第4話 あなた、だーれ?

文字数 1,862文字

「あら七海、どうしたの? そんなとこに立ってたら濡れちゃうよ」
 車の助手席から勢いをつけて降りた祖母が玄関の軒下へ走り込んできて、開口一番にそう言ったが、七海が返事をする前に車が小さくクラクションを鳴らして動き出したので、祖母は車に向かって「ありがとう。助かったわ」を大声で叫びながら手を振った。だが、その声は雨音にかき消されて届かなかったかもしれない。
「ほら、入るよ」
 祖母にそう促され、七海も家の中へ入った。
「うわあ、びしょ濡れよ。七海、ちょっとタオル取ってきて」
「うん」
 七海が先に玄関を駆け上がり、洗面所からタオルを取ってきて祖母に渡すと、祖母はまず濡れた髪、それから靴を脱いで足を拭いてから上がった。
「こんなに降るなんて思わなかったわ。ご飯、すぐ支度するから」
 そう言って祖母は台所へ入った。二人暮らしなので、七海も手伝うべきなのだろうが、祖母はガンとして自分がやると言うので、七海は食べることが専門となっているのだ。
 ご飯が出来上がるのを待つ間、宿題を終わらそうと七海は再び自分の部屋へ入り机に向かったとき、さっきの日記に「今日の天気」を書くのを忘れていたことを思い出した。きょうみたいな特異な雨のことを添えておくと、日記を書き始めた時のことを後から思い返すにちょうどいい思い出になるはずだ。
 さっきしまった日記と万年筆を取り出して、茶色の革の表紙を軽く撫でてから表紙を開くと、突然それが目に飛び込んできた。

『これ書いたの、誰れ!』

 その文字は、罫線なんかまったく無視して、あきらかに怒っていた。上質な革の日記帳にまったくそぐわない、激しい怒りで文字が尖っていた。
 思わずパタンと音を立てて七海は表紙を閉じ、反射的に椅子から立ち上がった。それからまず部屋中を見回した。
 さっき七海がこの日記を書いてから、知らない間に誰かがこの部屋に入ってきて、七海の日記に落書きをしていった——はずがない。祖母が帰ってくるまで、この家には自分しかいなかったよね、たぶん——
 それでも部屋の窓に手をかけてちゃんと閉まっているか確認したりしてみるが、当たり前に窓は開かない。やっぱり誰もこの部屋には入ってないと考えるのが自然だよね、と七海は自分に問いかけた。
 少し離れた場所から机の上に閉じて置いてある日記を七海はじっと見つめた。私が日記に初めて書いたあのページには、私が書くまで間違いなく白かった。では、さっき開いたときに目に飛び込んできた『これ書いたの、誰れ!』って文字は、あれは誰が書いて、そして誰に言ってるの?
 胸がザワザワする。異世界とかのラノベを読みすぎて、ついに私も妄想の世界に飛び込んだのかな——
 七海は日記から目を離さずにそっと机に近寄った。怖かったがやはり確かめなきゃいけない。大きく息を吸い込んで、吐く。それから意を決してもう一度机の上の革の表紙の隅から万年筆を差し込んで、それを少しだけ持ち上げて隙間から日記を覗き込んだ。だが、やはりさっき見た時と同じ怒りに任せたような尖った文字が、さっき自分が書いた行のすぐ下に青いインクで跳ねていた。
 妄想なんかじゃなかった。誰かが《わたし》の日記に、《勝手》に文字を書いた人がいる! ありえない!
 不思議と恐怖心が消えて、逆に怒りが七海の身体中に溢れた。今度は表紙を大きく開き、その文字を睨みながら、七海は手にした万年筆のキャップを外した。

『私ですけど、何か? 日記帳に日記を書いて、何か問題ありますか!』

 七海は罫線などを無視して、思いっきり大きく書き殴った。もともと七海は穏やかで几帳面な性格だ。罫線が引いてあれば、それに合わせて丁寧に書きたい。線から文字がはみ出すなんて、ありえないわ。でも、今回だけは許さないからね。一体誰のいたずらか知らないけど、そもそも他人の日記を覗くなんてありえないでしょ。
 書くだけ書くと、日記をバタンと音を立てて閉じ、机の引き出しに放り込み、さらに、今まで一度だって使ったことのない机の引き出しの鍵をかけた。
「どうよ。これでイタズラできるもんなら、やってみなさいよ」
 鼻息荒く、勝ち誇ったように今しがた閉じた引き出しに向かってそう言うと、七海は机の鍵をポケットに仕舞い込んだ。
「あら、誰かいるの?」
 部屋の入り口から祖母の声がして、びっくりして七海は振り向きながら、
「ううん、なんでもないの。ちょっと独り言」
と愛想笑いをしながら応えたのだった。
「変な子ねえ。そんなとこ、あんたお母さんにそっくりだわ」
 祖母が呆れたように、そう言った。
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