第1話

文字数 3,252文字

苔桃と少女


「こんな状況のおかげかな。本当は重要じゃなかったものがそぎ落とされて、本当に大切なものだけが残ったような気がするよ」
 演劇や映画に夢中になって、大学を卒業するのに六年もかかった私にとって、妻の言葉は骨身に染みた。が、コロナ禍以前の新宿で無為に過ごした学生時代の日々は、その無益さゆえに、刺激に富んだ挿話に溢れていたこともまた事実であった。

 私と妻は池袋の相席屋で知り合い、その頃はお互いまだ学生であったが、卒業を待たずに結婚をした。新天地を横浜に選んだ私たち夫妻は、新宿を中心としたそれまでの遊び場を離れることになるが、その頃の、コロナと、それがもたらす諸々の社会的制約の跋扈する前の、少なくとも今よりははるかに風通しの良い喧騒に包まれた都会での日々を、私は今でも昨日のことのように回顧することができる。若者、という言葉が死語になって久しいが、「若さ」という概念と、東京の都会、殊に「新宿」という地名は、私のなかで緊密に結びついて離れない。そこは痛ましいほどの無益と、夥しいほどの病巣の蝕んだ、私自身の「若さ」の象徴であったから。

 思い出すのは少女のことである。妻のことではない、新宿駅の南口改札でまったく偶然の邂逅を遂げ、その夜以来一度も出会わなかった少女のことである。街ですれ違っても百パーセント気がつかないほどその輪郭は、曖昧な記憶の堆積へと埋没しているが、その瞳の煌めきだけはなぜか鮮明に覚えている。その頃には、まだ、厄災の前兆など影も姿もなかった。

 大学四年の初夏、内定をもらい早々に就活を切り上げた私は、入社予定の会社の懇親会とやらのために軽井沢を訪れた。退屈極まりないレクリエーションを終えてジンギスカンを食べた後、同期どもとコテージに一泊し、翌夕に高速バスで東京へと向かっていた私の荷物には、苔桃のジャムの瓶が包装されてしまわれてあった。その晩、私は相席屋で出会ったばかりの現在の妻と、初めての夕食をともにしようと約束づけていた。懇親会の疲れを神経に感じ、私は座席に凭れバスの揺れに揺られた。
 バスタ新宿で同期と別れる際、女と約束してあるという私には他愛もないからかいが浴びせられた。歯痒いようなこそばゆいような、そして仄かな緊張とともに、私は南改札口へと赴いた。
 待ち合わせた時刻まではまだ少しあった。用意していた苔桃のジャムを荷物から手に抱え、雑踏のなかでスマホを開いた私の頭に、ある不穏な考えがよぎった。というのも、私と現在の妻とは半月ほど前に相席屋で初めて会ったきり、すっかり顔を合わせずに、ただSNS越しで文章のみの連絡を取り続けてきたのである。端的に言えば、待ち合わせた女の貌を私は覚えていなかったのだ。
 かすかに周章したが、すぐに妙案が浮かんだ。簡単なことだ。待ち合わせの時刻になれば電話で相手に連絡を取って、みどりの窓口の前ででも落ち合えばよい。スマートフォンの普及した現代において、待ち合わせた相手と巡り合えないことほど愚かしいことはない。改札を出入りする通行人の影を、私はしばし茫然と眺めた。

 十九時前、改札を抜け、構内へと入ってくのはワイシャツにネクタイの会社員が多く、反対に、これから夜の仕事へ向かう水商売の男や風俗嬢、あるいはクラブにでもくり出そうとする若い連中は、けばけばしく派手な衣装を身に着けて、つまり駅前は混淆としていた。群衆のそれぞれに日常生活があるのだというちっぽけな感慨と、自分もそんな混淆を形成する色彩のほんの一粒の色素に過ぎないのだというありきたりな想念に、私はぽつねんと浸った。
 気がつくと十九時を過ぎている。私は慌てて電話をかけた。通信が悪かったのか、繋がった電話はすぐ切れた。みどりの窓口の前にいる、とだけメッセージを送り、私は携帯を耳に当て、言葉通りに雑踏のなかを横切った。電話はやはり繋がらなかった。が、私と同じように携帯を耳に当て、不安げな眼差しで辺りを見回している少女の姿を、私は窓口の前に見つけた。すぐに電話を切り、声をかけた。よう、だったか、久しぶり、だったか、あるいはもっと違う別の挨拶であったのか、今の私には思い出せない。
 少女はすぐに振り向いて、ああ、と呟いて電話を切った。
「待たせた、ごめん」
「いや―」
 相席屋で会った女と、半月ぶりに二度目の再会をするという初めての状況が、らしからぬ緊張を私に強いた。
「長引いちゃって。とにかく行こう、もう予約してあるんだ」
「そう――」
 少女はそう言って私の隣について歩いた。私は横目で、自分の肩より低い少女の顔を見、記憶のページをめくりめくった。
〝――こんな顔だったっけ?〟
 という戸惑いと躊躇が、その時の私には確かにあった。いや、あえて露悪的に述懐すれば、
〝こんなに色気の欠片もないような子を、どうして食事になんて誘ったのだろう〟
 過去の自分への憤りさえ私は感じ、おそらくはアルコールの酔いに任せて連絡先を交換でもしたのだろうと、おのれの軽薄さを戒めた。
 隣を歩く女に辟易すると、男は景色をよく眺む。初夏の街は、夜とはいえもう温(ぬく)かった。急速に醒めていく頭とは裏腹に、どうせならやっちまえという肉体の欲望もあり、そのせめぎ合いが私を無言にさせていた。
 少女を見ると、やはり気まずそうに俯いている。その物憂げな感じが何となくいたたまれなくなって、そうだ、と私は紙袋を見せた。
「これ、軽井沢で買ってきたんだ。苔桃って珍しいからよかったら食べて」
 微妙な言葉と微妙なタイミングで微妙なプレゼントを渡された少女は、やはり微妙な表情でそれを受け取った。
「ありがとう――」
「いやいや。また会えて嬉しいよ」と儀礼的に私が言った途端、
「あの、やっぱり違いますよね」と少女は私の顔を見上げた。
 その時に初めて、私は少女の顔をまともに見た。印象の乏しい、幸の薄そうな顔だった。ただ細い一重の瞳だけが虚ろに、しかしやたらと爛々としていた。
「かもね」
 ほとんど反射的にそう口にすると同時に、背を向けた少女は小走りに来た路を戻っていった。駅の眩さに少女の後姿は影絵のようになって、光に集う、不憫な習性をそなえた小さな虫を連想させた。
 スマホを開くと、ちょうど着信が来ている。
「ごめん遅れて!今みどりの窓口着いたんだけど見当たらなくて――」
 駅に戻ると、窓口の前で辺りを見回していた女と眼が合った。私をみとめると、女はすぐに駆け寄ってくる。
「駅で迷っちゃって――電話しても全然つながらないから、怒って帰っちゃったかと焦ったよ」
「いや、俺も迷ってたからちょうどよかった」
 ついさっきまで少女と過ごしていた奇妙な時間について、いま告げるほど私は純朴でなかった。が、なんとなく落ち着かなくて、私はつかずともよい二つ目の嘘を吐いた。
「プレゼント、せっかく買ってきたんだけどバスの中に忘れちゃった――」


 今でも横浜駅の改札口あたりで、雑踏のなか立ち尽くす人待ちの少女を目にすると、新宿で過ごしていた頃の日々が蘇ってくる。今年、私は二十四になった。人によってはまだまだ若いというかもしれないが、私の若さはもう過ぎた。少なくとも、コロナが蔓延する直前の新宿で、無為に不毛に、奔放に放埓に、倫理の真空のなかでぞんぶんに羽を広げていたその頃の自由さが、還りくることは永久にあり得まい。若さが自由と同義であれば、今の私が老いを感じざるを得ないのは、自らの為した学生結婚と、コロナの産み出した社会的制約のためだけではないだろう。
 思うに「若い」私が抱いていたものは、不可知ゆえに無限である未来への可能性、その幻想ではなかったろうか。あみだの終点が等しく凡庸であれ、そのどれか一つだけは眩いほどの輝きに繋がっているはずだという希望への憧憬、証左なきその幻想こそが、実は若さそのものであったのかもしれない。
 
 あの少女は待ち人に出会えただろうか?苔桃のジャムはそれなりに高かったから、もし口に合っていれば嬉しいのだが。





ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み