粲を初めて見たんで、なんというか、ショックを受けた。粲が気がつく前にと、本当は自分が見たくないからって、袖を伸ばして、涙を拭おうとした。そして、頬に触れたそのときに粲の眼が開いた。
 言うべき言葉が見つからず、そのままで彼の眼を見ていたけれど、そのうちに思った。私はこの人を知りたいと言ったけれど、それは粲自身が見ている景色を一緒に見ないと無理なんじゃないかな。もしかしたら、いや、多分絶対に、粲が嫌な顔をするから言わないけど、凡人の私が見ている世界と違う。想像もつかない世界。今のままでは理解の出来ない世界。泣いているのを見ただけでショックを受けた私が、それを見ても、粲を傷つけないで一緒にいられるのだろうか。
「どうしたの? 怖い夢でも見た?」
「え? ああ、いや、そんなに。みい?」
 粲の眼を見て、なんだか泣きたい気持ちになった。この人を完全に知るためには途方も無いところまで行かないといけないように思え、気が遠くなり、心が折れそうだった。
「あーあ。」私は彼の膝に頭を乗せ、その眼を見た。「粲の見ている景色が見られたらな。」
 不思議そうな顔をして、彼は肘を肘掛けに掛けながら私を見ていた。
「どうして?」
「そうしたら、粲のこと、もっとよく分かるかもって。」思った言葉が自然に出た。
 言ったあと、しくじったかもしれないとすぐに悟った。どうしてそんなに知りたいの、とか笑って言うかと思っていたのに、粲は黙って考え込んでしまっていた。
 この晩、嫌な夢を見た。あの会話の続きだ。
「それって、おれの眼が欲しいってこと?」
「え?」
 粲が穏やかに微笑する。
「いいよ。あげる。」
 手に持っていたデザートフォークで躊躇うことなく彼は眼球に突き刺し、それを簡単に取って、私に差し出した。
「みい? 大丈夫?」
 その声にはっとして、目を覚ます。私の眼を見ているのは本物の彼だった。
「怖い夢?」
「うん。本当じゃなくて良かった。水飲んでくる。」
 
今も水を飲んでいる。まさかの展開過ぎるでしょ。昨日に引き続き、ため息が出る。インターホンを押しても出なかった。テレビとかの感じだと、研究所にいないようだったけれど、じゃあ、いったいどこにいるんだろう。そう思いながら、ドアの取っ手を握っていると開いた。もう何も考えられなかった。急いで靴を脱ぎ、部屋に入る。
 部屋の中は以前と何一つ変わっていない。そして粲はいない。じゃあ、なんでドアが開けっ放しなんだろう。わかんないなとベッドの縁に座ろうとしたときに、その紙を見つけた。
粲の字が白のシーツの上に載っているように見えるくらいに白い紙に書かれていた。『公園にいます』。それだけ。
 粲め、用があるならそっちから来いっていうこと? いったいどこまで自分本位なんだろう。そう思いながらキッチンで水を一気飲みして、部屋を出た。公園っていったら、あそこだろう。高校のときに一緒に行ったあの公園。



 数年前に見たあの夢の公園はここだったんだな。おれはポプラの木の下のベンチで緑が重なり合うその水面を眼に映して戯れていた。どうしてだろう、みいと来たときよりも、今見る景色の方がより鮮やかで美しい。なのに、幸せでもない、嬉しくもない。もしも彼女が来たら、その原因が分かるかもしれない。とにかく、ここは深く息が出来ていい。なにもない。あるのは景色だけ。
「粲。」
 聞き覚えのある嬉しい声色。ベンチの背に手を掛け、後ろを振り返る。赤と緑が入り混じる黒い影が、柔らかな草色の上に小さく伸びていた。遠くの空がさっきよりも淡く霞んで、より遠くに見える。さっきからいたみたいに、その景色に肌の輪郭を馴染ませ、みいは立っていた。
 言葉を掛けたら、景色に溶け込んで消えてしまうのではないか。数年前も思ったことをまた思っている。それなら、いっそのこと、目を瞑って何も見えなくなれば、みいがいるということが分かるのではないか。くそっ、こんないかれた考えが出て来るのは何日も食ってないせいだろう。
「よっ、元気?」みいが斜面を駆け足で降りて来た。
「そこそこ。そっちは?」おれの横に飛び座るみいの横顔を見た。
「私はまあまあ。」
 視線が交差する。お互いにどこを見ていいのか分からなかった。おれはみいの頬をかすめながら、草むらに埋もれた塗装の剥げたベンチの脚を見ていた。みいの視線はおれの鼻上をかすめて、ポプラの木の幹に突き刺さっている。いつだって、そんな感じだ。おれの眼を見ろと言えない。それで、何をどう間違ったのか、おれの眼で見ろと眼鏡を送り付けた。
「こんなところで何してるの?」
「景色を見てた。」
「実は私を待っていたりしてたってことはある?」
「ちょっと。」
ここから離れる理由を待っていた。一番、上等の理由がやって来た。
 ふうとみいは池に対してのようなため息をついた。
「ここ、綺麗なところだよね。」
 みいは水面を見ていたが、おれは横を向いてみいの眼を見た。それに気が付いた彼女はやっとこちらを見て、何とも言えない表情でにっと笑った。
「粲の眼鏡、私、掛けてないから。」
「そんな気がしてた。別にいいよ。」
 それを聞いて、みいは口を一文字に結んだ。
「粲、あのさ、あの眼鏡を作ったのって、私が言ったから?」
 真剣な眼で、おれの眼の変化を逃すまいとじっと見つめている。どの回答がベストだろう。
「少し。でも、おれが昔からレンズにこだわっていたのは知ってるだろう?」
「うん。」
みいは空気が抜けたみたいに、ゆっくりとおれの右肩に倒れ掛かってきた。
「気になってたんだ?」
「うん、ずっと。ねえ、これからどうするの?」
 いったい。風に揺れた水面が雲に皺を寄せている。みいではなく、その雲に問いかけた。いったい、何だったんだろうな。終わってみると、なぜみいと一緒にいなかったのか自分でも理解できない。作って何を理解したかって、本物の“魅力的な眼球”を作ることは出来ないこと、自分にもみいにも誰にも佐藤粲は理解されないこと、されたくないのかもしれないこと、願望がなくても未だ存在しなくてはならないこと、願望を見つけないと生きていけないだなんていう結末に結局陥ること。いいや、違う。そんなの、昔から理解してた。こうなることも考えていなかったわけではない。ただ、それらを納得するだけの失敗か苦痛が欲しかった。なんて馬鹿で阿呆で不器用なんだろうか。
 レンズが手から離れれば、自分で思い描いていた完璧な未来の絵が見えなくなる。霧の中でも暗闇でもない。色が混沌と混じることなく、とぐろを巻くように取り巻いて、画面を汚して、方向を狂わせる。そこでようやくおれは今、ろくに眼が見えていないのだと理解した。
「どうしようかな。」ふと呟いた自分のその言葉に気づかされる。
 これは眼が見えていない状態なのではなく、念願の、おれの眼を覆っていた手がすべて取り払われた状態なんじゃないか? あの絵しか見えていなかったけれど、もうそんなものはない。どんな絵でも描き放題だ。今までは景色を見させられているだけ、EYEは人に見させるだけだったけれど、これからは創造できるのではないか。
「なんだ、考えてないの。」
「いや、今、思いついた。」
 何を描こうか。勿論、この景色を越えるものを。



7.幸せの絵画

 紅葉した葉が足元にも頭の上にも延々と広がっている秋の径を、二人で歩いていた。粲が突然、何も無いところで躓いたので、笑いながら手を掴む。
「大丈夫?」
「やたら綺麗な葉っぱが落ちてると思ったら、昨日の雨で落ちたやつだ。葉の下は濡れてて、滑りやすい。気を付けて。」と真顔で言う。
「分かった。それより、手が異様に冷たいけど?」
「いや、みいの手が熱すぎるんじゃないか?」
「そう? でも、もうちょっとで手袋の季節になるし、あっ、そうだ、クリスマスプレゼントってことで早めに買ってあげようか。」
 血色の悪い粲の頬に赤みが差す。相変わらずだな。
 私たちは公園を横切って、レストランに向かっていた。この道もしばらくお別れ。ここだって、十分に綺麗だし、好きだけど、これから行くところはもっと美しいのだろう。それでも、向こうで時々ここを思い出して、懐かしんでしまうに違いない。
「ねえ、」やっぱり、この国の方が四季の移り変わりが綺麗だと思うか、と聞こうと粲を見て、口を閉じてしまった。
 最近、ときどきしている眼。なんと言い表せばいいのだろう。見ている景色はこの紅葉よりもっとずっと綺麗な何かで、それに夢中だけれど、うっとりしているわけでも、感傷的になっているわけでもなく、ただ見ている。静かな音楽を真剣に聞いているよう。思わず、見惚れてしまっていた。
「何?」粲が半テンポ遅れて言った。
「着いたよ。」
まあ、いいや。やっと、無事にここまでたどり着いたんだ。それも二人一緒に。これだけでもう奇跡みたいだから、終わり良ければ総て良しとしないとね。
あれから一年間、何があったってわけじゃないけれど、もう一緒にはいられないかもしれないと心のどこかで思っていた。
誰が死のうと、誰に死ねと言われようと、粲は完全に無視していた。まるで違う方を見ていて、そんな言葉は届かないとばかりにだ。私はタフな方だけれど、そんな神経は持ち合わせていない。ほとぼりが冷めつつあった頃に一緒に職場のレストランに行き、私から誘ったのにも関わらず、気が気じゃなかった。私が粲と付き合っているということを知った時のみんなの顔は笑っているけれど複雑だった。しばらくしたら、案の定、打ち解けて、また来いよと今日に至るのだけど。
 これでいい。これがいい。レストランのドアを前に、思わず私たちは見合わせた。そう、相手を知り尽くすのではなく、私がただ寄り添えばいい、私は私らしく素直に率直に粲に対していればいい。そう理解した。どうぞと粲が把手を見て、微笑む。私も笑みを返して、満を持したように、その把手を捻り、ドアを開けた。
「いらっしゃあ、ああ、なんだ、客じゃねえのか。」シェフが厨房から顔を出して言う。
「ボンボヤージュなんて書いておいて、何言ってんのさ、シェフ。」金淵さんが椅子を並べながら顔を上げた。
「ボンボヤージュって書いたの誰だよ。これはフランス語だよ。」羽良さんが、いつも今日のおすすめを書いている黒板に書かれた文字を指して言う。
「俺だけど。そうか、フランス語かあ。書き直すから、イタリア語の教えてくれ。粲君。」芳田さんが粲を見た。
「ボンヴィアッジオです。」と粲。
「みいちゃんはちゃんとイタリア語勉強したのか?」
「しましたよ、一応。ボーノ! ボナセーラ! マンマミーア!」
「なんかそれ、よく聞くやつだ。みいちゃん、ナポリタンはイタリアには無いよ?」
「それくらい知ってますよ。私、食べ物の名前は言えます。」
 粲含めみんな、うわあという顔をした。
「なんで粲までそんな顔するのさ。知ってたでしょ?」
「いや、改めて、当分はおれが通訳するんだなと。みいのおしゃべりを日本語で追いかけるのも大変なのに。」
 それを聞くと、みんながああ、と笑った。
「みいちゃんがお喋りで、粲君はあんまり喋らないものね。案外、ちょうど良くなるかもしれないわ。」良枝さんが言う。
 さてと、と言って、金淵さんが準備完了しましたと告げた。
「手伝います。盛り付けやりますか?」と聞くと「いいの、いいの。今日は主賓なんだから。二人とも座って、座って。」
良枝さんが椅子を引いた。
「なんていうか、ゴッドファーザースタイルなんですね。」私は笑いながら言う。
 映画好きな羽良さんがおっ、と反応して、座って座ってと言いながら、自分が先に座った。よおし語ろうか、という構えはワインが入っていなくても関係なかったんだなと分かる。ちらりと粲を見て、後は任せたと目配せすると、にやっと眼が笑って、羽良さんの横に座り、「パートⅢはどう思いました?」と聞いた。案の定、羽良さんがずっと一人で語っている。
 周りのみんなはやれやれといった感じで、てきぱきと盛り付けとテーブル上の用意をした。シェフがエプロンを外して出て来たときには、羽良さんは違う映画の話をしていた。
「ああ。シェフが挨拶するみたいですよ。」粲は羽良さんを黙らせた。
 シェフがかっこつけて、静粛に、静粛にとやるが、誰も話してはいない。ごほん、と意味のない空咳をしたところで良枝さんと目が合い、そしてすぐ話し始めた。
「エーッ、私の弟子のみい氏がこの度、イタリアへ修行に行くことになりました。エーッ、そういうわけで…。お二人の前途を祝しまして、乾杯!」
 シェフだけが目の前のワイングラスを持ち上げ、ぐいっと飲み干した。みんなはお互いを見て、仕方ないねと、ぞろぞろ続く形で乾杯をした。
「大体、みい氏ってなんだよ。」もうすっかりいつものみんなになっている。
「みいが独り立ちするんだ、氏ぐらい付けさせろ。」
「独り立ちはまだですよ、師匠。」
「そうだよ師匠、みいちゃんなんかイタリア語は食べ物しか言えないし。」
「腕磨いて、ここをトラットリアからリストランテにしてみせますよ。」
「みいちゃんが? いやあ、それはどうかなあ。」
 ただ楽しく声を出してみんなで笑っていた。
「粲君は新しいお仕事どうなの? 今までと全然違うでしょう?」
 実は隠れ粲ファンの良枝さんが粲のグラスにワインを注ぎながら言う。
「というか、みいちゃんは粲君の海外の仕事にただ便乗したんだよね?」と芳田さん。
「いやいや、そんなことはありませんよ。ちょうどイタリア料理のことを考えていたら、粲がイタリアに行くって言うもんだから。偶然です。」
「仕事っていうよりは、おれが勝手にくっついて勉強してるだけなんで。」
「っていう割に、きっちり仕事して、ちゃっかり稼いで来てるけどね。」
「くれるって言うなら貰うだろ、お金は。」
「いやあ、いいねえ。だよねえ。」金淵さんがグラスを掲げた。
 最後だと思うと、この楽しさがなんだか悲しくなってきた。そっとシェフを見ると、なんだか寂しそうな表情をしている。そして、目が合ってしまった。
「おい、おまえら。」もはや、やけ酒の勢いでシェフが言った。いいや、ワインのせいではないことはわかっているけど。
「付き合ってどのくらいだ。」
 私はシェフをよく知っているから、粲は持ち前の察しの良さで、お互いをちらと見、あの話題が来ることを二人とも分かっていることを知った。
「高校のときからです。」さらりと粲が答える。
「すごいなあ。」
「ねえ、馴れ初めは?」
 今日はもう何聞いてもいいよねと言わんばかりに躊躇なく聞いて来る。というか、ここに初めて粲を連れて来たときも聞いたくせに。
「お互いの家によくお遣いに行っていたから、小さいときから幼馴染で。」と私。
「ずっと好きだったので、」と粲。
「私も、ということで、現在に至る、です。」
 私たちがあまりにも淡々と言ったからか、盛り上がることなく、そうか、という雰囲気になった。そして、その調子で羽良さんが言った。
「で、結婚はどうすんの?」
 私と粲は若干困った顔で見合わせる。
「ああ、でも、あれだ。ここ数年は二人とも大変だったもんな。精神的にそれどころじゃなかっただろうし。」と槙さん。
「もう落ち着いたのか?」シェフが聞く。
「ええ、全然。もう何もありませんよ。」粲は軽い微笑で答えた。
「強いわねえ。」と良枝さんは言ったけれど。
 どっちかっていうと、タフねえとか、図太いわねえ、と呆れ顔で言うのが正しいだろう。あの憎悪と狂乱の最中、当事者の粲はひたすら本を読んだり、映画を見たりしていたのだから。勉強だと言い張るので、ああ、これは結構参っているのかもしれない、現実逃避かなと思っていたら、本当に勉強だった。いつの間にか、映画スタジオで働いていた。例のCMの監督と仕事をしているらしい。よく気にならないねと肘掛け椅子で本を読む彼に言うと、台風の眼は常に晴れているんだ、という返事が返って来た。本の読み過ぎかな。
「じゃあ、あと少しだな。」などと勝手にシェフが言う。
「いやいや、私はまだ修行中ですし。」
「おれも半無職ですし。」
 私たちがそう言うと、みんなが口々に言った。
「いやー、若いっていいなあ。」
「あの頃に戻りたい。」
「みなさん、今、十分楽しそうですけど。」私が言うと、
「そうだな。」と槙さんが笑う。
「何でだろうね、あの頃に戻りたいってときどき思うのは。」と芳田さん。
「将来のことを想像できないことが良かった。今は、もう目に見えてるもんな。」羽良さんがしみじみと言う。
「そうそう、今考えることといったら、昔のことと家族と金と健康だろ。若い時はそんなこと考えないで悩んでた。あのときの俺に言いたいよ、おまえが将来について悩んでいること、まったく見当違いだ。」なんだか気持ちが入ってきた金淵さん。
 私たちはにやにやして、彼の青春時代を聞き出そうとし、このあと、青春時代のありがちな恥ずかしい話大会になってしまった。なんだかな、いつもと変わらない。最後じゃないみたいだった。明日もこれが続くような気がしてならなかった。
 誰かが途中でラジオの洋楽チャンネルを付けていたらしく、そろそろ解散の時間というときの、あの言葉にならない別れの沈黙の後ろでは、アコースティックギターとバンジョーの陽気でハイテンションなカントリーミュージックが流れていた。
 まあ、いいか、と笑ってさっさと終わらせようと思った瞬間にカチリと粲がスイッチを切った。沈黙が濃厚になってしまった。私は頭を振って、笑顔を取り戻し、シェフに手を差し出し言った。
「行ってきます。私が帰って来るまで、この店潰さないでくださいね。」
 もう既に限界そうに見えた眉間にもう一本皺が入り、私の手をがしりと握り掴むと、無理に出したような声で言った。
「うし。分かった。この店は守ってみせる。みいもしっかりやれよ。」
「気を付けて、行ってらっしゃい。」と良枝さん。
「楽しめよ、若人!」
 酔っぱらってる羽良さんと芳田さんが肩を組み、まだ彼らの頭の中には流れているらしいカントリーミュージックに合わせて揺れていた。

 粲と手を繋ぎながら、暗くなったあの径を歩いていた。まだあの楽しい時間が目の前で繰り広げられているように思える。いい思い出になったな。向こうに行っても、それからもずっと覚えているだろう。
「みい。」粲が唐突に言う。
「何?」
「結婚したい?」
「ええ!?」
 誰もいない夜の道で良かった。すごく響いた気がする。
 粲が私の答えを待っているらしく、黙ったままでいるので恐る恐る聞いた。
「ええと、それって、プロポーズ?」
 勇気を出して言ったのに、粲は軽く笑い飛ばした。
「いや、もしも籍を入れたいってみいが言うならするよ。自分はみいと一緒にいれればいいから、結婚についてはみいに聞こうと思って。」
 その笑いにつられて、私も笑っていた。絶対におかしい。でも、粲っぽいな。
「結婚したい! けど、今じゃないかな。もう少し私が自分のこと以外に余裕が出来るほど、しっかりしてきたらがいい。」
「分かった。じゃあ、婚約だけ。プロポーズだ。」
 楽しそうに笑いながら、粲はそう言って、私の隣から目の前に立った。
 真っ暗な木々の間、明かりは少し離れたところにある街灯と木々の向こう側にある車道をときどき通る車の光だけ。粲の眼が反射で光ったかと思うと、その光は近づいて来て、私の目の前にあった。よく見ると、それは粲の眼では無く、いつも粲が持っているルーペだった。
「これをくれるの?」
「指輪じゃないんでがっかりした?」
「中学のときから持っているよね。」
 思えば、いつも持っていた気がする。
「うん。」
 ルーペの向こうでぼやけて見える彼の顔の一部からは感情が読み取れなかった。そのルーペの由来を聞こうとした時にはたと気づく。 
 他の人だったらすぐに聞いているだろうけれど、もう散々お互いを見てきた間柄だ。粲は一番肝心なことは口に出さないし、顔にも出さない。私の眼をじっと見つめる。なにかを見出そうとじっと見つめている。何が知りたいの? 私は何も知らないで彼の隣に居てはいけない? 最初は知りたいって言ったのに、ひどいな自分。でも怖い。何が怖いのだろう。答えを間違うことだろうか。私はただ普通に、幸せに、ずっと一緒にいたい。その返事はイエスだけではだめ? それは逃げかな? 面倒なのはすっ飛ばして、プロポーズ、イエス、誓いのキス、ハッピーエンディングはどうだろう。
「粲の大切なものをくれるんだね。」私はそう言った。
「今はこれしかないけど、指輪も欲しいよね? 一緒に買いに行こう。」
「うん、楽しみ!」
 私の胸はどきどきしていた。心拍数が上がる。ロマンチックなシーンだからかな。それとも、粲の手が近づいて、そのルーペを私の首に掛けてくれようとしているから? いやいや、違う。真っ暗なところは、いつもは苦手じゃない。でも、今日は恐ろしかった。早く、粲の側に行きたい。もう側にいるのに、いつの間にかそう思っていた。すとんと首に重さが落ちた。
「メダルを獲ったオリンピック選手みたい。」
「じゃあ、これは授賞式。」
 適当なセリフを言い、彼は私の顔の近くでふっと微笑んだ。私は思わず彼の手を握ってしまった。そうか、私だけがしっかりと覚悟をしていなかったんだ。本当にこれは言葉では見えない契約の儀式。たった今、ずっとあなたの隣にいると約束したのにも関わらず、それが望み通りだったのにも関わらず、何かまだある、何かが違うと直感した。
 珍しく、いや、こんなときだからこそ、粲が私にさらっと丁寧にキスをし、じゃあ、帰ろうと言って、握っていた私の手を引っ張って歩き出した。
 何も間違ってなんかいない、こうなればいいと思った通りの未来を歩んでいる。合ってる。正しい。幸せがずっと続くんだ。まるで呪文のように私は心の中でそう唱えていた。



8.魅力的な眼球

 これまでの生活とは打って変わって、穏やかで、ただ美しくて、幸福そのものみたいな日常だった。
「粲、今晩、例のトラットリアに行かないか? 美味いワインを出す店なんだ。」
 監督がにやにやしながら言う。どうせ美人がいるんだろう。
「すみません、今晩は遠慮しておきます。また今度。」
「お前を連れてくって言っちゃったよ。そうしたら彼女喜んでさ、」
「いや、今日はあの、なんというか。」
 なんだなんだと撮影監督もやって来た。
「あの店に飲みに行こうって粲を誘ったんだが、彼、行けないって言うんだよ。」
「どうせ美人がいるんでしょう?」
「いい花屋を知りませんか?」何気に聞いてみる。
 何気に聞いたのに、二人の親父はああと訳知り顔でにやりとした。
「それなら、ほら、ここ。」と撮影監督が持っていたペンでおれの手の甲に地図を描いた。
「あー、ありがとうございます。行ってみます。」
 まさか粲が花を贈るとは、トラットリアの美人はまた今度でいいからと撮影所から夜の街へと押し出された。
 細い坂道は夜、その色数の少なさから古い映画のワンシーンのように見える。濃いセピア色と褪せた黒色の濃淡で石畳に陰影を付けている。坂下の車通りに近づくほど、店や家の窓、街路灯、車のライトの橙を含んだ黄色い灯りが石畳の隅に点々と映っていた。
 花屋っていうのはこんな時間でもやっているんだな、と包んでもらっている間思う。それに結構、多くの人が買いに来ている。花なんてすぐ枯れるのにと思ったが、そうしたら、また買いに来るんだろう。
 バスに乗り、萎れないように花を上手く座席に立てかけた。どうせ誰もいないし、乗らないのだから花を座席に座らせたっていいだろう。窓を見ると、灯りが遠ざかって黒くなっていく背景にピンク色のチューリップが鮮やかに浮き上がって見えた。
 花を引き連れて、バスを降りようとすると、運転手が今日は記念日ですかと聞いた。
「そんな大層なものじゃないよ。」と苦笑しながら手を振った。
 家まで続く道は舗装されてはおらず砂利道だった。左側から海の唸り声のような音が潮風に乗って聞こえてくる。今日は少し荒れているのか。暗いからよく見えない。低い木と綺麗な色の小さな花を付ける植物が生い茂る中に無理矢理作った道は緩やかな坂で、どこがてっぺんなのかは分からないけれど、平らになったところに二人の家はあった。
 土のざらついた感触がわかる家の壁面を触らないようにして、花束とともに家に入った。中は暗い。窓が開いているのか、海の音がくぐもることなく聞こえている。
 おれは花をテーブルの上に置き、ベランダの前の窓の際に立って、海を見た。淀んだ墨色が向こうから漏れ出している。見えない波は不整脈のような狂ったリズムで膨らんでは消滅する。夜の空に飲み込まれた月の光が散り散りに下へ落ちていた。
 真っ暗なところで意味もなく目を開け続け、存在しない恐怖に抗うようなそんな気分だった。どうしてだろう、立っているだけで体の中から何かが溶け出して流出しているよう。どんどん空っぽになっていく。軽くなっていくのに、癒やしではない。黒色は無ではなく、色として眼の内を埋め潰していく。
 ぱちりと音がして、現れた暖色に眼が眩んだ。
「粲?」
 オレンジ色。家の明かりの色。彼女の声。夕飯の匂い。気が付けばかいていた冷汗を手首で追い払い、ただいまと言いながらその手で花束を掴んだ。
「どうぞ。」とそれを差し出す。ピンク色がさっきよりも暖か味を増していた。
「ありがとう。」両頬を上げて、彼女は眼を輝かせた。
 花瓶に入れてくるね、とみいは水を入れにキッチンの方へまた戻った。食事の準備を手伝うために自分も行く。
「ワイン、持ってくよ。どこ?」
「そこ。で、グラスがそこ。」と食器棚の方を振り向きざまに指した。
 ワインボトルとグラスを置いたところで、みいが花瓶をテーブルの端の方に置いた。それは細長い筒のような透明なガラス瓶で、すらっとしたその透けて明るい色の茎がガラスの中のさらに水の中でくっきりと見えているのは綺麗だった。
「今日ね、こっちに来てちょうど一年のお祝いだって言ったら、ティラミスも一緒に包んでくれたんだ。後で食べよう。」
 頷いて、それから二人でグラスを鳴らして、乾杯した。その後は、みいの味レポートだ。
「いやあ、美味しいね、これ。さすがジャンニだわ。」
「プロの表現は? 瑞々しい葡萄が真夏の空を風に乗って飛んでいる、とか。よく聞くよね。」
 途中からみいが、粲がプロになれば? ワイン詩人とかと言って笑い、
「そんな表現している人、滅多にいないよ。少なくともジャンニは。」
「だって、彼は元々無口だろ。」
「そうなんだよね。普段見かけても、知らなければ、地元の漁師に見えるし。まあ、趣味が釣りだって言うんだから、間違ってはいないんだろうけど。ちょっと粲のお父さんに似てるよね?」
「そうかな。親父はお喋りだよ。」
「それは粲が喋らないからだよ。私と話すときはそうでもないよ。」
「ということはみいの方がお喋りだったっていうことか。」
 彼女は本当に修行で腕を上げた。そう言うと、まだまだ全然と笑いながらも挑戦的な眼で否定する。
「追いていくので精一杯。師匠のところはゆるゆるだったからなあ。」
「師匠の友達の店なんだよね。」
「そう、神経質で完璧主義者なタイプ。師匠とは真逆のタイプなんだけど、だからこそ友達なんだって。豪快でがさつで呑気な師匠は業界の友人の中で一番一緒にいて楽だって言ってた。」
「それって褒めてないな。」
「だよねえ。」

 真夜中に突然目を覚ます。一瞬、昔住んでいたあの灰色の部屋に戻ったと錯覚し、細い鏡と誰も座っていない肘掛け椅子を探してしまう。ふと触れるものがあって、びくりとし、それがみいだと気がついてようやく分かる。みいのやつはいつも夢の中でも美味しい食べ物を食べてているような幸せ顔をして眠っている。それを見て、軽い笑いが口から漏れた。 
 寝室の暗闇に向かって思う。幸せな日々だ。昔から「幸せな日々」ってこういうの、と思い描いていた、まさにそれだ。自分はそんな生活は手に入らないだろうし、その暮らしを選択しないのだと思っていた。なぜだろう。すぐ答えは出る。でも、思うことさえはばかられる。いいじゃないか、幸せなのだから。充実した生活。のんびり延々と続けられる。お互い夢に向かって努力して…。
 ばかだなあ、と誰かが笑う。伊織かな。そうだよ、ばかだよと暗闇に笑い返す。おれは未だにばかさ。灰色の部屋の鏡を見ると、おれの眼はもうどこにも見当たらなかった。眼窩から、さっき見た海の色が流れている。あれは幻覚だ。だが、見えている。眼が無いのに見えている。それが何を意味しているのか、もうおれにはわからない。それに対してどう思えばいいのかすら、わからない。わからないという状態だけが真の事実なのだろう。「わからない」という答えが正解で、それ以上は無意味なこじつけと言い訳にしか過ぎなくなる。何かを見たいと思うから見える。

 朝、家下の海辺をぶらついていると、少し離れたところにいたみいが走ってきて、腕を掴んで言った。
「大丈夫?」
「何が?」
 聞いてきたのに、うーん、なんだろうと彼女は笑いながら首を捻る。それを見て、おれも首を捻るがまあいいかと適当に笑った。
 ゆったりとその景色は動いていた。スローモーション再生では無いが、過去を思い返すときにその瞬間だけが間延びする感じと似ている。浜辺の砂は生成り色なのに、日光のせいでほとんど白色に見えた。海も波の裾は反射で白い。遠くの水平線も白い。その間だけが純正の青だった。
「粲はすっかり変わった。」彼女は突然言い出した。
「え? どこが?」とおれはとぼけてみせる。
「毒気が抜けたというか、優し過ぎるというか。」
「それは褒めてる? それとも魅力減ってこと?」と苦笑する。
「優しいことはいいことでしょ?」みいはおれの言葉に笑った。
「なら、良かった。」
 なら、良かった。心からそう思う。みいの手を握りながら、辺りを見回す。流砂のように色の粒が周りから流れて何処かへ消えていく。鮮やかさが失われるわけではない。ただ、点々と消えていく。最後には星空の逆で、白の背景にぽつぽつと色の粒が輝いているように見えるのかもしれない。
 
 遠くで音楽が鳴っていた。縁から褪せ色掛かっている景色に物や人々が輪郭鮮やかに浮かんでは遠ざかる。彼らは知っている人たちだ。
「素敵なお宅ですね。」緑がかった深い瞳。
「いい景色だなあ。そうだ、これ、持ってきたから開けよう。」丸い眼が茶色の瓶越しに見える。
「お、自家製の?」透明過ぎる網膜が光る。
「そういえば、彼は後から来るって。」真っ直ぐで動かない黒色。
「家の水道が壊れたって聞いたけど。」誰かをじっと見つめる鳶色。
「あれ、みいちゃんは?」茶色のボタンのような。
「キッチンじゃないかな。」藍色に花が映っている。
「で、粲はどこに行った? さっきまでいたような。」灰色の眼がきょろきょろと動く。
「ここにいますよ。」と片手を上げる。
 知り合いを家に招いて、ちょっとしたパーティーのようなものを開いていた。パーティーといっても、そんな大げさなものでは無く、休日、どこかの家に集まって、食べ物や飲み物を持ち寄って、だらだらと海を見て喋るだけ。今日は、監督夫妻が来ていた。
「結局、君は一人でいるんだな。」
 そう言って、監督はベランダの椅子に座った。おれはただ、眼の前の海を見ていた。
「粲、後悔しているか?」
「どのことについてですか?」
 ふふっと彼は静かに笑った。
「ここに来たこと、今の仕事を選んだことについてかな。」
「後悔してませんよ。自分で選んだんです。」
「自分で選んでこそだろう? 後悔は。」
「そうなんですか。」
「君は勉強熱心だし、のみ込みも早いし、優秀だから雑用をやらせるには勿体無い。けれど、君はいったい何をしたいのか分からない。そもそもどうして映画を学んでいるんだ。」
「あのときのあなたの言葉で“観客に見せる”ということについて興味を持ったからって、」
「それで実際の現場に来て、どう思った。」
 おれは答えなかった。
「君は変わった。良いか悪いかは別として、出会った時の君はもっと情熱的で想像力に溢れていた。」
「今は何です?」笑いを浮かべながら横を向く。
 彼はじっと探るようにこちらを見た。おれは海に眼差しを戻す。
「例の眼鏡のCMに出て来たあのおばあさん、旦那さんが死んでそのあと、どうなったんですか? あの場所で一人、何をしていたんですか?」
「意外なことを聞くなあ。主人公についてはよく聞かれたが…。いや、君はミーティングにいたじゃないか。」
「ええ、私たちがあなたに依頼したんですよね。色々な用途を示すように、若い人のおもちゃだけでは無いことを示すように。CMの意図は知っています。そうじゃなくて、ただ知りたい。今、ぱっと思いついた想像でもいいんです。」
「君が好きに考えればいい。」
「無理です。」
 そう言うと、しばらく彼は何も言わなかった。そして、ふと思いついたように答えを言った。
「プレゼントの物色をしに孫と一緒に来たんだが、ちょっと疲れたからベンチに座っていたんだよ。」
 おれは静かに笑い、ありですね、と言った。
「まあ、私が言えることは、」と彼はおれの肩に手を置いて言った。「闘い続けろ。悪に屈するな。正義はいつも勝つべきだ。」
「ヒーローになりたいわけじゃないんですが。」
「私の孫の将来の夢はプリンセスになることだが、彼女にも同じことを言っているよ。」
 家の中から、ケーキを出すよと声が聞こえた。さあ、甘いものでも食べて、頭を休めようと彼はおれを椅子から立たせた。

 
 海の縁の朝を歩いていた。砂は朝日に照らされているせいか、いつもの肌色ではなく、どんな色にも見える。まっすぐ歩いているつもりだったが、それが本当に真っ直ぐなのか自信が失くなり、そう思うと余計、色粒に足を取られて、果たして自分が前進しているのかわからない。そもそも、なぜ歩いているのかわからない。朝の散歩のつもりが、いつの間にか崖下の砂浜の終わりを目指して必死になっている。どうして必死なのだろう。ただ綺麗な景色を見ようと軽い気持ちで浜辺に出ただけなのに。
 良い気分転換になると思ったのだ。決して不幸せでも悲しいことがあったわけでも行き詰っているわけでもなかった。寧ろ、その逆だ。でも、何かがおかしい、この状態から好転しなくてはと思ってしまう。どうしてそんなふうに思うのか自分でも理解出来ない。自分の気持ちが理解出来ないなんて今までなかった。遂にみいだけではなく、自分にも理解され無くなってしまった。
 おれはあの眼鏡を持って来ていたことを思い出した。理解ねと半ば笑いながら、数値をみいのに合わせて掛けて、目の前の海を見た。
 陽が綺麗だった。波はすべての色を含んでおり、空との境が曖昧で、しかし絶対的な水平線。綺麗じゃないか。どこかほっとする。みいも自分と同じように美しい世界で生きている。一緒だ。当たり前だ。だが、わかっていなかった。わかっていたけれど、わかっていなかった。
 海はひたすらに岩にぶつかって、砂浜を上って来ては白く砕けている。
 穏やかな敗北を感じた。生まれて初めての完全なる敗北感だ。なんて静かな感情だろうか。眼鏡を外しても、その景色は何も変わらなかった。降って湧いた衝動に任せて、眼鏡を手で割った。磨かれた黒い革靴が白のレースのような波打ち際の泡に沈んでいるのが見える。波が打ち返す度に朝日が靴上に現れた。
「綺麗だな。」鼻で笑っていた。
 こんな美しい景色は見たことが無い。いったい何が美しいのだろう、何故綺麗なのだろう。答えは知っている。
 おれはもうとっくに存在していない。いつから? 周りの色彩が強くなるごとに、人々が景色と化し霞んでいくうちに。いや、それは初めからかもしれない。初めとはいつからだろうか。ここでこんなことを考える道に進んだ瞬間はいつだ? 今からだって違う道に行ける。だが、行けるだけだ。でもまあ、よかったじゃないか。窓からの解放だ。それが望みだったんだろう? もうおまえと青空しかいない。好きなところへ行けよ。何も考えずに、心から望むものを手に入れてみたらどうだ。 
 朝日のステンドグラスを通した光が色のない砂漠のような海底に差して、そこは誰もいない世界一静かで神聖な大聖堂だった。何が欲しいわけでも、どうなりたいわけでもないのに、うっかり口から、救ってくださいとついで出た。目を閉じて祈っていた。そんな自分は想像できていなかった。そうか。自分はこれを望んでいたのか。
 ここまで来ても、美しいと思う景色しか見当たらない。その景色には生者はいない。これこそがおれ自身が求めたもの。共有しようとしたら悪魔だと言われて、追い出された。
 誰かは罰が当たったのだと言うだろうか。監督は悪に屈してしまったのだなと思うだろうか。みいはどうだろう。景色の外から彼女の姿を見るだけではなく、同じ画面に入りたかった。公園の池の水面だけはそれを許していたかもしれない。見ることはなかった。それを確かめなかったことだけが救いだな。
 目を開くと、いつか会った黒い者が立っており、まるでおれの顔を抱くかのように両手を広げた。影が顔の上部を覆う。思わず、口に笑みを浮かべてしまった。だよなあ、それしかない。
 ラムネ瓶の中のビー玉が底に落ちる。コンと音が鳴るのを想像したが、砕ける波の音にかき消されてしまった。



 私は走った。粲が贈ってくれた靴の踵が砂に取られ、上手く走れない。脱いで岩場の横に置き、それから弧を描いている浜辺の端へ駆け付けた。こんなに走ったことは無い。潮風は痛いし、夕方の空は情緒的過ぎて感情を煽り、波のうねる音を聞いて恐怖心が増す。
 点となって人が見えていた。叫ぼうと思ったけれど、息が上がって声が出ない。いつの間にか粲の隣に座り込んでいて、そのことに気が付いたのはしばらく後だった。
 眼を閉じて、人形のように横たわっている。砂と同じくらいに白い。手を握るが、石みたいに冷たかった。脈を図ろうとしたけれど、私の手が役に立たない。首筋を触ろうとして、粲の顔を見たその時、思わず眼を閉じ、逸らしてしまった。
 右眼に透明な尖った何かが突き刺さって、顔の横側に血が垂れていた。砂浜にも点々と落ちている。何だろう、ガラスみたいに見えるけど。
「大丈夫、生きてる。今、救急車呼んだから大丈夫だよ。」
 ジャンニが落ち着かせるように何度も大丈夫だと繰り返した。
「ありがとう。」と私は呟いた。
 今、どんな夢を見ているのだろうと彼の顔を見る。何かを考えているのだろうか、夢を見ているのだろうか。分からない。
 私がさっきとは打って変わって落ち着いたので、ジャンニがまた心配しだした。
「大丈夫か?」
「うん。ありがとう。ジャンニが助けてくれたんだよね?」
「助けたって、そんな大したことはしていない。この波打ち際に倒れていたんだ。そのときはまだ意識があった。私は、」そこでジョヴァンニは目頭に手のひらを当てた。
「彼は水の中から私を見て、満足そうに微笑んだんだ。なんと言えばいいのか…。彼はいったい、どうしてこんなことをしたんだ? これは自分で刺したんだろう?」
「わからない。」
 眼。粲にとって、眼はいったい何だというのだろう。だって、あんなに眼で見ることを研究し続けていたじゃない。私よりも大切なことなんだと悲しくなったこともあったっけ。なのにどうして眼球を自分の手で刺したの? 粲が何を望んでいるのか分からない。
 ガラスの破片が、昇って来た陽に照らされてきらきらと眩しい。
 ぼろぼろと涙が零れた。押さえても溢れて、砂と粲に落ちる。ジャンニが隣にいて、背中をさすってくれている。どうしよう、私は自分の想像を思いついては打ち消した。ううん、粲が死んだらどうしようってことだけじゃない。私はどうすればいいのだろう。
 涙のあとは肺から空気が無くなるほどのため息だ。ガラスはあの眼鏡のレンズだった。柄もフレームもレンズも壊されて、ばらばらになっている。粲の手を見ると、傷だらけで案の定だった。
 病院のベンチでずっと考えていた。粲は死にたかったのかな。それとも、ただ眼を潰したかったのか。でも、海の中にいた。粲なら考える間もなく分かるはずだ。そんなことしたら、死んでしまうって。じゃあ、やっぱり。
 でも、それなら酷過ぎない? 青みがかった灰色の壁に向かって怒りをぶつける。起きたら、まず問い詰めなきゃいけない。そう考えた時に不安がむくれ上がって来た。死にたがった人に何て言えばいい? 眼を失った人に何を言えばいい? これからどうやって一緒にいればいい?
 彼は片眼を失った。今は両瞼を閉じて、眠っている。包帯に埋もれていた。ベッドの横に置いた椅子に座り、私は彼の腕を触った。生きているのが分かる。海辺の冷たい人形みたいではない。でも、私が触れて、それで彼は何か感じてくれているのだろうか。動かない彼と静かな部屋にどこかほっとしていることに気が付いたとき、私は罪悪感を覚えた。
「みい?」
「粲? いるよ、私いるよ。」と言いながら手を握った。
 うんと粲は答え、それから何も言わなかった。私も何も言えなかった。開きかけた口が何度も閉じる。まるで部屋の空気を食べ続けているみたいだった。
「何て言えばいいのか分からない。」彼はぽつりと正直に言った。
「言葉が見つかってからでいいよ。」
「言葉で言い表せられたら…。怒ってる?」
「怒ってる。だから、正直に説明してね。」
 落ち着いた言葉とは裏腹に心臓がばくばくいっている。
「みいが理解出来ないかもしれなくても?」
「もう、眼鏡を掛けろとは言わないでしょ?」
「言えないな。」
 粲は眼を閉じたまま、掠れた声で、少しずつ話した。膨大な感情と思考をゆっくり辿っているようで、いつもの鋭い感じが無かった。何が粲を妨げているのだろう。よく分からなかった。
 まだ閉じている瞼の上に私は手の平を置いた。私たちは再び声が出せなくなった。言葉が出ない。言葉にならない。粲の体が震えているように感じた。でも、それは多分自分の震えだ。落ち着けと自分に命令するもダメだった。
「少しの間、眼を閉じていていいかな。」明るい口調で溜息を吐くように彼は言った。
「開けたいと思うときまで。うん、いいよ。」
 そう言うしかないじゃない。これなら、声を上げない限り泣いてもばれないと皮肉的に考えた。
「ごめん。」
 彼は瞼から私の手を剥して握り、それでも眼を開けようとはしなかった。握った手からは無理矢理力を込めているような不安定さが伝わる。
「絶対に大丈夫。」
 何が大丈夫なのかはさっぱり分からないけれどそう言った。だって、おかしい。おとぎ話みたいな完全なハッピーエンドまで行かなくても、今、魔女も悪者もいないのに、なぜ苦しまないといけないのだろう。どうして粲はそんな風に思うの?
「ありがとう。」
 粲は少しだけ口角を上げ、そう言った。
 
 殴り込みのように監督らがやって来た。が、みいとみいがいつの間にか仲良くなっていた看護婦さんが応酬したらしく、最終的に部屋に入って来たのは監督だけだった。
「悪に屈したな。」
 開口一番それだった。
「まだ第一ラウンドです。」
「右を失くしたのか? それとも左?」
「右です。両眼を塞がれているのは、そうしないとまた僕が潰すと医者が思っているからです。」
「私たちは君が見たくてたまらないだろう作品を作っている。早く眼を覚まさないとフィルムを燃やしてしまうからな。」
「なぜ映画なんですか?」
 監督はその真意をすぐに理解して答えてくれた。
「もう何も見たくないと眼を閉じている人の前にスクリーンを置いて、眼を開けさせる。中の虚構は現実から生まれたんだ。見てよかったと思われるシーンを撮る為だ。」
「…考えます。とにかく。」
 監督は頷いて、帰って仕事をしようとみんなをスタジオに引っ張って行った。
 昨日、みいがあのルーペを持って来た。表彰式と言いながら、彼女はおれの首に冷たくて重たいそれを掛ける。褒められることは何もしていない、むしろ逆だと言うと、先払いと笑い、そして、結婚しましょうと彼女は言った。まったく理解出来なかった。なぜ今なのだろう。  
それは脅迫かと聞くと、前に粲に聞かれたときの返事かなと答えた。そうか。やはり、あのときみいは決心してはいなかったのだ。善は急げとも言うしね、と彼女が開けた窓から入る風とともに声が聞こえた。善を急いで、善をゲットしながら善を追っかけようよと、まるで一緒に狩りへ行こうと誘うように彼女は言った。
 波が砕ける白い音。花の匂い。彼女の笑い声。顔に掛かる日光。水を注ぐ音。肩に触るカーテンの裾。風が吹くたびに波のように翻る。その透けた白色の向こうに窓枠と、中に美しい絵画のような景色。
 窓には、その景色を睨むように見るおれの片眼が映っていた。
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