第2話

文字数 2,056文字

 日常を道なりに歩いていると、ふいに「この道は本当に正しい道なのか?」と今立っているはずの地面が流砂と化していくような不安に襲われる瞬間がある。根拠はないくせに、搔きむしるような引っかき傷を残していく。私はあの瞬間がたまらなく嫌いだ。虫唾が走るのだ。夏の空を浮遊する雲の列島のように、確実にこの目で捉えたとしても触れることはできず、アブラゼミの奏でる喧騒の中、夕方の湿気に一人息苦しさを覚えるような。
その存在を手繰り寄せることのできないもどかしさも、そんな曖昧なものに心を揺さぶられる自分自身も、すべてひっくるめてたまらなく嫌いなのだ。
 そんなどうしようもなく自分に嫌気がさした時、私は心臓の真上を通過するあばら骨の一切を透過して、心臓の壁を突き破り肌を内側から引き裂くようにして伸びる一本の若木を想像する。明るいベージュの幹は細く頼りないくせにぎっちりと心臓に根を張り、私の血液に飽和した不安を養分として吸い上げる。いずれ葉を出し、その枝先に触れる何かを求めるように空間に向かって手を広げる。やがて人差し指程度の太さだった幹は私の手首ほどの太さへと成長し、足首、喉元、太ももと、胴体と、まるで言葉を覚えた子供ような早さで成長を貪り喰らう。
 その頃には心臓を出発点とした血管のほとんどが根に飲み込まれ、私の上半身はほぼ木と化していた。絶えず成長を続ける枝葉を眺め、私は思う。

 このまま私の体が大樹となっていけばいいのに。

 考えるだけ無駄だと理性で理解したとしても、この木を夢想し始めた日からいつまで経っても思考に居座ったまま動かない。人が死んだとき、どれだけ命が生き返ることは無いと分かっていても、その願いを止められないように。願ってしまうのだ。
 植物に成れないだろうか。
 人間としての日常から一番遠い所に行けないだろうか。
 日常を踏み外さないよう、石橋を爆破させながら辿る日常から、最も遠いところへ行けないだろうか。
 不安を吸い上げて、何もない(ゼロ)の心で人間を辞めたい。
 遠くで人の声が聞こえる。意識が覚醒の準備をしている。ああ、もう少し。もう少しでいいから、夢を見ていたい。
 私の祈りとは反対に脳の感覚は冴え、瞼の裏に描いた想像は霧散する。光だけを感じる視界の中、日常の扉が開く。

 初夏の息苦しさが鼻をついた。
 もうすぐ夏が始まるのだという予感が、確かな確信と共に私の頭を撫でている。
 今日は久しぶりに自然と目が覚めた。じっとりと湿気が布団の中を蔓延し、蒸した空気と体の輪郭が無くなっている。視線だけ動かし時計に目を見やると、午前の四時。空はもう夜の残り香を消し飛ばすように、檸檬の閃光を輝かせている。
夏の香りが記憶の引き出しをこじ開けようとしていた。駄目だ、と思うたびに心音がドラムロールのように加速し、脳裏にこびりついた映像が自然と再生される。
埃臭い寝室を飛びぬけて、一年前の空気が肌を撫でた気がした。

 真夏の夕方。
一人で通学路を下校していた。
頭上に浮かぶ雷雨を呼ぶ雲の群れが夕日に染まり、ペンキで塗った軽薄な青色に錆が浮いたようだった。
夏休み前の重い荷物を両手いっぱいに持って、感覚の痺れた指先で荷物を落とすまいと、平均以下の握力を振り絞ってトートバックの取手を握りしめていた。
三日後に渡される通知表のことを考えて、心を粉々に折られた気がして泣きたくなっていた。
やりたいことも得意なことも見つけられないまま一学期が終わり、夏休みに突入しようとしている。同級生が彼氏と遊びに行くだとか、一緒にカラオケ行くだとか、ディズニー行くだとか、部活が楽しいだとか、そんな浮ついたことを言っている奴らを全員ぶち殺してやりたかった。そして、そんな子供じみた事を考える自分の幼さと頭の悪さにほとほと呆れを通り越して、ひたすら惨めな気持ちになっていた。
一歩先の未来も見えないまま、停滞の一か月が始まることは巨大な不安の塊であり、私はその目の前で足をすくませていた。
ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん蝉がうるさい。うるさい、うるさい…。この荷物を全部放り出して、息苦しい夏の湿気から逃げ出してしまいたい。

「■■■い…」

 音がした気がした。何かが芽吹くような感覚だ。身体の内側から人体とは違う異物が暴発するような。
 木が芽吹いていた。心臓に根を張り肌を破って胸から突き出した枝葉は、行き場を求めるよう手を伸ばしていた。不安を吸い上げて伸び行く木の大きさが、自分の息苦しさをそのまま視覚化しているように思えた。その木は誰にも吐き出せずに胸の中でマグマのように煮えたぎっていた怒りや不安を、丸ごと養分にして生きているようだった。
 私の脳内に、一つの祈りが芽吹いた瞬間だった。

 夜が明け、一日が始まり、不安と恐怖が隣を歩く日々の中、祈りだけを支えに生きている。
 人として生き延びたところで何になる、救えよ、早く。

 胸の奥で呼吸する異物を優しく撫で、油粘土のような朝食をにちゃにちゃと噛み締める。
 太陽が燦々と照らす朝は、芽吹きと共にやってくる。
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