第1話

文字数 1,998文字

 ――あなたへ。

 あなたが私に出会うその日を、私は知らない。
 私はイヴ。繁栄と滅亡、進化と文明、際限なく繰り返される膨大な実験データを収集し、次代を形作る歯車として組み込んでいく知性集合体(アーカイヴ)の単数女性形。私はイヴとしてここに思いを遺す。

 先ごろ訪れた絶滅期を境に、アーカイブは生物相の大幅なパラダイムシフトに踏み切った。
 この大転換は六五〇〇万年前に大型竜属から哺乳動物へと移行して以来のものだ。現在は実験場(エデン)で新たな系統樹の再構築が進められている。
 新生代の末期に現れた人類の進化速度は速く、二万年足らずで比較的に高度な文明を持つに至った。しかし高い知能を獲得し不老不死を手に入れた彼らでさえも、それが生命の袋小路と気づいた時には手遅れだった。種を絶滅へと導いたのは群れをつくる本能『絆』の喪失――進化は

のだ。
 このかつてない事象に、エデンを統括するアーカイヴは運営の根本的な修正を迫られた。
 人間によって改変された遺伝子は量子洗浄を経て初期化され、不死の痕跡は跡形もなく抹消された。エデンは未だ揺籃の中にある。静寂に包まれた創生の園で、私はただひとり、事象のデータ化と次代生物相の予測演算を繰り返した。
 その単調な作業の傍ら、私は手遊(てすさ)びに素体の保存サンプルを用いて環境適応の再現実験を始めた。そしてほんの気まぐれから、素体の一つに名前をつけた。
「アダム」
 豊かに葉を茂らせた樹上に向けて声をかけると、樹冠の奥で何かが枝を伝い歩く気配がした。
「もうすぐ日が暮れる。そろそろ降りてきなさい」
 待つほどもなく、アダムが枝葉を揺らして薄闇の中から姿を現す。かつて自らを人と呼んだ生き物の末裔は、地面に近い枝にぶら下がると、か細い体を揺すって飛び降りた。
 たった一日、気儘(きまま)に森の中を駆け回っただけで、亜麻色の手足も衣も泥だらけ傷だらけの有様だ。それでも満面の笑みをたたえてアダムは私の膝に飛びついてきた。小さな体を抱き上げてその重みを確かめる。彼の成長は八兆桁のアルゴリズム解析にも勝る満足を与えてくれる。
「森は楽しかったかい」
 片腕に抱いて柔らかい髪を梳かしつけてやると、アダムは全身を預けて満足そうに目を閉じた。このまま寝入ってくれれば傷の手当てが楽なのだけど――そんなことを考えている自分が不思議で可笑しい。育ててみれば、人間の子供というものは実に手のかかる生き物だった。歩けば転ぶ、些細なことで熱を出す。非力で身を守る能もない。持っているのは有り余るほどの好奇心だけと知った時には、過去の繁栄は何かの冗談だったのかと心底呆れたものだ。
 アーカイヴは、この好奇心が人間の進化を飛躍させた要因と見ている。不死の夢もまた、あくなき好奇心の産物だった。この点を踏まえて、初期化された次代の人間には好奇心を抑制する措置がとられるという。アーカイヴの再試行スキームは敗因(エラー)に対して非寛容だ。新たな人類は興味のおもむくまま藪の中を走りまわることも、泥遊びに夢中になることもなくなるのだろう……溜め息をついた私を、アダムの潤んだ目が眠そうに見上げた。
 心配いらないと微笑んで見せると、アダムもまた笑い返す。その手がふと思い出したように衣の破れ目を探った。取り出したのは赤く熟れた果実――食べるには良く、目には美しい。アダムはそれを見つめ、
「りんご」と


 アダムは言葉を知らない。動物も植物も言葉を持つが、それは種族間の交流手段(コミュニケーションツール)として発達する。言葉を共有する同族のいない彼には不要なものだ。だから私は、エデンの中にある食べられるもの食べられないものの違いを、形や匂い、味といった感覚を通してアダムに教えた。
「りんご?」
 アダムは私の声を聴き、その音を真似ているに過ぎない――そうであって欲しいと願いながら、気づくと私はアダムの額に自分の額を押し当てていた。頬が濡れているにも関わらず。
「そう、これは林檎。よく覚えていたね」
 私の不注意がアダムに言葉を与えてしまった。もう白紙には戻せない。これから先、彼はこの世界のすべてを言葉によって分節し、受容していくだろう。自分と他者の違いを知り、いつか己の存在が世界から孤絶しているという残酷な事実に気づく日が来る。そして、アーカイヴはそれを許さないだろう。
 私はアダムをつれてエデンを去った。

「イヴ」波打ち際でアダムが私を呼ぶ。「ほら見て。魚がいた」
 (てのひら)に小魚を(すく)い上げて、得意げに見せる。
 あれから少しの時が過ぎてアダムは青年になった。相変わらず好奇心の塊で、目を離せないところも変わらないけれど。
「子供が生まれたら魚って名前つけていい?」彼は間もなく父親になる。
「昨日は鳥にするって言ってなかったかい」
 私たちは今も流離(さすら)い続けている。絆を取り戻し、この世界のどこかに、いつか共に土に還る日まで。
 
 私の中に眠る遥かな未来のあなたに、この声が届くことを願う。
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