奇跡それは僕たちの軌跡(Extra Story)

文字数 2,995文字

 ぼんやりとしていた意識が、ゆっくりと覚醒していく。
 色を失っていた世界に、少しずつ色が戻っていく。

 静かだな…

 僅かばかりの寂しい気持ちと、いつもの諦めの気持が去来する。
 白で統一された部屋。硬いマットレスのベッド。
 音のない無機質な部屋…もう、とうに見慣れたいつもの景色。。

 サイドテーブルに置かれた花瓶にはその生命(いのち)の終わりを悟ったかのように色褪せ始めた花びらを、辛うじて繋ぎ止めているライラックの花。

【想い出】の花言葉を持つ花。

 艶やかな紫色は影を潜め、白に近いほどまでに色を失い、その花弁の(ふち)は茶色に侵食されているライラックを見て、私は自分を重ね悲しい気持ちになる。

 私の名前は遠藤董香(えんどうとうか)

 大学を自主退学し、この世で最も大切な人と、別離をしたあの日に囚われたままの哀れな女。

 そして…叶わぬ思いを抱いたまま2年の月日を無為に過ごし、やがて散る花。

 急性骨髄性白血病

 彼と別れた辛さ、自分の巡り合わせの不幸を嘆いて、ずっと家に引きこもっていた私は、妙な疲労感や不意に起こる鼻血などに悩み、病院を受診することにした。
 そして告げられた病名。
 龍樹と別れて、何もする気が起きなかった私は自分の運命とは何だったのかと自嘲気味にその事実を受け入れ、そして未来を諦めた。

 私はゆっくりと頭を巡らせ、自分の左腕を見る。
 点滴スタンドには2つのバッグ。そこから伸びる2本の管は、途中で一本になり私の腕へと繋がっている。

(こんな物を私に繋いで何になるのだろう、龍樹のいないこの世界で私を延命して何になるのだろう…)

 龍樹にあいたい…。
 未だに薄れることのない感情。
 どれだけ努力しても薄れてくれない想い。
 何度忘れようとしても、忘れることが出来ず、強まっていく感情。
 私はその感情に心をかき乱されながら、そっと目を閉じる。
 2年経っても、私の涙は枯れることはなかった。



 夢を見ていた。
 あの日、私たちが致命的な失敗をしてしまった場面。
 でもその夢は、私の夢だからだろうか、現実とは違っていた。

「……いいよ。…ね、入ろ…」

 私はゆっくりと龍樹にちかよると、彼の胸に手を当てる。
 彼の瞳を見つめる、ゆっくりと瞳を閉じる。
 彼は私の気持ちを分かってくれたのだろうか、私の唇に優しくキスをした。

(そんな未来も有ったのかな…)

 幸せな夢のはずなのに、胸が締め付けられて涙があふれる。
 何処でどう間違ってしまったのか、なぜこんなに愛している彼とともに生きることが出来ないのだろうか。

「!!」
 夢の中でさえ悲しすぎて、私は目を覚ました。
 自分の頬が濡れているのが解る。
 まだ、涙は枯れ果ててくれないのか。涙が枯れ果てて、心が乾ききってくれたら、この悲しみは少しは軽くなるのだろうか。
 そこまで考えた時、私は右手に違和感を感じた。

 誰かが私の手を握っている。
 手のひらから温かい熱が伝わってくる。
 ゆっくりと私はベッドの右へ視線を向け、そして…呼吸を忘れた。

「…久しぶり…董香…。」

「嘘…なんで…。」

 それ以上言葉が続かない。
 なぜここに龍樹くんが居るのだろうか。
 彼の通っていた大学、彼の住んでいる街とか遥かに離れた街の病院に…

「あれ…僕の言葉はもう忘れちゃった?」

 あのときとかわらない笑顔でだけど、あの時の弱々しさのない声音で
 龍樹くんは言った。
 2年の間に、彼は凄く大人びていた。

「僕はこう言った。僕じゃ董香と釣り合わない。それを思い知らされるって。」

「う…うん。」

「大学に行ったら、董香が退学したと知った。そして僕は初めて上辺じゃない自分の本当の気持ちに気がついた。」

「うん…。」

「董香居なくなって、僕の人生に董香がどれくらい必要なのかわかった。だからさ…僕は僕の方から董香に近づこうと思った。釣り合わないなら、釣り合うところまで僕が歩いていこうと思った。」

 龍樹くんの言葉が胸に染み込んでくる。
 抑えていた気持がせきを切って溢れそうになる。
 だけど寸前で、今の自分が置かれた状況を思い出してしまった。

「私…ほら…こんなになってしまったから。」

「董香、もう少しだけ待って…僕の話、聞いて。」

 そう言うと龍樹くんは、ジャケットの内ポケットから小さな箱を取り出す。

「もし、董香が僕を許してくれるなら…これから先の時間の全てを僕にください。半年なのか、1年なのか、5年なのか…いやたとえ明日までの時間だとしても…僕の隣りにいて欲しい。」

「でも…でも…。」

 ずっと私の欲しかった言葉。
 ずっと私が聞きたかった言葉。
 夢の中の理想の龍樹くんでさえ言ってくれなかった言葉。
 嬉しいという感情しか無かった。だけどやはり自分の病気のことが私の思いに、私の気持ちに(かせ)を付ける

「無理だよ…私…そんなに長くない…かも…。」

「僕は言ったよね、たとえ明日までの時間だとしてもって。もう、後悔したくない。2年前と同じ後悔はしたくない。」

「……。」

「建前も、理屈も、そんなのはいらない。董香の本当の気持を教えて。」

 無理だ、私にこんな甘い夢を拒むことなんて出来るはずがない。
 ずっと望んで、ずっと求めて居たものなのだから。
 たとえこれが悪魔との契約だとしても、私は抗うことなんて出来ない。
 だから私はゆっくりと首を立てに振った。

「あの日から変わらずに、あなたを愛しています‥‥。」


 ここからは入院中に龍樹くんから聞いた話。

 私が大学を去った後、彼は自分の気持ちに気が付き、それまで趣味でやっていたプログラミングのスキルをブラッシュアップさせて、在学中にフリーランスとして働き始めたのだとか。
 そしてそれと並行して、学生科などで私の地元を調べ
(流石に詳しい住所は教えてもれなかったので都道府県までしか分からなかったと笑っていたけど)
 その先は興信所などを使って私の家を探していたのだという。

 ようやく私の家を見つけた頃には、私は入院をしており、彼は私の両親を必死で説得して、そして父に殴られ、董香の気持ちに任せるというお許しを得て、こうして病院に来てくれたのだと言う。

 フリーランスで始めた仕事は、やがて目的を同じにした仲間との会社に成長し、彼は一応代表取締役社長に就任したのだと言う。

「全ては董香に釣り合うようになりたかったから。」

 あの頃と同じ、はにかんだ笑顔でそういう。

「間に合って…よかった…。」

 泣きそうになりながらそう言う。

「奇跡が…起きたんだね…それも2つも…。もう二度と会えない、思いを伝えられないと思った龍樹と、まさかこんなことになるなんて。」

 自分の左手薬指に、艶やかに輝くリングを見る。

「そして、私のリミットに間に合ってくれたっていう奇跡…。2つも奇跡を起こしてくれたんだもん…私は…もう十分…。」

 嬉しいのに悲しい。
 やっと願いがかなったのに、その夢を見れる期間はそれほど長くない。
 私の表情が陰ったことに気がついた龍樹は、私にそっとキスをしてくれた。
 そして、ちょっと悪戯を見つかった子供みたいな笑顔を向けてくる。

「奇跡は2つでいいんだ?案外謙虚なんだね董香は。」

「え…2つも奇跡が起きたのに…それ以上なんて、起きないよ。」

 悲しそうにそう言うと私は、ぎこちなく龍樹に微笑む。
 本当はもっとずっといたい。
 10年も20年も、もっともっと龍樹といたい。生きてゆきたい。

「…ドナーが見つかった…。奇跡は3つだよ董香。」


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