第1話
文字数 1,123文字
秋の実
あれからどれくらいが経っただろう。今は着られなくなってしまったお気に入りの服を、引っぱり出して眺めるような気持ちで、僕は君に、何度目かの返事の手紙を書いた。そして、机の引き出しから安い封筒を取り出し、便箋を三つに巻いて、つぶして差し込んだ。宛先は書かない。知らないから。それに、郵便に出すつもりもない。ただ、僕のこれまでの人生のうちで、いちばん魅力的であった若き半季を、引っぱり出して眺めてみるために返事を書くのだ。そうしてしまってから僕は、がらがらと玄関のガラス戸を開けて、雪駄をつっかけて外に出た。すぐに夜風が僕の両肩を摩る。僕はくしゃみをした。そして両手を封筒ごと、羽織の懐に突っ込んだ。満月だけが透き通って、雪のように明るい夜。僕は白い息をしながら、その青い光をたよりに、人ひとり分しかないあぜ道を渡っていった。そこには、田畑の真ん中に、ただ一本取り残された林檎の木があった。
あの春の日も、君はこの木の下にいた。僕は、そのときはもう少し広かったこのあぜ道を、汗が吹き飛ぶほどに馳せて渡ったのを覚えている。そうやって、僕がはあはあ言いながら木の下に飛びこんだとき、君は皮肉なほどに平静に澄ましていた。幹の根元に座ったその白いセパレーツ=ブラウスは、あたかもずっと昔からそこにいたかのように落ち着いていた。まるで、君から届いた引っ越しの報せが、嘘であるかのように。
林檎畑のあぜ道は
何方の歩み固めしか
かくばかりなる吾こひに
惜しき涙をそゝぐらむ
君はそう詠んで、糸がぷつりと切れたように、口角にしわを寄せて顔を覆った。僕は悲しいのと悔しいのと、それから美しいのに対して、何も応えることができなかった。情けない。ただ、初めて君が泣くのを見た、と思ったのを覚えている。そうして、君は次の日の朝には、車に乗って行ってしまった。これが、僕の人生でいちばん美しかった半季の結末である。僕も君も、まだ十五、六才の頃だったと思う。
さて、そんなことがあったから、僕はこうして、かつての林檎畑の名残の下に立つと、えもいわれぬ感傷に包まれて、若き日の心に回帰することができるのである。僕はおもむろに懐から封筒を取り出すと、ぱかとその口を開いた。そして、林檎の枝の先から乾いた葉を一枚摘み取り、便箋の間に滑り込ませた。いつかこの封を開けたときには、林檎の香りがしてくれると嬉しい。それをするのは、僕とは限らない。そんなことを考えながら、葉ごと一緒に手紙を封印した。
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
今の僕なりの、君への返事の手紙である。あの日、君のいる前でも、こう応えられたならよかったのに。