独りにしないで

文字数 7,330文字

HIVに感染したのは3年前。一ヶ月だけ付き合った彼氏がHIVに感染していた。知らずにセックスをして、私もHIVに感染した。感染したことに気づかないまま過ごしていたけど、気まぐれに献血に行ったら、感染していることが分かった。HIVに感染してから、生活は一変した。家族も友達もみんな私を病原菌扱いした。みんなHIVの感染経路は理解しているはずで、普通に一緒に生活しているだけでは感染しない。性行為や輸血などをしない限りは。でも、みんなは私から離れていった。急にではない。ゆっくりゆっくりと離れていった。女友達も男友達もみんな。親友と思っていた子も離れていった。計算したように、会う回数が減っていった。1か月が2か月に2か月が4か月に4か月が半年に、半年が1年に。

私がHIVに感染していることを知っている人は、全員離れていった。私に声をかけてくれるのは、私がHIVに感染していることを知らない人だけ。私はBarが好きになった。独りで飲んでいても、誰かが声をかけてくれた。孤独を忘れられた。お持ち帰りされることもあった。でも帰り道にHIVのことを必ず伝えた。犯罪者になりたくなかったから。みんな優しい言葉をかけてくれた。優しい言葉を一通り並べた後、みんな私を置いて行った。

何もかも嫌になった。
孤独が離れてくれない。
分かっていた。結局はどう頑張っても孤独なままだってこと。分かっていた。けどひと時でも忘れたかった。

いつもは声をかけてくれるのを待った。けどその日は、私から声をかけた。その男に興味を惹かれたから。手入れをしていないであろう無造作に散らばった髪の毛。3日以上は剃っていないだろう無精ひげ。適当に羽織ったジャケット。ダボダボのズボン。どう見てもまともな身なりではない。普通なら決して声をかけることはないだろう。だけど、横顔に惹かれた。鋭さを思わせる目元。ぎゅっと結んだ口元。綺麗な鼻筋。どこかほっておけない雰囲気があった。

コンコンと机をたたく。男ははっとしたように顔を上げて、こちらを見た。私はその目にくぎ付けになった。生気がない。しかし鋭かった。自分の全てを見通されてしまう気がした。私は慌てて、目線を首元に外した。
「少しお話しませんか?」
私を見つめること数秒。
「話下手なんですが、それでもよかったら」
他愛のない話をした。出身地、趣味、好きなお酒、食べ物の嗜好。確かに話上手ではなかった。けど不思議な魅力があった。それが何なのかは分からない。私はそれにどんどん魅了されてしまっていた。男にどんどん自分のことを話した。自分が病気であることも話した。もちろんHIVに感染していることは隠した。でも喋りすぎたのだろう。周辺情報から推理したのだろうか。男は尋ねてきた。
「病気はAIDSですか?」
思わず黙ってしまった。動揺を隠すことができなかった。男と視線が合った。全てを見透かされてしまっただろう。男は小さい声で言った。
「そうですか。」
その次だ。
男が続けたその次の言葉が私を狂わせた。

「大変ですね」

お前に何が分かる。お前に私の何が分かる。何を知っていて、大変だという一言で片づけるのか。
ふざけるな。ふざけるな。
私は爆発しそうになる怒りを必死で抑え込んだ。酒を口に含む。男はその様子の一切を静かに見ていた。

「すいません。気に障りましたか?」

殺してやる。こいつを殺してやる。
こいつを今ここで。このコップをその顔面に投げつけてやる。手が震える。必死で抑える。何も話せない。私はこいつを殺したい。頭の中を怒りと殺意が駆け巡って爆発しそうになる。私は必死で自分を抑えた。

少し経つと次第に冷静になれた。そして、一つの考えが沸いた。こいつにも同じ苦しみを味合わせたい。私は必死で笑顔を作って、男にお礼を言った。気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫なんです。普通にしてる分には感染しませんから。SEXだってゴムをつければ平気なんですよ。私は男にどんどん酒を勧める。私もどんどん飲んだ。こいつをはめてやる。

二人で店を出て、ラブホテルに向かった。道中で私は冷静になった。私がしようとしていることは犯罪だ。いや 、でも、こいつは知ってついて来ている。だから私のせいじゃない。怒りと迷いが頭をめぐる。何よりも不自然だったのは男の反応だ。なぜ私に付いてくるのか?私がHIVに感染していることを知りながらなぜ付いてくるのか?気になって男の顔を見ると、目が合って、男は微笑む。そんなことを繰り返した。こいつは何かある。何かを隠してるんだ。私に何かをするつもりなんだ。私を辱めるつもりなんだ。

いつの間にかホテルに入ってシャワーをあびていた。男はまだ逃げない。ゴムをすればSEXしても大丈夫というのは本当だ。感染の危険性はあるものの、かなり低くなる。それでだろうか?大丈夫と高をくくっているのだろうか?そうだとしたら、どうすればあいつを嵌められる?

バスローブを羽織って、シャワールームを出る。男はすでに裸になってベッドに座っていた。服を着ているときは分からなかったが、男は瘦せていた。病的だった。病的に痩せていた。私を見て男はまた微笑んだ。この微笑みが冷静になりかけていた私をまたイラつかせた。私が隣に座ると男は私の体に触れ始める。胸を、お尻を、女性器を優しく愛撫する。とてもやさしい手つきだった。今までの男は皆好き放題に弄ってきた。体に覚えた快感を対比する。私の頭の中にあった怒りがどんどん消えていって、快感に変わっていった。男は私の背中に回って、私を抱きしめるように愛撫する。快感が高まってきて、声が漏れてしまう。

消えていく怒りを必死で留めた。優しさがむかつく。どうせ見せかけの優しさだ。こいつはただ女を抱きたいだけだ。性欲を満たしたいだけだ。自分に言い聞かせる。けれど愛液はどんどん溢れる。計画を遂行すべく攻め手に回ることにした。男性器を口にくわえて男を喜ばせる。男を見つめると、またあのむかつく微笑みを浮かべたままだ。フェラは得意じゃなかった。昔の男たちにもやらされたが嫌いだった。でも頑張った。何をすればいいか分からなかったがとにかく男の微笑みを崩したかった。だんだん男の表情が快感に曇ってきた。そろそろ頃合いだ。

私は男に覆いかぶさりながら男の耳元で囁く。

「生でしたい」

少し待ったが返事はなかった。どんな顔をしているだろうか?困惑しているに違いない。私は期待しながら、男の顔を見る。そこにあったのは、あのむかつく微笑みだった。目と目が合う。また私は私を見透かされそうになった。私のつまらない企ても。つまらない私自身も。私は慌てて目線をそらす。すると男は言った。

「いいよ」

驚いて男の目を見る。また微笑んでる。
怒りがこみ上げる。抑えきれず、全部をぶちまけた。

「ふざけんなよ、適当なこと言いやがって、HIVだって言ってんだろ?感染するんだぞ!わかってんだろ?くそボケ!!」

もう止められない。

「言ってるだけだろ?言ってみてるだけなんだろ?それともウソだと思ってんのか?診断書見せてやろうか?」

男の顔を見つめる。

「わかってるよ、でも別に感染してもいいんだ」
「はあ!?」
「オレ、死ぬんだ、肺ガンでさ、あと半年ももたないらしい、だからHIVなんて気にしない」

時間が止まった。男の言った言葉を理解するのにどれくらいかかったか分からない。男はじっと黙ったまま私を見つめていた。私はようやく言葉を発した。

「嘘でしょ?からかってんでしょ?楽しんでるんでしょ?ふざけんなよ!」

「嘘じゃないよ、仮に嘘だとしても別にいいでしょ、
君が生でしたいなら僕はそれでいいって言ってるんだから」

また私に微笑みかける。私は混乱と怒りが頂点に達した。自分の腰を上げて、男の性器を自分の性器にあてがった。

「本当に入れるからね」

男は微笑んで答える。

「どうぞ」

私は一気に腰を落とした。快感が私の体を駆け巡る。私は腰を前後に動かした。もう止まらない。男に抱きつき、キスをせがむ。男はキスで答える。唇と性器をひたすらに擦り付けあった。怒りも戸惑いも何もかも溶けてなくなっていた。

自分の欲望に任せてひたすらに腰を動かす。こんなことは初めてだった。ただひたすらに目を閉じて快感を貪った。

男が言った。
「なんで泣いてるの?」

泣いてる?私が?言われて気が付いた。私は泣いていた。大粒の涙が頬を伝って、男の肩に落ちていた。どうして?何で?SEXで泣いたことなんてない。気持ちいいから?何で?何で私は泣いているの?分からなかった。

「うるさい、しゃべるな、あんたむかつくんだよ」

泣きながら男に抱きついて叫ぶ。もう理性では止められない。男の私を抱く手が心なしか強くなった気がした。私はまた叫ぶ。

「あんたなんか死ね、さっさと死ね、肺ガンだかなんだか知らないけどさっさと死んじまえ」

男の手がまた強くなる。

「もっと強く抱きしめてよ、もっと強く、もっと強く抱きしめて」

私は泣き叫ぶ。男はそれに答えて、私を強く抱きしめる。
私は小さな女の子のように泣き叫んだ。
男の手が私の頭をゆっくりなでる。
私はそのまま泣き続ける。



















目を覚ました。ぼんやりとした頭を起こして、部屋を見渡す。もう男の姿はなかった。ベッド脇の机に1万円札が2枚置いてあった。私はしばらく茫然としていた。昨日、泣きすぎたせいか頭痛がしていた。男の痕跡を探したが何もない。メモ書き一枚ない。しばらく休んでから、重い頭を抱えてホテルを出た。

昨日のことを忘れようとした。でも忘れられなかった。意味もなく街を歩き、足しげくバーに通った。バーテンダーに男の情報を聞き出そうとした。けれど、結局何も分からなかった。諦めるしかない。でも諦められない。名前も知らない男に、どこにいるかも分からない男に、もう一度会いたい。なんで?私はなんであの男に会いたいの?セックスしたから?抱きしめてくれたから?優しくしてくれたから?分からなかった。でも会いたかった。

なんとなく街を歩いていると教会があった。神様になんか祈っても仕方ない。でも、他にできることなんてなかった。私は教会に入った。
扉の前で呼びかけるが返事はなかった。ゆっくりと扉を開けて中を覗く。大きな木の柱が並び立っていた。美しい模様のステンドグラスが様々な光を反射して輝いていた。一番奥に大きな十字架が立っていた。中には誰もいないようだった。勝手に入ってもいいのだろうか?そう思いながら、ゆっくり中に入っていった。そして一番奥の十字架を目指してゆっくりと歩いた。荘厳な空間は静寂に包まれていて、私の足音だけが響きわたる。十字架の前で立ち止まる。宗教には縁遠かった。だから何をしていいのか分からない。映画で見た光景を思い出して、ひざまずいて両指を胸の前で組んだ。そして目を閉じて祈ろうとした。でも何を祈っていいのか分からなかった。目を開けて十字架を眺める。十字架にはイエスキリストがはりつけにされていた。人々の罪を背負って磔にされたキリスト。その像を前にもう一度目を閉じる。自分の心を見つめる。私の祈り。

「私を独りにしないで」
声に出していた。
「私を独りにしないで。寂しいんです。胸が冷たくて凍ってしまいそうになるんです。お願いします。私を独りにしないでください。苦しいのは我慢します。痛いのも我慢します。だからどうか、私を独りにしないでください」

涙が溢れてこぼれ落ちる。

「あの人に会わせてください。あの人に会いたいんです。あの人に触れてほしいんです。分かっています。自分勝手な願いだってこと。でもいまの私にはそれしかないんです。あの人の手の温もりが私の拠り所なんです。あの手だけが私の心を温めてくれるんです。他のものじゃダメなんです。他のものはいりません。お願いします。対価が必要なら払います。あの人と一緒に死んでもいいんです。お願いします。あの人に会わせてください」

一人ぼっちの教会で、私は祈り続けた。どれくらい、そうしていたか分からない。ほとんど泣きつかれていた。

すると、後ろから扉が開く音がした。私は顔を上げて後ろを振り返る。でも足が痺れて上手く動かせず床に手をついて倒れ込んでしまった。もう一度顔を上げて扉の方を見る。逆光のせいで姿がよく見えなかった。でも輪郭から男性だと分かった。神父さんだろうか。男はゆっくりとこちら側に歩いてくる。扉がゆっくりと閉まり、男の顔がはっきり見えるようになった。男の顔を見て呆然とする。あり得ない話だ。祈りはしたが、叶うなんて信じていなかった。男が私の前に立つ。そしてあのむかつく笑みを浮かべて言った。

「久しぶり、奇遇だね」











私達は教会の椅子に並んで座った。
「ここに通ってるの?」
「そうだね。肺ガンだって申告されてからだから、3ヶ月前ぐらいかな」
「そうなんだ」
「君はいつから来てるの?」
「今日が初めて」
「そうなんだ」
男はぼんやりと十字架を眺めていた。
「不思議だよね。神様なんて信じないけどさ、死ぬってことが分かったら、なんとなくここに来たくなった。別に長生きしようなんて欲もないんだけどね。死後の世界とかを真面目に考えるようになった。でも、そんなのって分かりっこないでしょ?」
男は私の方を向いて笑いかける。私は答えなかった。
「なんとなく不安になってさ。あてもなく道を歩いてたら、たまたまこの教会を見つけて、それでなんとなく入ってみたってわけ」
「それで何か救われた?」
男は微笑む。その笑みを見て心が締めつけられた。
「暇つぶしにはなったよ」
ゴホッゴホッと男は咳き込んだ。2度の咳を皮切りに止まらなくなった。男は苦しそうに咳き込み続ける。私はなんとなく男の背中をさすった。しばらくして咳がやんだ。ハァハァという荒い息遣い。眼が涙でうるんで真っ赤になっていた。
「この身体じゃあ、もう何もできないからなあ」
そういうと男は立ち上がった。十字架の前に立ち両手の指を組んだ。そして眼を閉じる。私は男の姿を黙って見ていた。
しばらくした後に男は眼を開けて私の方を見て言った。
「さて、お祈りも済んだし帰って寝るよ」
私は男の服を掴んで引き止めた。
「ねえ、ホテルに行こう?」
「何で?」
「HIVなんて気にしないんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、抱いてよ。前みたいに、私を抱いて」
男の眼を見つめて言った。
「お願い。独りにしないで」
「オレは死ぬよ」
「でも今は生きてるでしょ?いまだけでいいから私の傍にいて」
「じゃあ、またここに来なよ」
「え?」
「オレも来るから。君もここに来なよ。それでまた話をしよう。そうすれば独りじゃなくなるでしょ?」
男はまた微笑む。触れてほしかった。けど傍にいてくれるだけでもいいような気がした。






それから私は教会に通うようになった。教会で男と会った。隣に座って他愛もない話をする。その後、男は十字架の前に立ち両手の指を組んで祈る。そしてまた次に会う約束をして教会を出ていく。そんな日々。どうでもいいような日々。

でも少しだけ変化があった。教会には私や彼のような人がチラホラいた。子供が交通事故で急死して絶望していた母親。国の指定難病にかかって苦しみながらも生き続けている女性。色々な悩みを抱える人と知り合った。私の境遇も個性の一つでしかないと思うようになった。彼だけではなく他の人たちとも話すようになった。彼女らとの交流にも私は救われた。彼に頼らなくても良くなっていたはずだった。けどダメだった。約束した日なのに彼が来ない時があった。そういう時はどうしようもなく不安になった。他の人と話していても不安は消せなかった。気がつくと十字架に祈っていた。
「まだもう少しだけ会わせてください。あの人を連れて行かないでください」
そう祈った。たいてい翌日には彼は何気ない顔で教会に座っていた。そして私にまた微笑みかける。ホッとした。でもものすごく怒りが湧いた。彼にきつく当たってしまう。彼はなんとも思っていなさそうに適当に私をあしらった。

でも確実にその時は迫っていたんだ。








教会の中に入ると、いつもの椅子に彼が座っていた。私は歩み寄る。彼は目を閉じて眠っていたみたいだった。私に気づいたのか、目を開けて私を見た。
「ああ、きたの?」
掠れそうな声に私の心がざわつく。
「大丈夫なの?」
「ああ、ちょっとねむたくてさ」
生気のない表情。私の不安が高まる。
「ちょっとおねがいがあるんだけど」
「何よ?」
「ひざまくらしてくれない?」
子供みたいな口調で言った。彼がそんなことを言うのは初めてだった。
「いいけど」
「ありがとう」
彼はそう言うと横になって私の膝に頭を載せた。彼の顔が良く見えた。頬がごっそりとコケていた。彼は衰弱しきっていた。
「こんなになっちゃってさ」
私は彼の髪を右手でゆっくりと撫でた。心なしか彼は気持ちよさそうにしていた。
「あんた親は?」
「しんだ」
「兄弟は?」
「しらない、もうなんねんもあってない」
「奥さんは?」
「いない」
「恋人は?」
「いない」
「友達は?」
「いない」
「じゃあ、あんたがこんな状態だって誰が知ってるの?」
「きみだけ」
「何でそんな孤独な生き方してんのよ、馬鹿じゃないの?」
「きみはちがうの?」
「私は違う」
「そう、それならよかった」
私は歯をぐっと嚙み締めた。
「やっぱりむかつく。あんたのそういうとこ。何でもお見通しですみたいな、そういうとこ。すごくむかつく」
私は彼の眼を見つめてはっきりと言った。彼は右手をゆっくりと上げて、私の頬に触れ、ゆっくりと撫でた。そして満足気に微笑む。
「なんでないてるの?」
「うるさい、うるさい」
私の目からは涙がこぼれていた。涙声になりながら私は彼の顔を見つめて言う。
「死にそうなくせに、期待だけさせて自分だけ先に死ぬくせに」

「優しくしといて、私を置いて死ぬくせに」

「嫌い、嫌い、大嫌い、あんたなんか大嫌い」

大粒の涙がこぼれる。私の涙が彼の頬に落ちる。

「そばにいてくれないなら、優しくなんかするな」

彼の手を強く握りしめる。

「いかないで、私を独りにしないで、お願いだから、そばにいてよ」

彼はもう何も答えない。私の泣き声だけが教会に響く。



終わり
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